男達のホワイト・デー

今回は、以前のブログ記事「タグ」の中で予告した「ゆたかさん」と中西先生の友情を軸にした特別企画です。
「男は強くなければ生きて行けない、優しくなければ生きて行く資格がない」
知らない皆さんも多いかと思うので説明すると、これは「野生の証明」という映画のキャッチコピーでした。
「野生の証明」は、「人間の証明」に次ぐ角川映画の第2弾で、薬師丸ひろ子のデビュー作です。主演は、高倉健。
ちょっと男っぽい、導入をして、2人にゴマをすってみました。
先日、「ゆたかさん」から電話をもらった。
「ゆたかさん」は僕の大学の先輩で、それは恐ろしい先輩だった。
出来れば、あまり関わりを持ちたくないような怖い人だった。
昔の上級生には、本当に恐ろしく怖い人がいたものだ。
それに比べて、中西先生の優しかったこと。
その二人が同期で仲良しだと言うから、人生は味わい深い。
僕の入学した大学には、学生会館というロッカーや食堂やロビーのある棟があった。
そこの1階にはジュースの販売機や喫煙スペースがあり、ベンチがあって学生の休憩場所だった。
学生の休憩場所だから、自由に使って良い物と思い、入学したての僕は派手な格好でデカイ態度でくつろいでいた。
その頃の学生会館を牛耳っていたのが、「ゆたかさん」だった。
僕は何人かの人に、「ゆたかさん」に目を付けられない様に注意しろ、と忠告を受けていた。
しかし、僕はまさか大学生にもなって、そんな原始的な上下関係が通用するものか、と相手にしなかった。
「ゆたかさん」はしばらく僕を泳がせて様子を見ていたらしい。
そして、僕の一挙手一投足を観察しては、周りのものにリサーチしていた。
僕のクラブの先輩は、普段は喋ったこともない怖い先輩に呼び出され、僕の事で尋問されたらしい。
「あいつは、なんで、南軍の帽子をかぶって、学校に来てるんだ?」
「あいつは、なんで、フェース・ロックにチキン・ウイングを合体させた技を使うんだ?」
僕の先輩達は可愛そうに、僕の服装やプロレス技のことで、問い詰められ、答えられないと鉄拳制裁だ。
そして、先輩達は、「川原、なんで、その帽子なの?それより目立つ格好、やめて」とか、
「川原、なんで、チキンなんとかって技を選んでるの?それより、学生会館でプロレス技、かけないで」って懇願した。
僕は当時、アメ横の中田商店というアーミーな店で軍隊の服を買って来ては好んで着ていた。
また当時は、UWFがブームで、ス-パー・タイガー(佐山サトル)がチキン・ウイング・フェースロックを流行らせた。
「ゆたかさん」は古くからのプロレス通だとは聞いていた。
だから、僕は学生会館で「卍固め」や「足4の字」をかけてる分には、見過ごしてくれたのだろう。
しかし、当時のUWFは、既存のプロレスを否定し、派手な技より地味にギブアップを奪える技が決め技だった。
その代表が、チキン・ウイング・フェースロックだった。
これは背後から相手の片腕を手羽先の様に「く」の字にとって、逆の手で相手の顔を横に引っ張り、自分の両手を
ロックさせる。これは両手の人差し指1本をフックするだけで、極まった。
多分、この辺が、「ゆたかさん」の臨界点だったようで。
僕は、「ゆたかさん」に呼び出しをくらった。
覚悟はしてたが、ついに来たか、という感じだった。
僕は大勢の取り巻きを引き連れた「ゆたかさん」に学生会館の屋上か何かに連れ出され、ボコられるのかと覚悟した。
殴られたら、すぐ女子の所に行き、同情票を引いて、女子を扇情して心理的に逆襲に出ようと作戦を練っていた。
しかし、「ゆたかさん」は1年生相手にそんな野蛮な手段はとらなかった。
取り巻きはなし。1人で来て、「メシをおごってやる。付いて来い」と言った。
そして、僕らは、学生食堂ではなく、ちょっと高級な病院のレストランに行った。
「ゆたかさん」は、「川原って言ったな?何でも好きな物を頼め。遠慮はするな」と微笑んで言った。
僕のシュミレーションとは違った展開なので、少し拍子抜けした。
そんな人を相手に、この場面で遠慮をするのは、かえって危険だ。
先輩の顔を潰すことになると空気を読み、そのレストランで1番高いメニューの「焼肉定食」を注文した。
しかし、これにはきっと罠があることくらいの想定はしていたから、僕は苦手の「きゅうり」対策として、、
ウエイトレスにこっそり、<きゅうり、は抜いてね。サラダからも、漬物からもね>とお願いしておいた。
「おごってやったんだから、残すな」とか言いそうだし。
僕が、「きゅうり」を嫌いなことをリサーチしてる可能性だって、ゼロではないからね。
そして、僕らは他愛のない話をしていると、「焼肉定食」がテーブルに届いた。
ちなみに「ゆたかさん」はコーヒーしか頼んでいない。
<「ゆたかさん」は食べないんですか?>と尋ねると、「俺はいいから。お前、食え」。
<そうですか、じゃ、遠慮なく>、「ちょっと待て」。
「ゆたかさん」は、「ただし、箸を使って食うな」と言った。
は~、なるほど。
そういうこと言うんだ。
だったら、サンドイッチとかにしときゃ良かったよ。
「焼肉定食」は、焼肉が盛り付けられた皿と、白飯、サラダ、汁物にデザートだ。
箸を使って食うな、って犬食い、するしかないな。
それでこういうちょっと高級なレストランに連れて来た訳か。
恥をかかせて、上下関係を叩き込もうという作戦か。なかなか、頭脳犯だな。
そうなったら、トンチ合戦だ。トンチと言えば、一休さん、だ。
一休さんが「この橋を渡るべからず」の看板を、堂々と橋の真ん中を渡り、「端ではなく真ん中を渡りました」
と言ったトンチを応用して、僕は箸を持ち、焼肉の皿の真ん中の肉を食べた。
ゲンコツが飛んできた。
イテっ。
「箸で食うな、と言っただろう」との怒声。
僕は頭をさすりながら、<だから、端じゃなく真ん中で食べました>と答えた。
「ゆたかさん」はしばらくポカンとして、トンチに気付いたら、「お前、面白いな」とニヤリと笑った。
そして、急に良い人になって、「ゆっくり食え。俺は行くから。何か困ったら、俺に言え。力になるぞ」って。
僕は「ゆたかさん」が去った後、ゆっくりと焼肉定食を堪能した。
さすが病院のレストランで1番高いメニューだ。うまかった。ご飯、オカワリした。
翌日から、学生会館に行くと、風景は様変わりした。
「ゆたかさん」は僕の姿を見かけると、「お~!川原!元気か?」と声を掛けてくれ、僕も南軍の帽子をとって挨拶した。
それを見かけたクラブの先輩は、「なんで、「ゆたかさん」が川原に挨拶するの?」と慌てていた。
僕が、<仲良くなったから>と答えると先輩は頭を抱えていた。
史上最強の先輩と史上最悪の後輩がタッグを組んだから。
それからと言う物、僕は「ゆたかさん」が用心棒をしてくれることを良い事に益々、増長して行く訳である。
僕らの大学には、2つの野球部があった。
「硬式野球」と「準硬式野球」。準硬(ジュンコー)は、B球という芯が硬式と同じで周りが軟式のようなゴムボールを使う。
医学部の野球部は、ジュンコーの方が一般的で、クラブ数も多かった。
うちの大学では、ガチで野球をやりたい猛者が硬式に入り、おっかない人や柄の悪い奴が多かった。
一方、ジュンコーは、芸能人野球大会みたいな華やかなプレーをしたい人が集い、カッコいい滑り込みの練習とかをしてた。
僕は、ジュンコーに所属して、背面キャッチや天秤打法などの練習をしていた。
ちなみに、「ゆたかさん」と中西先生は、硬式野球部のチームメイトだった。
そして、冒頭の「ゆたかさん」の電話につながるのだ。
今度、「ゆたかさん」の代の硬式野球部の面子で、3月14日に、豚しゃぶを食べにいくらしい。
で、その時に、中西先生の写真が欲しいのだが、誰も持ってないから、「川原に頼むしかない」とのお願いだった。
3月14日と言えば、世間は、ホワイト・デーだ。
しかし、硬派の男達には関係のないイベントだ。
男ばかりで豚しゃぶを食うらしい。
豚を食うところが、また男っぽい。
そして、そんな同期の会に中西先生も参加させたいという男気だ。
中西先生はもう死んでいて、死人に口なしだけど、同期だから一緒に豚しゃぶを食べたいと云う優しさに心を動かされた。
まさに、「男は強くなければ生きて行けない、優しくなければ生きて行く資格がない」を地で行っている男達のホワイト・デー。
<判りました。任せて下さい。何とかします>と僕は大見得を切った。
そして、中西先生が開業する直前まで、同じ病院に勤務していたF.に電話した。
すると、F.は「俺は、写真を持たない主義だ。だったら、サスガに頼むと良い」と教えてくれた。
サンキュー。
だけど、F.って写真を持たない主義だったのか?初耳だ。
あいつは昔から、今さっき決めたことでも、「俺の主義だ」とカッコつける癖があるからな。
きっと最近、浮気の現場写真でも見つかって懲りたんだろう。
そして、僕はサスガに電話して、これこれこう言う訳で、中西先生の写真が欲しいのだが、と聞いてみた。
すると、サスガはあっさりと、「有りますよ」と言った。
「中西先生のお別れの会で、僕らでスライド・ショーを作って、評判が良かったんですよ。
硬式野球部の方も一部、見えていて、感動して泣いてましたよ。
あれ?川原先生は中西先生のお別れの会に来ませんでしたか?」
と批判的な口調で言った。
<いや、行くつもりだったのだが、その日はきゃりーぱみゅぱみゅのコンサートとかぶってさ。
靴を投げて中西先生の会に行く予定だったんだけど、直前にきゃりーちゃんのスキャンダルが発覚してさ。
きゃりーちゃん、落ち込んでるかと思って応援に行かなきゃと思い直してさ。
それに、お別れの会って言ったって、中西先生がそこにいる訳じゃないし。俺が行かなくても会には関係ないだろうしさ>
って言い訳をした。
サスガは、仕方ないなと言う感じで、「判りました。先生のクリニックに送ればいいですね」と言い、ミッション終了!
中西先生と僕とサスガは不思議な縁で、高校と大学と医局が同じで、先輩後輩の仲なのです。
順番は、中西>川原>サスガです。
精神科は他大学との交流のため、毎年、野球のリーグ戦があった。
僕らの医局は、中西・川原・サスガの3人が主力メンバーだった。
そうそう、サスガもジュンコーです。だから、あいつは、高校も大学も部活も医局も僕の後輩になります。
ある年の野球大会。僕は派遣病院に出向していて、そこのMSさん(秘書みたいな人。ケースワーカーの卵。若い女子)
が野球観戦の応援に行きたいと言うから、3人くらいを僕の私設応援団員として帯同した。
そうしたら、若い女の子の前ですから、ちょっと良い所を見せたいと思うじゃないですか?判るでしょ?だんな。
僕は、サスガに、<おい、ピッチャーを変われ>と途中からマウンドに立って。
しかし、僕の下心はナインにみえみえで、「大丈夫なのか?」と心配の声があがって。
僕は、<大舟に乗ったつもりで。こう見えても、中学の頃は「小さな巨人」と呼ばれてたくらいだから>って、
ドカベンの里中を持ち出して。
実際、僕は中学の頃、草野球で、「小さな巨人」と呼ばれていた。
ま、正確には、友人に<そう呼べ!>と脅迫していたからで、皆は不要な争い事を避けたいから、自分の損失にならない
範囲では俺の言う通りにしていた。
他にも、「キャプテン」と呼ばせていた事がある。
これは、キャプテン・ハーロックとリリーズの「好きよキャプテン」をかけていた。
教師には、「川原、お前は一体、何のキャプテンなんだ?」とよく聞かれて、説明するのが面倒くさかった。
<何かに限定された範囲のものではなく、将来、トップに立つ資質のようなものを中学生の嗅覚が嗅ぎ分けるのでは?>
などと適当な事をフカしておいた。
話が脱線したが、僕はリリーフとしてマウンドに立った。
僕はドカベンの里中のように華麗なアンダースローから幾つかの変化球を投げ分けた。
しかし、練習は裏切らない、というか、ボールは正直だ。
1球として、ストライク・ゾーンに入らない。3者連続フォアボールで、あっと言う間に無死満塁。
風雲急を告げ、大ピンチだ。
400戦無敗で知られるヒクソン・グレーシーが最強の男であった1番の理由は、負けそうな相手とは戦わない、
というのがあって、前田や桜庭の挑戦からは逃げていた。
でも、これは案外、生きる知恵だ。
戦場で生き残るのは、必ずしも勇敢な兵士ではない、と言うのと同じだ。
僕は、ピンチに強い男と自認しているから、負けそうなピンチはヒクソン方式で分母から消そう。
そうすれば、勝率は下がらない。
これは良いアイデアだ。
そこで僕は、マウンドにサスガを呼び、<おい、ピッチャーを変われ>とリリーフを押し付けると、
「嫌ですよ、僕は!自分で蒔いた種なんですから、自分で責任をとって下さい。次から、クリーンナップですからね」
と言い放って、自分の守備位置に戻って行ってしまった。
あいつは、高校も大学もジュンコーも医局も俺の後輩のくせに、少しも俺を尊敬してないな。
平気でこういう冷たい態度をとる。
普通、男の上下関係って、上が「黒」って言ったら、「白」でも「黒」だろ。
なんて僕がブツブツ文句を言ってると、マウンドに駆け寄ってきて優しい言葉をかけてくれたのが、その時のキャッチャーで、
女房役とは良く言ったもので、キャッチャーマスクをとって、
「川原、切り替えて行こう!
野球では、ピンチはチャンスだ。
川原の得意のフォームは、スリークォータだったよな。あの投球を俺に見せてくれないか?」
と優しくなだめる人物こそが、そうです!中西先生だったのです。
そうして僕はマンガの真似をやめて、中西先生のおだてに乗って、このピンチを最小失点で切り抜けた。
それで、試合は次の回に中西先生が逆転タイムリーを打って、残りのイニングをサスガがピシャリと抑えて、我々の勝利。
試合後の打ち上げで、<今日のMVPは誰か?>、と僕が言い出して、
「逆転打を打った中西先生では」とか「ピッチャーとして、先発とリリーフの両方の役割をしたサスガでは」と意見が分かれた。
しかし、もっとも大勢を占めたのは「野球はチームプレー。皆で勝ち得た勝利だから、皆がMVP」というぬるま湯のような意見だった。
僕はそこでも譲らず、新日世代闘争の時の前田が空気を読まず「誰が一番強いか決めればいい」と言ったフレーズがいつも頭の隅にあったから、
<誰がMVPかをはっきり決めるべきだ>と主張して、座はシラケた。
その時、中西先生がこう言った。
「今日のMVPは川原だよ。こんなに試合を盛り上げてチームに一体感を抱かせたんがから」と。
その意見にその場にいる皆が救われて、「MVPは川原」、ということになった。
僕はその時、中西先生って何て優しくて、正しい意見の持ち主なんだろう、と感心した。
僕はおそらく、そんな風な発言もした。
すると中西先生は、わざとらしく頭をかいて、照れるポーズをして、それを見て皆が笑って。僕も笑った。
そんな事を思い出しながら、僕はサスガから送られて来た中西先生の写真を「ゆたかさん」に送った。
電話口で「ゆたかさん」は、何度も何度も礼を言った。
<いや~、僕はただサスガに送ってもらったのを渡しただけだし>って。
それでも、「ゆたかさん」は繰り返し繰り返し、礼を言った。
「ホント、川原サンキューな。今度、メシ、おごるから。ホントに!」って。
<良いって、良いって。もう律儀なんだから、「ゆたかさん」ったら>
でも、あんまり断るのも失礼かな。
この場合、模範的な後輩の態度としては、おごられるべきなのかな?
目上の人の顔を立てて。
だったら、しょうがない、ゴチになるかぁ。
何にしようかな?
寿司が良いかな。
座っただけで、何万円みたいな店で。
よし、寿司にしよう。
寿司なら、箸がなくても食べれるからね。
豚しゃぶ、なんかに連れて行かれたら、大変だ。
やけど、しちゃうよ。
BGM. かまやつひろし「我が良き友よ」


