精神科おすすめ図書

現代のエスプリ、などで精神分析関係の特集をやると、一定数さばけるそうだ。
しかし、それを支えてる購買層は医療関係者ではなく市井の人だという。
確かに身の回りの仲間で「現代のエスプリ、読んだ?」なんて会話はまずしない。
そのように何らかの関心で専門書に触れたい人もいるだろうし、サイコロジストやコ・メディカル、教育現場の方が読んだら役に立つ本を紹介してみよう。

何と言っても最近の流行はコレですね。↓。

この業界のあやしい(←誉め言葉)カリスマ(←とこの本に書いてあった)である神田橋先生のお言葉は、
「発達障害は発達します」で、当事者も周囲の人々も未来に希望をもてるのだと伝える本です。

そんな神田橋先生の「診断面接のコツ」は研修医の時に読めと言われた本で、ベストセラーですね。↓。

同様に研修医の時に読めと言われた本でベストセラーは土居先生のコレ。「面接をする人」なら誰でも参考になります。

僕が研修医2年目で派遣に出された東横第三病院(現・恵愛病院)に、土居先生の「方法」で謝辞を送られてる逸見先生という人がいた。
院長以下誰も喋ったことがない「謎の人物」とされ、とにかく「偉い人」らしいとだけの情報。1週間に半日だけ来てた。
僕は好奇心旺盛なので逸見先生に話しかけてみたら、とても気さくな先生でペーペーな研修医に色んなことを教えてくれた。
それは、教科書に載っていないようなことで、ちょっとここでは書けないようなこともあるが、僕は毎週話を聞いてはノートにとって、そのノートはまだとってある↓。

「方法」が1977年出版で、土居先生の「甘えの構造」が71年に出てるから、こっちを先に読むとより理解できるかもしれませんね。↓。

そんな土居先生と小倉先生の対談本も面白い。神田橋先生がフロアからチャチャ入れるのが面白いです。小倉先生は僕が関東中央病院にいた時のお師匠さんです。やっぱりアクの強い天才精神科医でした。↓。

僕が小倉先生のオフィスにスーパービジョンに行った時、奥の部屋で、土居先生と藤山先生が部屋に入って行くのがみえた。
「あれ、土居先生と藤山先生ですよね?」と聞いたら、小倉先生は「そう。部屋を貸してるんだ」って言って、それ以上のことは教えてくれませんでした。

藤山先生は今の精神分析学会のトップランナーであるが、落語・特に談志の追っかけで、こんな本を書いています。
巻末で談春と「落語と精神分析」について対談してて、それはもう談志の死後だったから2人とも勝手な事を言ってて、
僕は頭に来て、志らくの独演会のあとのサイン会でその本を志らくに見せて、「これどう思います?」って抗議したら、志らくは苦笑してました。↓。

中井久夫。神田橋先生をもって、「中井久夫はウルトラマンである」と言わしめた男である。
法律でも微生物研究でも一線だったはずなのにわざわざ精神科に来てくれた。それは光の国から我らのためにやって来たウルトラマンと同じだという意味である。

東大で中井先生がゼミをやると聞き参加したことがある。(ちなみに中井先生は普段は神戸にいる)
でもそこは受付も会計もない東大の校舎の中の狭い一室だった。
後で知ったのだが、それは東大OBの集会だったらしい。
僕は部外者で皆に一瞬ジロリとみられたが僕はそういう空気は全然平気なので、「出てけ」とも言われないから、お話しを最後までうかがえて有意義だった。

分裂病の再発を発見する一番早い手は、ベロを出させ虫眼鏡でみる、のだそうだ。
それを小倉先生に話したら、「それは中井先生だから出来るのだから、真似しちゃいけない」と優しく諭された思い出がある。↓。

中井先生は神戸で震災があった時の被災者でもあった。
あの時、中井先生は日本中の大学病院の精神科教室に、神戸大学に来るように誘いをかけた。
でもそれは、SOSではなく、これは明日は我が身だから見学に来いという意味だった。

自らも被災者で、被災した患者の治療もしなくてはならない治療者に必要なのは、週に1回の温かくて美味しい食事と、生花だと書いてある。
特に黄色い花がいいらしい。この年の園芸会では、ひまわり、がよく売れたらしい。↓。

アメリカの操作的診断基準・DSM-Ⅲ以前の、ドイツ・ロマン主義的な精神医学ならこれがおすすめ。四方と書いて、「よも」と読む。にしまる・よも、先生。↓。

これをもっとコンパクトにお手軽にしたのがこれ。貴重な写真がふんだんに使われている。↓。

うつ病には、「Q&A」がオススメ。特に高齢者の「うつ」と「せん妄」と「認知症」の鑑別など判りやすく図で説明してある。↓。

母親になる人が読んでもいいのがこれ。カワクリ専門外来~「花嫁になる君に」~虐待防止プログラム、のミーティングをした時のテキストに用いたものです。↓。

ちょっとここで変化球。
小此木啓吾先生の「映画でみる精神分析」です。

僕は小此木先生のオフィスにグループ・スーパーヴィジョンに通ってたことがあるのですが、入口に、パピルスが飾ってあって、
その絵の意味は「黄泉の国で、現世でウソをついた人が罰せられてる」という図柄で、そんなものをカウンセリング・ルームに貼る神経がすごいなと思いました。
小此木先生の先祖は「小柴」という有名な武将らしく、そこから漢字を分解して、「小此木」という名前を貰ったそうです。
やっぱり精神療法は「個人」だけの自分史でなく、ルーツとか風土とか脈々たるものが背景としてあるという考えが大事なんだと考えさせられました。

この本は、映画マニアの先生が「100%趣味」で書いたような本ですが、その中の「シラノ・ド・ベルジュラック」を僕は何度も「投影性同一視」の説明の時に口伝えで聞いてて、
その話が好きになって、それで前にここでも「激写メ・ストーリー」にしたという舞台裏があります。
どうですか?いやぁ、やっぱり精神科って面白いですね。↓。

ちょっと脱線しますが精神医学とはクロスくらいな座標に「夢」があります。
夢の書籍で面白いのは、河合隼雄の「明恵、夢を生きる」です。明恵、と書いて、みょうえ、と読みます。あきえ、という女の子の夢日記じゃなく、夢を大切にしたお坊さんの話です。↓。

河合先生の弟子だった先生に昔、聞いたのですが、河合先生が本気で書いたのは、この「明恵」と「こころの処方箋」の2冊だそうです。↓。

というと数多ある他の書籍が手抜きみたいに聴こえますが(笑)
とは言っても、2人とももう死んじゃってるから死人に口なしですね。
僕は「日本人の昔話」が好きです。↓。

夢と言えば、もう1冊、別冊宝島の「夢の本」が面白いです。親鸞とかユングとか秋山さと子とか(←ディメンジョン、バラバラ)で構成されています。↓。

同じシリーズの「性格の本」も面白いです。これはユング心理学の紹介ですね。
医療分野でユングはあまり用いられないから知る機会にはいいですよ。
特にこの本の圧巻は、アーキタイプ別にふるい分けられる記述式の「心理テスト」で、医学的な信頼性や妥当性はありませんが、
そこらの占いよりは質がいいからやってみると面白いですよ。友人同士やカップルや親子でやって比較しあっても楽しいですね。↓。

