困った時の「金村さん」。

15/Ⅸ.(木)2011 はれ
先日、クリニックのインターネットが繋がらなくなった。
困った。僕は、自慢ではないが、てんで機械が苦手で、どこに苦情を訴えていいのかもわからない。
そこで、困った時の「金村さん」。
メールで、<インターネットが繋がらない…>と送信すると、
「それでは、○○の○×君を紹介しましょう」と手配してくれた。無事、解決!
「金村さん」のオクスアイという会社は医院の開業支援をしてくれる会社で、僕はオクスアイに開業支援をオファーした。
以降、アフターフォローも万全で、困った時は「金村さん」。
トイレの電球が切れちゃった時も「金村さん」は飛んできて電球を交換してくれた。
診察室の扉がバタンと勢いよく閉まり過ぎた時も「金村さん」は飛んできて扉の上のバネみたいのを調節して直してくれた。
テレビが故障した時も、「金村さん」が電気屋さんと一緒に来てくれた。
僕は、元々は開業する気はまるでなかった。
勤務医の方が気楽だし、臨床の仕事は好きだが院長ともなると管理的な業務や経営的なことを考えなくちゃいけないから、
そういうのは不向きだと自分が一番知っていた。
それでは、何故、開業する気になったかというと、うちの母親は古い人間で、
「医者になったのなら、他人に使われてるようでは駄目。独立開業して一人前!」という自分の価値観を押し付けてくるタイプだった。
僕は、平気の平左(へいきのへいざ、と読む。‘平気’という意味)で、その時にやりたいことをやれる病院を渡り鳥みたいに、
気ままに見つけて、渡り歩いて生きていた。
晩年の母は末期癌でどんどん年老いていき、僕は親孝行なもので、仕事が終わるとほぼ毎日、
茅ヶ崎の実家まで見舞いに寄って帰った。
そこで、血迷ったんだろうな、母が生きてるうちに開業して一人前の姿を見せてやろう、と決心したのだ。
その頃、僕の旧友がやはり独立開業を計画していて、オクスアイの「金村さん」と打ち合わせをするという情報を小耳に
はさみ、参考に同席させてもらった。
喫茶店で2人のやりとりを聞いてて、<この人にしちゃおう>とその場で、開業支援を依頼した。
今、考えると、霊感商法に引っかかるオッチョコチョイみたいだな、「金村さん」いい人で良かった。
以降、気をつけたい。
でも、「金村さん」は有能であり、僕にとって有益な人物だった。
僕は開業すると言っても、ほとんど思いつきもいい所で、何のビジョンも、具体的な案も、現実的な資金もなかった。
「金村さん」は、資金繰りから面倒みてくれた。
さて、具体的な段階になる、まずは物件探し。
「金村さん」は、「場所はどこがご希望ですか?」と訊く。
<え~、全然、考えてない。そうだ!中野ブロードウエイなんかどうかな?4階は結構、空きのテナントあったけど>と
僕のその場の思いつきも、「ご自宅から遠いでしょう?。疲れますよ。やめましょう」と冷静に却下してくれた。
<じゃ、いいとこ見つけて。「金村さん」に任せるよ>と丸投げし、その結果、大岡山になった。いい加減なものだ。
次いで、「どのようなイメージの内装にしましょう?」ということになり、
<え~、全然、考えてない。
そうだ!イッッ・ア・スモール・ワールドみたいにして、入り口からボートに乗って、診察室まで漕ぎ着くのはどうかな?>と
僕のその場のノリも、「船酔いされる方がいると困るでしょう?。患者さんが気の毒です。やめましょう」と優しく修正してくれた。
色々なクリニックやカフェや雑貨屋などを一緒に周り、相談して、今のクリニックになった。
レセコンという会計のコンピューター・システムの導入も、看板や広告も、従業員の応募も、役所への届出も、
必要な書類の整備も、ご近所への挨拶も、開院披露パーティーの提案も、取引する業社も、普段使う電話機も金庫も
タイムレコーダーもロッカーも、「金村さん」がやったり決めたりしてくれた。
僕がしなきゃいけないことだけは、具体的に指示してくれるので言われた通りにやって、スムーズに事が運んだ。
一つだけ誤算があったとすれば、開院披露パーティーを待たずに母親が死んだことかな。
僕が開業すると知って安心して、死期を早まらせたのかもしれないな。
でも、まぁ、長く苦しむよりは良かっただろう。
一応、満足したろうし。
僕は親のことをよく知らなくて、父親は大正10年の生まれで親から離れて北海道やら満州に移り住んでいたらしいが、
理由とかは知らず、それに比べれば母親のことはよく知ってると思ったのだが、大正14年生まれで東京に育って、
実家が薬局のようなものをやっていたということくらいの知識しかなかった。
母の葬式で色々な親戚に会い、開業する時は、ご案内状みたいなものを送った。
それも、「金村さん」の助言だった。
すると親戚から、驚嘆と絶賛のお電話を頂いた。
内容は総じて、「タッちゃん、よくぞ大岡山にしてくれた」というものだった。
なんと!母親の実家の薬局は大岡山にあったらしいのだ。
「金村さん」そこまでリサーチ?。まさかね…。偶然らしい。
僕は、それまで母と大岡山の関係をまったく知らなかったから、ビックリした。
ひょっとしたら、母の魂が「金村さん」を導いたのかもしれないな。
不思議だな。こういうのを縁って言うんだろうな。大切にしよう。