スポ根!

14/Ⅳ.(火)2015 小雨
今日こそは、「男達のホワイト・デー」を書こうと思っていたのですが、後輩のヤスオが参ってるみたいで。
急遽、予定を変更して、ヤスオを励ます記事にします。
義を見てせざるは勇無きなり、だ。
ヤスオの場合はもらい事故に近い気もするが、よく事情も知らないのに、勝手なことを書いて迷惑かけちゃいけないし。
今は我慢だよね。
ヤスオと僕の接点は野球だから、今日、<人生は野球と同じで、ピンチがチャンスだ!>とハガキに書いて投函した。
と言う訳で、今日のお題は、野球つながりで、スポ根にしてみました。
僕の子供の頃のヒーロー・マンガはこぞって、スポ根もので、だから僕のメンタリティーもこう見えてスポ根で出来ている。
カワクリのそこかしこに、スポ根が隠し味であります。
下が、テレビ側の待合室の「巨人の星」。↓。

ウォーター・サーバーの近くには、「あしたのジョー」。↓。

そして、ブルース・リー。あれ、ブルース・リーはスポ根じゃないか。↓。

僕が1番影響を受けたのは、「タイガーマスク」です。プロレス好きもそこからです。
小学校3~4年からの筋金入りです。
だから高校の体育の柔道にも、僕はプロレス技を持ち込み、弓矢固めや回転揺りイス固めやグランドコブラを炸裂させ、
体育の教師を唖然とさせました。
うちの学校の柔道は安全性を考慮して、結構縛りが多くて、絞め技や関節技は禁止だった。
僕のプロレス殺法は教師に言わせると、それに該当するらしかったが、僕は<これは寝技だ>と主張し、一部の技の了承をとった。
乱取りでは皆が背負い投げや大外刈りを掛け合ってる真ん中で、僕はツバメ返しの練習をしていた。
うちのクラスに、イノー君、という長身で体躯の良い子がいた。
授業の練習試合で、僕はイノー君と対戦になった。身長差20cmの無差別級の試合だ。
イノー君は、運動神経も良くて、柔道も強そうだった。
これはまともに行ったら負けるな。
そこで僕のとった作戦は、はじめの合図と同時に猛ダッシュで片足タックルに行き、相撲の小股すくいの要領で片足立ちにさせた。
だけど、イノー君はバランスが良くて、それでも倒れなかった。
ならばと僕はとった片足を思いっきり担ぎ上げ、軸足を蹴って、相手を背中から倒した。<やった!一本!>
しかし、判定は、「川原、反則負け!」。柔道では、軸足を攻撃するのは反則らしかった。
倒れた際、軽量級とは言え、僕の全体重が、イノー君の片足にかかって、イノー君は軸足を骨折した。
イノー君のお父さんも医者で、うちの父親はイノー君のお父さんに頭が上がらなかったらしい。
うちの父は短歌もやっていたが、それもイノー君のお父さんの導きだったから。
そう言えば、母の歌集にもイノー君のお父さんに世話になったと書いてあった。
しかし、僕はそんなことは、イノー君の骨を折るまで知らされてなかった。
両親が、「どうしよう、どうしよう」とあんなに困り果ててる姿をみたのは、あれが最初で最後だ。
両親は、イノー君の家まで、謝りに行った。僕は連れて行かれなかった。だって親同士の問題に子供が口を出すのもね。
しかし、イノー君はとっても良い奴で、「気にしなくていいよ」と松葉杖をつきながら、笑っていた。
イノー君は、治療の為、何日か学校を休んでいたので、僕はその間、普段とらないノートをとって貸してあげた。
「そうしろ」って親に言われたから。
サービスで、ノートの下にパラパラマンガも書いてつけておいた。
パラパラマンガのストーリーは、小股すくいから軸足蹴りで一本そして骨折の巻。
反省の色なし、だ。
でも、イノー君はそれをみて笑っていた。「よくこんなの思いつくね」って。人格者だな。
こいつは一本取られた。って、うまいこと、言ってるつもり。
ある雨の日。僕は友人と地下鉄の駅へ坂を下ろうとしてるところだった。
イノー君は、松葉杖で傘もさせないで、目白方面へのバス停に濡れながら歩いてるのが見えた。
僕はその姿を遠巻きに見てるだけで、体が動かなくって。
みかねた友人が「オイ、いいのかよ」と僕に声をかけて、それで僕は我に返って<あぁ>と答えて。
その瞬間、他の生徒が、イノー君に傘を差し出して入れてあげる光景がみえた。
僕は今でも、そのシーンを鮮明に思い出す。
だけど、その時の僕は、もうことは済んでいたので、<行こうぜ>と言って、友人と池袋へ出て遊んで帰った。
僕はサンシャイン60の中のソニプラで、アメリカ製のおもちゃの光線銃を買った。
それは、レバを引くと、けたたましい7色の音がして、未来っぽかった。
僕はそれを翌日、学校に持って行き、友人達に乱射した。(音しか出ませんから、念のため)
そうしたら誰かがチクったらしく担任の教師に怒られた。
そいつは前の週に僕がおもちゃの刀を持って行き、廊下でチャンバラをしてたら「川原、幼稚なことをするな!」と怒った奴で。
つまり、2週連続で、僕と担任はおもちゃの武器のことで怒ったり怒られたりしていたことになる。
イノー君とは、その後なんの接点もないが、確かどこかの医学部に行ったはずだ。
良い奴だったから、きっと、今頃、立派な医者になってるんだろうな。
何科になったのかな?
自分の体験を活かして、整形外科医になって、多くの骨折患者さんの治療をしてるのかな。
それとも親の後を継いでるのかな。
元気でやってるかな。
あれから何年、経ってるんだろう?
去年、石野真子がデビュー35周年って言ってたから、そのくらいかな。
今日みたいな雨の日は、古傷がうずくかな。
なんか全然、スポ根な記事じゃなかったですね。
すみません。
昨日、ネイル、ミルキーっぽくしたんだよ。見る?

じゃぁね、ヤスオ、頑張れ、俺がついてるぞ。
BGM. 忌野清志郎「空がまた暗くなる」


アニバーサリー・リアクション

2/Ⅳ.(木)2015 はれ
今回こそ、前々々回の記事『タグ』で予告した、「ゆたかさん」と中西先生の友情を軸にした特別企画「男達のホワイト・デー」
をお届け出来るつもりだったのですが、これが案外難儀で、本日も、挫折。
もう4月になっちゃったし、ホワイト・デーでもないし、もう誰も予告ブログなんて気にしてないだろうし。
ブログの検閲を頼んでる「顧問」も、「ブログは、センセーの発散に使って、ブログがストレスにならないように」
と事あるごとに言ってくれてるし。
この記事の右側に並ぶ「タグ」の項目の「川原達二の履歴書」というネーミングを考案してくれたのも、「顧問」です。
メールで、色々とやりとりをして、一晩寝かせて、3月19日にそのベールを脱いだのです。
その数日前、僕は何か落ち着かなくて、気忙しくって、何かをしないではいられなくて、夜中中、タグを付けてて。
「トモトモさん」などリアルタイムでタグが増えてくところを見ていたそうで。
「顧問」も異変に気付いて、「何をやってるんですか?!」と忠告をしてくれて。
その辺の顛末は、『タグ』に書いてあるから、興味があったら見て下さい。
それで何を言いたいかと言うと、その時期の僕は傍目から見てても、心配になるみたいで疲れてるみたいで。
憑かれてるみたいで?
心理の徳田さんが、「ストレス社会で闘う人のためのチョコ」をわざわざ買って来てくれたくらいです。
しかし、精神科医にそんなチョコをあげるなんて、按摩の肩を揉む、のにも似た行為ですね。
さすが、ストレス社会、みんなが紙一重だ、という徳田さんの臨床心理士としてのメッセージか。
徳田さんがくれたチョコは2種類あって、BABYMETALみたいに「黒」と「赤」の2バージョンあります。
これが、「黒」。疲れて机に突っ伏した吉田拓郎と一緒に撮ってみました。↓。

そして、これが「赤」。山口百恵のLPを背景に撮影しました。百恵ちゃん、これでハタチですよ。
うひょー、セクシー、…って言うより、老けてないか?。今のきゃりーちゃんで22だよ。↓。

ストレスと言えば、前回のブログを読んで、元・同僚がメールをくれました。
彼女も自身で医院を開業されていて、「人を雇うって大変よね、もう頭に来ちゃうことばっかり」みたいな内容でした。
まぁ、本当はそこまで露骨な言い回しではなかったのですが、そんなニュアンスも何割かあったってことです。
いわゆる「開業医アルアル」でした。
しかし、疲れるけど、新しい人が入って来てくれるのは、刺激になるから良い面もありますね。
昨日、紹介した山崎さんや心理の高橋さんや原さん。
あしたの風、って感じです。
あしたの風、と言えば、それは僕の母の第一歌集のタイトルです。
母の、第二歌集は遺歌集になりました。
あとがきは僕が書きました。
それは、母の一周忌に合わせて出版しました。
平成19年の3月19日の出版です。
ちなみにカワクリの開業は、平成19年1月だから、僕は開業準備と平行して、本を編む作業をしてたことになります。
そうなのです!
僕がやたらと「タグ」を付けまくってたのが母の命日の前日で、「川原達二の履歴書」のタグを発表したのが命日でした。
これは別に考えてそうやったのではなくて、たまたま、偶然、重なったのです。
そうは言っても、僕らは職業柄、偶然なんてあまり信用しなかったりもします。
たとえば、アニバーサリー・リアクションは、頭で考えるのではなく、その季節になると自然に体が思い出すことを指します。
つまり、思ってなくても、木々のざわめきや、空の高さや空気感、雑踏の季節感が、時空を超えて心をタイム・スリップさせるのです。
日本語では記念日反応と訳しますが、命日反応と言う場合もあります。
命日に限ったワケではないのに、命日反応と言う訳が存在するのが、日本人の死生観のようなものを表しているような気がしてこっちの方がしっくり来ませんか?
僕は、母が死んでから、墓がある寺の坊主と喧嘩して、墓参りには全然行きません。
行ってられっかよ!
大体、あんな神奈川の田舎の北の寂れた墓に、母や父がいるとは思いません。
生前に何のゆかりもない寺ですからね。
神仏は人間が信仰するから、はじめて存在しうる、という考え方も一般的にありますね。
なので僕が墓参りに行かなければ、父母の魂はあんな薄暗い墓に葬られていられないという計算式も成り立ちます。
そう考えると、僕が信仰しないおかげで父母の魂は開放されていて、案外、俺、親孝行じゃん。
なので僕は墓参りをしません。
父母の命日や誕生日には、心の中で話しかけるようにしています。
でも、タグの「川原達二の履歴書」の公開日が3月19日だったのは、意図的ではないです。
かと言って、無意識の仕業だけでもないのです。
なぜなら、それは「顧問」との共同作業だし、「顧問」は母の命日のことを知らないはずだから、たまたまです。
だけど、こうも考えます。
逆に母が、自分の命日を忘れないでね、と働きかけ、それに霊的なポジションで僕が呼応して、3月19日になったのだと。
偶然ではなくてね。
ちょっとオカルトチックな発想かな。
墓参りとか行かないくせに、信心深いのか罰当たりなのか、紙一重ですね。
BGM. BABYMETAL「ギミチョコ」