とは言え、一施設に1冊欲しいのは、やっぱり「精神医学事典」ですね。
左のブルーの大きいのが古い方で、右の銀の小さいのが改訂版です。内容はかなり違います。
当然、改訂版の方が良い様に思いますが、僕は昔の大きいブルーの方が好きです。
日本語が平易なんです。
難しい言葉を使われると、「この人、本当は判ってないんじゃないの?」と疑ったり、或は、「伝わらない奴はあっち行け、シッシ」って閉鎖的な感じがするからです。
まぁ、単純に研修医の時から読んでるから、執筆人に思い入れがあるというノスタルジーなんだと思いますが。↓。

話を神田橋先生に戻そう。
僕は研修医の頃に心理の先生に紹介され代々木の花クリニックの神田橋ゼミに行った。6-7年通った。
毎週日曜の朝で「日曜学校」さながら、ほぼ皆勤で行った。それは平成9年3/30でいったんその会が終るまで行った。
「最終回」に配られたのがこの本。奥付をみると、平成9年3月29日発行になってるから出来立てホヤホヤだ。↓。

 

神田橋研究会の「最終回」では参加者1人づつと記念写真をとって、この本を手渡してくれたのでした。↓。

BGM. 大場久美子「エトセトラ」


心理啓蒙劇、シラノ・ド・ベルジュラック~いとしのロクサーヌ

14/ⅩⅡ.(土)2019 寒い。田中みな実の写真集(本日発売)が届く。

茶番劇が行われていた。それは権力者の「寝床」のようなものだ。↓。

そこに正義感の強い、シラノ・ド・ベルジュラックが乱入し、即興の詩で圧倒した。

♪ゴアが出るのは~ミラーマンじゃなくて~マグマ大使なり~♪。↓。

皆の前で恥をかかされた権力者は、シラノをうらんだ。権力者の隣には娘の美女・ロクサーヌ。お花の冠をしてる方です。↓。

シラノはかねてから、ロクサーヌに恋心を抱いていたが…シラノにはコンプレックスがあって、告白できなかった。それはシラノがとても醜い鼻の持ち主だったから。↓。

手塚治虫の「火の鳥」シリーズの猿田みたいだ。下が、猿田。↓。

 

ある日、ロクサーヌに呼び出されたシラノが聞かされたのは、シラノにとってショッキングなことであった。↓。

ロクサーヌが好きなのは、美男のクリスチャンだった。両想いだった。↓。

しかし、このクリスチャンは顔がいいだけで、中身はからっぽ。ボキャブラリーに乏しく、ロクサーヌに恋の告白をするラブレターの文章も書けないのだ。

そこでシラノは、自分がラブレターを代筆するから、それをクリスチャンが書いた事にして、ロクサーヌに送るように提案した。↓。

心理豆知識。ここでシラノがクリスチャンにとった行動は、心と態度が裏腹ですね。これを心理学では、「反動形成」と呼びます。↓。

それからロクサーヌとクリスチャンは恋仲になりますが、ある夏の夜、ロクサーヌの家のバルコニーで恋を語りあう時、クリスチャンは平凡なセリフしか出ません。たとえば、野菊の墓、の名台詞が「民さんは、野菊のような人だ」をパクろうとして間違って、「君は、春菊のような人だ」とスキヤキの具みたいなことを言ってしまいます。これでは、バカボンのパパと同じです。ロクサーヌが幻滅し始めてますね。↓。

そこにシラノが駆けつけた。辺りは幸い薄暗い。木陰から、クリスチャンになりすまして、美しい愛の言葉を代演します。

♪忍び逢う恋をつつむ夜霧よ~わかっているのか二人の仲を~晴れて逢えるその日まで~隠しておくれ~夜霧~夜霧~♪

ロクサーヌはうっとり聞き入ります。↓。

そしてその言葉に酔いしれたロクサーヌは、クリスチャンに、令和はじめてのチュウ、を許します。↓。

シラノも自分の恋文がロクサーヌに喜ばれ嬉しくなります。投影性同一視という心理機制です。投影性同一視は、分裂(スプリッティング)をベースにした未熟な防衛機制だと言われています。↓。

少し、説明が必要ですね。

ある女の子がお母さんに叱られて家を出されます。↓。

そこで捨て猫をみつけます。猫に自分の姿を投影します。↓。

そしてお小遣いで食べ物を買って与えます。「ほら、お食べ」。↓。

ヌニャヌニャ。猫が喜んで食べます。↓。

そして捨て猫の心を満たすことで自分の孤独を自分で癒してることになるのです。これを投影性同一視と言い、シラノがクリスチャンを使って、ロクサーヌに愛されたと喜んでるのも同じ心の働きですね。

未熟な防衛機制だと言われるが故に、未熟であるからこそ純粋さを感じさせますね。↓。

ここで物語りは新展開です。

権力者がシラノとクリスチャンを戦場に送ります。↓。

いとしのロクサーヌは、「戦場へ行っても必ずお手紙をちょうだいね」とおねがいします。↓。

シラノは約束通り、戦場から手紙を送ります。危険な中、必死にロクサーヌとの約束を守ります。↓。

クリスチャンはいくら阿呆でも気付きました。ロクサーヌが愛してるのは自分じゃなく、恋文の内容なのだと。ヤケになったクリスチャンは無謀にも前線へ飛び出して、銃に撃たれて死にます。まるで、ロバート・キャパの戦場写真のようです。↓。

下が、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」。↓。

クリスチャンの死を知ったロクサーヌは修道女になります。お花の冠も捨てました。↓。

毎週毎週、シラノはロクサーヌを訪問する習慣になっていました。1週間の習慣です。↓。

ところが、ここでまた急展開。ある日、ロクサーヌの元に向う途中のシラノを、シラノのことが気に入らない権力者が背後から襲いました。致命傷か?。↓。

命からがら、ロクサーヌの元に向ったシラノ。ロクサーヌは、クリスチャンの手紙を読み返していました。↓。

そこでシラノが、ロクサーヌに、「クリスチャンの手紙」を読んで聞かせることにします。↓。

ロクサーヌはクリスチャンから貰ったラブレターをシラノに始めて見せて、シラノに読ませました。

スラスラと読むシラノ。♪忍び逢う恋をつつむ夜霧よ~今夜もありが~と~う~♪。

そこでロクサーヌは気付きました。こんな真っ暗な中で、しかも怪我を負ったシラノが手紙を読めるなんて。そして決め手は、この声です。この声は、かつてバルコニーで聴いた声。あなた、だったのね。シラノ…。↓。

シラノはさっきの打撲でもう死にます。でも、死ぬ前にシラノは自分の言葉でロクサーヌに告白できました。シラノは、ロクサーヌの腕の中でしずかにしずかに死にました。↓。

こうしてシラノは死にましたが、最期に、いとしのロクサーヌの肌にふれたことが、シラノはとても幸せだったといいます。おしまい。

BGM.吉田拓郎「夜霧よ今夜もありがとう」


令和デカダン派宣言

17/Ⅶ.(水)2019 久し振りに晴れ

街中で「安楽死」のポスターをみた。急いでいたから、よく見なかったが、そういう時代の要請もあるのか。

なんとか白書で、10代の自殺の数が増えていて、その理由で「学校関係」が「家庭問題」を抜いて1位になったとニュースに書いてあった。
どっかのチームの有望な22才のプロ野球選手が、18才の女子高生と不適切な関係になって無期限謹慎という記事が隣り合わせにあった。
まぁ、煎じ詰めれば、どんなニュースだって、無関係だ。