患者が医者を育てる

9/Ⅴ.(月)2011
校医の後、ステラ治療院へゆく。
ステラには、最近、新人さんが入って、今日は始めの少しのマッサージをその人が担当した。
マッサージを受けながら、僕はいつも寝てしまうのだが、ふと自分の研修医の時のことを思い返していた。
僕は、医者になって大学病院の神経精神科に入局した。
入局2年目までは研修医で、見習いみたいな扱いだ。
何人かの研修医で、外来の予診をしたり、病棟で処方箋を書いたり、入院患者に点滴をする仕事を分担した。
精神科で点滴というと驚く人もあるかもしれないが、意外と多いのである。
注射薬を直接静脈から入れたり、精神的な負担で食事が食べれない人も多いからだ。
僕は、この点滴が嫌いだった。
血管は個人差がすごくあって、太く見えている人は楽々できるが、細い人や見えない人の時は大変なのである。
刺しては失敗し、刺しては失敗しを繰り返すと、何度も刺される患者さんも可哀想だし、出来ない自分もみじめになる。
結局、困ると上の先生に頼んでやって貰うことになる。
だから、僕はパッとみて無理そうだったら、始めから上の先生を呼んだ。
その方が、患者さんの負担も少ないし、効率的だからだ。
間違ってないだろう?。
ある日、僕は、「あの人は血管がないよ」と評判の「研修医泣かせ」の女性患者さんの点滴当番になった。
僕は、ベッドまでガラガラと点滴を引きずってゆき、「ちょっと、血管を拝見」と駆血帯を上腕に巻き、
血管を探すも薄~い線みたいなものしか見当たらない。
いつものように先輩を呼びに戻ろうすると、その患者さんは、
「先生が刺して下さい。やらないと上手くならないですよ。私で練習して下さい」と言ったのだ。
なんか、その迫力に負けて、「はい」とか言って、やったのが間違いだった。
何度刺しても、血管に当たらないのである。
10回以上、失敗しただろうか。
さすがにこれは先輩を呼んだ方がいいと思ったのだが、その患者さんは「まだ大丈夫です」と言って、
駆血帯をはめてない方の手を、グーパー・グーパーしてるのである。
これから刺す手が失敗した時のために、もう一方の手の血管を少しでも浮き出させようと準備してくれているのである。
それにどれだけの効果があるかは知れないが、想いが伝わってくる分、プレッシャーになる。
その部屋は、女子の6人部屋で6つのベッドがあり6人の患者がいる。
僕と点滴が格闘している只ならぬ雰囲気を感じ取り、残り5人の患者が僕らのベッドの周りに集結した。
口々に、「○×ちゃん(その患者さんのこと)、頑張って!」「先生、しっかり!」と妙な一体感が生じてきた。
まずいな…。
それでも僕は、何度も失敗をして、それでもその患者さんは「やらないと、上手くならない!」と言って
グーパー・グーパーし続けるし、5人の患者の応援も「が~んばれ!が~んばれ!」みたいなコーラスになってきた。
まずいな…。
まぐれなんだろう。
ひょっとしたら、医学の神様が「この位にしておこう」と力をお与え下さったのかもしれない。
点滴が入ったのである。
駆血帯を外し、滴下しても、腕は腫れあがらない。
成功だ。一斉にオーディエンスからは歓声と大拍手が起こった。
ある患者さんは「○×ちゃん、頑張ったね!」とその患者さんに声をかけ、
背の小さいおばあちゃん患者さんは僕の背中をたたいて「よくやったね」と涙ぐんでいた。
しばらく歓声は鳴り止まず、「何事が起きたのだ?」とあわてて医者や看護婦が駆けつけて来た。
「来るなら、もっと早く来いよ、ばか」と思った。
その後、僕は3ヶ月間、救命救急センターで研修をした。
24時間、いつでも出動できるよう病院に寝泊りした。
ある時、急患が運ばれて来て、輸血をするかもしれないから、少し太い針で血管を確保しないといけない。
僕がその係をした。
あとになって指導医の先生から、「川原、よくあの患者さんの血管とれたな」と誉められた。
僕は知らないうちに点滴が上手くなっていたのだ。
僕は、「あの時の女性患者さんのお陰だな」と心の中で思った。
子が親を育てる、と言うし、生徒が良い先生を育てる、とも言う。
それと同じ様に、良い医者は患者に育てられると思う。
本当にそう思う。
そういう謙虚な気持ちは、いつまでも忘れてはならないと思う。
ところで、どんな道でもそうだが、1人前と認められるには時間が必要だ。
ステラ治療院の若い先生の健闘を祈る。
BGM. 槇みちる「若いってすばらしい」