タグ

19/Ⅲ.(木)2015 小雨
近頃の診察室で目立つのは、これ。↓。

Wさんのディズニー・シーのお土産で、「ダッフィー」の「不思議の国のアリス」の「チェシャ猫」模様。
なんでも、シーでは、ディズニー・キャラクターの色々な模様の「ダッフィー」を売ってるそうです。
うまいことを考えますね。
何事も、アイデアですね。
ちょっと前に、以前に勤めていた病院で一緒だった女医さんから葉書をもらって。
彼女は、ある日、忌野清志郎の、「アイデア」、を聴いていたら、僕のことを想い出して、書いてくれたという。
そんな彼女からもらったポストカードはなんかシュールな気分のものだった。
と言う訳で、今回のテーマは、アイデア、です。
そこで僕も、ちょっと良いアイデアを考えました。
それはこのブログに関しての、アイデアです。
ブログは結構長いこと、やっているので、最近、知った人は、過去のものを全部読むのは大変でしょうから、
CDで言うところの「ベスト盤」みたいなものを考えました。
それはブログの記事の最後に、「カテゴリ分類」というのが付けられるのを発見したからです。
「カワクリ紹介」、「グルメ」、「ファッション」、「受付」、「相談室だより」などのカテゴリを作りました。
僕より受付に興味が有る方は「受付」をクリックして下さい。
同様に、徳田さんの書いた記事を読みたい人は「相談室だより」をクリックすると、それだけが選択されます。
ついつい面白くなって、真夜中まで、調子に乗って、カテゴリ項目を量産しました。
「BABYMETAL」、「中川翔子」、「まどマギ」、「格闘技」、「けいおん」、「落語」、「川原の歴史」など…。
真夜中に書いたラブレターは翌朝に読むと恥ずかしいから、投函する前に読み直せ、とよく言いますが、
それと同じように翌朝、見たら、ブログのトップページがすごいことになっていた。
荒れていた。犯人は、僕。
思い直して、消そうとしたが、これは自分では削除できないらしく、HPの管理会社のセットアップの成田さんに
頼んで後始末をしてもらった。
もう、タッちゃん、人騒がせ。成田さん、いつも迅速に対応してくれてありがとうございます。
いつもブログの検閲をしてくれている「顧問」は、「川原の歴史」は残しても良かったのでは、と言ってくれました。
そう?
だったらついでに、「川原の歴史」だとあまりセンスが良くないので、タグのネーミングも依頼しちゃいました。
「顧問」は頭を悩ませ、アイデアを振り絞り、以下の候補をあげてくれました。
①「川原達二の物語」
②「川原達二の歴史」
③「<川原達二>シリーズ」
④「川原達二の履歴書」
⑤「川原達二の××」
⑥「川原達二の声を聞くがよい」
そうそう言い忘れましたが、このタグを増やした遠因は、僕の歴史、を編集・整理しておこうと思ったからなのです。
それは、先日、大学時代の大先輩の「ゆたかさん」に、「中西先生」の写真をくれ、と頼まれたのがきっかけでした。
中西先生とはこないだ死んだばかりの僕の高校&大学&医局の先輩のことです。
「ゆたかさん」は中西先生と学生時代同期で、今度その集まりに中西先生の写真が欲しい、との頼みでした。
僕の高校&大学&医局の後輩の「さすが」は、すなわち中西先生の高校&大学&医局の後輩でもあります。
だから、「さすが」は中西先生のお別れ会の時に、中西先生の写真を編集してDVDを作って流しました。
なので、「さすが」から写真を取り寄せ、「ゆたかさん」に渡す仲介役を僕はやったばかりなのです。
その時に観た中西先生のお別れのDVDが思いの他、感動的で、僕もそういうのが欲しくなったのです。
「さすが」、俺のも作ってくれないかな?
死んだら作ってくれるのかもしれないけれど、今、観たいんだよな。
縁起でもない、と言う人がいるかもしれないが、お墓とかは生きてるうちに作った方が長生きするって言うし。
ターキーの生前葬みたいなものだ。
小学校の時、休み時間にクラスの隅でいつも1人で何か書いてる女子がいて、ある日、<何、してるの?>って聞いたら、
「あたしのお葬式に来る人の名簿。タッちゃんも来てくれる?」と聞かれてちょっと怖かった思い出がありますが、
今思うと、それに近いかも。
あの子、元気かな?
まだ葬式の招待状、来てないから、大丈夫なんだろう。
そんな訳で、タグを作ることにしたのでした。
そして、結局、僕のタグのネーミングは、迷った挙句、④の「川原達二の履歴書」になりました。
ここをクリックすると僕の人柄や過去のエピソードがダイジェストみたいに見られる仕上がりです。
これから受診しようか迷っていて、「だけど精神科って医者との相性だよな」と思ってる方は参考にして下さい。
新患、激減したりして…。
これまでもブログを読んでいたが、もう1度、読みたいと思ってくれた人は、タグを利用してみて下さい。
この記事の右横に「タグ」が縦に並んでいますから。
初期の頃は、文体が今と全然、違います。
「受付」には懐かしい岡田さんのエピソードも出てきますよ。
さて次回は、「ゆたかさん」と中西先生の友情を軸にした特別企画「男達のホワイト・デー」をお送りする予定です。
後輩の「さすが」も脇役で出演させる予定です。
あぁ~、今年は、予告ブログはやらないつもりだったのになぁ。
BGM.忌野清志郎「IDEA/アイディア」


プロの洗礼~「ヒーローは、敗北からスタートしている」

4/Ⅱ.(水)2015 くもり
※受付の求人の応募のための視察の方は、1つ前の、後藤さんが書いた記事を参考にどうぞ※
昨日は節分だそうで、今日は立春だそうで、カワクリも新しい人材が加入しつつある。
今日、緊急にお伝えしたいメッセージがある。
それは、僕の知っているサクセス・ストーリーは、皆、黒星スタートだ、である。
プロの洗礼、とでも言うべきか。
アントニオ猪木のデビュー戦は、大木金太郎に頭突きでフォール負け。
(ちなみに、同日デビューのジャイアント馬場は田中米太郎に勝っている)
その後のサクセスは猪木、という文脈で使っている。(反対意見もあるだろうが)
新人・長嶋茂雄の開幕戦は、国鉄スワローズの金田正一の前に4打席4連続三振。
世界のホームラン王・王貞治は、デビューから26打数ノーヒット。
下は、横尾忠則のポスト・カードの「ON」。王と長嶋だから、オーエヌ、ね。↓。

僕も研修医に成り立ての頃、無断欠勤がバレて、ペナルティーで「2週間連続当直」の刑になった。
今でもそうだが、医者の当直は、翌日も勤務である。
当直は当直室で仮眠して、呼ばれたらすぐ病棟や救急外来に行くのが仕事。
だから、運が悪ければ、2週間まともに寝れないのだ。
でも僕は、へこたれなかった。勿論、自業自得だと反省した、のではない。
2週間、当直室から家に帰れない泊り込みという状況が、「日本一のホラ吹き男」の植木等みたいだと思ったからで。
映画で、臨時雇いで会社に入った植木等が配属された部署は、会社にとって何の関係もない古い書類の整理。
皆、やる気がない。
「ここじゃ、いくら頑張っても出世はないよ」と先輩から言われる。
すると、植木等は、底抜けに明るいテンションで、張り切って、荷物をまとめて会社に泊まり込み、仕事をする。
「そんなにまでして残業代が欲しいのか」という皮肉にも、<いいえ、残業代はビタ一文、いりません>。
そして、1人で、書類を全部、片付けてしまう。
労働組合は残業して残業代を取らないことを問題視し、同じ職場の人間達は「仕事がなくなってしまった」と不満を言う。
そうして、会社は仕方なく、植木等を他の部署に係長待遇で異動させる。ここからホップ・ステップ・ジャンプ!
東京オリンピックの直後の映画で元・三段跳びの選手だったという設定の植木等は、三段跳びの様に出世して行く。
高度経済成長の時代のサラリーマンに元気を与えたと言われる映画だが、今、観ても色褪せないパワーだ。
なので、僕も植木等のマネをして、家から色んな物を当直室に持ち込んだ。
浅草のマルベル堂で、クレージーキャッツのブロマイドをオーダーメイドで引き伸ばしてもらった。
それを当直室の壁に貼った。
陰気な当直室が、まるで僕の1人暮らしの部屋みたいに衣替えした。
評判を聞いて、何人もの看護婦さんや他科の研修医も覗きに来た。皆、「お~」って言ってた。
精神科の先輩には、「川原、やりすぎ!」と注意されたが、怒られはしなかったから、スルーした。
今思うと、カワクリの空間作りのルーツは、この当直室に起源があったのかも。
クレージーの特注ブロマイドは、今もカワクリの待合室のテレビ側のソファの方に貼ってあります。↓。

丁度、半分の1週間が終った時点で、調子に乗った僕は、「トニー谷」のブロマイドの特注も発注した。
そのニュースに異常に反応した人たちがいた。
さて、問題です。
それは誰だと思いますか?
シンキング・タイム。
って言うか、皆さん、トニー谷、知ってます?
さて問題の答えです。
正解は、病棟のナース達でした。
意外と女性には、つらそうな姿をアピールするより、平気の平左、で明るく振舞った方が母性本能をくすぐるみたいだ。
ナースは一丸となって、僕の味方をした。
彼女らのナイチンゲール精神は組織立って、医者や教授や医局長に「いくら何でも可愛そうだ」と意義を申し立てた。
「過重労働でミスが起きたらどうするつもり?」
「川原先生だから笑って仕事が出来ているのよ」
「いえ、ああ見えて、顔で笑って心で泣いているのよ」
「あぁ、いじらしい」
「それに比べて、他の医者は川原先生に仕事を押し付けて、楽をしてるのよ」
「他の医者は、ズルイわ」
などと、本来、僕が無断欠勤したのが問題なのに、矛先が他の医者に向いた。
実際は、僕は研修医だったから、当直には必ず上級医の先生が日替わりで付いていてた。
「2週間当直」というのは、半分、洒落だった。
つまり、学生気分の抜けない僕に社会人の厳しさを教え込ませるための親心であり、問題を大きくしない配慮だった。
そして、2週間、毎日、日替わりで色んな先輩から、生の知識を吸収できるチャンスを用意してくれたのだった。
僕は、ゴールデン・ルーキーで、精神科医として期待されていたのだ。
そんな内輪な洒落は、ナースには通じない。
彼女らは、川原先生を守るためにはストライキも辞さず、の構えだ。
病棟でナースにストなどされたら、大変だ。
医者が、検温や配膳や採血や保清など、駈けずり回らなければならなくなる。
ナース・コールも医者がとる事態になる。
これには上層部もあわて、急遽、僕のペナルティーは1週間で解除された。
そして、医局長はナースの前で、僕を労う為の1席を自腹でもうける約束までさせられた。
憎憎しげに、医局長が、「川原君、何を食べたいんだい?」と僕にだけ見える角度で恐ろしい顔をして質問した。
僕は、<●●のうなぎ>と高級な鰻屋の名前を告げ、<個室で、コースにしてね>と答えた。
ナースを納得させるには、そうとでも言うしかない。それが最善の策だった。
そして、僕と医局長は週末、本当に二人きりで、鰻屋の個室でコースを食べたのでした。
さすが、名店!、うまかったですよ。
もう皆さん、ご承知かもしれませんが、僕はこういう空気、平気なんだ。
えーと、何を言いたいかと言うと、<始めから上手く行く人はいない!>、ということです。
最初は皆、黒星スタートなんだから、皆、そんなものだよ、ってことです。
だから、腐らずに頑張ろう!、というカワクリ新スタッフへの、エールのつもりで書いたのですが…。
趣旨、伝わったかしら?
もし情報にノイズが発生していたら、それはきっと植木等のせいだと思う。
猪木とONのエピソードだけ読み直して、その後はカットで。
BGM. 植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)「無責任一代男」


