聖地巡礼

23/Ⅵ.(水) 雨のウエンズディ
4時に目がさめる。早朝覚醒。外は雨。気分は憂鬱。
憂鬱といえば、涼宮ハルヒですが、春休みに「消失」の映画化を記念して来阪しました。
長門のマンションや、キョンが毎日文句を言いながら通う急な登り坂の通学路や、北高や、
みくるがキョンに未来人だと告白した公園とか、光陽園学園とか、映画「消失」で古泉がキョンに
「うらやましいですね」とつぶやく声が踏み切りの音でかき消されてしまう場面の踏み切りとか、
その直前にハルヒと古泉とキョンが入ったサイゼリヤとか、
古泉とキョンが閉鎖空間に侵入するスクランブル交差点、などなどを観光してきて楽しかった。
また行きます。
下の写真は、北高。

制服姿の女子が駆け上がってきそうだ。
BGM. 猫「雪」


バターになりたい?

18/Ⅵ.(金)2010 快晴のち雨
これから雨が続くそうで嫌になりますね。
ゆううつになるし、この世から取り残されたような淋しい気分にもなります。
孤独感。ひとりぼっちは、さみしいですね。
今日は、手の痺れと胃の調子が悪いから南波先生に鍼と温灸をしてもらいました。
だいぶ良くなった。
中学の頃、TV番組から伊東四郎と小松政男の「シラケ鳥」というのが流行した。
そのギャグ自体は別に面白くも何ともなかったのだが、
燃える男・長嶋茂雄が引退したりして世の中全体が燃え尽きてシラけた世相を反映して、
ウケてたのではなかろうか。
中学生にもなると、「シラケ鳥」は幼稚でシラけ気味であったが。
その後、時代は校内暴力とか「金属バット事件」に代表される家庭内暴力や
暴走族など殺伐とした風景に様変わりして行った。
するとコナイダまでラジオの深夜放送で
「天才・秀才・バカ」というくだらないコーナーで人気のあった谷村新司の率いるアリスが
「冬の稲妻」のヒットを皮切りに爆発的な支持を得たのはよいとして、
ちょっと隙を見せたら武道館で「美しき絆~ハンド・イン・ハンド」などという観客同士が
手と手をつなぎ合い絆を深めるという新興宗教みたいなライブをおっぱじめた。
「3年B組金八先生」がスタートしたのも同じような時期だ。
コナイダまで「ジョーダン!ジョーダン!ジョ~~ダン!!」なんて、
西城秀樹のYMCAをおちょくってJODANという歌を冗談半分に体でアルファベットを作りながら歌っていた武田鉄也が
熱血教師に扮し「‘人’という字は支え合って出来ています。人間は1人じゃない」と熱く語り、
そのフレーズが本当はさびしいだけでやり場のない怒りを
社会に向けるしかなかった不良達の心のブラックホールにピタっとはまった。
孤独に悩むたくさんのひとりぼっちが「金八」や「アリス」という箱舟に飛び乗った。
一方、それに乗り遅れた若者たちもいた。
「金八」や「アリス」に偽善の香りを嗅ぎ取ったり恥ずかしさを感じ
、直感的に「この舟に乗るのは危険だ」と察知したのだ。
現実は定員オーバーで乗りそびれただけかもしれないが…。                       
そこにビートたけしが登場した。
衝撃的とはこういうことを言うのだろう。
たけしは世間のウソや誤魔化しや偽善を、たけし自身にも内包していると告白しながらも、
露悪的に毒ガスという風刺の効いた笑いに昇華した。
「金八先生、すごいですね~。‘人’という字は支え合うって、‘入る’っていう字になっちゃった。弱っちゃうな~」。
ヒーローに思えた。
僕が今でも忘れられないのは、ある日のオールナイト・ニッポンで、
「アリスってのもすごいですね~、ハンド・イン・ハンドだって。君たちは1人じゃない、って、バカ野郎!
人間みんな1人なんだよ!1人じゃないのはシャム双生児くらいだ!」とやった。
シャム双生児とは体が結合している双生児のことだ。
こんな放送を聴いていたら、聴いてるものも同罪として罰せられるのではないかと心配した。
しかし、そんなことはなかった。
それどころか、世間はビートたけしを歓迎した。
特に「知識人」は率先して評価した。
たけしを評価することが‘インテリげんちゃん’としての評価につながった。
しかし、最も驚くべき現象は「金八」や「アリス」の人気も落ちなかったことだ。
つまり、たけしと金八・アリスのファンが重複したのだ。
想像してごらん(by ジョン・レノン)~、金八に感動しアリスのライブで手を取り合った奴らが、
翌日のTVでたけしに昨日のことをバカにされ大笑いしてるのである。
ある種の贖罪の儀式か?
勝ち残るのは大衆ということか?
密かに、僕は奴らと一緒に笑ってることで知らないうちに汚染され同化してしまうのではないかと恐怖した。
ま、そうなったらそうなったでひとりぼっちではなくなるのだが、
みんなと溶け合ってバターにはなりたくなかった。
ところで、醍醐というのは「バター」のことで醍醐天皇が好きだったからそういう名前になった、
とタモリのオールナイト・ニッポンで聴いて知った。
あくる日、国語の授業で先生が同じ話をしたからたいそう驚いた。バター、豆知識でした。
BGM. 高橋美枝「ひとりぼっちは嫌い」


