白い部屋

12/Ⅳ.(火)2016 はれ、暖かい。
子供の頃から、繰り返しみる夢があった。
僕は静かな白い部屋にいて、壁にもたれかかるように体育座りして、高い窓から光が差し込む。
見覚えの無い部屋だが、どこか懐かしい部屋だった。
心当たりのない部屋なのに、鮮烈な記憶があった。
そんな風だから、一時期は前世の記憶かしら?、などと考えたりもした。
どの夢にも共通するのは、無音の白い部屋ということで、なぜそこにいるのかは、夢によってバリエーションがあった。
理由が無い場合もあったし、ある時は、政治犯だったし、ある時は凶悪犯罪を起こした罰だった。
正義であるがゆえに、悪い権力者に無実の罪で投獄されたこともあった。
いずれも、僕の感情は無感情、何の抵抗も工夫もせず、その状況を受け入れていた。
結局、そこが僕の「居場所」であったような気さえした。
精神科医になって、研修医の2年目で関連病院の単科の精神病院に出向した。
僕は大学病院とリハビリセンターくらいしか病棟を知らなかった。
今はもうそんな病院はないが、僕が医者になりたての頃の精神病院は、アメニティより収容に重きを置くような作りだった。
そんな中、過度に刺激的になっている患者さんを、他の患者さんから隔離する部屋を「保護室」と呼んだ。
保護室は大学病院の病棟にもあったが、僕は僕の勤務先の病院の保護室をみて愕然とした。
それは、ずっと子供の頃から、夢に出て来ていた、白い部屋、だったから。
僕は医者になって3年目から大学院に進学するため、大学に戻った。
医者になるとお金が儲かりそうだと思われがちだが、それは何年かしてからで、
今は随分と改善されたようだが、当時の研修医の月給は5万円だった。
僕は比較的、若く結婚していて子供もいたが、大学院生は無給で、むしろ学費を払わないといけなかったし、
卒後教育も大切で、勉強会やスーパービジョンにもお金がかかった。
見かねたオーベン(指導医)が、アルバイト先を紹介してくれて、日曜日やまとまった休みには出稼ぎに行った。
今はもうそんな所はないだろうが、当時は「無医村」のような精神病院が地方にはあった。
僕は夏休みに家族を連れて、九州や東北の病院に2週間泊り込みで勤務に行った。
宿舎を用意してくれると言われたが、そこのお風呂場に黄色い巨大な物体があり、家族は悲鳴をあげた。
何かと思ったら、キノコ、が浴槽からはえていた。
僕は昼間、病院に行って仕事をして、夕方に宿舎に帰った。
九州の病院では、赤とんぼ、がいっぱい飛んでいて、僕は<なんとかこれ食えないかな?>と思ったものだ。
僕の仕事は、「いればいい」、だけだった。
さすがに医者がいないのはまずいからという理由で、雇ってもらえていたのだから。
回診と言って、病棟の患者さんの様子をみて回る時に、保護室の患者さんの様子もみる。
看護婦さんは、「この人はもう何年もここから出られないのです」と僕に説明した。
僕は、ナース・ステーションに戻ってから、カルテをみた。
すると入院時から何年も1回も薬が変更されていなかった。
これは何とかなるかもしれない、と思った。
僕は薬の調整と患者さんへの働きかけを考えた。
看護婦さん達は、やる気になって、どんな指示にも嫌がらず、無理な要求も頑張って動いてくれた。
僕には2週間の時間しかなかったが、複数の患者さんを保護室から出す事に成功した。
看護婦さん達は、自分たちがあてにされたことをすごく喜んで、仕事をしてて良かったと言った。
僕の大学院の生活は4年間だったから、そんな出稼ぎを、その間、ずっと続けた。
同じ病院にも行ったし、違う病院にも行った。
それは、僕が雇われる理由は、医者の腕ではなくて、医者がいないと困るから、で、その時の病院の都合によった。
でも、行く先々で看護婦さん達の反応は同様だった。
よく「チーム医療」などと言って、医者はそのリーダーだと言われる。
リーダーに求められるのは、その人の治療的な姿勢に尊敬が出来て、強力なリーダーシップで皆をその気にさせ、
明確な指示をだし、役割分担の采配をして、その結果における責任のすべてを医者自信が背負うという覚悟だと思う。
僕にもしそれがあるとするならば、それは大学や教育機関では習わなかったし、教えてももらわなかった。
僕はこのジプシーのようなアルバイト生活で、限定した2週間の仕事で、それを実感したのだと思う。
看護婦さんや薬剤師さんや栄養士さんやお掃除のおばちゃん達が一丸になって結束した力は、
我々の臨床のエネルギーにも転換された。
そして僕は大学院を修了し関連病院に派遣され、医者になって7年目で、やっとアルバイトをしなくて良い生活が送れた。
それまでに、多くの患者さんを保護室から出せた。
不思議な物で、そのせいなのか、それ以来、僕は、白い部屋、の夢をみなくなった。
BGM. 八神純子「さよならの言葉」