冬物語

前回に引き続き、家庭教師の思い出です。
後編の今回は、「良い家庭教師」の巻。
高1の時、母が、駅前に「東大進学塾」というのがあるから、行ったらどうかと言い出した。
東中野の駅前の塾から、大量に東大生が量産されるとも思えなかったが、骨法武術と同じビルだったので、
何かの縁かと思い、行ってみた。
受付もいなくて、ただ現役東大生が何人か講師としていた。
母は、その中から品定めして、1番賢そうな人を選び、僕の担当に指名した。
僕も、やはり、この中ではその人が1番賢そうに見えた。
あんまりアクセクしてないのだ。
その人は髪型と声と面影が井上陽水に似ていた。さすがにグラサンはしてなかったけどね。
「東大進学塾」は、ここに通えば東大に受かる、とか、東大を目指す人のため、などと謳ってはいなかった。
単に、現役の東大生が生活費を稼ぐために講師をしている、という進学塾だった。
僕は、誇大広告が多い世の中で、こういう正直さに好感を持った。
ひょっとしたら、経営者はものすごくユーモアのセンスのある人ではないかと空想してみたりした。
と、同時に、<経営者、経営、大丈夫なのか?>とも杞憂した。
余計なお世話だが。
しかし、たかだか15~6の男子高校生に経営を心配されるような塾だ。
僕の予感は的中し、わずか1ヶ月もしないうちに、その塾は潰れることになった。
僕の担当の東大生は、「今後のことは、僕が責任を持ちます。川原君の家庭教師になります」と宣言した。
そして、その人は僕のカテキョー(※家庭教師のこと。以下、そう呼びます)になった。
その人は、東大の芸術学科の8年生だと言っていた。
僕が、<なんで、そんなに長く大学にいるの?>と聞くと、
カテキョーは、「なるべく長く大学にいたいんだ」と答えた。
僕は心の中で、<お前はモラトリアムかっ!>とツッコんだ。
僕らは、時には本郷のカテキョーのアパートで勉強をした。
ほら、カテキョー、8年生だから、色々、忙しいみたいだし。
カテキョーの部屋には、いっぱい本があり、それには圧倒された。
カテキョーは僕に「どんな本を読むの?」と聞くから、<星新一とか眉村卓>と答えた。
カテキョーは「好きな本を持ってっていいよ」と言うから、本棚を物色させてもらった。
他人の本棚を物色するのはとても楽しい。
僕はタイトルのインパクトだけで、ビアス『悪魔の辞典』と三島由紀夫『不道徳教育講座』をチョイスした。
カテキョーは、その2冊を見て、「う~む」と不満そうにうなった。
カテキョーは、「あなたには、これが合うよ」と言って3冊をピックアップしてくれた。
ちなみに、カテキョーが僕を呼ぶ時の2人称は、「あなた」だった。ね、井上陽水っぽいでしょ?
僕らは勉強の為の契約を交わしていたはずなのだが、カテキョーの家では勉強以外のことをしていた。
スパゲティー・ミートソースを本格的に作る、とか。
東大のグラウンドで知らない人に声を掛け、4人対4人くらいの草野球をするとか。
カテキョーは高校時代はブラバンでクラリネットを吹いていて、僕はホルンを吹いていたから音楽の話をしたり。
レコードを持ち寄って鑑賞会をしたり。
カテキョーの音楽は主にクラッシックばかりで退屈で。
僕は、日本コロムビアから出たばかりの10枚組みのフォークソング大全集を持って行った。
カテキョーは、その中のフォー・クローバース『冬物語』をとても気に入ったらしくて。
僕の部屋で勉強をする時に、カセット・テープを持参し、『冬物語』を録音してくれとリクエストした。
『冬物語』のサビは、♪春は近い~春は近い~足音が近~い~♪という歌詞で。
僕はカテキョーに今、この歌を吹き込んだら、モラトリアム人間の現実逃避を助長すると危惧して。
そこで、僕は機転を利かせ、こっそり別の曲に差し替えて録音し、カセットを渡した。
ま、軽いドッキリです。
次に会った時のカテキョーの第1声は、「何だい?あの曲は?」だった。
僕は石野真子のピンナップを挟んである透明の下敷きをチラつかせ、<春ラ!ラ!ラ!>と答えた。
すると、カテキョーはマジマジと石野真子の写真を見て、「あなたに似てるね」と言った。
頭の悪い人じゃない。きっと目が悪いのだろう。うちの父は眼医者だ。今度、父に診察させようと思った。
僕はカテキョーの誘いで東大の五月祭(ごがつさい)のコンサートも観に行った。
トリは大橋純子で『シンプル・ラブ』『たそがれマイ・ラブ』などのヒット曲を持っていた。
僕らの目当ては、サザン・オール・スターズで3枚目のシングル『いとしのエリー』がヒット中だった。
同じステージで潜水夫の様な姿のムーンライダーズを観た。
ムーンライダーズのステージが1番イカシテいた。
トリの大橋純子の途中で、僕はつまらなくなって<帰ろう>とカテキョーに言った。
カテキョーは、まだ見たそうにしていた。
僕は、<ニュー・ミュージックなんか聞いててもしょうがないだろ。今度、『冬物語』録音してやるから>って、
半ば、強制的にコンサートを抜け出して帰った。
そんな風に僕らは遊んでばかりいたから、テストの直前は詰め込み式だった。
高1の最後の数学「確率」は手強かった。
難易度の高い問題集は、カテキョーが答を見ても、中々、判らなかった。
答には、正解しか書いてなくて、どうしてそうなるかの説明は省略されていたのだ。
僕は、<なんで、判んねぇんだよ!>とイライラして、食ってかかって。
カテキョーは、そんな僕を脇に置き、黙々と問題に取り組んでいた。
そして、1つ解けると、1つそれを僕に教えて。
それの繰り返し。
カテキョーは、「問題集の問題は全部解く!」、と根性を見せ付けた。
全部、解き終えた時は朝になっていて。
僕らは徹夜をして、まさに一夜漬けで、僕はそのまま寝ないで学校に行き、テストを受けて。
そのテストは、ものすごく学年平均点の低い結果だったが、僕は97点をマークして学年トップの成績を叩き出した。
若い頃の成功体験はその後の人生や性格形成に多少の影響を及ぼすようで、それは自信になったり過信だったり。
それ以来、僕は自己暗示のように数学が得意になった。
そして、ここぞ、という時は、徹夜をすれば何とかなる、と思うようになった。
それは今だにそうで、滅多にないが、学会発表の前日などは、取り敢えず、徹夜をする。
覚えてる人もいるでしょうか、例の「5/18問題」の徹夜もその名残りです。
それが僕とカテキョーの最後の勉強だった。
カテキョーは大学8年生だったが、ついに就職が決まった。大手広告代理店だった。
カテキョーは髪を切り、スーツをきめていた。
僕は、<『いちご白書』かよっ!>と、口に出して、ツッコんだ。
と同時に、カテキョーは、モラトリアムを卒業するんだって実感した。
就職祝いに、僕は今度こそ、本当に、『冬物語』を録音したカセットをあげた。
この1年を、カテキョーを主人公に物語にしたら、♪春は近い~春は近い~足音が近~い~♪というフレーズが、
主題歌にはうってつけだと思ったからさ。
冬来たりなば、春遠からじ、と言う。
これを僕は、冬の後には春が来る、という、雨の後には虹が出る、的な、今は耐えろ、みたいな意味かと思っていた。
カテキョーは、これにはそれ以外に、春(新しい者)が台頭して来たら冬(古い者)はその道を譲るべく空けろ、という
世代交代を推奨する意味もあるのだと、かつて、教えてくれた。
プロレスに喩えるなら、アントニオ猪木とUWF(特に、前田日明)みたいな関係だな。
そうやって胸に手を当てて考えてみると、僕らの業界って、あんまりそういう新陳代謝ってないな。
僕が研修医の頃のリーダーが今でも堂々とトップに君臨している世界だもの。どうなんだろうね?
僕らはこういう事をちゃんと考えた方がいいのかもしれないな。
なんか、最後になってややこしい問題になってしまった。
ま、いいか。
次回、予告ブログ⑥~「爬虫類を飼うこと」に行きます。
BGM.フォー・クローバース「冬物語」


禁じられた遊び

前回は受験の話だったので、勉強つながり、家庭教師の思い出を2回に分けてお送りしましょう。
前編の今回は、「良くない家庭教師」の巻。
中学生の頃の話です。
中2までは、中学受験の貯金で何とか食って行けた。
授業中は余計な事を考えず、黙って教師の話に耳を傾けて、教師が書く黒板の文字を追っていれば、
特段試験前に勉強しなくても、クラス(4~50人)で10番以内には入ってた。
それが中3になると、授業内容がガラリと変わり、この頃から深夜ラジオを聴き出すから、授業中は居眠りをして、
何も勉強しないでテストを受けたら、まったく判らない。
今までは判らなくても、何かしら答に近い事を書くことが出来たが、はじめて白紙で提出というのを体験した。
それでも、<皆、そんなモンだろう>、と、たかをくくってた。
成績が少し落ちることは覚悟していたが、20番台くらい(つまり真ん中くらい)だろうと予想していた。
通知表を返される時は出席番号順に教壇の所まで行って担任から受け取る。
僕は渡されてすぐ見開いたら、「40番」と記してあった。ビリから、10番以内!
僕は、すぐさま、<困るな、間違えちゃ。これ次の番の黒河(仮名)のでしょう>と突き返したら、「お前のだ!」と
担任に通知表で頭を叩かれた。
「黒河(仮名)に失礼だろ!」とも言われた。
黒河(仮名)は僕の真後ろでションボリと立っていた。傷ついた?ごめんね、クロちゃん。
そんな話はどうでも良くて、丁度、その頃、卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。
僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。
OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。
僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。
その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。もう、お下劣!
僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>
と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、ニヤニヤして、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄を見てる男の姿に出くわして。
<ウッシッシ、作戦成功!ザマァミヤガレ!>。
実際、そいつはロクでもない家庭教師で、僕がそいつから習った事で覚えてるのは1つだけで。
当時、山口百恵が「百恵白書」という全曲、作詞阿木燿子&作曲宇崎竜童、シングルカットなし、という自身初の
トータル・アルバムを出して評判になっていた。クリニックの壁にも飾ってあります↓。

その中に「ミス・ディオール」という歌がある。
歌詞の中では、ミス・ディオールは香水の名前だ、と言っているだけだった。
そいつは、「それはな、ミス・ディオールを着て寝る女、って意味で、つまり裸で寝る女のことだよ」と教えた。
まったく、中学生に何を教えてるんだ。どうしてくれるんだ!いまだに覚えてるぞ。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
実際、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。
当然、母は聞き出そうとする。
<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。
<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。
<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)
僕の中学の担任は、僕を3年間ずっと怒りっ放しだったが、この時、始めて謝られた。
後にも先にもこれっきり。
僕としては、もう少し、この家庭教師と遊んでやっても良かったんだがな。
BGM. 近田春夫&ハルヲフォン「きりきりまい 」