子に習う。

27/Ⅵ.(水)2011 はれ
ラブなんとか、といういかがわしいサイトから、1日に10何件も携帯メールが届く。
消しても消しても、まだ届く。
「何とかならないか?」と娘に相談したら、「貸して」と携帯を取り上げ、「こうして、こうして、こうするの」と、
オチャノコサイサイと拒否リストに振り分けてくれた。
ついこないだまで、宿題をみてあげてたような気がするのに。
うちの息子には、秘蔵のビデオや古い漫画をみせ英才教育を施してるのだが、
かわりに動画サイトで「海外の格闘技」や、昔の立川談志や野坂昭如の出演した番組を発掘してみせてくれる。
これが、面白いのだ。
子供に何かを教わるというのは、親として喜ぶべきことなのだろうか。
そういえば、小3の頃、父に「医師会の忘年会」でやる出し物の相談をうけたことがあった。
父は短‘歌’や‘芸’術には明るかったが、流行‘歌’や‘芸’能界には暗かった。
そこで、その分野では、父の知り合いの中では最も長けてると思われる人物=我が子の知恵を拝借しようというわけだ。
僕は、「医師会の忘年会」という響から、堅物の年寄りのヨッパライの集まりだと即座に判断し、
当時流行っていた「ドリフのズンドコ節」のB面の「大変歌い込み」を教えてあげた。
これは、♪エンヤートット、エンヤートット♪という掛け声で始まる民謡「大漁歌い込み」の替え歌で、
♪大漁だよ~♪という所が♪大変だよ~♪という風になっている。
シャイで下戸で音痴な父が、いくら酔っ払いの前とはいえ、歌を披露するとなると、一つ間違えれば、
「ジャイアン・リサイタル」だ。(当時、ドラえもん、まだないけど)。
それでも本人自らが、♪大変だよ~♪、と歌い上げてしまえば、先手必勝である。
周囲も納得せざるをえまい。大変なんだから。ドキュメンタリーともいえる。
演じる方も大変だが、聞く方だって大変だ。指名した人に責任がある。そんな、「大変歌い込み」。
実況中継に近い。同情と共感が入り混じって、拍手さえ起こるかもしれない。そんな目論みだ。
父は、僕の指導の下、なんとか1番だけを覚えた。会のあと、父は上機嫌でご帰還し、大変感謝された。
父親の役に立ったというこの体験は、その後の僕の性格形成に、なんらかの影響を及ぼしたと思う。
BGM. ザ・ドリフターズ「大変歌い込み」


仕事。

31/Ⅲ.(木)2011
Kさんから頂いたピンクのカーネーション。
フォトby徳田さん(カワクリ写真部)。↓。

Kさんは、
「××花屋さんは、あんまりお花が好きじゃないみたい。お花も元気ないし。○×花屋さんの方がよい」と言っていた。
お店屋さんは、自分の扱ってる品物を愛さないといけませんね。
それで思い出したのが、僕が大学生の時に出会った美容師さんのこと。
当時、僕は悪ノリで青山のモッズヘアとかジャニーズ御用達の「コバ(古場?)」とか
キョンキョンの通う「スターカットクラブ」などに月替わりで通ってた。
美容師さんは気を使って色々話しかけてくれるのだが、僕にはそれは鬱陶しい限りだ。
「学生さん?」なんて聞かれても、「何で、テメェに答えなきゃいけねぇんだよ」とか思った。
他人に自分の素性を知られるのも、「医大生!」と答えたりする自分も嫌で、
ふざけて「見ての通りのボイラー技士です」とか「こどもスパイ」と言ったり
「それは秘密です」とテレビ番組のタイトルをコールしたり出鱈目に答えてた。
だったら行くなよ!、って話だが、1980年代初頭ってそんな空気だったのである。
時代のせい。
そんな遊びもじきに飽きて、ある日、僕は気まぐれに地元の美容院に入った。
担当したのは元・不良って感じのお姉さん。お約束の「学生さん?」に、僕は面倒くさく、「まぁね」と答えた。
すると、彼女は、
「私は美容師になりたくてこの道に入ったの。
美容師でも好きじゃなくて仕事でやってる人もたくさんいるよ。
でもね、私は思うんだけど、私なら美容師の仕事が好きな人に髪を切って欲しいな。
だから、私はそう思って仕事をしてるんだ」
と鏡越しに真剣な目で語った。
さすが、元・不良。(決め付けるな)。
次回、僕はまたその人の予約をとり、自分から「僕は、今、実は医学部に通ってる学生なんだよ」と打ち明けた。
彼女は「何科のお医者さんになるの?」と聞き、僕は「精神科」と答えた。
不思議なことに、それ以来、僕は美容院で話しかけられるのが、それほど嫌じゃなくなっていた。
BGM . RCサクセション「金もうけのために生まれたんじゃないぜ」