いきなりですが、モーニング・ワーク、という言葉を知ってますか?
朝のお仕事ではなくて、モーニング、とは、「morning(朝)」ではなく、「mourning(喪)」の意味です。
燕尾服の、モーニング、ですね。

モーニング・ワークとは、喪失体験から立ち直る過程や作業のことを言い、
死別・離別から失恋まで、
対象を喪失するすべての体験に当てはまります。
この厄介なところは、その事実からすぐに起きるとは限らず、ちょっと経ってから、
「時期はずれ」に起きることもありうることです。
数ヶ月ならまだしも、何年も経ってから、実感が湧く人も珍しくなく、
ただし周囲からみると、「なんで今頃?」なんて思われたりもします。
人間個人差があるから、喪に服す期間が、一律に1年間、なんて決まってる訳ではなくて、
年賀状を出さないのは1年に、とか、ってのは、あくまで目安です。

さて、モーニング・ワークの時に起きる色々な心の動きについては、きっと調べればみれるでしょうから、詳しくは書きませんが、
ここで厄介なのは、マニック・ディフェンス、です。
マニックとは躁(躁うつの躁)、ディフェンスは防衛です。

心が傷ついてる時に、プラス、自分が傷ついている、なんてことを認めちゃったら、ますますミジメになるから、
自分を守るため、強がって、必要以上に元気なふりをするのです。
みてて痛くなる時もあります。その痛みこそ、彼(彼女)が隠そうとしてる心の痛みと均質なのかもしれません。

イソップの、キツネとブドウ、の話もちょっと似てますが、あれは「合理化」と言います。
キツネがブドウを欲しいのに手に入らなくて、どうせあのブドウは酸っぱいんだよ、と言い捨て残念な気持ちを知性化して処理する寓話のことです。
マニック・ディフェンスと似てるけど、キツネにはちょっとお祭り気分が欠けていますね。

その点、どうどうでしょう?
最近の、十中八九N・G、の写メシリーズのはしゃぎっぷりは。
これまでお馴染みの方には違和感があったのではないでしょうか?

ボブ・ディランがフォークギターを置いて、ザ・バンドをバックに引き連れて、ロックに変貌した時のような進化ならいいのですが、
自分で考えても、マニック・ディフェンスですね。
何の喪失体験か、って?
まぁ、色々…。

絶対なくならないと思い込んでた1回も入ったことのない、昔ながらの地域密着型の文房具屋が店を閉じたり、
奥沢駅の町の本屋が時流に押されて閉店したり、
行きつけの寿司屋が今年の4月に定休日をもうけ、通しでやってたのが昼休みを作ったかと思ったら、11月いっぱいで閉店になると聞いて、
3月・4月に色んな事が重なって、それは丁度、平成が終って、令和になる世の浮かれ具合と相まって、
どんどん色んなものがなくなって行くなー、という、さびしさが、過去の置いてきぼりにされてた感情たちを、「さびしさの墓場」からよみがえらせて、
一気に襲ってきたものだから、僕はおセンチにもなってられない職種だから、自衛手段として、
髪を染めて、セーラー服を着て、ピカチュウを大人買いして、その場をしのいで来たんだけれど、やり尽くした感があって、
そしたら急にやっぱり、さびしいな、というしみじみした抑うつ感が湧いてきて、今年は冷夏だって言うし、
もうすぐ誕生日だから、否応なしに、いつまでも目をそらしててもそらしきれるものでもない。

ここは一つ、受け容れることにしようと、モーニング・ワークのステップを踏もうという日々なのである。
話が長くなったが、最近の僕は厭世的である。

世の中なんて終っちゃえばいい、と思うし、命を削ってまでやる仕事なんかないと思うし、
別に学校なんて行かなくても良いんじゃないかと、個人的には思う。最近は、教育虐待なんて言葉もある。

しかし、プロ(精神科医)としては、そうはいかない。
それはクリスチャンの精神科医が宗教観を表に出さないのと同じように、
あるいは、不倫をされてる女医さんが、性に奔放な患者の話も「中立的」に聞くように、
自分の価値観は脇に置いておくのが職業だからだ。

元々、我々は、常識にしばられず、「普通」や「平均」や「多数決」にも左右されない、個人の心の自由さを守る番人でもある。

例外的に、「死にたい」と訴える患者には、「死んじゃいけませんよ」とは言う。精神科医なら皆、そういうが、心の内はそれぞれだ。
本当に「死んではダメだ」と思う人と、身内に死なれて命の重みを痛感してる者もいよう。
僕は、「自殺なんてしたくなるよね」と思う派だが、同じ1人の医者でも、その時々で気分は変わる。人間だから。
僕は今、厭世的な気分なのである。

こないだ、「私はダメ人間だ。他の人と比べたら○○もしてないし、○×も出来てない、××さえしてない」と嘆いてる人の話を聞いていて、
あるマンガの1シーンを思い出した。

それはある2人の女子高生は、まわりが受験勉強してるのにゲームばかりして、部活もやらず、恋もしなけりゃ、あんまり大事なものもない。
世間で言う青春とは、ほど遠い生活だ。
そこに隕石が地球に近づいて、もう数分で人類が全滅するという。その時、2人の女子高生は言うのである。
「私たち、ひょっとして、勝ち組かも」。

この話を、嘆いていたその患者さんにしてあげたら、情けない顔をして、
「そんな話されても、嬉しくないですよ」だって。
すまん。ついつい、地が出ちゃった。
気をつけなきゃ。
人生、前向きに行かなきゃね。
きっと未来にはいいことが待ってるはず。
明日は晴れるさ。ホラ、晴れた。
上を向いて歩こう!

下は、先日、ポケモンの映画「ミューツーの逆襲エボリューション」を観てきたスタッフにもらった、肩乗りピカチュウ。
サトシのポーズがわからないから、ダンディ坂野、のポーズをしてみた。↓。

杉山さんのも撮ってみた。田舎のお母さん、みてる?。↓。

BGM. RCサクセション「上を向いて歩こう」


がんばれ!!照ノ富士!!(仮題)

13/Ⅲ.(水)2019 はれ ダイナマイト・キッド追悼興行の全カード決定!

アニメ「からかい上手の高木さん」の二期が決定したのと、今、10巻を買うと、卓上日めくりカレンダーがついてくる、
何かと話題の高木さん。

コミックス「からかい上手の高木さん」5巻に「クリティカル」という回があって、これがちょっと面白い。

いつも高木さんにからかわれるクラスメートの西片は、その日の朝の情報番組の占いでは超ラッキー運。
それで、「今日こそは高木さんを逆に、からかい返してやる」と意気込んで登校中、高木さんに会う。
見透かされたように、「何かいいことあった?」。
<な、ないよ>。
「もしかして、今日のラッキー運、かに座とか」
<ちょ…ちょ…なんで知ってるの?>
「あと、O型も1位だったから?」と図星。

それでも、西片は占いを信じ下校時に、高木さんをからかってやろうと思う。

高木さんと、首尾よく二人で帰ることになったところ、級友に、「ゲームやろうよ」と誘われるが、断る。
頭は高木さんをからかう作戦のことでいっぱいだ。しかし、これがまた何も思い浮かばない。

二人で並んで歩く帰り道。高木さんが、「ゲーム、よかったの?」ときくと、西片は作戦で気もそぞろだから、
<あぁ、うん。高木さんと一緒に帰りたかったし>と答え、また考え事。
高木さんに、じーっとみられ、やっと我に返り、

<今、俺、変なこと言わなかった?>と自問自答。
あわてて、<占いなんだよ。占いで、クリティカルが出る、って言ってたから、今日こそ高木さんに勝てると思って…>
<だから、別にそういう意味じゃないから。…今のないことにして>と言うと、
高木さんはいつもの高木さんで、「しょうがないなぁ。もう1回言ったら聞かなかったことにしてあげる」。
西片<言うワケないだろ。じゃ、俺、こっちだから。バイバーイ>と走って逃げる。1人残る高木さんのアップ。

唇の真一文字がかすかにふるえ、ごくんと何かをのみこんだような描写。
曲がり角を曲がって、「ハーっ」と胸をおさえる高木さん。こんな高木さん、みたことない。
最後のコマで「クリティカルってこわいなぁ」とつぶやく高木さん。
からかい上手の高木さん、で語り継がれる名場面と言っていいだろう。そんなクリティカル。
どういう意味か、わかりますか?