結婚しようよ

17/Ⅵ.(木)2010 快晴、梅雨?
僕が初めて吉田拓郎を知ったのは、赤塚不二夫の「天才バカボン」だった。
長髪に上下ジーンズでギターを持った若者は、
自身の作った歌だけでは食べていけず常に空腹で食べ物をみると飛びついた。
その名を、めしだたかろう、と云う。
当時、「結婚しようよ」を大ヒットさせフォークソングのブームを作った「よしだたくろう」のパロディであった。
とは言え、小学生の僕にはテレビの出演拒否をするフォークシンガーを知る機会はなく、
このマンガで、どうやら「よしだたくろう」という人が流行っているらしいと知る。
幸い僕には4つ年上の兄がいて彼が「南こうせつとかぐや姫」のファンだったから、
「ヤングセンス」とか「guts」などと言う音楽雑誌が家にあった。
それで、よしだたくろうという人間に注目した。
拓郎が一躍、スターダムにのし上がったのは‘71年8月の「第3回中津川フォーク・ジャンボリー」だという。
反体制シンガーとして「フォークの神様」に祭り上げらたが疲れ果ててしまい「もう歌えない」と
書き置きを残して旅に出た岡林信康が、
エレキ・ギターを持って「はっぴいえんど」をバックに復活するための舞台だった。
岡林を待望するファンは岡林以外のミュージシャン達に「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールを浴びせた。
一方で、よしだたくろうはサブステージでPAの故障でマイクが不能となる中、2時間強、
「人間なんて」ただ1曲だけを歌い続けた。
興奮した観客を鎮めようと、小室等と六文銭のリーダーである小室等は
「メインステージに行こう」と促したのだが、
これが狂気と化した群衆には「メインステージを占拠せよ!」と聞こえ火に油を注ぎ、
群衆はメインステージを破壊して占拠して主催者の吊るし上げと岡林批判のティーチ・インを始めたという。
岡林も散々だ、同情する。
‘72年、よしだたくろうは「結婚しようよ」「旅の宿」と大ヒットを飛ばし、
「天才バカボン」に登場するまでの大成功を収める。
よしだたくろうは、岡林と違ってアイドル性があった。「明星」とかにも出ていた。
本音は嫉妬だろうが、「コマーシャリズムに身を売った」と古いファンの反感も買った。
当時はショービジネスもまだ未熟で、1人で行うライブをリサイタルと呼び、
大抵は合同のコンサートや「唄の市」のようなフェスティバルが主流だった。
そこでたくろうは一斉に「帰れ!」コールを浴びせられた。
しかし、実際のよしだたくろうはそんな軟弱な男ではなく、大酒のみで喧嘩っぱやく弁も立つし生意気で、
豪傑でバンカラなイメージと理論武装した反体制の旗手のようなイメージと
自由な遊び人的なイメージが混じり合っていた。
そんな中、よしだたくろうは‘タイホ’された。
俗に言う、金沢事件。たくろうが公演先の金沢の喫茶店でファンと一緒に酒を呑み、
はじめは和気あいあいとしていたが、仕舞いには口論となり、
A君を殴り、B子さんを旅の宿で強姦したという罪状だ。
たくろうはA君を殴ったことは認めたが、B子さんを強姦したことは否定した。
当時のマスコミはもろびとこぞりて、たくろうを叩いた。
何故か、「月刊明星」だけは好意的だった。
人気のあるものがシクジリを起こすとここぞとばかりに攻撃し引きずり降ろそうとする。
持ち上げて落とす。
マスコミの機能は昔も今も変わらない。
結局、この事件はB子さん側が告訴を取り下げケリがついた。
どうやら、たくろうと知りあったことを仲間に吹聴してるうちに婚約者の耳にまで入ってしまい、
引っ込みがつかなくなったというのが真相のようだった。
たくろうの冤罪の訂正記事を出した週刊誌はほとんどない。
たくろうは雑誌のインタビューで、無罪でなくて不起訴というのが自分らしい。
無罪の‘無’は潔白なイメージだが、不起訴の‘不’は不良とか不道徳の‘不’だ、と笑った。
これが少年の心を掴まない訳がない。
僕は、よしだたくろうの虜になった。
LPレコードを全部揃えた。
エレック・レコードという今で云うインディーズの時代のものから、CBSソニーに移ってからのもの全て買った。
翌年の大晦日、
よしだたくろうは上下ジーンズの格好で森進一がレコード大賞をゲットした表彰の場に「襟裳岬」の作曲者として登場した。                   歌謡曲がすごく権力を持ち「体制」だった時代にだ。
レコード大賞がほぼ全国民が視聴する国民的行事だった時代にだ。
たくろうは権威の前に世辞を使うのでもなく、挑発するのでもなく、ボイコットするのでもなく、
森進一と軽く挨拶を交わすと冷静に壇上に並んだ。かっこよかった。
その翌年には、たくろうは僕の兄が好きだったかぐや姫と一緒につま恋で野外オールナイトコンサートを決行した。
僕らはそのニュースに胸を躍らせた。
中学生と小学生の兄弟がフォークソングのオールナイト・コンサートに出かけられる訳がない。