かい。

28/Ⅲ.(月)2011
先日、寿司屋で巻貝という長っぽそい貝を醤油焼きにしてつまみにした。
韓国で買ったアワビの賞味期限もギリギリなので、毎日食べている。
クリニックの飲み会でも、僕は「サザエの壺焼き」を決まって頼む。
そんな、貝好きである。
僕が医者になり母がまだ生きてる頃、寿司屋に連れて行ってやると、
必ず「貝の盛り合わせ」か「サザエの壺焼き」を頼んだ。
母が貝が好きだったから。
徳田さんは、「先生は貝が好きですね」というけど、僕が貝を頼むのは「好み」でなく「習慣」なのだ。
徳田さんはおそらく、自分では絶対気付いていないと思うが、「サザエの壺焼き」を食べる時、
「おっ、すごい!サザエの中からワカメが出てきました~!」と必ず言う。
毎回言う。徳田さんの日常はあまり聞かないから知らないが、きっと「団らん」だ。
貝といえば、「かい」という名の女ナースがいたな。
僕らはよく仲間で呑みに行った。「かい」は名字で、下の名前は知らない。
彼女は、僕のことを「たつじん」と呼んでいた。
丁度、「料理の鉄人」という番組が流行ってる頃で、「達二」と「達人」をかけて、発音は平仮名で「たつじん」。
「鉄人」や「達人」を「てつじん」や「たつじん」にすると途端に骨抜きみたいになって、
意味内容を形骸化させる効果があって、僕は気に入っていた。
僕は、カラオケやディスコというのが嫌いなのである。
何か、歌ったり踊ったりってちょっと自己陶酔の世界だから、そんな姿を他人に見られたくない。
だったら、白昼堂々真っ裸で銀座の歩行者天国を口に生魚を加えて猫のポーズで四つん這いで歩いた方が百倍マシだ。
…何、言ってんだ?俺。
そんな僕でも、「かい」達とはカラオケに行って歌ったりした。
平たく言えば、心を許してたってこと。
西城秀樹の「君よ抱かれて熱くなれ」や郷ひろみの「寒い夜明け」や野口五郎の「グッド・ラック」や
トシちゃんの「ラブ・シュプール」やマッチの「情熱☆熱風・せれなーで」を歌った(ヨッちゃんのは歌わなかった)。
午前3時を過ぎると、園まりの「逢いたくて逢いたくて」、渚ゆう子の「京都慕情」、
黛ジュンの「天使の誘惑」などの女性歌手の歌を歌った。
何度か歌うと、彼女らがそれを耳で覚え、いずれ歌ったりした。
やっぱり、女の歌は女性が歌った方がいい。
「かい」は元気でやってるかな。
ちゃんと生きてるかな。
一緒に遊んでた、セイコやT先生は死んじゃったもの。
俺は、割とうまくやってるよ。
死んだ2人に申し訳ないな、って思うことが、何故かたまにふっとあるよ。
BGM. 郷ひろみ「寒い夜明け」


今田の昔

31/Ⅰ.(月)2011
深夜テレビ「お願いランキング」に、今田耕司が出てるのをみた。
ホスト役のブラマヨとやり取りをするトーク形式の番組だが、その中で「何故、今田さんはピン芸人なのですか?」
という質問に、今田は昔ホンコンさんと「Wホルモン」というコンビを組んでいたという。
解散の理由は、当時の今田は全然朝が起きれなくて、いつも寝坊して、
それでもああ見えてホンコンさんはとても優しい人で、ずっと許してくれていて、
それでも今田はずっと寝坊して、ある日、ホンコンさんが「このままでは2人とも駄目になる」と解散したらしい。
今田耕司は当時を降り返って「本当にダメ人間でした」と言っていた。
それは、本人が当時を振り返っても説明できないことだった。
学生の頃、忌野清志郎の売れない頃の日記を読むと、「この人はダメ人間だなぁ~」と思って、とても安心した。
そういえば僕も医者になりたては結構遅刻とかして怒られていた。
何年目かにある先生との出会いで衝撃というか影響を受け、真面目になった…というか、過剰に働くようになった。
それは今でもそのままで、人間は一生のうちで働くトータル時間が定められているのかもしれない。
まだ返済期間みたいだ。
何年か前に、指導医の先生にお会いして近況を報告したら、「へ~、川原君、朝から仕事してるの?」と驚かれた。
人間はいつか何かの拍子にガラっと変わる時期がある。
風向きとか潮の満ち干きに喩えられるようなものだ。
だから、今、駄目な人もそういう時期が来れば自然と変わるから、それまではあまり努力をしないでいいと思う。
…無責任な発言だなぁ。
BGM. ハナ肇とクレージーキャッツ「ホンダラ行進曲」 