我々がよく施行する、エゴグラム、という心理テストの尺度に、CP、というのがあって、それは、クリティカル・ペアレントの略で、
「批判的な親」という意味です。でも、それと、このマンガの、クリティカルのフィーリングは違いますよね?

それで僕はうちのスタッフや友人やその方面で有名な心理業界の人にもメールして、クリティカル、の意味を聞いてみました。
学術的な意見や、英単語の意味を解説してくれる答えがいっぱい来ました。

でも、僕が知りたいのは、そういうことではなくて、そういう英単語の意味とこのマンガを結びつける「カギ」です。

そこで存在感をふるったのが、受付のうかいさんでした。
彼女は多分、そんなに英語が得意な方でもないのに、
ゲームで「クリティカル・ヒット(会心の一撃!)」という用語があるのを手がかりに、色々と調べてくれました。
ネットで、英語や心理学の知識はけっこう得られますからね。
高木さんの、「クリティカル」の回の動画もみてくれて、彼女が出した結論は、

「ここでいう、クリティカル、は、会心の一撃、のクリティカルです」。

よく自分は「勉強が出来ないから頭が悪い」と思っている中高生が結構、多くいます。
今の学校教育は、ほとんど丸暗記ですむ記憶力の勝負で、それで良い学校にも行けるし、良い会社にも入れるし、
医師国家試験だってパス出来るけど、人生はそこからがスタートです。
‘成功’した人が社会に出て困っていることが多いのです。
人生って、テストみたいに、‘正解’がないからでしょうか。

学校教育が広く浅く知識を身に付けさせるせいか、1つのことを深く掘り下げる習慣がないのも問題でしょう。
その点、オタクはすぐれてます。掘り下げますから。

吉田拓郎から入ったのに、ボブ・ディランの曲、全部、知ってたりするから。
ルーツをさぐる、ってことなんでしょうね。学問の基本ですね。

勉強と学問は違うと言われます。
勉強は漢字で、むりにしいる、と書きます。これはやらされてる訳です。
でも、学問はオタクに近いです。
興味があること、探究心が、知らないでいることを放っておかないのです。
意味のないことはまるでやる気ないのは、モチベーションが湧かないとパフォーマンスが極端に下がるからで、
逆に言えば、意味さえ見い出せばやる気が出てパフォーマンスもアップするということです。
だから、中高生で成績の悪い人は、何も腐ることはなくて、「自分は勉強は不向きで学問向きだ」と思うといいです。

僕の好きな立川談志は中卒で、落語家になりましたが、
「自分は学歴がある。落語を通して色んなことを学んでいるから。ないのは、学校歴だ」と言っていました。
僕の好きなフレーズです。

おまけ。

からかい上手の高木さん、には、からかい上手の元・高木さん、というスピンオフもあります。
ちょっとだけ紹介しましょう。こんな感じです。

元・高木さんは結婚して娘がいます。
娘との会話。
<ねぇ、ねぇ、お母さんってどんな子供だったの?>
「う~ん。好きな人をからかっていたかな」
<ははは。今と変わらないじゃん>
「そうだね。変わらないね。好きな人も」
<え~??…ってことは??>
そこに、玄関の音がガチャガチャとして、<ただいま~>とスーツの男の人が帰ってくる。顔は見えない。
コマ割りは、アパートの廊下にうつり、その家の表札に書かれていたのは、西片。

BGM. よしだたくろう「知識」


くよくよするなよ

12/Ⅱ.(火)2019 はれ少しあたたかい 猪木、ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~に登場!

平成も終るという。昭和・平成・●×の3つの元号を生きることになるのか。
父は、大正と昭和しか知らない。
母は、大正・昭和・平成を生きた。
親を抜いたり、肩を並べたりで、感慨深いものである。

僕が医者になったのは平成元年で、だから、精神科の経験年数を聞かれたら、今が平成何年かの数字を
そのまま言えばよくて、楽させてもらっていた。たとえば、今なら「31」年目である。
これからは足し算を駆使しないといけなくなるのか。

平成という時代は、精神科の中でも色んなことがおきた。
法律が改正されたり、アメリカの診断基準が大流行してドイツの伝統的な診断学が鳴りをひそめた。
「分裂病」「躁うつ病」「痴呆」という疾患名が「統合失調症」「双極性障害」「認知症」にとって変わった。

「痴呆」の進行を防ぐのに役立っていた薬たちが追跡調査で全部「効果なし」と判定されて市場から消えた時は驚いた。
アリセプトが出る前の、薬たちである。

うつ病の仮説も、モノアミンからセロトニンにかわってSSRIが登場した時、革命が起きたように思った。

「トラウマ」の概念も僕が研修医の頃と今では、180度ちがう。
当時は「心的現実」を重視するあまり、「外的現実」にはノータッチだったが、「いじめ」や「虐待」が深刻になり、
治療は「外的現実」の調整に重きを置く必要が出て、精神科医のケースワーカー化、などと揶揄された。

今後も医学の進歩や、社会の運動で、精神医学の「常識」は覆って行くのかもしれない。
それを発展と言うなら、それに対応して行かなくてはならないが、それに振り回されるだけでなく、
変わらぬ精神科医のアイデンティティーを持っていたいものだ。

昔、立川談志が、ざこば、と芸談をした時の話を聞いたことがある。
談志が「落語とは人間の業の肯定」と言ったら、ざこば、は、「うけりゃいいおまへんか」と答え、
それに対して、談志が「うけなくなったら、どうするの?」と返すと、ざこば、は、「何が言いたいねん?」。
談志は「うけりゃいいと思っていると、うけてるうちはいいけれど、うけなくなったら困るでしょ?」、ざこば「…」。
談志「だから、落語とはこういうものだと定義しておけば、うけなくなった時に困らないでしょ?」
ざこば「そんなもんでっしゃろか」だって。

話は変わるが、昭和の爆笑王・林家三平さん(今の笑点に出てる三平のお父さん)は、私生活でも人を笑わせることを生き甲斐にしてたようで、
キラ星のようにエピソードがたくさんある。
その中でも有名なのは、三平さん(さん、まで入れて呼び名。今の、所さん、と同じシステム)が脳梗塞で倒れて、
救急車で病院に運ばれた時、意識の覚醒水準を確認するため、看護婦さんが「お名前は?」と尋ねたら、
「加山雄三です(当時の2枚目俳優)」と答えたという。命がけで人を笑わしてる。