僕らは想像力を駆使して、各々にレコードを聴いて妄想を膨らました。
ちなみに平仮名表記の「よしだたくろう」というクレジットはこのあたりまでで、
小室等・井上陽水・泉谷しげるらとおそらく本邦初となるミュージシャン自身で立ち上げたレコード会社
「フォーライフ・レコード」以降の作品は漢字表記の「吉田拓郎」というクレジットに変わった。
僕はそれから何年もの間、「よしだたくろう」や「吉田拓郎」ばかりを選んで聴いた。
全部の曲を録音状態と同じような節や発音で歌えたし、
すべての歌詞を歌詞カードと同じようにスペースを空けたり漢字や仮名の使い分けまで注意深く再生できた。
「今はまだ人生を語らず」や「明日に向かって走れ」や「ローリング30」が好きだった。
吉田拓郎の「オールナイト・ニッポン」や「セイ・ヤング」は毎回寝ないで聴き学校で寝て、
毎回テープに録音し次週まで繰り返し聴いた。
拓郎の生き様が好きだった。
だから、後年、KinKi kidsと共演する拓郎を観るのは辛かった。
昔からアイドルに楽曲提供したり、ラジオ番組のゲストにアイドルが来て軽口を交わすのは見慣れた光景だった。
しかし、往年の拓郎はトンガっていた。
それが、ほのぼのとした空気の中でKinKi Kidsにいじられてやりこめられて苦笑いをしている。
なんでKinKi Kidsなんだ?
話を戻すが、1979年、拓郎は篠島でアイランド・コンサートというオールナイト・イベントをやることになった。
「流星」というシングル曲が発売され、そのB面が「アイランド」だった。
あきらかに篠島のイベントを意識されて作られた曲で、
曲の終りに「人間なんてラ・ララ~ラ・ラララ・ラ~ラ」とコーラスがかぶってフェイド・アウトするのだ。                                  「続きは、篠島で!」と言われてるようだ。
毎日の生活にも気合が入る。
しかし、僕は篠島には行けなかった。
高校生の男子を、
何県にあるのかも答えられないような島で行われるオールナイト・コンサートへ行く許可を親が出さなかったのだ。
ま、妥当な判断だ。
篠島コンサートは、文化放送でぶっ通しで生放送されることになった。
「青春大通り」と「セイ・ヤング」の枠をつぶしたのだ。
僕は夕方からラジオの前に座った。
ラジカセの脇に交換用のカセットテープを積み上げて、聴きながら全部録音した。
深夜にさしかかった所で、ゲストが出演した。
さすがに拓郎にも休む時間が必要だ。
一人目のゲストは小室等だ。
今生きていることがどうしたこうした、という谷川俊太郎が書いたという詩に曲をつけ延々と歌い、
お馴染の「雨が空からふれば」をいつも以上に貯めて
「あ~の~ま~ち~ほぉ・わ~あ~め~のなか・っは~、こ~の~まっちぃ~も・っほぉ~あ~め~の・な・か・っは~」
と熱唱していた。
次に、出てきたのが長淵剛だった。
長淵はその頃、南こうせつのオールナイト・ニッポンで「つよしの裸一貫、ギターで勝負!」という
コーナーを持たせてもらっていたので、こうせつのオールナイトを毎週聞いていた僕は長淵の歌や、
長渕剛が拓郎のファンであることを知っていた。
女目線の生活感が滲み出た恋愛の歌が多かったが、気の良い隣のお兄ちゃんみたいな人だった。
長淵が登場するなり観客は「帰れ!帰れ!」とシュプレヒ・コールを送った。
拓郎のアイランド・コンサートに出るに相応しい覚悟があるのかという踏み絵的な意味と、
拓郎もそこを通って来たんだという洗礼的な意味合いと、
いい加減あきて来ちゃって早く拓郎に出て来て欲しいフラストレーションが、
拓郎の先輩に当る小室等にはさすがにぶつけられず、
丁度いい具合に気の弱そうな若者がしゃしゃり出てきたから、
小室等のつまらさの分もまとめてこいつでウサ晴らししようぜ(半笑い)
的な意味が入り混じっていたのではないか。
長淵剛は「俺は帰らない。ここで歌う」みたいことを言って自分の持ち時間を全うした。
これが後に武勇伝みたいに語られているが、
ラジオを通して聴く限りはそんなに大したハプニングでもなかった。
「帰れ!」コール自体がある意味‘パロディ’だったし、
お祭りの一環という認識は皆にあったし、
長淵のゲスト出演が決まった時点で「やっちゃおうか?」的なお約束はファンの間にあった。
だから、すごく優しさにも満ちていた。
通過儀礼みたいなものだ。然し、これがその後の大変な事件の引き金となったのだ。
長淵剛はこの件で男をあげ、オールナイト・ニッポン2部のパーソナリティーの座をゲットした。
このあたりで彼の守護霊が入れ替わったのではないかと僕は睨んでいるのだが、明らかに曲調が変わってきた。
最終的には皆さんもご存じのようにチンピラみたいになっていくのだが。
ある日、長淵は当時人気絶頂のアイドル石野真子のファンだと番組で公言した。