予告ブログ追加編~「語が苦」

2015年新春第1弾は、季節柄、大学受験、共通一次の思い出について書きます。
僕が、英語が苦手なのは、学校の先生の言い付けを守らなかったからで。
タイトルは、「語学」とかけて「語が苦」にしました。
それでは、時計の針を30何年前に戻します。
僕の通っていた学校は中高一貫の男子校で、それは6年制の学校みたいな感じで、部活も一緒にやっていて。
僕はブラバンに所属していたから、中1の時から、「高吹連」のコンクールに出てたりしていた。
中1が1年生で、高3が6年生みたいな感覚かな。
今頃の時分になると、年明けは、高3の先輩の進路の話題になった。
毎年、大抵、ふざけた先輩が一人や二人はいて、「俺、東大、受けてくるから。ヨロシク!」と言って。
そういう事を言う人は、決まって、成績は悪い方で。
そういうのを「記念受験」って呼んでた。つまり、冷やかし、ですね。
だけど、「記念受験」をした先輩が、「東大?受けたけど、落ちたよ。やっぱ、難しいね。歯が立たないよ」と笑う姿と、
往年のプロレスラーが、「ルー・テーズ?戦ったことあるけど、完敗だったね。歯が立たないよ」と回想するシーンは、
どこかちょっと似たニュアンスがあって、僕はいいなと思ってた。
だから、僕も高3になったら、「記念受験」をしようと決めていた。やっぱ伝説のレスラーとは戦っておきたいじゃん。
ところが、そんな先輩方のふざけた態度への対処策か、僕らの前の学年くらいから「共通1次」が採用された。
今のセンター試験みたいなもので、僕らの頃は、国公立を受ける人は必須で、私立受験には関係がなかった。
うちの学校は高2で、「理系」と「文系」が見事に分かれ、「理系」は「理系」しかしないようなカリキュラムで。
国公立を受ける人は、少数だったと思う。そういう人は、別に授業を選択してとってたんだと思う。
成績、良い奴、友達にいなかったから、よく知らないけど。
でも、医学部に行く生徒は多かった。そういう伝統のある学校だった。
だから、僕が受験生の頃は、生徒よりも先生の方が、「共通1次」の対策で大変だったみたいだ。
僕らの一個上の学年はそんなに「共通一次」を受けなかったみたいで。
僕らの学年は少し受験者は増えたが、それでも成績上位者の数名だったと思う。
少なくとも、僕が学校で普通に話すような仲間に、「共通1次」を受ける者はいなかったはずだ。
僕の受験勉強は、私立医大にしぼった勉強しかしてなかったが、「記念受験」はするつもりだった。
それは、中1の時から決めてたから。
僕は、「共通一次」に申し込んだ。
しかし、ここで2点、問題が浮き上がってきた。
1点目は、東大は所謂「足きり」というのをやるから、「共通一次」で高得点を取らねば受験出来ないシステムになっていた。
英・数・国が200点づつで、理科を2つと社会を2つ選択して各100点づつ合計1000点満点で、900点くらい必要だった。
理科と社会は4つのうちから2つをその場で選択して良いから、解き易い問題が多いのをその場で決めようと思った。
そして、「共通一次」にはマークシート方式が導入されていた。
当事はシャーペンはダメで鉛筆のみ、「HB」とか指定もあったと思う。
僕は普段、4Bくらいの濃い芯を使っていたから、試験前に文房具も揃えなければいけなかった。
あと、判らない問題用に、鉛筆の6面を削って、サイコロのように①~⑥の数字を書いて。
どうしても、判らない問題は、これを転がして出た数字に丸をつけることにした。
マークシートは記述式じゃなくて、選択式も多かったから、こういう必殺技が編み出された。
なんとか、これらで足きりを突破しようと考えた。無謀だった。ま、それでも、記念受験にこだわった。
後輩に、<俺、東大、受けてくるから。ヨロシク!>って言う文化を残したかった。これが1点目の問題。
2点目の問題は、もっと深刻だった。
なんと僕は学年末テストの英語が赤点で追試だった。
その日程が、「共通一次」の二日目とかぶっていた。
僕は職員室に、<共通一次があるから、英語の追試は受けれないんスけど~>と言いに行くと、「何!?」と大騒ぎになった。
只でさえ、職員室は不慣れな「共通一次」で大わらわなところに来て、卒業もあやうい生徒がそれを受けると言うのである。
学年末試験の一回をしくじっただけで卒業出来ないのは可愛そうとの救済措置が「追試」だ。
そして、我が校では数名の成績上位者が受けるのが「共通1次」だ。
教師達は、まさか「追試」と「共通一次」の日程がかぶる生徒が出るなどと想定していなかったようだ。
担任は、この時、初めて僕が「共通一次」に出願していることを知り、「お前なぁ」とあからさまにあきれ顔をした。
そのやりとりをみつけた、英語の担当のハゲ山が「追試を受けない者には単位はやらない!」と割り込んできた。
ハゲ山は、そのビジュアルから、いにしえの先輩がそう命名して、我々の代まで伝承され続けているあだ名だった。
<今、担任と話してる所なんだけど邪魔しないでくれる?>と僕が言うと、もっとギャーギャー言い出した。
<受験生には、『落ちる』とか『すべる』って禁句だって知ってる?センセーの頭を見てると、『すべり』そうで縁起悪ぃんだよ>
って僕の口が滑った。
ハゲ山は真っ赤になって怒り心頭だった。ゆでだこのようだった。
「まぁ、待て」と担任が割って入って、「お前、冷静になれ。学校のテストが追試の奴が東大に受かるか?」と諭すように言った。
僕は、<あんたは、自分の生徒を信用できないのか!?>と担任の目をにらみつけた。わずかに担任が視線をそらした時。
僕はここが勝負だとたたみかけた。なるべく優しい声で、スローなテンポで、催眠術師のような声色で。
<自分のクラスから、東大生が出たらどうなる?職員室の中で、株が上がるんじゃないか?>
すると瞬間、担任の目が賭博師の目に変わった。
「お前、本気か?」
<中1の時から、決めてることだ>
しばしの沈黙の後、担任がバクチ打ちのような口調で言い放った。
「判った!受かって来い!英語の追試は俺がなんとかしてやる!」
<やり~!そう来なくっちゃ!じゃ、俺、共通一次、受けてくるから。後のこと、ヨロシク!>
と言う訳で、僕は英語の追試を免除され、共通一次を受けれた。
共通一次と云うのは、比較的、基礎的な問題を出して、難問は出ないと聞いていた。
だから、とりこぼさないように、ということだった。
僕の得意科目は数学だった。自己採点だが、数学は満点だった。
最初の方に力技で計算させる小問があって、あれで焦ってペースを崩すとハマるパターンだった。
でも、僕は直前に「大学への数学」という雑誌を読んでいて、「メネラウスの定理」を覚えていて、それにドンピシャだった。
数秒で出来た。
答えだけを書けば良い問題は、部分点とかをもらえない代わりに、合ってさえいればいいから、途中の式などいらないから、
公式を知ってるか知らないかで大違いだ。
なので、これから受験をする人で、「メネラウスの定理」を知らない人は、式だけでも覚えておくといいんじゃない?
これから受験する人は、こんな記事、読んでないか。
その他の結果は、現国はまぁまぁ出来た。理科もまぁ。社会と古文&漢文は、「サイコロ鉛筆」が大活躍。
しかし、問題の英語が全然、出来なかった。そりゃそうだ、本当なら学校で追試を受けてるはずなんだから。
試験当日は、大雪だったが、番狂わせは起きなかった。
まぐれはなかった。翌日、学校に集まって、自己採点をしたら、結局、足きり。
一応、職員室に報告すると、担任は「わかった。すぐ切り替えろ。腐るな!」とまるで野球部の顧問のようなゲキを飛ばした。
ここは、もう少し、具体的な受験の必勝法とかを伝授すべきじゃないのか?精神論で何とかなるもんじゃないぞ。
そう僕が思ってると、またまたハゲ山が近付いて来た。
「追試は、大目に見たが、まだ単位はとれてないからな。私大受験までに、これをやれ」と分厚い課題を渡された。
<重ぇ~よ!ふざけんなよ!こっちは、これからラスト・スパートなんだ。学校の課題なんかやってられるか!>と思った。
教室に帰って、ブツブツ、文句を言ってると、「ちょっと見せて」と英語が出来る子が、ハゲ山の課題に目を通した。
そして、「これ、学年末試験の範囲だけじゃないよ」だって。
<何だ、それ?>
「高校の全部の範囲から出てるよ」
<マジか?>
「ハゲ山先生も、これ作るの大変だったんじゃないかな」
<じゃ、お前、やるか?>
「冗談じゃないよ。それに、これ、かなり偏ってるよ」
<嫌な奴だな!そんな所にエネルギーかけやがって。陰険だな。ムカつく!>
すると、クラスの皆が、「そうだ!そうだ!陰険だ!」と受験のフラストレーションをここぞとばかり爆発させた。
しかし、課題をやるのは、僕だけだ。
そこで僕は担任に文句を言いに行った。<お前、なんとかするって約束しただろ。どうなってんだ>って。
すると、担任は、「ま、形だけ、やっとけ!出せば良いんだ。出せば!」と珍しく的確なアドバイスを寄こした。
でも、素直にやるのは屈服したみたいで嫌だった。僕は担任の言葉通りに、チャチャっとレポート用紙数枚にマンガを描いた。
ハゲ頭の男が物を持ち上げて「Up!」、ハゲ頭の男が物を下げて「Down!」、脇に置いて「Side!」ってな調子で。↓。

後は、「励ます(ハゲ増す)」とか「儲けが無い(もう毛が無い)」とかの英単語とマンガの挿絵を描いて。
クラスの皆はそれを見て、ゲラゲラ笑っていた。
一番受けたのは、デンマークの地図を書いて、<首都は?>、「コペンハーゲン」。
もはや、英語じゃないし。「ハゲ」って言いたいだけだし。片仮名だし。
でも、これはとっても受けて、卒業までの短い間、ハゲ山のあだ名は、「コペン」になった。
後で知ったのだが、僕の幾つか下の学年では、「ハゲ山」は「コペン」と呼ばれていたそうな。
民間伝承とか街談巷語ってこうやって発生するんだ。
ちょっと話はそれるが、すぐ元に戻すのでご安心を。
僕が大学生になった時、友人から、青山に出来たアイスクリーム屋に、行列するバイトに行かないかと誘われた。
僕は断ったが、後で聞いたらそれが、ハーゲンダッツの日本初店舗の行列のサクラ、のバイトだったらしい。
これも、都市伝説っぽいけどね。
で、もし、僕が高校生の頃に、ハーゲンダッツが日本に進出していたら、ハゲ山のあだ名は「ダッツ」になってたな。
ま、そんなレポートをコペンに提出したら、「これで良いから、課題は課題だ。ちゃんとやれ」と負け惜しみを言ってやがった。
<ま、暇な時ね~>と、単位を貰っちまえば、こっちのもんだ。
で、僕は私大医学部の傾向と対策にとりかかる。
医学部のそれは、ちょっと癖があった。
数学は、数Ⅲはほぼ出ない。その代わり、ひたすら計算させる問題が出る。知力より体力。電卓でいいじゃん、って感じ。
医学を志す者はスタミナが必要だという警告か、わずかなミスも許されない世界への通過儀礼か、機械に頼るなという暗示か。
物理は、原子物理がかなりのボリュームで出る。やっぱ、放射線治療とかがあるからかな。
化学もやっぱり、そんな感じだが、学校によって特徴的な差があった。
ただ、英語の「ヤマ」だけが読めなかった。過去問を解いてるとなんか癖はあるのだが、はっきりは判らない。
まぁ、そもそも、英語に「ヤマ」もあったもんじゃないだろうが。
僕の勝負のポイントは、数学で稼いだ分の点数でどれだけ英語をカバー出来るかだった。
英語が足を引っ張らないか、だった。
結果は、全滅。浪人確定。
国公立の試験(僕は受けない、足きりだから)を待って、予備校の選抜クラスの試験が待っている。
しかし、2週間くらい、ちょっと間が空くのだ。その間にだれてしまい、暗記物はほぼ忘れちゃうし。
駿台の試験は落ちた。なんとか代ゼミのクラスに受かった。
その合格通知に喜んでいたら、親が、「予備校に受かって喜んでてどうする!?」とデリカシーのないことを言った。
世の中は、金属バット事件の頃だ。
僕は脅しで金属バットを買って帰ると、親は血相を変えて、「我が家にも、金属バットが来たか」と身をすくめていた。
なんかそんな自分にも自己嫌悪だし、彼女だけ大学に受かって疎遠になるし。全然、良いことはない。
予備校の4月開講までには少し時間があった。ふと、暇が出来たので、コペンの作った課題をパラパラっと見てみた。
僕はそれを見て驚愕した。そこには、僕の受けた大学の入試試験と似通った問題が並んでいた。
英語が出来る子が、「偏った問題」って言ってたのは、医学部用に「ヤマ」を張ってくれてたのね。
これやってりゃ、受かってたかも~
ごめんね、コペン。良い奴だったのね。
今回の教訓、先生の言うことは聞いた方が良いと思う、でした。
BGM. 高石ともや「受験生ブルース」