太宰治が、晩年(遺書代わりに書いたから、タイトルが処女作なのに、晩年)、で、自分の事を、道化、といって、
もし自分が死んだら、「この人は一生涯、ひとを笑わせるために生きた人です」と墓石に刻んで欲しい、というようなことを言ってたと思うが、
それは三平さんにこそピッタリだと思うし、僕もそういう生き方をしたいと思う。
三平さんのことを書くと長くなっちゃうから、この辺にしとくが、談志が、
「もし、三平さんが、皆さん、真面目に生きなきゃダメですよ、なんて言う時代が来たらそれは末世だ」と言っていた。
もう三平さんも談志も死んでるけど、今の世の中って、そういう意味じゃ「末世」かな?なんて時々思う。

僕は談志の説く「落語論」と、精神科医の仕事って似てるな、と折に触れ思うことがある。
たとえば、忠臣蔵の四十七志は英雄として語られるが、家来はおそらく300人以上いて、その中の47人だから、250人以上は逃げちゃってるのである。

でも落語は実際そうなったら、死ぬのを覚悟で討ち入りに行くより、逃げた人間にスポットを当てて、
「本来、人間って逃げちゃうでしょ?」というのが、歌舞伎や講談との違いはそこで、それを談志は、
「落語とは人間の業の肯定」と初期に定義した。

精神科はと言えば、根性論や、気の持ちようだという精神論で追い詰められた人に、
「いい加減」をすすめ、「テキトーに」やろうとアドバイスし、決して「がんばれ」とは言わない。そういう仕事だ。
そして、そういうことを患者に言うには、そういう価値観を持ってる必要があるが、お医者さんは総じて頑張り屋が多いけど、僕は例外で、性分として精神科向きだと思っていた。

ところが世は末世である。
三平さんが「皆さん、真面目に生きましょう」と言わなければならないように、我々の臨床でも、

困難があらわれると避けることで自分を守る「回避性パーソナリティー障害」や、
やりたくないことに対して、いやだ、という代わりにわざとゆっくりやったり忘れたフリをする「受動攻撃性パーソナリティー障害」と言う人が、
訪れて来るようになって、「ちょっとがんばった方がいいんじゃない?」とアドバイスすることもたまにある。

精神科医がそんなとことを言うようになったら、それこそ世も末だ。
ましてや僕がそんなことを仕事とはいえ言ってるなんて知ったら、教師や親戚は一斉に「お前が言うな!」とツッコミを入れると思う。
そうなると、精神科医のアイデンティティーというのも難しくなってくる。

そこで参考になるのは、やはり談志で、談志は「落語とは人間の業の肯定」が通じなくなった現代で、落語とは「イリュージョン」だと言った。
これは弟子たちの中でもよくわかってない人が多かったそうだが、これも精神科領域と近い関係にある。
イリュージョンは、こっち側から説明した方がわかりやすいと思う。カワクリのHP「クリニック紹介」から抜粋。

心にとって、「病気と健康」や「異常と正常」などに明確な境界線があるものではなく、中間の領域がある。
多くの精神の病気は、この領域がやられてしまい、保てなくなっているようだ。
病気を発症する時には必ずこの中間領域を通過するし、回復期にも同様に中間領域を通って良くなる。
川原クリニックでは、この中間領域を大切に考えている。
中間領域は、他にも「日常と非日常」や「常識と非常識」や「夢と現実」や「赤ちゃんと大人」の間にもある。
そこがうまく機能すると、「遊び」が生まれる。
日本語の「遊び」にはplayという意味の他に「ブレーキのあそび」のように余裕という意味がある。
このような言葉遊びやなぞなぞやジョークやナンセンスが中間領域の代表で、芸術の世界にも発展して行く。
クリニックの空間が遊びに溢れていて、始めはビックリしても、次第に居心地が良くなるのは、そんな計算もある。

僕のアイデンティティーは今の所、そんなところで落ち着いているのだが、一つ心配なことがある。
それは、談志が死ぬ直前に、「落語とは江戸の風が吹く」と言ったことだ。
江戸の風、については、談志はあまり説明してないから、僕もあまりピンと来ないのだ。
それに今は、「イリュージョン」で事足りているから。
でも、この先、また悩むことがあるかもしれないから、少しだけ考えてみるか。

ここでヒント。
晩年の談志は小さん師匠のネタをかけたりしていた。原点回帰か?
さらにヒント。
志の輔は、追善落語会の最後のゴタゴタの中で、「俺は富山の風だ」と言っていたこと。

そうやって考えるとなんとなく、その出自というか、ルーツのようなものの雰囲気が伝わる、あるいはそんな空気感になるってことかと想定できる。

僕の生まれ故郷は、湘南の茅ヶ崎。
東京からみると、藤沢、と、平塚、にはさまれた別荘地で、海水浴場で有名だ。
しかし、藤沢や平塚が区画整理されて綺麗な道路があるのに、茅ヶ崎はクネクネした道がとても多い。
まれに真っ直ぐな道があると、よほど珍しいのか、逆に、鉄砲道(てっぽう・みち)なんて通称がついたりする。
それは茅ヶ崎は、戦争の時に、ほとんど空襲を受けてないからだそうだ。

僕の思い出の中の茅ヶ崎も、温暖で平和なイメージだ。ちなみに僕の出身小学校の名前は、「平和学園」だ。そこに6年通った。平和な小学生だった。
僕の誕生日は、7月24日で、母がよく言っていたが、僕の生まれた日は、とてもお天気のいい、真夏の昼間だったらしい。

だから僕の最終(?)目標地点は、暫定的にここに決めておこう。
つまり、何もしなくても、何も言わなくても、クリニックに来てくれた人が、暖かい気分になってくれること。
お日様を浴びたような風を感じてもらうこと。とりあえず、そうしてみた。だから僕は、くよくよなんかしてられないのさ。

BGM. ヒカシュー「20世紀の終わりに」


セクソロジー入門

30/Ⅰ.(水)2019 くもり 少しあたたかい 橋本治、死ぬ。70才、ジュリーと同い年。

人間の三大欲求は、食欲・睡眠欲・性欲だと言われ、うつ病では、これらが障害される。
だから、うつ病の評価スケールでは必ずこれらを含めたクエスチョンがされるべきなのだが、何故か、
(というより、わかるが)性欲については、聞きにくいし、喋りにくかろう。

ある大学病院で治験をやってる精神科医と話したことがあるのだが、女性に対して性欲の質問はしづらいと言っていた。
だけど、患者が喋りづらいことを聞くのが、こっちの役目だろうが、と思った。

実際、セックスのことで悩んでる人の潜在的な数は多い。悩みは色々。人それぞれ。
でも、食欲や睡眠より、性欲の悩みを抱えてる人が意外と多いのだということを同業者に言い回っている昨今である。

セックスはタブーである。
たとえば、青少年に見せてはいけない「なんとか指定」は、暴力とセックスの関連だろう。
テレビやお茶の間もあきらかな性的描写を排除する。

それで思い出したのだが、僕が小学校低学年の頃、12チャンネルで「ハレンチ学園」の実写を放送していた。
ハレンチ学園は文字通り、ちょっとエッチなシーンの多い、永井豪の原作のマンガで、それをゴールデンタイムに、
お色気ムンムンで発信してしまったのだ。