石野真子はデビュー曲「狼なんか怖くない」を吉田拓郎が作曲した縁もあり、僕もファンクラブに入っていた。
やはり同じような縁を使ったのだろう、長淵のオールナイトに石野真子がゲスト出演したのだ。
当時のトップアイドルを深夜の3時過ぎに有楽町まで呼び出すなどとはふてぶてしい。
フランク永井だってしない。
石野真子は長淵のことを全く知らず、初対面。
番組では舞い上がった長淵がギターを弾き語りし、流れでデュエットすることになった。
只でさえ不快なのに、
そのやりとりの途中で長淵が真子に言葉は忘れたが「オイ!」とか「コラ!」とか「バカ!」とか言ったのである。
そうしたら真子が反射的に「はい」と素直に答えたのである。
深夜に叩き起こされた寝ぼけたキューピットが間違って矢を射っちゃった瞬間に立ち会ってしまった。
その数ヶ月後に2人は結婚する。
真子はトップアイドルの座を捨て引退。
ファンクラブも解散。
当時の石野真子は本当に人気があった。
アイドルに敵なし、まさにジュリーがライバルだ。
自らのデビューのきっかけとなった「スター誕生!」やNHKの「レッツゴーヤング」の司会も務めていた。
当時のレッツゴーヤングの後ろで踊るサンデーズには松田聖子がいた。
松田聖子はその後、なみいるライバル達を横綱相撲で退け80年代を象徴するアイドルになるが、
もし石野真子が引退してなかったら天下取りは1,2年は遅れたのではないだろうか。                                          運も実力のうちか。
その位、石野真子のアイドルとしての可愛さと人気はズバ抜けていた。
石野真子の最後のTV出演は「夜のヒットスタジオ」だった。
真子の引退のために用意されたような回で、
真子がデビュー2作目にあたる拓郎作曲の「わたしの首領」(←チッ!誰のことだ?)と
自らが作詞した「私のしあわせ」という歌を披露する。
司会者の井上順と芳村真理のはからいで海援隊の武田鉄也が「贈る言葉」を歌う。
泣き出す真子。
観ているこちらもつられて泣き出す。
「贈る言葉」をバックに色んな友人・知人がお花を持って駆けつける、30人くらい来た。
締めは、ドラマ「およめちゃん」で共演した森光子が、武田鉄也の歌をBGMに
「真子ちゃん、あなたは幸せになる義務があるのよ。これ、私からの贈る言葉」
という名言を残し、コマーシャル。
僕は涙が止まらなかった。
ラストのシーンでは花束を抱えて泣きながらも笑顔を作り「あ・り・が・と・う」と
読唇術でしか読み取れないメッセージを送信するテレビ出演最後の石野真子の真横で
本人以上に大泣きしている松田聖子が映った。
涙の降水量ランキング、1位・松田聖子、2位・僕、3位・石野真子だった。
数日は放心状態。
もうテレビは見なかった。
心配した友人が「早く立直るには誰か別の人を好きになることだ」とアドバイスしてくれた。
とりあえず、「好~き~、スキ・スキ・スキ~、すき通った~光の中~で~」と
コルゲントローチのCMソングを振りつきで歌っていた柏原よしえのファンに転向することにした。
柏原よしえというのも不思議な人だった。
この人も途中で守護霊が入れ替わったんじゃないかと思った。
はじめは可憐で昔のアイドルの歌をカバーして懐古趣味を煽ったかに見えたが、
ちょっと目を離した隙に「よしえ」が「芳恵」になっていて、
さらに油断していたらセクシー路線というか魔性の女みたいなっていた。
豹変といえば豹変なのだが僕には野蛮にしか見えなかった。
何を言いたいかというと、
失恋したからといって別の人で埋め合わせようとしてもうまくゆくとは限らない、という教訓である。
こないだノートの整理をしていたら、宛先のない1通の手紙が出てきた。
中を見てみると、僕の字で恋文が書かれていた。
よしだたくろうの「プロポーズ」という歌の詩がまんま引用されている。
「プロポーズ」は『よしだたくろう オン・ステージ第2集』というエレック・レコード時代のLPの中で、
ナイーブな詞と印象的なメロディーの「静」という初期たくろう作品の中でも名曲と誉れ高い代表作の直前に朗読された詩である。
エレック時代のLPは後にフォーライフから復刻発売されているが、
何故かこの『オン・ステージ第2集』だけは復刻されなかった。
幻のLPだから出所がわからないとふんでパクったのだろうが、
このラブレターは誰かに向けて書いたのは間違いない。
それが誰かは思い出せない。
高1か高2だ。
男子校だったから女の子との接点は少ない。
ひょっとしたら恋に恋をしていて、誰か好きな子が出来た時のためにあらかじめ書いたラブレターで、
投函されないまま机の引き出しの奥に眠っていて、結局書いたことさえ忘れていたのかもしれない。
時代は、サザン・オールスターズがデビューした頃で友人は
「ビリー・ジョエル」とか「アース・ウィンド・アンド・ファイヤー」とか「スティービー・ワンダー」とかを
聴いていた頃である。
こんな詩である。