涼宮ハルヒの消失

18/ⅩⅡ.(土)2010 夜は友人の結婚披露パーティーにお呼ばれ
今日は「涼宮ハルヒの消失」のDVD&BLの発売日。
12月18日は長門による改変が起きた日で、その日に発売日を合わせたらしい。素晴らしい!!!。
下に、今年の3月の映画公開にあわせご当地・西宮へ聖地巡礼ツアーに行った時の写真を一挙公開しよう。
①キョンの通学路、2枚。↓。


②ミクルがキョンに公園で時間断層の説明をする時のイメージ映像に使われた川。↓。

③長門のマンション。↓。

④キョンが「光陽園学院」に急ぐ道の光景、2枚。↓。


⑤ハルヒが「転校」した「光陽園学院」、2枚。↓。


⑥ハルヒの下校時間までキョンが待つ花屋のあたり。↓。

⑦改変された世界のハルヒと古泉に、キョンが事件を説明する喫茶店。(サイゼリア)。↓。

⑧古泉がキョンにおそらく「うらやましいですね」と言ったのを踏み切りの音がかき消したその踏み切り。↓。

⑨「北高」、2枚。↓。


⑩映画の前に見るべき「笹の葉ラプソディ」DVDの特典映像に出てくる立て看板。↓。

BGM.  岩崎宏美「あざやかな場面」


ジ・アウトサイダー

11/Ⅹ.(月)2010 はれ
一度、つまづいた奴らにチャンスの場を与えてやりたい。
格闘技くらいは敗者復活の場があってもいいではないか。
そんな思いで前田日明が始めた「ジ・アウトサイダー」がついに横浜文化体育館に上陸した。
この場所は、リングスが約11年間の活動にピリオドを打った思い出の場所だ。


ジ・アウトサイダーは全国の不良達が集結して戦うアマチュア大会で、
○×連合第何代総長とか××会特攻隊長などがそれぞれの看板を背負って出場する。
当然、応援する奴らも不良やギャングやチーマーや暴走族だ。のぼりをたてて気勢を上げる。
僕は最寄り駅・関内から、それっぽい不良5人組の後について行く。
会場に着くと思ったら、奴らの行き先は「猫カフェ」だった。きぇ~、だまされた。
不良のクセにメルヘン。果物屋のおばあちゃんに道を聞いたら親切だった。
お礼に、みかんを買った。
15時会場、16時開始。僕は15時についたが、入れたのは16時だった。
なぜ1時間も入場に時間がかかったかというと、ものものしい身体チェックが行われたから。
一人ひとり、金属探知機みたいなもので調べられた。ドスやチャカを持ち込むといけないから。
会場入り口に、村上和成が立って陣頭指揮をとった入念ぶり。
前田が言うように、警備は完璧だった。
K1やDREAMの警備はひ弱なバイト君だが、この日の警備員はみんな、おっかなかった。
実際、そこらじゅうで客同士が乱闘するのだが、屈強な警備の男が暴れる入墨の男の首をしめてひきづり出してた。
臨場感~!。会場には、船木の花も届いていた。↓。