それは大評判になり、子供達は夢中になり、PTAは「俗悪番組だ」と目くじらを立てた。
その余波は僕らにも直撃して、
「毎週、木曜、7:30~8:00は、自宅学習しましょう」と学校から命令された。
まぁ、家で宿題をいつやろうがこっちの勝手だから、僕はルールに従わなかったが、結構、その影響力はあって、
その時間帯に勉強させられてる家庭のクラスメートはいた。
だから学校で「ハレンチ学園」の話をしても盛り上がれなかった。
いやらしい、やり方だよな、PTAとか大人って。
「ハレンチ学園」の放送時間を自宅学習の時間にしたのである。

そんな「ハレンチ学園」が文部科学大臣賞をとったそうで、永井豪の作品が続々と再版されている。
なんだか、しみじみするなぁ。「ハレンチ学園」が文科省に認められる時代まで生きてしまったのかと…。

当時、糾弾されてる若き、永井豪は、
「自分は性にめざめた頃、父親のエロ本をこっそり見た。しかし、少年の性への興味と、そのギャップは大きかった。
だから自分はそれを埋めるべく、ハレンチ学園、を描いている」
というような趣旨の事を、当時、PTAなどに吊るし上げられているテレビ番組や雑誌の対談で懸命に反論していたのを覚えてる。
札幌オリンピックの直前だった。

僕は中学1年の夏休み、中耳炎になりほぼ夏休み中、耳鼻科に通った。
そこの医者が良かったとか、そこの看護婦がやさしかった、なんて思い出はまるでなく、何の感謝もない病院だが、(中耳炎は治った)
そこの待合室にある「少年マガジン」に連載されていた永井豪の「イヤハヤ南友」が、なんとも、いやらしくて、楽しみで、
毎週、喜んで、その耳鼻科に通っていた記憶がある。

話を戻そう。
皆さんに、性欲について話をさせるなら、こっちからそういう話を切り出さないといけないのかな?と思い、今回はそういう回にします。
だから、性的な話が嫌な人は、ここから先は読むのをやめて下さいね~

オナニーをいつから始めるかは人によると思う。
時代とか文化とか学校の友人の影響とか大きいと思うが、ネットがある今だと、また違うのかなと思うが、
性的なことに関心を示すのは、やはり本人の目覚めだと思う。

僕が小6の頃、山上たつひこ、の「がきデカ」が人気だった。
僕は週末、東京の塾へ電車で通っていたから、その行き帰りに、「少年チャンピオン」を読んでいた。
「ブラックジャック」や「ドカベン」や「エコエコアザラク」や「よたろう」もあったが、やっぱり一番人気があったのは「がきデカ」だった。

山上たつひこ、は皆さんどのくらいすごいか知らないかもしれませんが、たとえば「こち亀」の秋本治が連載当初のペンネームは、
山止たつひこ(やまどめ たつひこ)だったというくらい、
つまり「宝島」を「宝鳥」とか、「乞食王子」を「乞食玉子」みたいに読み間違えるダジャレにするのと同じくらいメジャーな人で、
そんな山上たつひこ、の「がきデカ」以前のヒット作は、「喜劇新思想大系」で、それは僕らの世代には古臭い、性の啓蒙書だった。

そのマンガの中で主人公が、オナニーに使う道具が、「コンニャク」だった。
コンニャクを人肌に茹でて、そこに割れ目を入れると、女性器と同じような感触になるというのだ。
僕のまわりでそんなことをしたという人に1人もあったことがない。
だが、僕は1回だけ試してみたことがある。

コンニャクを手に入れる時は苦労した。
当時はスーパーやコンビニがないから、町の豆腐屋に行って買うのだが、コンニャク1つだけ買うと、
「さては、この子、オナニーするつもりだな」と見破られそうで、仕方ない、要りもしない、焼き豆腐と木綿豆腐を一丁づつ余計に買った。
丁度、エロビデオを借りる時、「キタキツネ物語」と「タイタニック」ではさんでレジに出すテクニックと同じだ。

この話を受付にしたら、爆笑された。普通に1つ買っても変に思う人はいないって。

「じゃ、あなた達は、八百屋にナス1本だけ買いに行ける?」と聞いたら、「行けますよ。1本でも、10本でも」と答えるから、
「10本なら平気だよ。ナス料理を作るみたいだから。ナスを1本だけ買うんだよ」と念を押しても、「全然、平気ですよ」と一蹴された。
俺が自意識過剰なのか?

話をコンニャクに戻す。
僕の失敗は、コンニャクに包丁で綺麗に縦線を入れてしまったから、おチンチンをコンニャクにさすと、ヌルっと飛び出て、まるで、チビ太のおでんのように、
ウインナーがコンニャクから突き出てるようなマヌケな絵づらで、僕はそれを鏡に映して、我ながらそのアホらしさに、性欲も萎え、
鏡をみながら、コンニャクをさしたまま、フラダンスを踊ったものだ。↓。

 

中2のバス旅行で、ちょっとませた子から、バスの窓から手を出してモミモミすると女のオッパイをさわった感覚と同じだ、と教わって、
クラス全員が代わる代わる窓から手を出してモミモミしていた。それが14才の思い出。

高2の夏、泊り込みの勉強合宿に行った。そこで知り合った女の子が積極的な子で、夜に女子寮に遊びに来い、と、いけない誘惑。
僕は悪い友人と3人で、彼女の誘導の元、女子寮に忍び込んで、それぞれが目当ての女の子の布団に潜り込んだ。
見回りに見つかるといけないから、という理由である。僕らは、布団の中でナイショ話をしていた。それは楽しかった。

すると、その女の子はちょっとエッチで、「ねぇ、川原君、何もしないの?」と言って、僕はドギマギして。
女の子はませてるから、僕の手をとって、自分の胸にあてた。
僕は中2のバス旅行以来、はじめて女の人の胸をさわった。
気が動転してるから、その感触が時速60キロの風圧と同じかどうかは覚えていない。

その女の子とは1回だけ映画も見に行ったことがって、つまりデートである。
僕は初デートだから、ロマンティックな映画にしようと思っていたが、彼女は僕に合わせて、
「がんばれ!!タブチくん!!、でいいよ」と言って、僕らは「がんばれ!!タブチくん!!」を見た。

僕の学校の仲間で、女子とデートしたことのある奴はいなかったから、皆、心配と興味本位と将来の自分の予習のために、
5人くらいがコソコソ僕の初デートを尾行してついて来ていた。

当時の映画は、今みたいなシステムじゃなく、全席自由で入れ替えなしで途中入場できたから、
僕らが入った回は満員で、僕は彼女と後ろの方で立ち見をした。
ちょっと離れた所で、5人組も立ち見をしていた。それが17才の思い出。

彼女は石野真子と誕生日が1日違いで、だから僕は何10年たっても彼女の誕生日だけは覚えてる。
ちょうど、今日くらいのはずだ。

BGM. RCサクセション「エミちゃん おめでとう」


統合失調症を考えてたら

16/ⅩⅠ.(金)2018 くもり 寒い 急転、フロイド・メイウェザー・ジュニアvs那須川天心、やっぱり実現?