 『 僕の目の中の片隅の   とても美しくとってある風景と  さみしすぎる素直さ  幾日も幾日も陽が射した 唄のねと         およそ争いを嫌う腕  飾られそうになるとつむぐ言葉と   鍛えられるのを嫌う  柔らかい筋肉   めぐらしてもめぐらしても  元に戻ってくる未来へ それから夕暮れにおいてきた優しい言葉の全てを  君に贈ります 』

「吉田拓郎/挽歌を撃て」という本を、約30年ぶりに書棚からとって読んでみた。
80年に発行された本だ。
「金沢事件」に関して面白い箇所があったので抜粋して引用する。
 『金沢事件にはっきりとした決着をつけるとしたら、逆告訴するということしかなかった。
当然ともいえる拓郎側からの逆告訴を阻んだのは、拓郎の母の言葉だった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」。
B子さんはまもなく結婚するという話であった。
母は我が子の冤罪を晴らすことより、むしろ加害者である娘の幸せを願った。
拓郎の父は鹿児島県史の編纂者であった。
鹿児島県谷山町で育った拓郎は、小学3年になる時に広島市に移る。
母が盲学校の栄養士兼お茶の先生として働くことになり、
兄、姉、拓郎は母方に引き取られることになったのである。
朝鮮からの引揚者だった吉田家は、父の勤務した鹿児島県庁の給料だけでは家計的に苦しかった。
西郷隆盛の流れを汲む父は一徹者で、朝鮮戦争の特需景気に便乗するような器用な真似も出来ず、
ただひたすら我が運命のように鹿児島県史の研究に没頭していた。                                                    父は以降、たった一人の生活で研究に明け暮れる。
昭和48年1月10日、父は深夜執筆中に突然脳卒中で帰らぬ人となった。
死の直前まで机に向かっていたという壮絶な死であった。
拓郎は父は本望だったろうと思った。
母にしてみれば、‘家庭人’としての父と、晩年は共に暮らしてみてもみたかっただろう。
その悔いが、父の死から4カ月後に起こった息子の金沢事件への干渉となった。
「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」母はくりかえし言った。
拓郎はうなずくと、弁護士に電話をかけた。
「逆告訴を取り下げます……」』。

BGM. よしだたくろう「結婚しようよ」


W杯勝利記念 『作戦勝ち』

15/Ⅵ.(火)2010 はれ
僕はまったくサッカーを見ないが、さすがに日本がカメルーンに勝ったというニュースは見た。
戦術やゴールがどのくらいスゴいのかはわからないが、詳しい人に聞くと「作戦勝ち」らしい。
作戦にも色々あろうが、圧倒的な兵力の差がある相手と戦う時に有効なのは頭脳戦である。
おそらく頭脳戦とは、
①心理的な罠を仕掛け
②精神的に苛立たせ
③相手の持ち味を封じ込め
④攻撃を空回りさせ
⑤動きが雑になったところを仕留める、クレバーな兵法である。
かつて僕は、頭脳戦のお手本みたいな試合を観たことがある。
それは、ジャイアント馬場vsスタン・ハンセンの一戦だ。
全盛期を過ぎた馬場は勢いに乗るハンセンに破れPWF世界ヘビー級ベルトを奪われた。
リターン・マッチが組まれたが、もう誰も馬場が勝つとは思わなかった。
しかし、馬場はここでハンセンにものすごい頭脳戦を仕掛けたのだ。
タイトルマッチが決まった日から、報道陣に「次の試合に秘策がある。
ハンセンがウエスタン・ラリアートを仕掛けて来た時に‘16文ラリアート’を打つ」と言うのだ。
それを伝え聞いたハンセンは慌てた。
「ナニ?‘16文ラリアート’だと?16文は馬場の足のサイズだろ?ラリアートは腕を使う技だ。
どうやってやるんだ?そもそもラリアートは俺様の得意技だ!」と激高し、記者たちに八つ当たりした。
ジャイアント馬場は余裕しゃくしゃくに
「ま、当日を楽しみにしてよ」と太い葉巻を吹かし、記者たちの質問を煙に巻いた。
ハンセンのイライラがピークに達した頃、決戦の火蓋は落とされた。
普段のスタン・ハンセンの試合ではなかった。
いつものハンセンらしい破壊力が陰をひそめた。
‘16文ラリアート’を恐れるばかりに踏み込んだ攻撃ができないからだ。
その為、馬場に決定的なダメージを与えられないのだ。
一進一退の攻防の中、正直ここまで馬場が善戦するとは思わなかった、
不用意に飛び込んだハンセンをクルっと馬場が「小包固め」に丸め込んで3カウントを奪って勝利した。
「小包固め」とは、
相手の首に自分の腕を巻きそのまま自分の足を相手の足にひっかけクルっと前転させエビに固めるセコイ技である。
馬場は勝利者インタビューで、「16文ラリアート?そんなモン無いよ。16文は足のサイズ、ラリアートは腕を使う技。
出来る訳ないだろう」と笑い飛ばした。
ハンセンは‘16文ラリアート’という亡霊に負けたのである。
馬場の談話を伝え聞いたスタン・ハンセンは「ガッデム!」と悔しがったという。
お昼に、徳田さんからトゥーリオが日本に来て仲間と溶け込むまでの苦労話と
トゥーリオは実は日本に帰化していて「〇〇〇」という漢字の名前であることを聞いた。
「〇〇〇」は覚えていない。
そう言われて思い出したのだが、
沢村栄治と並ぶ戦前の巨人軍のエースだったスタルヒンは戦時中は
「須田博」という漢字の名前にしたそうな。
BGM. ザ・プラターズ「16トン」