予告ブログ①~「生きること、死ぬこと」

15/ⅩⅡ.(月)2014 はれ 
※今思うと、あれがプロローグだったんだね。
珍しく、マサキから電話があって、この1年で同級生が2人死んだんだそうで。
2人は闘病日誌をフェイス・ブックにアップしてて、別の友人が、自分も癌で闘病中、とコメントしてるそうで。
<なんか壮絶だな>と僕が答えると、マサキはこう言った。
「だからさ、もう僕らの年は、普通に病死する年齢になったんだよ」って。
<まぁ、そうだな。で、だから何?>。
「ところで、君、まだ、酒呑んでから、風呂に入ったりしてるの?」。<もうしてないよ>。
マサキは、「病死なら良いんだよ。病気なら。只さ、君は酔って風呂で寝たりするから、変な死に方はやめて欲しいんだよ」。
<死に方に、普通とか変とかあるか?>と僕が言うと、
「あるよ!こっちが後悔するんだよ。『あぁ、注意しとけば良かった』ってさ。病気なら許すよ。事故死はやめてくれよ」と、
マサキは強い口調で言ってたな。
ここで少しだけ、僕とマサキの関係を話しておきたい。2人の思い出話を。
僕とマサキは、同じ大学の医学部に一緒に入学した同期。年はマサキが一個上。
自分で言うのも何だけど、入学したての僕の態度は悪かった。
言い訳じみてるけど、僕は精神科医になりたくて医学部に入ったから、他の奴らとは目的意識が違うと思っていた。
皆は、医学全般を勉強して、国家試験をパスしてから、自分の最も興味のある分野に進むという選択肢を持ってたでしょう?
だから、僕はハナからそんな奴らと気が合う訳がない、と決め付け、友達を作ろうとしなかったんだ。
だから、皆、僕を変人扱いしていたね。
そんな僕にとって、化学の実習はペアで協力してやらなければならないから、それは苦痛だった。
ペアは機械的に出席番号順に組まされてね。
僕とマサキの苗字は二人とも「カ行」で、続きだったから、席順は隣同士だった。
僕らの初めての接触は、化学の実習だったね。
これは誰にも話してない事かもしれないけど、マサキの漢字は「マキ」とも読めてね。
僕は何を早合点したのか、てっきり、ペアを組む子は「マキちゃん」という女の子だと決め付けていたんだ。
<マキちゃんって、どんな子かな。きっと笑顔の良く似合う世話好きな少女に違いない。イヒヒ>って妄想してた。
さっき、友達を作ろうとしなかったと言ったけど、ホラ、鎖国しても出島くらい作るでしょう?
僕は、空虚な大学生活に、学園ラブコメの要素を期待して、「マキちゃん」の到着を待ってたんだよ。
そこに現れたのが、マサキで、実習のパートナーに「こんにちは、僕、マサキだよ」と丁寧に挨拶する男で。
あの時、僕は一瞬にして頭の中にこさえた砂の城が崩れ落ちて、混乱を通り越して殺意さえ感じたんだよ。
だから僕の実習のパートナーに対する第一声は、<君、この実験、1人でやってね。俺、やる気なくしたから>だった。
確かに、ひどいね、俺。
おまけに僕は嘘が嫌いなので、本当にマサキに1人でやらせたんだよ。
実習はとても長くかかって、マサキは僕に、「頼む、これ洗ってくれないか?」と巨大な球状のビーカーを渡してね。
それは、何十万円もする高級なガラス細工の実験道具だったけど、僕は怒りが鎮まらなくって。
<わざと落として割っちゃえよ。洗わないで済むぜ>って平然と答えてね。
後で、聞いた話だと、マサキの僕の第一印象は、「本当に嫌な奴だった」そうで。
その後、僕とマサキは卒業するまで同じクラスだったけど、一切交わりがなかった。
きっと、マサキが避けてたんだろうな。
そんな僕らは一緒に大学を卒業して、同時に国家試験に受かって、僕は精神科へ進み、マサキは放射線科に入局した。
うちの精神科の教授のモットーは、「精神科医は体も診れなくてはいけない」で、救命センターのローテを義務づけた。
しかし、そこの労働環境は劣悪で、24時間救急で夜など寝れず、それなのに翌朝からも仕事があって。
寝る時間などほとんどなく、時間をみつけては、当直室で仮眠するくらいで、家にはほぼ帰れない3ヶ月、で。
マサキも同時期に、救命センターをローテしていたから、僕らはそこで再会した。
もう、さすがに、年月が経ってるから、化学の実習のことは、時効で。
僕らはお互いの医者になってからの近況を報告し合って。
だけど、そこで耳にしたマサキの話に僕は耳を疑くった。
放射線科医は直接患者と接さないイメージだが、CTスキャンの造影撮影などでは、血管確保のために注射をうつ。
血管の出やすさは個人差があって、出やすい人と出にくい人の差は激しい。
マサキは、たまたま、血管の出にくい人に当たって、注射を失敗したことがあったそうで。
マサキのオーベンは、ヒステリックな意地の悪い女医で、駆血帯という腕を縛るゴムに針を刺す練習を何日もさせたらしい。
マサキは、「駆血帯なら、すぐ刺せるんだよ」と当たり前のことを言って、笑いを誘おうとしたけど、それは笑えない。
俺は聞いてて、頭に来たんだ。
<それは、イジメじゃないか!マサキ、そんな科はやめて、精神科へ来い!>と救命センターの後、精神科にローテするよう勧誘した。
マサキも精神科には興味があったらしく、僕に背中を押されて、とても感謝していたね。
やたら有り難がるから僕はそこに付け込んで、<じゃさ、毎朝の患者のデータのチェックと伝票書き、俺の分もやっといて>。
マサキは、笑いながら、二つ返事でOKした。
これで、イーブン。僕の救命センターでの仕事の負担はかなり減り、気持ちも大分、楽になった。
出会いの関係性は、普遍的だと思ったものだよ。
僕らがいる頃の救命センターは大忙しで、テレビ局が泊り込みで密着取材をしてる程だった。
その番組は、救急車が病院玄関に着くなり、待ち構えていた医者が心臓マッサージをしながら、病院の中まで運ぶシーンから始まる。
その心臓マッサージをしているのが、マサキだった。
マサキは、ばっちり全国放送の電波に乗っていた。
その番組は2時間くらいの特番だったけど、一方の僕は1コマも画面に映っていなかった。
テレビ映えしないのかな。ま、いいや。俺が勝負するとこは、そこじゃないし、って負け惜しみを言って。
僕はなんとかマサキの力を借りて、救命センターのローテを終え、マサキを引き連れて、精神科に戻った。
マサキは主流派のグループの先輩たちに可愛がられ、そのまま精神科に移籍した。
その結果、僕らは、精神科でも同期になり、研修医を終えたら、二人とも大学院に進んで、そこでも同期で。
大学院生には週に1日「研究日」と言って、まったくポケベルが鳴らない、呼び出しをくわない日がもらえた。
つまり、毎週1日、一回50分の精神療法の枠が8コマ、確保出来る。それも4年間。
当時、僕は精神分析を勉強中で、大学院に行けば、「精神療法センター」の面接室も使えて。
そこは一般の外来とは、かけ離れた場所にある静かな空間で。
こんな治療環境は、どこでも手に入らないから、僕はそれ欲しさに大学院に進んだんだ。
だから、僕らの大学院生活は対照的だった。
マサキは研究をして、学会発表をたくさんして、アカデミックな舞台で精力的に活躍した。
僕はただただ地味に地道に精神療法をして、外部にスーパービジョンを受けに行って、やりたいように精進した。
僕は精神療法班の皆さんの協力の下、というより皆が手分けしてくれて、論文を仕上げた。
しかし、大学院卒業には語学力をみる、という項目があって、英語の論文の全訳の提出も必須だった。
お恥ずかしい話だが、僕がそれを知ったのは、提出期限まで残り2日の時点だった。
僕が教室の隅で困っていたら、マサキが「どうしたの?」と声をかけてきて、僕は事情を説明して。
すると、マサキは、「それなら~」と自分が訳した最新の英語の文献の全訳をくれた。
マサキは、いくつも、論文を訳していて、提出したのは別のだから、「良かったら使って」と僕にくれた。
<そう?悪いね>と棚からぼたもちで、滑り込みセーフ。僕は、運も実力のうちだ、と思ったっけ。
そして、僕とマサキは無事、審査を通り、二人揃って、大学院の卒業式に参加して。
マサキは両親が、僕の家からは母が式に出席して。
マサキの両親とうちの母は、嬉しそうに挨拶を交わしていて、記念にと僕らは、2ショットの写真を撮られたね。
まだ、その写真、うちにあるけど。
マサキは晴れやかな表情で正面を見て写っていて、僕は視線をそっぽに向けて写っていて。
真を写す、と書いて写真と読むが、正攻法で卒業した人間の達成感と、人に頼ってばかりの男の、コントラストみたいで。
二人とも若いよ。
大学院を卒業すると、関連病院に出向になる。
丁度その頃、アメリカの大学の精神科で教授をしていたという精神分析のM先生が日本に帰国するという噂を聞いた。
そして、M先生はA病院が引き抜いたとの情報もキャッチした。
僕は、実際、学問的な先生の臨床が、実践的な日常の現場で通じるものなのかをこの目で確かめたかった。
そばにいれば多くのことを学べるとも思った。
だから、僕の出向先をA病院に希望した。
ところが、A病院へ出向するのは、もう既に、マサキで決定済みだった。
それは、マサキが大学院時代にA病院にパートタイムで勤務していた実績があり、A病院からのオファーでもあった。
大学病院の医者は、どこの関連病院も欲しがり、引く手あまた、だ。
医局長は、「A病院はマサキで決定で、1つの病院に2人は派遣出来ない。川原をA病院に出すのは、無理だ」と言った。
しかし、そんなことで引き下がる僕ではない。
僕は医局長に、直訴した。
<A病院には僕を行かせるべきだ。その方がA病院の為にもなる。マサキは、丹沢の山の奥の病院にでも飛ばせば良い>。
返す刀で僕はマサキにも、<お前は、A病院を辞退しろ。お前が行くより、俺が行くのがふさわしい>と圧力をかけた。
そして、僕は毎日の様に、医局長とマサキにしつこくそれを言い続けて。2人とも、ノイローゼにならなかったかな?
でも、その結果、医局長は英断した。
異例の医局人事。
「A病院へ、川原とマサキの2名を同時に出向」。
無理が通れば道理が引っ込むのが、世の中だ。
大学院を出た者は、通常、2年間出向したら、一旦、大学へ戻るシステムだった。
だけど、僕はある人から、「大学病院から来る医者は大抵2年で帰るから患者に不親切だ」と言われ、その通りだと思った。
そこで僕は、3年目以降も居残りを希望して。
もう医局は、あまり僕と関わると面倒になると懲りていたのかしら、すんなり僕の意見は通って。
これで、マサキとはおサラバになると思っていたんだ。
そうしたら、マサキもA病院に残留になって。
それは、A病院から医局へのたってのお願いであって、マサキの残留の理由は僕のそれとは大きく違ってた。
A病院は、各大学から精鋭の医者が揃う大所帯だ。それをまとめるのは、大変な仕事だ。
A病院は、マサキの力を高く評価していて、A病院の「医局長」として残って欲しいとの要請だった。
大学の医局は、これには難渋を示したが、(俺とは大違いだ)結局、裏金でも動いたのか(嘘です)、マサキも残留となって。
これは今まで、ちゃんと話したことがなかったと思うから、今更だけど、告白するね。
ある日、A病院で僕が受け持った患者さんから、衝撃の事実を聞いたんだ。
彼は精神科救急で入院してきて、これまでの精神科受診歴はなかった、はずだった。
病気が良くなった彼が僕に語ったのは、実は小学生の時に親に内緒で1人で精神科を訪れていたと言う過去だった。
そんな情報は、全然、聞いていない。
そりゃそうだ、入院時は本人から情報を聴取出来ないから、家族からの陳述を手がかりに診療がスタートする。
家族は、彼が小学生時代に1人で精神科を受診していたことなど、知らないのだ。
だから、記録には残っていない訳だ。
我々は診断面接と言って、最初の数回でその人のこれまでの歴史を聴取するけど、重要な事は最初は喋らないのかもね。
向こうもこちらを伺っていて、「本当にこいつは信用して良い人物か」なんて吟味しているんじゃないかと思うんだ。
その人の小学生の時の精神科受診体験は、1回の診察で、「病気ではない。何かあったら来て」と言われて帰されたそうだ。
「何かあった」と思うから、意を決して、受診したのにだ。
彼は、精神科医療に失望したそうだ。
だから、「何かあった」けど、受診をしなかった。
そして、いよいよどうにもならなくなって、精神科救急のルートに乗ったのだ。
もし、小学校の時の、初回の診察が違う形だったら、もしかしたら入院を回避できていたかもしれないな、と僕は思って。
言われてみると、研修医の頃、上級医の先生の外来に陪席させてもらった時に、似たような患者さんが来た事があった。
その先生は丁寧に診察をして、同様に、「君は病気じゃないから、安心しなさい」と諭して帰した。
そして、先生は「あの子はテレビの番組をみて、自分も病気なんじゃないかと心配して来たけど、これで安心しただろう」と
満足そうに笑っていた。
しかし、僕はその子が絶望的な表情で部屋を出て行くのが印象的でよく覚えていたんだ。
点と点が線になった、というのか。僕は、こういうケースは世の中にたくさんあるのではないかと思って。
一般的に精神科の病気は発症すると病識がない、と言われて、自分で自分が病気だとは思えないというけど…。
確かに、ヘビーな病気の急性期の多くは、病識がないけど。
だけど軽症の病気や、再発直前の患者さんは自ら、「自分はおかしい」と訴えてくるよな。
それは時には、専門家の僕らや、普段、一緒に暮らしている家族でさえ気づかない程のわずかな異変なのだ。
つまり、病気の極初期には本人にしか判らない、ものすごく病識がある時期がある、という仮説が成り立たないか?
だって、小学生が1人で精神科を訪れるなんて、通常じゃない。きっと本人にしか判らない病識があるという仮説。
それを多くの医者が見落としている可能性がある。
しかし、それは「誤診」ではない。まだ発症してないのだから。
でも、発症してしまったら、それは精神科医でなくても判断がつくものだろう。専門家なんて要らないよ。
だから僕は思ったんだよ。
専門家の仕事は、病気になる寸前に受診してきた患者さんをしっかりつかまえて離さないでおくことだって。
たった1回で帰してはいけない。医療につなげていく。
理想を言えば、病気が発症する前に、病気を治すこと、それは、未病とも言えるかもしれないね。
精神科の病気の多くは、「発症」するのではなく、「発見」されるだけなのかもしれない、とも。
だったら、なるべく早く「発見」した方が良い。
僕はそんなことを、A病院で患者さんから教わったんだよ。
そうしたら僕は、いてもたってもいられなくなって。
僕は「こどもの精神科医」になって、多くの子供の助けをしなくてはという使命感にかられて。
そんな時、「こどもの精神科」を専門にするB病院で精神科医の募集をしていることを知って。
これは、俺に行け!、と神様やご先祖様が言ってるのだと思って。
僕は迷わず応募して、シンクロだと思って、これは僕のための「欠員」だと信じて疑わなかったんだ。
ちゃんと説明したことなかったけど、そういう経緯だったんだよ。
そして、僕はB病院の採用面接を受けて、晴れて合格して。
でも、そこで色々な問題が噴出してきたんだよね。
まずは、そもそも僕のワガママで、A病院に医局から2名出向させていた人員の埋め合わせ。
さらに、今度、新しく勤めるB病院では、僕は公務員扱いになるらしく、大学の医局を退局しなければならなくって。
只でさえ、医局は人事のやりくりで大変なのに、助手クラスの僕が突然に辞めるのは、駒を動かす方は大打撃で。
大学の医局からも、A病院からも、責められそうで。
そこで、僕はマサキにそのことを打ち明けて。
マサキはさすがに驚いて一旦は僕を慰留したけど、すぐに止めても無駄だと理解してくれて。
マサキは、「わかった。僕が何とかするから。君は大人しく何もしないでくれ」と言って。
出会いの関係性は大事だと思ったよ。面倒なことは、マサキに任せよう。
僕はひたすら、果報を寝て待つことにして。
さすが、マサキはどんなマジックを使ったのか、どんな交渉術を駆使したのか、知らないけれど、首尾よく事は進んだ。
僕は、円満に医局を退局し、A病院に別れを告げて、B病院に就職した。
僕は児童思春期病棟の入院患者と、思春期デイケアの担当をして。
病棟の患者と通いの患者の垣根をはらって、「ソフトボール・チーム」を作り、毎週、近所のグランドを借りて、半日、練習した。
そして、近隣の同じように児童専門の病院に、「ソフトボールの試合」を申し込み、試合を成立させた。
病棟では、プログラムに乗れない夜行性の患者たちのために病院非公認の漫画クラブ「メソ部」を作り、コミケにも出店した。
年末のクリスマス会では、ほぼ楽器初心者のメンバーで、バンドを組み、演奏をした。僕もピアノで参加した。
普通の病院にいたら体験出来ない有意義な4年あまりだった。
自分で考えたことをどんどん思いつき実行して。
そして、それはそれをサポートしてくれるスタッフたちの協力もあったから可能だったのだが。
勿論、あまりなスタンド・プレーを面白く思わない人たちもいた。
しかし、僕はそれでいいと思っていた。
本当に良いものは、評価が分かれるものだと知っていたからね。
万人に気に入られる高感度№1タレントが面白くもなんともないのと同じ理屈で。
しかし、いいことばかりはありゃしない。僕は、意外な形でB病院を辞めることになってしまって。
それは、精神科の中で分裂騒動があったからで、僕はそれを収拾しようと尽力したのだが、かえって事が大きくなって。
本当は水面下で計画は完了していたはずなのに、僕がそれを表面化させたからで。
結局、病院長や総婦長まで巻き込んで、毎日のように会議が開かれたが、平行線。
あげくの果て、問題の早期収拾のため、「これは事を大きくした川原が悪い!」という結論になって。
<え~>、って思ったが、言われてみれば、そうかもしれないね。
僕は、そんな政治的なやりとりの日々に辟易していたし、病院長以下の評価がそうなら、もうここは潮時だと思った。
そうすると、不思議なもので、「ヘッド・ハンティング」の会社から、お誘いがあった。
何故、この時期にタイミング良く?と僕はいぶかしがった。
僕を面白く思ってない奴らの差し金だと、被害的なもののとらえ方もした。