えばるような事じゃないから言わなかったが、僕は企業のアドヴァイザーをしていて、精神科の啓蒙とかもコツコツしてる。
そして平成最後のクルズスが12月に予定されてて、テーマは「統合失調症」。
幅広い分野であるが、過去の文献などを読み返し、「統合失調症」の歴史的な変化を僕なりに咀嚼してレクチャーするつもり。
現在、その準備中。

そこでどうしてもぶち当たるのが「統合失調症」の予後で、寛解と回復、つまり、レミッションとリカバリーについてである。

レミッションの定義は、一定期間、症状がとれてる状態で、リカバリーはレミッションにプラスして、仕事が出来ている、とか、
QOL(クオリティー・オブ・ライフ)も含まれて、つまり本人が「大丈夫です」って言えること。
「統合失調症」の当事者でありながら、ピア・サポート(当事者だからこそ他の患者さんに出来る援助)をしている、
優秀な子と縁があった。その子は僕の患者ではない。
しかし、このテーマを考える時、忘れられないし、色んな事を教えたり教えられたりした間柄だ。

話は飛ぶが、2018年ももう終る。
今年は大相撲の日馬富士に始まり、日大アメフト悪質タックルに代表されるスポーツ界のパワハラ、官僚のセクハラ、
東医の女子・多浪受験者差別など、おそらく今に始ったことじゃないことが、一斉にあぶり出された1年だった。
こんな事件は今までいくらでもあって、ハラスメントの被害にあった患者さんが調子を崩して受診して、
こちらが「診断書」を書いていくら言っても、たいていそういうハラスメントをする上司は「優秀」だったりして、
もみ消されて、上司を飛ばすことは出来ないから、「経験の少ない」「戦力にならない」被害者が異動になっていた。
僕は随分、戦ったが、診断書や意見書の効力など、そんなものだ。

ところが今年から潮目が変わった。
おそらく先に述べた事件の影響で世間の認識の変化や、「外圧」に対する企業のおそれや保身のせいだと思う。
今まで泣き寝入りだった人の、「人権」が尊重されるようになった。
「優秀」でも「ハラスメントをするような人格に問題のある人」がペナルティーを受けるように世の中が変わった。
皆さんも気付いているかもしれないけど、世の中は少しだけ良くなっているところもあるのです。

そこで話を戻すが、「統合失調症」である。
僕の知ってる患者は、その指導者のせいで調子を崩し入院した。
僕はものすごく頭に来て、そのことを入院先の病院に告発したが、「それは彼女の妄想」と簡単に処理され、
そもそも「男」は将来有望で、機関としても変な噂はもみ消したかったのだろう、「彼女」だけの問題になった。
そして、僕に至っては「おかしな医者」だ。
もし、これが今年の出来事だったら違う展開になったのかもしれないぁと、今、勉強会のまとめを作っててそう思った。

医療従事者と患者の「純愛」というものをどう考えるか?という命題はある。
そこには「禁欲原則」というのがあって、自分の立場に相手が惚れ込む要素がある立場の場合、
それを利用してはいけないという掟だ。
だから、例えば、2人がそういう関係になるなら、「治療者・患者関係」を辞め、「代わりの治療者をきちんとみつけた上で
交際しろ」、という明確なルールがあり、問答無用でロマンスの邪魔をしているのではない。そんな野暮天ではない。
ただ、ズルいことするな!、というだけである。
それは「教師・生徒間」とか「主従関係」とも同じで、「あこがれ」や「尊敬」や「援助」などが先に立つ関係すべてに言えることで、
プロとしてのモラルの問題である。

要は、モテない男が、地位や立場を利用して、SEXしようとしてんじゃねぇよ!っていう話である。

おい、こらお前だよ、お前。反省しろ!

BGM. ザ・タイマーズ「偽善者」


クルズスしようよ

1/ⅩⅠ.(木)2018 はれ、ちょっと肌寒い ハロウィンも済んで、今年も残すところあと二ヶ月

11月から受付にニューフェイスを補強する。それにあたり院長、自らクルズスをやろうと下準備中です。↓。

皆さんにも、ほんの一部を紹介しましょう。

①なぞなぞ、を作った意味

…日本は視線恐怖の文化である、と言われる。
昨今は欧米風に人の目をみて喋れ、と言うが、日本人は「人の目をみると失礼」という文化もあり、
「ナニ、ガンつけてんだよ!」ということにもなる。
そのため、名刺文化といい、相手の目をみない、三角形の構図を作った。

クリニックに来た患者さんには、なるべく色んな人と話して欲しい。
「気がついたら一週間、誰とも喋らなかった」「一回も笑わなかった」という人もいるから。
しかし、大抵、そういう人は緊張しぃで、視線(対人)恐怖気味である。
だから、共同注視する小道具として、なぞなぞを作った。

三角形の構図になってるでしょ?
なぞなぞ、は遊びだから、解けた時の快感と、そこで笑いが生じれば、喜ばしいことである。

②ブログの効能

…遠方に行ってしまった人や、「卒業」をした人にも、カワクリは実家のようでありたい。
今に奉仕する退行、という言葉がある。
退行とは、赤ちゃん返りみたいに良くない文脈で使われることが多いが、懐メロ効果のように、
過去の自分が今の自分にエネルギーをくれることがある。
朝青龍がバッシングを受けてた頃、勝手にモンゴルに帰ってサッカーやってて、余計にバッシングを受けたが、
朝青龍はそれで元気を取り戻した。
それと同じように我々も「帰れる場所」が欲しいし、そういう「帰れる場所」でありたい。
だから、今通っていない人も時々、覗きに来てもらって、「相変わらずだな」と笑えるブログの記事を提供したい。

③定例会の意義

…ほうれんそう、という言葉が出来始めた時、報告・連絡・相談、をほうれんそう、とするセンスに嫌悪感を抱いたが、
でもそんなことを言っていられないくらい、ほうれんそう、が日本人は苦手っぽい。僕も生粋の日本人。
ヘルメットにアンテナがついてて、それをかぶると何も言わなくても、以心伝心、みたいな道具があるといいな、と思う。↓。

そんな漫画みたいなことも言ってられないし、そこはやはり人と人とのコミュニケーションが大事になる。
それで普段の日常だけではわからないプライベートな部分や人柄を知り合う機会を、まぁ、酒でも酌み交わしながら、
無礼講でぶっちゃけ、普段のストレスを共有する会にしようと作ったのが月1の飲み会、定例会。
僕は不満の矛先・標的になるのは覚悟の上なのだが、全然、皆さん、お行儀よくて、肩透かし。

④コミュニケーションについて

…コミュニケーションには、バーバル・コミュニケーションと、ノン・バーバル・コミュニケーションがある。
バーバルとは、旧約聖書のバベルの塔、が語源で、民衆が神に近づこうとバベルの塔という高い塔を建てるが、
旧約の神様は気が短いから、怒ってこの塔を壊して、さらにもうこんな密談が出来ないようにと、皆の言葉をバラバラにしてしまって、
それで言語というものが出来たという。バーバルは、バベルから派生した言葉。

一方、ノン・バーバルとは日本語にすれば、非言語。
「ごめんなさい」がバーバルだとすると、それを涙を浮かべて汗だくで前かがみで言うのと、
足を組んで鼻をほじりながら言うのでは、受け取り側の意味が全然違うでしょう?
つまり、バーバル(謝罪)よりノン・バーバル(態度)の方がメッセージ性が強いのだ。それを受付は知っておくべきだ。
ちなみに声のトーンでも差が出ますね。それは、ボーカル・コミュニケーション。

⑤うつ病に「がんばれ」はダメ?