キース・ムーン☽

14/Ⅵ.(月)2010 雨がしとしと
「鳥」からキース・ムーンの生涯を映画化するという噂を聞いた。
キース・ムーンはザ・フーのドラマーで「奇人」「壊し屋」としても有名。
あるパーティーの会場でキース・ムーンの姿を見かけたミック・ジャガーは、
慌てて逃げ帰ったという話が有名である。
「けいおん!!」の3話目くらいで、ドラムの田井中律がスランプに陥った。
理由は、ドラムはスポットライトが当たらない目立たない存在であるからだった。
楽器を代えようかと、ギターやキーボードにも挑戦した。
しかし、律ちゃんは中学時分に好きだったザ・フーのビデオを夜通し観て、自分にはドラムしかない、
キース・ムーンに憧れてドラムを始めたのだ、という初心を思い出し立ち直るという、ちょっといい話だった。
でも、律ちゃん、キース・ムーン好きだったんだぁ。
田井中律はもう高3である。
律ちゃんの一個下の学年にあたる「鳥」は、動画サイトでディズニーの「ピーターパン」を観ていたら、
キース・ムーンに似ているな、と思って興味を持ち色々調べたという。
16歳は勉強盛りだ。彼から聞いた逸話で面白いものを紹介しよう。
題して『~キース・ムーン 奇才ドラマー~』。
①自宅からわずか500m先のパブに行くのにもヘリを飛ばしていった。
②ホテルのロビーに車ごと突っ込んでフロントに一言「キーをくれ」。
③オランダのユダヤ人街でロンメル将軍のコスプレをする為にナチスの制服を着て闊歩し、殺されかけた。
④スティーブ・マックイーンは、隣に住んでいたキース・ムーンが夜中にジャンプ台を使ってモトクロスで爆撃してくるので、塀を高く作り直した。すると何故かキースは自分の家側の塀をそれよりも高く作り直した。
⑤オノ・ヨーコのスカートをまくりあげた。
⑥自宅のプールにロールスロイスを沈める。
⑦自宅の門を入るとすぐプールになっていて、知らずに車で入ってきた友人はそのまま水没した。
⑧奇抜な格好でレストランに入ろうとして追い出されると、その店を買い取って自分を追い出した店員をクビにした。
⑨「自分が死んだ」と嘘の電話をメンバーや仲間にメイドを使って電話をかけさせ、あわてて駆けつけた知人が来ると死んだふりをした。実際、本当に死んでしまった時、ザ・フーのメンバーはキース・ムーンの親まで葬式に来てるのを見て「マジなのか?いや棺桶を突き破って出てくるに違いない」と思っていたそうだ。
キース・ムーンは、
1978年、ポール・マッカートニーのパーティーでいつものように羽目を外し、
オーバードラッグ&大酒を呑み、翌朝自宅のベッドで冷たくなっているのを婚約者に発見された。
享年、32歳だった。
BGM. 河合奈保子「ムーンライト・キッス」


ヰタ・セクスアリス

13/Ⅵ.(日)2010 はれ
山口百恵の『百恵白書』というLPに「いた・せくすありす」という曲がある。 
『百恵白書』は、全曲宇崎竜童作曲・阿木耀子作詞の当時のアイドルのLPとしては異例の、
シングルカット曲なし、というトータル・アルバムだった。トータル・アルバムなんて言い方も古いが、
要は一つのコンセプトを持った作品集という意味だ。
フィル・スペクターの「クリスマス・アルバム」や、
ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」、
ビートルズの「サージェント・ペパーズ」などが代表と言えば理解るだろうか。 
当時の歌謡界はシングル・レコードに重きを置いていて、
特にアイドルのLPなんてシングルが溜まったらベスト・アルバムみたいにして出すか、
洋楽や人の歌を歌う(カバーなどという概念はない)手抜き感が満載だった。
ポール・モーリアの曲に適当な歌詞をつけて歌っている人もいた。天地真理だ。持ってる。
話を戻す。
日本の歌謡曲でトータル・アルバムと言ったら、
フォークルの「紀元弐阡年」とタイガースの「ヒューマン・ルネッサンス」くらいではないか。
フォークルは歌謡曲じゃないか。そんな中、『百恵白書』は突然変異みたいにポンと世に出た。
帯には、
「このアルバムは私の分身、この中に18歳の、そう制服をぬいだわたしのすべてが入っています」と書いてあったが、
その煽情的な文句でさえが生ぬるく感じた、その内容は赤裸々で中学生だった僕には衝撃的だった。
まさに‘赤い衝撃’だ。
僕は薄幸そうな百恵のファンで、かねてから百恵が「私」という言葉を「アタシ」と発言するのがアバズレみたいで好きだったが、
『百恵白書』は何もそこまでお話していただかなくてもけっこうなのでございますが…、という「重さ」があった。
山口百恵は、まだ中3トリオの一番地味な子、っていう括りからやっと抜けたかどうかが僕のイメージだった。
ここから山口百恵は大きく軌道を修正して‘神話’や‘伝説’というおかしな方向に進むのだが、
『百恵白書』はその第一歩みたいなもので、僕は悪い予感がしたんだ。
このアルバムの中には、ファイナル・コンサートの異様なクライマックスで迎えるラストの
「さよならの向こう側」の前に歌われた「歌い継がれてゆく歌のように」が収録されていて、
この曲も名曲なのは判るが、初めて聴いた時、何か得体のしれない不安が脳裏をよぎったんだよなぁ。
山口百恵、守護霊、入れ替わったか?と少しマジで思ったりした、友達には言わなかったけど。
中でも一番、食あたりしたのは「いた・せくすありす」という、A面の3曲目の歌だ。
やっと、書き出しと繋がった。
タイトルは森鴎外の性欲史みたいな小説をモジったことからもわかるよに、
百恵の性的なことに関する告白みたいなものが録音されていた。 
あの下品な鶴光のオールナイト・ニッポンよりも、聴いてるところを母親に聞かれたくなかった。
後にも先にもない。畑中葉子の「後から前から」の方がまだマシだ。何を言ってるんだ?
今、あらためて歌詞を見ると別に大したことは書いてないのである。
その後の百恵を知っているから驚愕しないのか、感性が鈍ったか、これを成長と言うのか、
これを老いというのか。
しかし、あらためて聴く勇気はない。
BGM. 西城秀樹「勇気があれば」