しかし、もう病院にはいられないし、この病院に移る時に医局も辞めてしまったので、僕には後ろ盾がなかった。
だけど、困った事に、僕には、多くの患者さんがいた。
精神科の治療は、他の科と違い、終わりが有りそうでない。
それは、「病気」を診るからではなく「人」を診る診療科だからだと思う。
「症状」は「相談」の入り口に過ぎないのだ。
一般的に、医師が異動する時には、次の医者に引き継いで行く。
僕は幸せ者で、患者さんの多くは、僕について来てくれていた。
僕が病院を移るたびに、一緒に医療機関を移して、ついて来てくれていた。
僕は行く先々の病院で、多くの患者を連れて行くので、驚かれたよ。
「ひとりゲルマン民族大移動」と呼ばれた事もあった。
つまり、そんな患者さん達の診療を続ける場所が必要だったんだ。
僕は仕方なく、「ヘッド・ハンティング」の会社の紹介で、ある病院の院長と事務長の接待を受けた。
僕の経歴は、見栄えが良かった。
大学院は出てるし、直近のB病院では「医長」だったし。
僕を、ヘッド・ハンティングする病院が提示した条件は悪いものではなかった。
ただ、顔色の悪い院長の面構えが気に入らないのと、幇間のような事務長の「今日はザックバランに」という連呼が耳障り。
僕は、その後、数日、耳の奥で、「ザックバラン」「ザックバラン」という幻聴に悩まされたくらいで。
しかし、僕には、もう選択肢がなかった。
そこに行くしかないと決意しかけた夜だった、マサキから電話があった。
マサキは、「大体の話は聞いたよ。この業界は狭いからね。大変だったね」と僕を労って。
マサキは、「A病院に戻っておいでよ」と言った。
僕は、<それは出来ないだろ。俺、変な辞め方してるし>。
「大丈夫、俺が話をまとめるから。君がくればA病院にとっても戦力になるし。あっ、俺、診療部長になったんだよ」だって。
だから、マサキにはある程度人事権とかもあるみたいで。「話は僕がつけるから。君は何もしないでね」と言った。
せっかく、そう言ってくれてるんだから、ここはマサキに任せた。
そして、僕は晴れて、A病院に出戻りすることになって、懸案の患者さんの行き場も出来た。僕はマサキに拾われた。
でも、皆さん、覚えてますか?あいつ、元・放射線科医ですよ。誰のおかげで偉くなったと思ってんだ?
その時の僕の偽らざる心境は、1度死んだ身だ、思う存分やろう、だった。
僕がこれまでの経験で学んだ事は、多職種が協力するチーム医療で医者に求められる物は、強力なリーダー・シップと他のスタッフが犯したミスも全部請け負う責任と覚悟だった。
人間と言うのは、相手が本気かどうかを嗅ぎ分ける力があって。
そして、それが本物だと感じ取ると必ずひるむ。
僕は、もう失う物は何も無かったから、強気で攻めた。
僕は次々と新機軸を打ち出し、それをマサキが会議で通してくれた。
どんな魔法を使えば、あんな滅茶苦茶なアイデアが会議で通るのだろう?
おかげで、僕の病院での評価も高くなったんだけどね。
気がつけば、マサキは副院長に昇格するという。
大出世だね!おめでとう。僕は1人の男のサクセス・ストーリーをこんな真近で見られるとは思わなかった。
ちなみに僕の役職は、「ヒラ」のままで。
マサキは、僕に診療部長にならないか?、と打診した。
自分が副院長になるから、診療部長の兼任は会議が多すぎて、荷が重いと言うのだ。
僕は、きっぱりと断った。
<だったら、『会議を少なくするための会議』を新たに発足させたらと良い>と助言してね。
もっとも、マサキは、僕の将来のことを考えていてくれて、「元・A病院診療部長」は何かの時につぶしがきくと言うのだ。
それでも僕は断った。
<マサキのように実力がない奴は肩書きが必要だが、俺のように優秀な者には邪魔なだけだ>と言って。
マサキは、「そんなことを言うなよ」と悲しそうな目で言ってたね。
ある日、マサキが僕に「実は開業しようと思うんだ」と打ち明けた時にはびっくりした。
僕はてっきり、マサキはこのままの流れで院長になるものかと思っていたから。
するとマサキは笑って、「だから、院長になるんだよ」と開業してクリニックの院長になるんだと珍しくシャレたことを言った。
マサキが開業支援の会社オクスアイの金村さんと打ち合わせをする時、僕も野次馬で同席させてもらった。
マサキと金村さんはかなり具体的な打ち合わせをしていた。
一方の僕は、自分の性格上、開業は向いてないと思っていた。
自分は経営者向きの性格じゃないと思っていたから。
だけど、オクスアイの金村さんの辣腕を見ていたら、この人なら僕でも開業が出来るのではと思えてきた。
その頃、僕の母は末期癌で闘病中だった。
母はかねがね、僕に、「人に雇われていてはダメ。開業しなさい」と口が酸っぱくなる程言っていて。
僕は、老い先短い母に親孝行をしたい、と魔が差して。
そして、マサキの打ち合わせの最中、金村さんに<俺も頼んで良い?>と衝動的に申し込んだ。
僕は開業を決意した。マサキも金村さんもビックリしていた。
マサキは、「君と僕が同時に開業したら、病院は大騒ぎになるから、自分が開業の許可を取ってからにしてね」と釘を刺した。
僕はその言葉に引っかかり、<何だ?マサキと俺が同時期だとまずいのか?>。
確かに、マサキが抜けたら、病院は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
そこに俺が辞めると言ったら、絶対、引き止められるな。
出戻りの身だ。弱味もある。
<よし、マサキより先に辞めよう!>。
僕は、金村さんに、マサキより俺の案件を優先してくれ、とせっついた。
そして、マサキのお願いを無視して、病院側に<僕は開業するので、年内で辞めます>と宣言した。
こんな僕でも、病院はちょっとパニックになり、ありがたいことに慰留された。
マサキは、「アチャー」って顔をしていたね。
ごめんね、こういうの早いもの勝ちだから。知らなかった?
ちなみに、カワクリは平成19年1月の開業で、マサキのクリニックは平成19年4月がオープンです。
僕らは開業後、しばらくは、数ヶ月に1回は集まって酒を酌み交わし、近況を報告しあった。
開業は僕の方が先輩だが、マサキは大病院の管理をしていた人間だから、主に僕がマサキに判らないことを相談する会だった。
僕は今でも、誰々が急死したけど、香典いくらにする?、とか電報とかお花とか贈る?とマサキに電話して相談している。
逆に、マサキから電話があることは滅多にない。
そんなマサキが、今回、珍しく電話を寄越して。
その用件が、「酒を呑んで風呂で寝るな」とか「事故死をするな」だって。
唐突に思われるかもしれないけど、それには一応、伏線があって。
この位の季節だったから。あの事件は。
それは最初に僕らがA病院に勤務してる頃の話。
僕は過酷な過重労働で肉体的に疲弊していて。
あまりに体調が悪いので、マサキのすすめで内科の先生に診てもらって。
内視鏡検査では異常がなかったけど、血液検査で、「多血症」の所見が出た。
臨床検査技師の話では僕の血の色が真っ黄色で、大変驚いたと、マサキから聞かされた。
「多血症」はストレスでもなるらしく、治療法は「血を抜く」しかないらしい。
なんて野蛮な治療法があるものだ。
その直後、僕は大学の精神療法センターの忘年会に参加した。
疲れていたし、僕の呑み方は破滅的な呑み方をするから、泥酔した。
運が悪いことにその時、僕は何か原稿の作成中でノートパソコンを持ち歩いていて。
会がお開きになり、その店は2階にあり、僕は足を踏み外し、両手をふさがれたまま、急な階段を顔面から落下した。
受け身が取れなかった。
その後の記憶はない。
後で聞いた話では、そのまま大流血したまま、走り出し、また転倒。
起き上がってフラフラしたところに、通りかかったタクシーにぶつかって行ったらしい。
幸い、そこの道は細い路地で、タクシーは徐行していたから、タクシーの運転手に過失はなかった。
僕はそのまま自分の出身大学であり、自分がかつて勤務していた救命センターに搬送されて、ICUに緊急入院となった。
ICUって言っても、国際基督教大学(International Christian University)じゃないですよ。
集中治療室(Intensive Care Unit)ね。
皆さんは、「ICU症候群」って知っていますか?
ICUのような特殊な医療環境に入る人は体も弱ってるため、一過性の精神症状を引き起こすことがあるのです。
僕はそれになりました。
「せん妄」という精神運動興奮を伴う意識障害です。
この間の記憶はまったくないのです。
ICUは基本的に重症の身体疾患の患者さんを診てる訳で、そこで「ICU症候群」が起きると精神科医が呼ばれます。
運悪く呼ばれた精神科医は僕の後輩だったため、僕に罵倒されて帰ったそうです。
その時の僕は暴れるから、ベッドに強力な紐で拘束されていたそうで。
仕方なく上級医の医者が呼ばれる訳ですが、僕は先輩に対しても、「俺より出来ないくせに出しゃばるな!」と悪態をついて。
先輩は、本当のことを言われて、ひどく傷ついたそうです。
そこでも、最後に登場したのは、マサキでした。
マサキは、僕を強力な精神安定剤で数日間、眠らせたそうです。
僕の家族は、後になって言うことには、このままもう僕が二度と目を覚まさないんじゃないかと心配したそうです。
意識障害の回復の仕方は独特です。
まるでトンネルから出るように、ある時からパッと記憶が戻ります。
その瞬間、僕の目の前には、マサキがいました。
マサキは、「起きた?おい、酒は呑むもので、呑まれちゃダメだぞ」と言いました。
<ば~か。『酒は、反省するために呑むものだ』って、立川談志が言ってるぞ!>と僕が言い返すと、
「良かった。君、正気に戻ったね」と答えるマサキの笑顔が見えました。
よく言うよね、てめぇで、セデーションかけといて。
僕の病状は大量の出血と顎の骨の骨折でした。
大量の出血は、僕の多血症の治療に役立ち、血液検査のデータは正常値に戻っていました。
僕は全身状態も回復し、意識も正常になり、拘束も解かれ、形成外科の病棟に移りました。
大学病院に入院したことがない人でも、ドラマなどで、見たことがあると思いますが、教授回診というのがあります。
主任教授を筆頭に医局員が全員大名行列のようにゾロゾロとベッドサイドを回るやつです。「白い巨塔」とかで見ませんか?
僕の部屋にも、教授回診はやってきました。
形成外科の教授はいかにも職人気質の融通のきかなそうな無愛想な男でした。
僕は学生時代にこの人の授業を受けたことがあるので、顔と名前は一致しました。
教授は、僕のレントゲンを見て、「う~む、見事な骨折線だ」と言って、一同が口を揃えて、「見事だ」と賛美しました。
骨折線を誉められても、別に嬉しくもないのですが、誉められて嫌な気分はしませんでした。
後になって知ったのですが、マサキが形成の先生に、「川原君は誉めながら、治療をして下さい」と頼み込んでいたらしく。
頭ごなしだと、治療意欲がそがれるタイプだからって。
僕の治療は、手術ではなく、顎間固定と言う、口が開かないようにワイヤーで上下の歯茎をくくりつける方針になりまして。
骨折線が、美しいから、ね。
顎間固定の期間は、3ヶ月だって。その間は口から物も食べれないので入院生活です。
僕は1ヶ月くらいで退屈な入院生活に我慢が出来ず、点滴を自己抜去し、病院を無断で離院して、家に帰りました。
家族があやまりに病院に挨拶に行き、僕は「傷病手当金」の給付を受けて自宅療養です。
家でなるべく液状のもので栄養がとれるような生活をしました。
しかし、暇でした。
「男はつらいよ」の全シリーズを1作目から全部観たり、太宰治の小説を年代順に読み直したりしました。
いよいよ、3ヶ月がたって、顎間固定が外れました。
まだ、顎の骨がずれるといけないので、頭のてっぺんと顎を包帯でグルグル巻きにして、僕は現場に復帰しました。
その姿は痛々しくて、無理に出なくても良いんじゃないか、という賛否両論も聞かれました。
最近で言えば、フィギュア・スケートの羽生選手のような姿ですね。一緒にしたら、怒られるか。
僕の外来患者さんは、3ヶ月間、マサキの外来で代診してもらって。
マサキは、「君の患者さんはすごいね。まるで手がかからなかったよ」と感心していて。
「薬も、川原先生の出したものをそのままで、って3ヶ月間、何も問題がなかったよ」と言ってましたが、僕は内心で、
<お前に言ってもしょうがない、と思ったんだろう>と思っていたんだ。
その証拠と言っちゃなんだが、復帰後、ある少女からもらったカセット・テープには参った。
彼女は、家族以外で口を利くのは僕くらいで、僕も彼女との診察時間を大切にしていて。
そんな彼女にしてみれば、いきなり僕が怪我で3ヶ月入院と聞かされた時にはショックだったことの予想は出来る。
彼女は気丈にも、僕と会えない日々を、本来なら診察時間が約束されてる時間帯にカセットにメッセージを吹き込んでいて。
初回は、DJ風に、「達二先生がいなくても、意外と私は大丈夫です。今日の1曲目は、Xの紅、です」って感じで。
そして、普段なら診察でお話するような他愛もない話を、明るい口調でユーモラスに独り語りしていて。
1ヶ月が4週とすると、3ヶ月×4週=12回分の収録があった。
最初の方は、そんな感じでDJ風のセッションなのだが、2ヶ月目になると、途端に無口になって行って。
そして、最後の1ヶ月は、泣き声と嗚咽で。
「私は達二先生に会いたいが、患者だから、お見舞いにも行けない。立場が違うから。今までそんなことにも気づかなかった。
そんな自分が馬鹿でくやしい。達二先生に、会いたい」と言って泣いていた。
これにはやられた。おそらく僕の担当の患者さんの代表の意見だと思った。
僕は人生で後悔することはしょっちゅうあるが、反省することは滅多にない。
だけど、さすがにこれを聞いた日には猛省した。
彼女がこのテープを吹き込んでいる頃、僕は家で<暇だ~暇だ~>と文句を言っていたのだから。
あかんたれ、だと思った。
そして、僕はそれから心に誓ったことがある。
翌日に診療のある日には酒を呑むのは、よそう。
酒が残って、患者さんの話を集中して聞けなかったらいけない、と思ったからで、それは今でも続けている。
実際には、ビールの1~2本や、日本酒の2~3合や、ワインの3~4杯が、明日の診療に影響を及ぼすことなどまずない。
でも、そういう決意をしたことで、皆さんに勘弁してもらおうと勝手に1人で決めたのです。
勿論、例外はあるけどね。
たとえば、お通夜に呼ばれて、「故人の為に今日は呑んでやって下さい」なんて遺族に酒を勧められた時とか。
そんなシチュエーションで、<いえ、明日は診療がありますから>なんて断れないだろう。だから、そういうのは例外ね。
僕は多分この時から心を入れ替えたのだと思う。
患者さんがいるから、勝手に死んだりしてはいけないと思っている。
皆を見送ってから、死のうと思っている。
あっ、そんなことを言って、今、思春期の新患をバンバンとってるけど、大丈夫か?俺の寿命。
ま、いいか。人生、成り行き、だ。
閑話休題。
そんな僕に、マサキが電話を寄越した。
ここのところ、知り合いが立て続けに死んでるからという理由で。
それで僕が事故死でもすれば、マサキの旧友ゆえの虫の知らせが当たったという事になるのだろうが。
だけど、それじゃ、話としては面白くない。人生はそんなにシンプルではない。人生はもっと奇抜だ。
だったら、例えば、実はこれは、その逆で、マサキが急に死ぬのではないか?
これは意表を突かれたが、考えてみたら、ありがちなパターンではある。
僕を心配して寄越した電話が、実はマサキの最期のメッセージだった、なんて感じで。ありそう!
マサキが死んだらやっぱり友人代表として、弔辞を読むのは、僕だろうな。
僕が何故、予告ブログ「生きること、死ぬこと」に手こずっていたかと言うと、途中でその事に気づいてしまったからで。
記事と平行して、マサキの葬式で読み上げる挨拶文も、考えなくてはならなくなったからで。
こんなに長く付き合いのある友人の死と直面するのが苦痛だったのだ。
だから、僕は弱虫でブログの記事を先送りにし、カワクリのスタッフにブログの更新を委ね、現実から目をそむけていた。
しかし、それではいけない。
困った事から逃げ出すのは、僕の悪い癖で、僕はもう大人だし、若者の手本にならなければいけないのだ。
だから、いつまでも、マサキの死を否認してばかりはいられない。
予告ブログ「生きること、死ぬこと」と同時進行で、マサキへの弔辞も書き上げることにしよう。
僕とマサキの思い出話を書くのだ。
それが、マサキへの弔辞になる。
しかし、ここまで来ても、どうも、まだマサキが死んだ実感が湧かないんだ。
そりゃそうだ、マサキ、生きてるから。ピンピンしてるから。
でも、人間はいつ死ぬかなんて判らない。メメント・モリだ。一期一会だ。
手探りながら書いてみる。
マサキに語り掛けるように、お別れの言葉を書こう。
書き出しは、こんな感じだ。
<マサキ、なぜ君はこんなに早く逝ってしまったのか。僕はこれから誰に頼れば良いんだ。
僕は今、友人代表として、君の弔辞を読むためにここにいる。いまだに信じられないよ~>
~の続きは、この記事の冒頭に循環します。※D.C.
・おまけクイズ
僕は入院生活の時、家族に頼んで、僕の本棚から、あるマンガを持って来てもらいました。
さて、それでは問題です。
僕が入院中に家から持って来させて読んだマンガとは、以下のうちどれでしょうか?
①小林まこと「1・2の三四郎」
②永井豪「あばしり一家」
③手塚治虫「火の鳥」
④高橋留美子「めぞん一刻」
⑤みつはしちかこ「小さな恋の物語」
正解は、ラストの「BGM.」で発表します。
しかし、なんで、このマンガをチョイスしたのかは、今考えても、謎です。
深層心理を究明出来る人は考えて見て下さい。
その推理の結果も、コメントにお寄せ下さい。
では、正解発表。
BGM. ギルバート・オサリバン「アローンアゲイン」
 (とても綺麗なメロディです。この歌詞の意味を知らない人は、訳詞を調べない方が良いですよ。ひきますから)
 (アニメ「めぞん一刻 」で一度だけOP曲に使われました。おまけクイズの正解は、④高橋留美子「めぞん一刻」でした)