茅ヶ崎に背を向けて

23/Ⅲ.(水)2016 はれ、少し涼しい
最近、「らしんばん」(アニメの専門店)などで同人誌のコーナーをみると、中が読めないように袋詰めにされていて、
僕は、<これじゃ、表紙で選ぶしかないな>と考えた。ま、買わないけど、同人誌。
似たようなもので、昔は、「ジャケ買い」と言って、アーティストや内容ではなく、ジャケットの絵柄だけで、
LPを選んで買うことがあった。パティ・スミス・グループの「イースター」とか。
皆さんも、1つや2つ、思い当たるものがあるのではないでしょうか。
反対に、サザンオールスターズのデビューアルバム「熱い胸さわぎ」は内容は素晴らしいのにジャケットがひどい、
と当時の評論家が口を揃えて(?)言ってました。
僕はそのLPを持っていて、「茅ヶ崎に背を向けて」という桑田と原坊のデュエット曲が好きでした。
なぜ、そんなことを、心理のコンテストの最中に、言い出してるかと言うと、こないだの土曜日にみた夢についてです。
僕の実家は茅ヶ崎なのですが、まるで、帰っていません。
それが、土曜日の夢では、僕はスパイのように変装して、茅ヶ崎の家を見に行く設定で、暗くて何もみえない中に、
女の人が立っていました。顔とかは全然、判らなかった。
僕の夢に茅ヶ崎の実家が出てくる事は稀で、それより夢から起きた時の気分が、<なんとも不思議な気分>でした。
怖いとか、不気味ではなくて、不思議、だったのです。でも、直にそんな気分も忘れかけていました。
ところが、今日、連休中に親や祖父母が亡くなった、という知り合いの話をいくつか聞いて、
僕は、<お彼岸に亡くなる人は、さまようことなくあの世に行ける、って言うよ>となぐさめた。
しかし、言ってるそばから考えた。そんな知恵、どこでつけたんだ?
そうだ!母が死んだ時に、人からそう言われたんだ。
あれ?母って、いつ死んだんだっけ?
僕は寺の坊主とケンカしたから墓参りは一切しないし、親戚付合いもないから仏壇に線香をあげることもない。
親の誕生日は、子供の記憶が残ってるから覚えているが、命日は父の方は克明に記憶しているが、
母の命日は調べないと判らない。きっと、覚える気がないのだろう。
でも、気になったので、さっき、母の遺歌集(あとがきを僕が書いている)をめくって調べたら、3月19日だって。
先週の土曜日だ。
あの変な夢をみた日だ。
暗がりの中の不思議な女の人の感覚は、僕に夢を忘れさせなかった。
これはなんだかんだ言って、母の命日を深層心理では記銘していて、日常では忘れてる自分に自分でサインを出したのか、
とも思ったが、あの母のこと、僕が命日を忘れてるから勝手に夢に出て来て思い出させようとした可能性もある。
母には、そういうところがある。
母のエピソードは、ぶっ飛んだものが多いが、今回はちょっと趣向を変えた思い出を。
僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。
イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメだ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。
男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。
これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
…って言うか、今、思い出したくらいだ。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
BGM. よしだたくろう「かくれましょう」


王選手(監督)の夢

23/Ⅱ.(火)2016 曇り、少し寒い、花粉?
ジャイアンツのユニフォームを着て、王選手(監督)が夢に出て来て、こう言った。
「川原君のバッティング・フォームを見てたんだけど、アッパーからダウン・スィングに戻した方が良いんじゃないかな。
僕の一本足打法を使うと良いよ。
あれなら、大根切りになるからね。はははは…」と爽やかに笑って。↓。