ラウンド・ガールはラウンド・エンジェルと呼ばれ、SRCやDREAMより断然良かった。
前田の趣味か?。格闘技の邪魔もせず、華にもなる。こういう細部にもセンスは光る。
はじめは水兵さんみたいな格好の子が出てきて可愛かった。
試合が進むにつれ露出度の多い子に代わって行った。
この大会の目玉の1つは、日米安保改定50周年を記念して日米友好の証として、
前田日明が選抜したアウトサイダー選抜軍vs沖縄在日米軍の5vs5対抗戦だ。
特別立会人として、なんと!、長州力が「パワーホール」の入場曲に乗って登場した。
大盛り上がり。前田はリングスの頃と同じ、赤のブレザーに白いシャツ・ノーネクタイ。
日の丸を思わせる。
ラウンド・エンジェルは、迷彩色のビキニに迷彩柄のシャツを羽織った米軍をイメージした子と、
白の特攻服に白いボンタンにピンクのブラのジャパニーズ・ヤンキー・スタイル、日米対抗を煽る。
館内は、大歓声。
結果は、日本の圧勝、4対1。米軍、弱いぞ~、もっと強いの出て来~い!。
もう1つの目玉で1番盛り上がったのが、アウトサイダー対ZSTの5vs5対抗戦。
ZSTとは、リングス活動停止のあと、旧リングススタッフが中心となって旗揚げされたプロ格闘技団体。
所英男や年末にKIDに勝ったSRCの金原正徳を輩出している。
プロ集団にとっては勝って当たり前、負けたら何を言われるかという何のメリットもない戦いだが、これを受けて対抗戦が実現した。
対抗戦・第1試合は‘川口連合第十代総長’という入墨の男と‘ZSTの仮面ライダー’というフィギュア・オタクの対戦。
興奮したアウトサイダー軍は花道や壇上を占拠し、「このままだと選手を減点にする」と宣告されやっと席についた。
一方のZST清水俊裕はやさ男風で仮面ライダーのベルトを締め入場。
最新・仮面ライダーの決め台詞「お前の罪を数えろ!」とマイクアピールしたから、不良達が怒るのなんの。
恐ろしい雰囲気の中、試合開始。しかし、なんと!、仮面ライダーが秒殺してしまったのだ。
「プロをなめるな!」とマイク。また乱闘。
ZSTの3勝1負で迎えた大将戦・アウトサイダー軍はジ・アウトサイダー出身のプロ第1号・吉永啓之輔。
吉永は女子からキャーキャー言われていた。
なかなかハンサムでワルで強いから、モテるんだな。
試合はZSTの奥出雅之の一本勝ち。ZSTの4勝1負。
しかし、ものすごい殺気だった。
DREAMやSRCやK1に慣れてるから、なかなか新鮮で良かった。
会場の客は怖いけど警備はしっかりしてるので、刺激が欲しい人にはオススメです。
前田日明は、えらいものをつくったなぁ。
考えてみれば、今の格闘技界のトップのヒョードルやノゲイラやアリスターだって皆、前田が発掘して来たんだからな。
それを引き抜きとかで活動休止に追い込まれて、悔しかったなぁ。
それでも、前田は11年間でZSTやアウトサイダーを作って、リングス・ネットワーク構想を有言実行してるんだもの。
前田こそが、敗者復活だよ。すごいなぁ。見習わないと。
最後に全選手登場時、ラウンド・エンジェルの水兵さん2人もリング・イン。
僕が携帯で撮ろうとしてるのに右の子が気がついて、手を振ったら2人で振り向いてくれた。
好きな人が優しかった、ピース!。




BGM. RCサクセション「よそ者」


勉強会!

2/Ⅹ.(土)2010 はれ
夜から、新薬の勉強会。診察が長引いてしまい、大幅に遅刻。
城南地区の勉強会や精神科医の集まりの時は、必ず「つね先生」が世話人になってくれている。
面倒見の良い親分肌の先輩だ。
2次会は、その「つね先生」の馴染みの銀座のバーへ。
酒のつまみに出た、コンニャクの甘辛煮がうまかったので、板長を呼び、ハワイ旅行で余ってた$紙幣をチップで渡す。
板長はノリノリになり、「チップ、頂きました~!。七百$です~!」と大声で叫び、鉢巻にお札を差して働いていた。
以前にも、僕はここに連れて来てもらったことがあり、その時、店のゲイ・ボーイに
「ウチらを本当に旅行にまで誘って、実際に連れてってくれるのは「つね先生」くらいなんですよ」と、
「つね先生」がトイレに行ってる時にこっそり泣きながら告白されたことがある。
もらい泣きした。その事、「つね先生」には言ってない。調子に乗るといけないから。
「つね先生」は、最近は加圧トレーニングに凝ってて、ここ30日くらいは酒も呑んでいないという。
豪快にして繊細な人が、自分の肉体改造に興味が行くなんて、三島由紀夫の最期みたいじゃないか。
心なしか顔色も悪いな。顔が浅黒い。
「つね先生」本人は、「ハワイ焼けだ!」というが、心配だ。
<お前、自殺すんなよ!>と言って、ヘッドロックして、頭5発くらい殴っといたから、まぁ、当分は大丈夫だろう。
開業医が集まると、経営の話に少しはなる。
「今の診療報酬では(経営は)苦しい」と皆、口々に言っていた。
「つね先生」に、「お前もやり方、考えろよ」と言われた。
なんじゃ、そりゃ?。
製薬会社の人も1人、一緒に来たが、いつまでもネクタイをしめてるから、
「ネクタイをとれ!。もしくは、ネクタイだけになれ!」と命令した。
結局、別の医者の頭に、ネクタイを巻いてやった。
製薬会社の人に、「最初から、この店でやれば良かったのに」と言ったら、
「つね先生」に「バ~カ、ここじゃ経費で落ちねぇんだよ!」と言われた。
なんじゃ、そりゃ?。
で、今日の勉強会の会場に選ばれたのが、神楽坂のアグネス・ホテル。
アグネスというと、アグネス・チャンやアグネス・ラムを思い浮かべる人も多いと思うが、
アグネスと言えばなんてったって「聖アグネス」だろう。
聖アグネスは、4世紀の初頭、「キリストはわたしの花婿です。わたしはその方に従います」と宣言した。
ローマの裁判官の息子は、美しいアグネスを見そめてプロポーズするが、聖アグネスはまったく受け付けなかった。
この親子、甘言で落ちないとみると、力づくの威しに出た。
裁判官は「それなら、つぎの2つのうちどちらかを選べ。ローマ神殿に行って供物を捧げるか、娼婦館に行くか」。
聖アグネスは、それでもひるむことなく
「わたしは偶像の神々に供物を捧げるつもりはありません。しかしまた、わたしを肉体の罪で汚すこともできないでしょう。
わたしには、わたしのからだを守ってくれる主の御使いがついているからです」。
そこで、裁判官は、聖女の服を脱がせ、全裸の姿で娼婦館にひきたてようとした。
すると、聖アグネスの髪の毛が長く伸びて、子羊のように全身を覆ったという。
娼婦館に着くと天使が待っており、聖女に明るく輝く服を与え、館の中をその輝きで満たしたという。