オイル・ショック!

4/Ⅱ.(火)2014 雪
40歳になった時、急激に運動神経が鈍った。
30代は、中高生と駆けっこをしても、負けなかった。
40歳になって、予兆を感じたのは、コーナーを曲がる時にコケるのだ。
それでも、初めは、靴が悪いのだ、と思った。
人間、誰でも、自分の老いを認めたくないだろう。
だから僕も、直線距離でのスピードに変化はなかったから、靴のせいで、カーブでつまずくのだと思い込んでいた。
でも、後で判るのだが、脳がイメージしてる自分と、現実の自分に開きが出てきていたのだ。
若い頃に運動神経が良い人ほど、カーブでコケるらしい。それが、「老い」によるものだった。
40代半ばになると、子供に短距離走で負けた。
まさかと思い、10回くらい再戦を申し出て、連続で走るも、連敗。
子供の成長を親として喜べば良いのであるが、それは同時に自分の「老いる」ことを認めた日でもある。
「それが、わたしのオイル(老いる)記念日」。
その後、オイル(老いる)・ショックは、新陳代謝方面に出る。
具体的に言うと、太るようになるのだ。
40代までは、酒を呑んだ後、ラーメンを2杯食べて、帰って寝ての生活でも太らなかった。
それが、同じ様な生活をしていたら、メタボの基準を余裕でクリアした。
少しは気にしようと思ったり、「老い」を受け入れようなどと開き直ったり葛藤している。
しかし、もっとも恐ろしい、「老い」に先日、気がつかされた。
僕なりに言えば、第三次オイル・ショック!
それは何かと言えば、酒が弱くなっていたのです。
僕はいつも外で酒を呑むと、「変わらないですね~」と感心されるのだが、それは単に外では酔えないだけだ。
家で呑み直して、泥酔するのだ。
それがここ最近、外で呑んでも、記憶が飛んでることがあるのだ。
運動神経の時と同じで、僕はこのことを、無意識的に軽視していた。
決定的だったのは、こないだの日曜日だ。
外で呑んで、珍しくハシゴして、それで家にまっすぐ帰れば良いのに、少しカロリーを消費しなきゃと遠回りして帰ったのだ。
そのうち酒が体に回ったらしく、歩きなれた散歩コースで道に迷い、田園調布の高級住宅地のあたりをさまよった。
途中から意識が断片的だ。スライドみたいに場面場面の再生は出来るが、連続性がない。
僕は途中で何度か転んで、善良そうな一般人や、警察官に声をかけられ助けられた。
なんとか自力で家まで帰りついた。
僕の体には何箇所か擦過傷が出来ていた。
左の頬と右の人差し指と右ひざ。その他、打ち身、数箇所。
ばい菌が入ったら大変だと思い、風呂に入ってたら、心配して家族が上の階から降りてきた。
覚えてないが、おおよそ、酔っ払って風呂に入るな、という説教じみた趣旨のことだと思う。
昨日は、1日、布団の中にいた。
気持ち悪いのと、バツが悪いのと、体が痛いのと、自己嫌悪と、「酒に弱くなった」という第三次オイル・ショックとで、だ。
あれが田園調布だったから良かったようなもので、下手したらおやじ狩りとかにあってるぞ。
かっぱらいやノックアウト強盗だって簡単にできる。こっちは意識がないんだから。
とりあえず、今後は呑んだ後の散歩は禁止にしよう。
それだけで、リスクはかなり減る。
今日、診察に来た人は僕の左の頬の擦り傷に気付いたかしら?
誰からも何も言われなかったけど、気を使って何も聞かなかったのかな?
さて、次回からは予告ブログシリーズに突入します。
第一回は、「生きること、死ぬこと」です。
なんとまぁ、今日はまるで計算したかのように、その前フリみたいな記事になりました。
それでは、次回「生きること、死ぬこと」へ続く。
BGM. よしだたくろう「老人の詩」(青春の詩、の替え歌)