言われてみると、僕は野球部の頃は、ダウン・スィングでライナー性の打球を打っていた。
それはボールが準硬式という外はゴムで芯が硬球と同じ重い球だったから、上から叩きつけると飛距離が出るから。
それが、僕が精神科医になって、こどもの病院に移って、ソフトボールのレクレーション係りになった時、フォームを変えた。
ソフトボールは、打ち上げた方が飛距離が出る気がしたのと、
それよりもソフトボールを通じて、こども達に何を伝えようかと考えた時に、
こども達は皆、とても萎縮していて、何かにおびえるように、お行儀よくしていたから、
僕はソフトボールを通じて、もっと遊び心とか、形に囚われない自由さを持っても良いんだという見本を見せたかった。
僕は守備では、ゴロを全部、突っ込んで捕り、ファーストへはダイビング・スローをした。
エラーとか暴投を恐れぬ荒いプレーがこども達に受けた。
そんな僕が選んだ打法は、近藤和彦の天秤打法だ。
バットのグリップを離して持ち、背中の方で天秤の様にリズムを取り、バスター・バントの要領で打つ。
慣れると意外とタイミングは取り易い。
僕の打撃は段々と進化して、体を180度に折り畳んで、体の回転の勢いと遠心力を利用したら、これが良く飛ぶ。
僕らのレクレーションのフランチャイズは屋外の球場だったから、風に乗せるように、自ずとアッパー・スィングになって行った。
僕が打席に立つと、こども達は、口々に、「おい、天秤打法だ。外野、下がれ~」と脅威した。
どうやら、王選手(監督)は、そのことを言っているみたいだ。
言われてみれば、理由があって変えたフォームだが、それがソフトボールだから、という経緯を僕は忘れていた。
だったら、今度、打席に立つ時は、ダウンに戻した方が良いかもしれないな。
ま、今の僕の人生で打席に立つことないんだけどね。
これは、知らせの夢かな?
原点回帰とか、状況に応じてやり方を見直せ、という比喩か。
王選手(監督)はよく僕の夢に出てくるが、決まって、こんな知らせの夢のプレゼンテーターの役が多い。
夢は大抵、検閲を受けてるから、その夢だけを夢事典のようなもので読み解くのは、むずかしく、額面通りには受け取れない。
だけど、結構、昔の偉い人は、夢を鵜呑みにしていることが多い。そして、それがまたうまく行っている。
ソクラテスは、ふだんは音楽を馬鹿にしていたらしいが、夢で「ソクラテスよ、音楽をやれ」と言われたら、
自分は「無知の知」だ、などと言いながら音楽のことを知らないくせに馬鹿にしていた、と反省して、
作詞・作曲したオリジナル・ソングを皆の前で歌って聞かせたという。やはり天才って素直なんだな。
親鸞はもっとすごいです。親鸞が修行してる頃のお坊さんは女を抱いてはいけないし、肉を食べてもいけなかった。
親鸞は、修行中、京都の六角堂で居眠りしてた時(それもすごい!)、夢に観音様が出て来て、
「親鸞や、お前は女と寝てもいいぞ。なぜなら、その瞬間、わらわが女と入れ替わってやるから、観音様とならOKじゃん!」
みたいなご都合主義の(すみません)夢をみて、それを鵜呑みにして浄土真宗を作っちゃったって言うんだから、
やっぱり歴史に名を残す人の発想は理解を超えてますね。
こないだ大学の医者に聞いたのだが、最近は研修用のプログラムやカリキュラムが親切に充実しているらしい。
そうしないと、若い人たちは不満を陳べるらしいから。
ま、そんな馬鹿なこともないとは思うが、1人でも大声でそういうことを言うと、皆がそういう風に思われるってことはあるだろう。
しかし、親切な研修プログラムって、自分で考える力や疑問を持つ発想が失われたり、そもそも芸って盗むものみたいな所があるのに、
そういう精神が欠落しないか心配だ。
つまり、「教えてくれる人」がいないと「何もできない人」になってしまうか、
出来ない言い訳ばかりをする人間の養成機関にならないかな。
僕が心配することでもないのだが。余計なお世話でした。
だけど、世の中には、教えてもらえることと、自分でつかむものがあると思う。
人によって、それは違ったり、あべこべだったりするから、難しいんだけど。
でも、自分の人生をどうするかなんて、これは教えてもらうことじゃないだろう。
ドラえもんのひみつ道具に「ミチビキエンゼル」ってのがあって、のび太は散々な目に遭っていた。
そんな時、夢には、たまに解決のヒントが隠されてることがあるから、注意してみると良いでしょう。
ポイントは、大抵の夢は普段抑圧されているフラストレーションみたいなものが出てくるから、
夢の後味は、不快だったり、変てこだったりするんだけれど、
寝起きが清々しい夢の時は、今抱えてる問題の解決のヒントの可能性があり、ってあたりかな?
取りあえず僕の場合、今度の休みにバッティング・センターに行ってみようかなと思います。↓。