サティスファクション

8/Ⅵ.(火)2010 くもり
古いビデオの整理をしていたら、ストーンズのハイド・パーク・コンサートが出てきた。
コントキのミック・ジャガーはカッコE 。
髪型といい、白いパンツといい、ドレスみたいなシャツといい。
サティスファクションの映像はとくにカッコE 。
途中あぐらをかいたりする。
「二人でお酒を」の梓みちよ、以前である。
ハイド・パークは、ブライアン・ジョーンズの追悼コンサートだ。
ブライアンはストーンズのリーダーでR&B色の濃い人だったが、
ミックとキースが台頭しオリジナル色が強くなって、主導権とアイデンティティイを奪われ、
酒とドラッグに溺れて、プールで溺れて死んだ。
中学時分、そういうのに詳しい友人は「ミックとキースがイジメて死に追いやった」と吹聴した。
その追悼コンサートのオープニング、何万羽の白い蝶がステージから飛び立った。
「その一羽づつを丁寧に踏み潰して、ミックが歌った」そんな映像の記憶があるが、
今、ビデオを観返すと決してそんなことはしていない。
普通に歌っている。
先入観とは怖ろしいものだ。
実際は、猛暑のために飛び立つ前に大部分が死んだらしいが。
「サティスファクション」に関するミック・ジャガーのインタビューはカッコよかった。
以下のごとく。
<詞には満足してますか?> 「性的に?思想的に?」
<両方です> 「性的には満足さ」
<思想と金銭上は?> 「金銭的には不満さ。思想的には努力中さ」
中学生の僕らが、「努力」というコトバをカッコE と思った貴重な瞬間だ。
BGM. 遠藤賢司「満足できるかな」


ジューンにやられないように

7/Ⅵ.(月)2010 はれ
ジューンも7日目。
ジューンは降雨や気圧を操って僕らに襲いかかってくる。
去年はA.がやられた。
スタミナのつく物を食べるように心掛けよう。
昨日は馬刺しとレバ刺しとテール・スープ、今夜はホルモンを食した。
今日は校医のあと、中野へ。
ブロードウェイの地下でソフトクリーム4色を食べ、
タコシェという本屋でマンガを買う。著者のサイン入り。
その後、フジヤというアニメ専門の中古CD&DVD販売店で
「地獄少女 二龍」の全巻セット、全箱購入者特典・『憂鬱えほん 地獄少女』付き、を購入。
良い買い物が出来た。
BGM. じゅんとネネ「愛するってこわい」


