こんにちは、とくだです。これまで心理部門では、様々な専門外来をご提案してきました。元々は、川原先生の斬新な発想から生まれた専門外来の数々。
例えば、『花嫁になる君に〜虐待防止カウンセリング』では、愛情があるのに子育てのうまくいかなさから叱りすぎてしまう、虐待が疑われる、そういうケースが時折ありますが、そこに焦点を当てた外来でした。親自身の幼少期の体験が現在の子育てにもオーバーラップする(いわゆる世代間伝達する)場合も多いので、子育て中の方だけでなく、これから母親(父親も)になる人に向けての外来でした。
他にも、なかなか人には言えないけれど、不倫をしてしまった側の人への支援を考えた『不倫外来』や、『精神科的懺悔室』、過去にカウンセリングを受けたけれど、うまくいかなかったという人に向けての『リベンジ・カウンセリング』・・・等です。
これらは大きく括るとすれば、支援の必要性に焦点が当たる立場は言わずもがなですが、焦点の当たりにくい立場でもケアは求められる、という視点が強かったかもしれません。あまり公に語ることが難しい、言葉にしにくいというようなことでも、様々な立場から、個人のニーズに光を当てようという視点で、診察という場もそうですが、じっくりと時間をかけて語ることのできる場としてカウンセリング(心理療法)を、なるべく入りやすく、キャッチーなフレーズで知っていただきたいというところから生まれた専門外来の数々。(ちなみに、今考えている最新版の専門外来は、個人の視点よりも、もう少し社会的な視点が入った専門外来として、またご提案したいと思っていますが、それは近日公開予定です。ご興味あったらぜひご覧になってください。)
さて、そんな経緯があった専門外来でしたが、川原先生からまた別のご提案が。
「また別の専門外来思いついたんだよ・・・今までは困っているということに向けての専門外来だったけど、もう少し座標軸を変えてみた視点が必要だと思うんだ」と。「題して、『幸せになろう外来』というのはどうか」と。
たぶん、これまで私はわりと川原先生のおっしゃるキャッチーなフレーズやその意図を自分なりに理解していると思っているけれど、今回の『幸せになる外来』を理解するまでに結構時間がかかり、どういうことか何度も尋ねてしまいました・・・
幸せ??どういう視点??よくある女性雑誌の「愛されコーデ」みたいなこと??などと勘繰ってしまって、混乱・・・。
『幸せ』というワードの持つ曖昧さや、こちらが勝手にちょっと黒い気持ちでその言葉を捉えてしまい、隣にいた原さんにも尋ねてしまいました。松井さんにも聞いてみたいところだわと思いつつも。
精神分析の創始者のフロイトは、「痛ましい状況」を「ありきたりの不幸」に変えることができれば、困難や苦しみにもう少し立ち向かえる、といった主旨のことを言ったそうですが、困っていることや苦しいことをどのように理解して、自分が立ち向かえるところを見出そうとすること、苦しい中でもいかに考えられる心を持つか、ということを考えたいと思っているものの、シンプルに『幸せになる』と言われるとなんでこんなに理解が遠くなったのだろうか、、、と不思議です。
少しやり取りを重ねて、新専門外来については、
そもそも『幸せ』の定義とは何かということになる、そこにその人の歴史あり。そういった個人史をカウンセリングで紐解いていこうということです。病気だから、問題があるから、ではない視点。幸せになるために自分は何を求めているのかを考えてみようというカウンセリング(心理療法)。それは確かにちょっとこれまでの専門外来の視点とは違うかもしれません。よりよく生きるには、生きづらさについて考える、というよりももっと積極的に幸せについて考えてみる。
皆さんにとっての『幸せ』はどういうものですか・・・?
もし私のように、腑に落ちない、という感覚に陥ったり、
言われてみれば自分は何を欲しているのだろう?と思ったり、
ご興味をお持ち方はどうぞこの専門外来に一度いらしてみてはいかがでしょうか?
P.S.原さんと松井さんにもこのテーマについて記事を書いてもらいました!続いては、原さんです。その後に松井さんと続きます~。
こんにちは。心理士の原です。
「幸せになろう外来」をやろう!と発表する川原先生と徳田さんのやりとりをそばで聞いてました。
幸せになろう外来は
「幸せとはなにか」を知ることから始まる
みなさんにとっての幸せはどういうものですか。
・おいしいものを食べる
・恋人と一緒にいる
・ペットと過ごす時間
・推しのライブが始まる直前
・新しいゲームを全ステージクリア・ミステリー小説のラスト10ページ
・釣りに出かける前日に持っていく道具を確認する
・スポーツジムで汗をかいた後のシャワー・社長へのプレゼンで手ごたえを感じた
・予定いっぱいのスケジュール
・家族のいない家にひとりでいる
・子どもが小さかった頃のアルバムを眺める
それぞれの人にとって「幸せとはなにか」はそれぞれ違うもの。持っている価値観や感じ方が十人十色で違うから。
そこでカウンセリング(心理療法)です。
自己理解を通して自分の価値観を知ること、日常生活で自分の気持ち(感情)に意識を向けることは、自分だけの「幸せとはなにか」を知ることに役立ちます。
隣の芝生は青く見え・・・ない!
「どうして自分はいつもうまくいかないんだろう」
「自分が生きている意味ってなんだろう」
こんな考えが湧いた時は、幸せになろう外来の絶好の機会です。
相談室でお待ちしています。
こんにちは。心理の松井です。
「幸せ」と聞いて、素直にスッと心に入ってくる人とは、果たしてどれくらいいるのでしようか。幸せというワードは、どうかすると暴力的になることすらあると私は思います。
なぜなら「幸せ」とは、“幸せになりたい”、“幸せとは何か”、“自分は幸せなのか”といったように、自分の内から生まれてくるものであって、外から提示されるようなものではないと思っているからです。幸せとは、常にプラスアルファ、通常よりも素晴らしく最上位の状態であり、無敵のような圧を内包していると思います。なので、自発的に「幸せになろう!」と行動を起こすのはともかく、「幸せになろうよ!」と突然投げかけられるのは、結構酷なことだなと思うのです。
創作物のジャンルに「メリバ」というものがあります。これは「メリーバッドエンド」の略で、受け手にハッピーエンドかバッドエンドか解釈が委ねられたり、結末を選んだ主人公にとっては幸せと定義されても、周囲から見るとバッドエンドである作品のことを言います。
例を調べると「マッチ売りの少女」や「幸福な王子」などが出てきます。現代だと「まどマギ」がそうでしょう。体感でしかないですが、メリバはなかなか根強い人気を誇るジャンルのひとつだと感じます。
メリバで描かれる“幸せ”は“悲劇であるにも拘わらず”という要素があって成り立つと言えるので、手放しの“幸せ”とは違うでしょう。むしろ、幸せは定義ができるか?という「幸せ」に対する皮肉的な感情から、メリバというジャンルが生まれたようにも感じます。
個人的な好みではありますが、自分は少なからずそこに共鳴し、一定数“刺さる”人がいて、ジャンルを通して「幸せ」に構え気味な人々がいることを思うと、幸せというプレッシャーから少し解放される気持ちになります。
「幸せ」について考える時、そういったややこしさや難しさ、複雑さは、人々の心のどこかにあるものではないでしょうか。だからこそ、「幸せ」を投げかける時、慎重であって悪いことはないと思うのです。
幸せが何かというのは捉えるのが難しく、人それぞれ、結局はどう生きるか、どう生きたいか、それを模索し進む過程で、結果的に「これか」と気づくようなものなのだと思います。ですので、私は「幸せとは何か外来」の方がいいなあと、密かに思っています。