BGM. シーナ&ザ・ロケッツ「ユー・メイ・ドリーム」


3連休

21(土)~23(月)/Ⅲ.2015
・まずは夢の話から。
豆乳が冷蔵庫にない。
備蓄が押し入れにあるはすだが、トイレットペーパーやペヤングソース焼そばばかりだ。
妻に、<豆乳はどこにあるの?>、と聞くと、「豆乳でしょ?判ってるわよ」、と豆乳を取りに行った。
僕は、<なぜ豆乳のことだと判ったの?>と聞くと、「だって、豆乳、豆乳って騒いでいたじゃない」と笑った。
僕は、<豆乳ではなくて豆乳の在りかを教えて欲しいんだ>、と言うと、
妻は、「あなたにそれを教えたら一遍に飲んでしまうから、教えられないの。
今度のパジャマパーティーはいつなの?
そこに豆乳を持っていくつもりなんでしょう?」と疑っていた。
僕は本当に身に覚えがないから、<パジャマパーティー?>と聞いた。
すると、妻は「女の子たちとやるのでしょう?ブログで知ったわ」と言った。
ブログにそんな事を書いたかな?
伊藤つかさの歌にパジャマパーティーというのがあるから、それかな?
誰かの家に集まってするお泊まり会みたいな物かな?などと思うと、
女は呆れて、
「Aさんから聞いたわ。最近の若者の間でパジャマパーティーは流行っているそうね。
女の子が年上のパトロンに『パパ、あれ買って』っておねだりするそうね」。
それは、ブラック・ベビー・メタルの歌のことじゃないかな?
そんな物はきっとあるんだろうけど、僕はパジャマパーティーには行かないよ。
豆乳が飲みたいだけなんだ。
すると女はどこからか豆乳を一本持って来た。
冷えている。
きっと直前まで冷蔵庫に入れてあったに違いない。
はて?という事はうちに、僕の知らないもう一台の冷蔵庫があるということか?
僕は、家族なのに隠し事をしたり、豆乳の在りかを秘密にするのは、おかしい。
途中から気付いていたぞ、お前は偽者だな。
すると女は、「小鳥を2羽飼いたいわ、Kさんは小鳥を飼ってから幸せそうだもの」と提案してきた。
僕は<鳥は嫌いだ>とそっけなくした。
女は、「だったら私は皮になりたいです。川で洗われる皮になるべきです」と泣いた。
僕は、<君の眼球から流れ落ちているその液体はなんだい?>と冷たくあしらうと、女は「涙です」と答えた。
僕は、<その涙の意図は?>と問うた。何かあれば泣くのはアンフェアだぞ。
すると、女は、「チッ」と舌打ちをして、僕の体にもの凄い振動を与えて、おかげで僕は飛び起きた。
それは携帯の着信音だった。
・ここからは、現実の話。
それは心理の先生からのメールで、カワクリはしばらくバタバタするから、その先生に助っ人を頼んだ返信だった。
・この3連休では、エネルギー療法にも行こうと思っていたが、先生の都合でなし。
・僕の今の髪は「恋物語」の羽川翼のマネでしましまの筋とボブカットの名残りを紫色に染めていた。
僕はブローとかスタイリング材とかをつけないから、Aラインの髪は乾燥させた後はジャイアントロボみたいになる。
気分を変えるのは形からと、美容院に行く。
まず、ジャイアントロボ対策として毛先に段を入れる。
それからしましまが目立たないようにブリーチした後、黄色や赤やオレンジを細く散りばめた。
ネイルはいつも僕がネイリストさんにお題を伝えて、そのイメージで施してもらっている。
今回のお題は、<春だよ!タッちゃん、てんてこ舞い>。
そして仕上がりがこんな感じです。
右手。↓。