情熱大陸600回記念・爆笑問題

6/Ⅵ.(日)2010 はれ
6月6日はロールケーキの日だそうだ。
6・6を横から見るとロールケーキに見えるからだそうだ。
「ポケモン・サンデー」でショコタンがそう言ってた。
ブルーレイに録り貯めた番組を観る。
「情熱大陸600回記念」は2回に渡り爆笑問題にスポットを当てた。
爆笑問題は1988年結成。
1998年4月「情熱大陸」第4回に爆笑問題は出演している。人気が出始めた頃だ。
太田光は天才・鬼才と世間をにぎわしていた。
田中祐二は飄々とその傍らに寄り添う「普通の男」。
デビュー間もない頃、ある大物芸人から2人はこんな言葉を贈られた。
「お前ら天下、取っちゃえよ。田中は切るなよ」。
立川談志だった。
太田の値打ちを発揮するために、田中を切るな、とそう言ったのだ。
友人の伊集院光は田中を
「超普通です。もはや異常の域の普通」と評して、田中の普通さを
「何でも切れる刀を入れとくサヤってすごいな」と最大限の賛辞で表現した。
田中あっての爆笑問題だという声である。
そういえば、昔、コント55号にも似たような議論があったな。
二郎さんは欽ちゃん以外ともコンビを組めるが、欽ちゃんの良さは二郎さんにしか出せないと、
坂上二郎が評価されていた。
番組に話を戻す。
売れない頃、田中はコンビニのバイトに励んだ。
太田は読書とゲームに耽った。
田中は売れ残りの弁当を太田に差し入れていた。
<太田に働けよと思わなかった?>というインタビューに田中は
「それは思わないんですね。働けるワケがない!、とオレが思ってましたからね。
毎日、時間どおりに行くとか普通の仕事ってできないですからね。
興味のあることしか、ちゃんとできないんですよ、太田は。
僕は出来ますよ。
たとえば明日から生花店で働きなさいと言われたら、そこで一生懸命やる自信があります。
僕、そういうの出来るんです。太田は絶対!できない」。
才気走った小学生、
10歳「殺人事件」11歳「刑事と泥棒」、作・演出・主演、こんな題目の劇を学芸会で発表した太田は、
高校に上がると一転して友達も出来ず、言葉を交わす相手さえなく3年間1人自分の殻に閉じこもった。
インタビューに答え太田は
「それはもうホント、絶望してましたよ。ホントに何にも感動できなくなってしまった。
色も失われているような感じで、最終的にはね、飯がまずかった。
で、そん時はもういい、オレ、生きててもしょうがないと思ってた」と述懐する。
その頃、太田の孤独を癒したのは1人の喜劇人だった。
チャールズ・チャップリン。
哀しみの中にも怒りの中にも笑いがある。
笑いながら全てをくるんで表現することを彼が教えてくれた。
それが一筋の光となり、道も決まった。
17歳の太田が書いた詩が紹介される。
「笑わすために努力をつんだ芸こそ その研究されつくした滑稽な体の動きこそ感動的なのだ」。
爆笑問題の漫才は一切、アドリブなし。
番組は
「相方の一言半句にまでこだわり指示する太田の才能も、
それを受け容れる大きな器がなければ無駄にこぼれて人の目には届かなかったこましれない」
と語り、田中祐二のネタ帳を映し出す。
静止画像にして見てみると、
「そんなワケねーだろ」を消して「無理にきまってんだろ」に、
「そこまでいくとね、ヤワラちゃんが強いっていうより、」を消して「そこまでいくと、まわりが弱いんじゃないか、」に、
「確かにね」を消して「そうそう」に。
素人の僕には違いがワカラナイ。
番組の最後に2人に広辞苑を渡し『情熱』から連想するコトバを選ばせる。
田中祐二は「松岡修造しか思い浮かばない」と笑いながら『走る』を選ぶ。
太田光は迷わなかった。
1つの言葉にまっしぐら。
『爆笑』を選んだ。大勢が大声でドッと笑う、爆笑の渦につつみこまれる。
太田は「爆発させたいんだよ、木端微塵に」と言った。
余談だが、ショコタンの新しい猫の名前は田中が命名したらしい。
ショコタンがコンサートのMCで発表していた。
名前は「ねぎ」。理由はよくわからない、と。さすものしょこたんも苦笑するしかなかった。
爆笑問題&中川翔子、豆情報でした。
BGM. チャック・ベリー「ロックン・ロール・ミュージック」


ちょっとピンぼけ

5/Ⅵ.(土)2010 はれのち曇り
若い友人に借りた西島大介著「ディエンビエンフー」というマンガを読む。
ベトナム戦争が舞台だ。
お返しに、ロバート・キャパの「人民軍兵士の死、スペイン内乱1936」の写真を見せてあげて、
あとは高橋留美子の「めぞん一刻」を全巻貸す約束。
ベトナム戦争と聞くと、ウルトラセブンを思い出す。
ウルトラセブン(S42年10月~43年9月)の第42話『ノンマルトの使者』は、
「もし人類が侵略者だったら?」という常識を根底から覆す内容のドラマである。
海底開発センターの船上基地シーホース号が大爆発を起こして沈没。
その事件を予告した真市少年は、「海底を侵略すればノンマルトが黙っていない。
地球はノンマルトのものであり、人間はノンマルトを海底に追いやった侵略者だ」という。
ノンマルトは怪獣ガイロスを操って攻撃を開始してきた。
ウルトラセブンは宇宙の平和のために戦っているが、それはうぬぼれに過ぎないのか?
第42話『ノンマルトの使者』において、
一つの星の主導権を握る人間ともう一つの種族・ノンマルトの戦いに巻き込まれたウルトラセブンは、
第三者としての無力を思い知らされたのだった。
写真はこの番組放映直後のもの。
幼稚園児だった僕は、悩めるウルトラセブンに何と声をかけていいのかわからず、目を合わせられなかった。
折りしもベトナム戦争、真っ只中の時勢である。
円谷プロの大人たちは、
ウルトラセブンを通じて我々子供たちに真剣に何かを問いかけ、我々子供たちも正面からそれを受け止めた。
テレビに栄光と誇りがあった時代である。


BGM. 岡林信康「アメリカちゃん」
ちなみに題目の『ちょっとピンぼけ』とは、
写真の解像度のことではなく、ロバート・キャパの自伝のタイトルである。
ロバート・キャパ、1913年ブタペスト生まれ。
ユダヤ人。本名、エンドレ・フリードマン。
ナチスの手からのがれるように祖国を捨て各国をさまよった後、
‘ロバート・キャパ’というアメリカ人風の不思議な偽名を得て歴史に名を残す写真家となった。
報道写真の古典と言われた「人民軍兵士の死、スペイン内乱1936」をはじめ、多くの写真を残したが、
1954年5月、ベトナム・ハノイ南の戦場で地雷に触れて死亡。