朝、起きたらポケットにクチャクチャの1万円札が3枚、入ってた。
覚えてないけど、きっと払おうとしたんだろうな。
※訂正:本文中のチップの額‘七百$’は‘7$’の書き間違えでした。七百円と混同したのです。お詫びして訂正いたします。
BGM. J.S.バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」


憬れのハワイ航路④

あくる日。
目覚ましより早く目が覚める。ダイヤモンドヘッドの登山に出かける。
ホテルからのバスで登山口まで、そこから歩く。


ハワイといえば透き通る青い海。この青い海を保つため、ハワイ市長は毎朝早起きして海岸を歩き、
バスクリンをまいている、とバスガイドが日本人向けのジョークを言ってたが、
ダイヤモンドヘッドの展望台から観る海の色はまさにバスクリン。
バスクリンを誉めるべきか。


草も木もない裸の山から見える青い海とのコントラストも絶景だが↑、
ゴツゴツと剥き出しの山肌と枯れ木に親近感を覚える。
ハゲタカとかハイエナとか、嫌われ者の住み家のようで気を遣わなくてよさそうだから。↓。


ホテルに戻って、フルーツを食べて、お土産を選ぶ。
少し横になり本を読み、浮輪を持ってビーチへ。
今日は波がない。
浮輪で漂っていると、どんどん沖に流されて行ってしまい、怖いのでなるべく浅瀬に滞在する。
立って、ヘソくらいの波でも、腹這いになってれば頭を越える大波だ。
十分、サーファー気分が味わえる。