左手。↓。

・3連休の最終日、うなぎを食べて、精をつける。
下が、肝吸い。↓。

早いもので、もう3月もあと1週間だ。頑張らなくっちゃ。
BGM. ソフトクリーム「やったね!春だね!!」


夢の夢

17/Ⅷ.(火)2010 はれ
 空地に行って、砂地にその日の夢を書く。「自分がたけし、父がきよしになって、ツービート」と。
 学校へ向かう途中、つっぱり学生達がケンカをしている。1人は、女連れだから、まったく手を出さない。
 殴られた拍子で倒れこむところを、俺が抱きかかえる。時計の針は、9:40。
 子分Aはこの人を連れて行け、子分Bは鞄を持って教室に、と命令。
 連れの女は、泣きながら、「この人は受験が近いので、ケンカを我慢したの」と言う。
 俺は、その女に、「君もえらいよ」と石原裕次郎の声で言う。
 教室へ着くと、丁度、授業が終わったばかり。俺はあせった、俺の鞄がどこにもないぜ。
 すると、子分Bがやってきて、「ここは隣りの教室~」。
 クラスは爆笑の渦。チラと横を見ると、愛しのあの娘も可笑しくて机にうつぶして笑いをこらえてる。
 俺は、「知ってるし~」と笑いながら、所ジョージの声で胡麻化す。
BGM. ジョン・レノン「夢の夢」


話しかけたかった?

16/Ⅷ.(月)2010 はれ
聖子とトシちゃんはケンカしたのか、一言も口を聞かないのはイイけど、
冷蔵庫の前に背中合わせで座ってたら、人が通れないだろう?
そんな夢で目を覚ます。
午後から、二子玉川の美容院へ。
改札を出てすぐ、アメリカン・スクールの男1人&女2人に親指を突きつけられ
(←‘グッド・ジョブ!’みたいなポーズ)、「レッ・ソッ!」と声をかけられた。
何かと思ったら、僕が松坂の「RED SOCKS」のTシャツを着ていたのだ。
「レッ・ソッ!」は、レッド・ソックスのことだった。
僕は、親指を立てる(浪越徳治郎のポーズ)で、「アイ・ハヴ・ア・ドリーム」と答えてやった。
笑ってた。もはや、戦後ではない。We are The World.
久しく、海外は漢字ブームらしく浅草でも漢字の書かれたTシャツが土産に売れるらしい。                                       シドニー人のイケメン男が『真性包茎』というプリントTを着てるのを雑誌で見たことがある。
意味、わかってないんだろうなぁ~。
先日、山手線の車内で、見知らぬ小学生に話しかけられた。
アリスのウサギよろしく、首から懐中時計をかけていたら、
「これ、押すの?回すの?」といじってくる。
ストップ・ウォッチと間違えてるようだ。
奴は、扉越しに僕に並んで立ち、「ゾロアーク(最新ポケモン映画)、観た?」とか
「こないだの運動会で、リレーで何位、徒競走で何位になった」と自慢話も聞かされた。
BGM. 南野陽子「話しかけたかった」


SMAPとの夢

14/Ⅷ.(土)2010 はれ
SMAPのメンバーと叙々苑に行く。お店の人に「SMAP、6名様~」と呼ばれ、照れる。
離れの個室には、ロナルド・レーガン大統領が人に聞かれたくない話をするために、3人で来てるんだと。
残りの2人は、リーガンとルーガン。
しばらくすると、遅れて森君がやってくる。なーんだ、本当にSMAP6人じゃん。
6人にチャーハンを取り分けてあげる。
藤原組長にだけ少し多めにする。あれ?藤原組長、いつからSMAPに?
組長は、はにかんで目をキラキラ。少女マンガのヒロインみたい。
だてに、SMAPの看板を背負ってないな、と惚れ直す。
組長は、セロリを生でガブリ。
男らしい~!。We are SMAP!。
バルコニーに座って、キムタクと話す。
「こないだのスマスマ観た?」と僕、『観てない』とキムタク。                                                          「DVDに焼こうか?」と僕、『いい』とキムタク。                                                                   「観ないの?」と僕、『自分の出た番組は観ない』とキムタク。                                                         「ロン・ヴァケも?」と僕、『そう』とキムタク。                                                                    「なんで?」との僕の質問に、キムタクは
「自分が出てる番組を観るなんて、夢を見てるみたいじゃないか」と答えた。
BGM. SMAP「セロリ」


真夏の夜の夢

11/Ⅷ.(水)2010 はれ、あつい
 オレは、朝起きてベーコン・エッグを作ろうと思った。 
 小ちゃな妹は出がけにランドセルを背負って、「朝ごはんはパンにジャムをぬって食べて~」と言う。
 オレの幼い妹は舌ったらずな口調で、「小指にジャムつけて舐めちゃダメよ」と言う。
 オレは、こんな小っちゃな妹にお母さんの代わりをさせるのは可哀想だな、と思う。
 オレはパジャマのままゴロゴロ、今日も午前中、学校に行ってない。
 すると、父と母と姉がやってきて口を揃えてこう言った。
「少しはワカメを見習いなさい!」。エッ!?オレ、カツオ??。
 学校から電話があった。妹のワカメは立派な出席率。字もきれい。
BGM. 野口五郎「真夏の夜の夢」


郵便配達は二度ベルを鳴らす。

1/Ⅷ.(日)2010 一日寝てたので天候は不明
昨日は、OB会のような集い。常さんは面倒見の良い親分肌な先輩なので、ついつい安心して呑みすぎた。
タクシーに乗せられ帰宅した。そんな日の夢。
一晩、明けたら茅ヶ崎の家にいた。
2階の南側の陽の当るおだやかな部屋だ。                                        
きのう、あんなに呑んだけど、もうすっかり気分はいい。
自然の光で目が覚めた。
起きた時、予想もしてない程に部屋がキレイな状態にあるというのは、誰かが一緒に住んでいて、
僕を起こさずに、こっそりと片付けてくれてる証拠だ。
机の上には、通販で申し込んだ僕宛の郵便物がきてる。
小包の上書きには、こんな風に記されていた↓。
「これはこんなに沢山の代金をお支払い頂き申し訳ないので、販売をご辞退させて頂きます。
商品、サンボジャケット(黒)」。
昼過ぎ、角川書店から「涼宮ハルヒの憂鬱、パノラマ・クリア・ポスター」が届いた。←これは、本当の話。
BGM. マーヴェレッツ「プリーズ・ミスター・ポストマン」


もしもタヌキが世界にいたらの夢

29/Ⅶ.(木)2010 小雨、雨、蒸し暑い
オレの友人は、石段の所でタヌキにちょっかいを出された。
2人でタヌキの檻まで‘お礼参り’だ。
タヌキは「こないだの奴か」と鼻で笑い、高飛車に「お前は、何年だ?」と聞いてくる。
オレの友人は、うっかりスモックを着たままで「い…1年だよ」とやや、ヤケになって答える。
すると、タヌキは完全にナメ腐ったように「1年?」と聞き返し、
仲間のリスやウサギとよってたかって「フンコロガシ野郎だ」と馬鹿にして笑う。
檻の中から、タヌキの毛のまじったフンを蹴りつけて来た。
さらに仲間うちで多数決をとったりと、汚い手口だ。
オレは、冷静なスズメに多数決を取り直してもらったら、8―0でタヌキが悪い、という結果だ。
当たり前だ。
オレは一気呵成に、
「ここの支配者に、お金を払い、あのタヌキを買い取って、タヌキ汁にしてしまおう」と強硬案を打ち出す。
オレの友人は、
「それは名案」という顔をして、タヌキはキツネにつままれたような顔をしている。                                             オレの友人は、「いつにしましょう?どうしましょう?」と揉み手をしながら、
「あなたはスガイ教授と仲が良いから、そのルートで」としつこく頼ってくるので、
オレは「まぁ、2・3日、様子を見て、それでもタヌキに反省の色がなければね」となだめた。
元の石段を引き返す。ここは勾配がかなり急だから注意が必要だ。
ミニFM局が見えてきたら、もう海辺だ。
オレは、マリンブルーのトレーナーの袖を長くして着て、オレのイニシャルは‘TATZJI’かなと考えながら、
道路を渡り自販機のDr.ペッパーを買いに行く。
Dr.ペッパーは、おばあちゃんも最近、飲んでいるという。
BGM. ユミ(ソフトクリーム)「もしもタヌキが世界にいたら」