そのかわり、海水パンツの中は砂だらけになる。
浅瀬で溺れ恐ろしい体験をするも、冷静に足をつけば、なんてことはない。
恐怖とはイメージの作り出すものだ。
泳げないことにコンプレックスを持ってる人に朗報。吉田拓郎もカナズチです。
僕は、それを小学校の時に知って、とても気が楽になり、それ以降、まったく泳ぎの練習をしなくなった。
そういえば、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウイルソンも泳げないらしい。
話を、海に戻す。
娘が、同様に浮輪を持って海に出るが、彼女は命知らず、どんどん沖の方へ行ってしまう。
娘は小学校の頃、スイミング・スクールにも通っており、僕とは違い、泳ぎには自信があるのだ。
海を満喫している。
その間、こちとら相変らず浅瀬で溺れている訳である。
1時間くらい経過して、疲れたので妻の待つゴザへ戻る。
僕は、娘の様子を時折、気にしていたが、どんどん沖へ流れていく。
一向に帰ってくる気配がない。
もしかして、戻れなくなったのではないか?
風が凪ぎ、波が沖へ沖へと物体を引き寄せているのかもしれない。
さっきまで娘の浮輪の目印のグリーンの付近にたくさんいた他の遊泳者達も遠ざかり、
娘の現在地を示すグリーンは、太平洋にひとりぽっち、ポツンと浮かんでいる。
自分から助けを求められない、内気な子だ。
不安でも周りに声をかけられない、それどころか外見は平然として見られてしまう。
周りも気付かないから、さらに沖へ流されている。
まだ陽は高いが、人間はこんなに長い時間、海に浮かんでいて楽しいと思うか?
人間には海に浮かんでいて楽しいと感じる時間の限界もあるだろう。
ライフセーバーの位置を確認する。
砂浜から、娘の名を呼んでみるも届かない。
望遠で写真を撮ってるカメラマンがいる。
彼にレンズをのぞかせてもらって表情を確認するか?。
いくら泳ぎが達者とは言え、いくら魚座生まれとは言え、足がつってしまえば使い物になるまい。
「河童の川流れ」、「海のもくず」、「水の泡」という不吉なフレーズが頭をよぎる。
早川義夫の声で、ジャックスの「からっぽの世界」の一節が脳内にかかり始める
。♪静だな~海の底~。静だな~何もない~♪。
砂浜から、娘の名を念じ気を送る。
その限りは、浮輪が破れない、荒波にさらわれない、そんなコーティングの力を期待して。
いよいよ、娘のグリーンの浮輪は、沖へ流されて行く。
娘を助けなければ。
もし仮にそれが過剰な心配でも構わない。
確率の問題ではない。期待値の問題だ。
娘が、もし助けを求め、不安のまま流されていたなら…そう思うと胸が張り裂けそうだ。
娘を助けに行こう。目測で50~100mの距離だ、と弟が言う。僕は泳げないが、弟も泳ぎが達者だ。
娘同様、小学校時代スイミング・スクールに通い、色んなトロフィーをもらって帰ってきていた腕自慢だ。
娘を助けるべく、僕は黄緑の浮輪をくぐり、弟に娘の所まで泳いで連れてってもらうことにする。
弟に、ビートバンの要領で、浮輪の僕をバタ足で押させる娘・救出作戦だ。
妻によく沖で観察し、もしグリーンか黄緑の浮輪が見えなくなったり、異変を感じたら
(たとえば、サメの背ビレが見えた、とか)あそこのライフセーバーに連絡するよう言い残す。
妻も、弟に無理はするな、そして弟が1人で行った方がいいんじゃないか?、などと言う。
それは、ちがう。
主は1匹の羊が迷ったら残りの99匹をその場に残してでも探しに行くと聖書に書いてあるではないか。
一家の長である、私が行かない訳にはいくまい。
僕は、自ら浮輪をかぶりスタンバイOK、弟の動力で娘のもとへ泳ぎ出す。
僕が方向を「12時の方向」、「11時の方向」、「1時の方向」と指示を出す。
風は逆風、波も我々救出班を岸へ押し戻そうとする。
必死に押す弟が、「進まない、遠い」と弱音を吐く。
オレも体重を前にかけ、波に負けないように体重移動、波の抵抗を和らげるべく波に向かって体を
45度に舵取りして、弟に「がんばれ!」と叱咤激励を飛ばし、自らもフル稼働で足を動かすも、
お風呂で遊ぶアヒルのおもちゃのごとく微力だが、気合を伝えるには十分で、弟は英雄的に力を発揮、
波を追い抜き浮輪は前進。必死の形相、男らしく育ったものだと感慨。
竜雷太・主演、「これが青春だ」の主題歌が脳内でかかり出す。
♪嵐の中も~君のためなら~七つの海を泳いでいこう~
誇りひとつを胸に掲げて~夢に飛び込む~それが若さだ~そうとも!これが青春だ~♪。
娘のグリーンの浮輪が近付く。
ホルンの奏法で身につけた複式呼吸の要領で、娘の名を呼ぶ。2度、3度。
すると、娘はこちらに気付き、手を振る。
SOSのサインか?
娘の名を呼び続けながら、手招きすると、勇気百倍になったか、自力でこちらに泳いでくる。
「何?」と言う。
潮に流されてるのではと心配して救助に来た、と伝えると、娘は安堵の照れ笑い。
砂浜へ戻るぞ、との号令に従い、彼女はスイスイと先に泳いでいく。一安心。
一方、弟は、「重い重い、浮輪が邪魔だ」と嘆きながら、今度は方向転換、
必死で今来た道をUターン、砂浜に父を無事に送り届ける任務にミッション変更。
そんな弟に、いかにお前のとっている行動が人として素晴らしく、縁の下の力持ちとは男らしい美学なのだ、
ということを噛んで含めるように言って聞かせながら、足がつく所までくれば、こっちのもの。
右足で砂浜をギュっと掴むように立ち、左足も前に、両足でしっかりと立てた。
もう大丈夫だ。
オレは、振り返り、疲労困憊の弟の手を握り、ご苦労様、と引っ張るようにすくいあげる。
ここだけ見たら、オレ、ヒーロー。
とにかく、皆、無事で良かった。
足の砂を洗い流してホテルの部屋に戻り、一休みして、おなかが空いたので焼肉を食べに行く。
その席で、弟に、泳ぎの不安はなかったか?、と聞くと、「自分が溺れたらどうしよう」と心配だった、と言った。
「人生は、多くの場合、慎重にしておいた方が無難だ。
しかし、あの場面で泳ごうと決意したのはとても立派なことだ。男らしく育って、お父さんは鼻が高いぞ」と誉め、
「今日のMVP」の称号を与えた。


男たちヒーロー軍団は疲労して、早々と床につく。
かたや、姉は元気いっぱい、遅くまで母親とショッピングを楽しんだ。
ハワイもあと2日。
BGM.A面 平山美紀「真夏の出来事」/B面 ザ・フォーク・クルセダーズ「女の娘は強い」