…AKB総選挙をみてたらメンバーの家族がインタビューで、「あれだけ頑張ったんだからこれ以上、頑張れとは言えない」と言っていた。
「うつ病」に、がんばれ、と言っちゃいけないというのは同じ理屈だ。
一方、3.11のあと、CMでSMAPが「がんばろう!日本」と語りかけて、被災者を勇気づけていた。

がんばれ、って言っていいの?悪いの?よく聞かれる質問だ。
こんな話がある。
野茂がメジャーに行く前は、アメリカの野球は大リーグといい、元・大リーガーは助っ人外人と有り難がられて日本に来た。
正直、テキトーな奴が多かった。
それでも真面目な選手もいて、スランプに陥った時、日本のコーチにアドヴァイスを求め、元々、素質はズバ抜けてるから、
すぐに勘を取り戻し、「サンキュー」と言った。
2人の間には言葉の壁があるから、練習には通訳がついていた。
コーチは、選手に向って、「がんばって!」と答えた。

するとその助っ人外人は激怒したという。「お前は俺が頑張っていないというのか!」と。
これは通訳のミスで、コーチの「がんばれ」を「Do Your Best」と訳してしまったのだ。
これはつまり、さっきの例でいうと、AKBの親が言えない、と言ったパターンを言ってしまったのだ。
それでこの場合の正しい訳は、「Good Luck」なんだって。幸運を祈るよ、応援してるよ、という意味で、つまりSMAPの方だ。

日本語の「がんばれ」「がんばって」にはこの二つの意味がある。
どっちの意味で使っているのかを使い分けるセンスを持つといい。
「うつ病」の人に「がんばれ」と言ったら、ただちにダメという訳ではない。それは言葉狩り。
ノン・バーバルが大事なのでしょう。

⑥守秘義務

…クリニックに来る人は色んな悩みを抱えてくる。それを告白することには、不安もあるだろう。
診察やカウンセリングとは、「ここだけ」の話をしに来るところだから、そういう意味で我々の仕事で一番重要なのは、
守秘義務、になるだろう。
仕事で知りえた情報は、たとえ家族にも恋人にも話してはいけない。それがここで勤める鉄の掟。

⑦うつと不安のメカニズム

…これまでは心構え的なことでしたが、徐々に病気や薬の説明や、心理学的な規制の説明もしていきましょう。
たとえば、こんなシェーマを用いたり。↓。

その後も、⑧山あらしのジレンマ、⑨反復強迫、⑩喪失体験、⑪ペットロス、⑫宗教と精神科のちがい、⑬世代間伝達、など。
でも、これはもっと先の話かな。焦らず、ゆっくり、何度も繰り返しレクチャーして行きましょう。
同じ話は3回言ってやっと入るのが普通でしょ?1回で覚えられるのは、天才か、思い出が少なくて容量に空きの多い人。

 

ざっと話してみましたが、皆さんの視点からみて感想があれば教えて下さいね。
クルズスとは、ドイツ語で、講習や授業のことを言います。

BGM. よしだたくろう「まにあうかもしれない」


夢について。教えちゃうぞ。

10/Ⅹ.(水)2018 はれ ゴールデン・アーム・ボンバーの輪島、死ぬ。

夢を大切にした人の話しは多い。

ソクラテスだったか、プラトンだったか忘れたが、当時は哲学と数学は兄弟みたいなものだったらしいが、
音楽は一段下にみられていたそうだ。
そうしたら、ソクラテス(か、プラトン)の夢に音楽の神様が現れて、
「おい、ソクラテス(か、プラトン)よ。音楽も重要じゃぞ」とか言って、
そうしたら、ソクラテス(か、プラトン)は、翌日、往来で自作の歌を作って大声で歌って披露したという。

親鸞の時代は、僧侶はお肉を食べちゃいけないし、女と寝るのもいけないとか、タブーが多かったらしい。
確か、親鸞は京都の六角堂で居眠りしてたら観音様が現れて、
「おい、親鸞よ。お前様は女と寝ていいぞ。その時、この観音が女とすりかわってやるから、お前様は女と寝たのではなく、
観音とまじわったのじゃ」と何とも都合の良い夢をみて、かつ真に受けて、女犯妻帯をはじめて行ったお坊さんだそうだ。
っていうか、そもそも六角堂で寝るか?すごいな、親鸞。大好きよ。

つげ義春は、ガロの締め切りが近づいても、何のアイデアも出ないから、屋根の上で昼寝をして、
その時にみた不思議な夢をそのままマンガに描いて、とりあえず出した。
夢だから細部がはっきりしてないので、「○×方式」とか「××クラゲ」と記載したが、
編集者の誤解で、誤植で、「××クラゲ(ばつばつ・くらげ)」を「メメクラゲ(めめ・くらげ)」とされたが、
つげ義春本人は、「どうでもいいや。どうせ夢だし」ってそのままにしといたら、「メメクラゲ、って何?」って話題になって、
遂には、「マンガか芸術か?」という論争にまで発展するのだから、いい加減なものである。ねじ式、より。↓。

元ネタは何だったか忘れたが、縁起の良い夢をみた人から、その夢を売ってくれと大金を払った人の話があった。
日本の昔話だったか、海外のジョークだったか、落語だったか。
もっとも落語は昔話も海外のジョークでも吸収してネタにしちゃうからなぁ、いよいよ何だかわからない。
所ジョージが吉田拓郎の初期の名曲「恋の歌」に惚れ込み、
「自分の全曲をあげるから、恋の歌(の著作権)と交換してくれ」と頼んだエピソードと通じる熱量だ。
気持ちはすごくよくわかる。

診察で夢の話をする人は意外に少なく、そんな中、最近目立つのは2つのパターン。
1つは、夢の内容をバーっとしゃべって、その後、ネットで調べてきた解釈を語る人。
もう一方は、「夢ばかりみます」と言うものの、その内容は喋らず、具体的に聴いて行くと、
「えっ?夢の内容なんか、ここで喋っていいんですか?」と言う人。
前者は「夢占い」を楽しんでいる人で、お遊び感覚で、それはそれで良いと思う。
後者は夢はくだらないものと思い込んでる人。こっちの人には、言いたい。夢をもっと大切にしよう。

TPOにもよるが、両者に僕は一応、我々が夢をどう考えているか説明することにしている。
日常の中では色んなことがあるが、一々覚えてたらたまったもんじゃないこととか危険な思想もある。
そういうものは普段の生活をするにはあまりよろしくないから、無意識下に閉じ込められる。

でも、そういうものも、エネルギー体だし、彼らにとっては不当に抑圧されてる訳だから、いつか意識に飛び出す隙を狙ってる。
日中は、意識と無意識の国境線上に門番がいっぱい立って、これらが出ないように見張っているが、
夜勤帯になると門番の数も減るから、抑圧されてる強い感情や記憶は飛び出すチャンスで勢いを増す。
こうなると、さすがに門番でも抑え切れないが、これらがそのまま飛び出すと睡眠を妨害したり、
不穏な世の中になるから、数少ない門番には、それらを別の形に変身させる特殊能力が与えられていて、
これを検閲といい、彼らは検閲を受けて、夢に登場するのである、という考え方。

だから夢に出た素材を「夢事典」みたいなもので象徴解釈してもあまり意味はないと思う。
なぜなら今の世の中は情報量も多く価値も多様化しているから、個々にとって象徴の意味は異なると思うからだ。
この検閲のシステムをとても上手に書いてるなぁと思う参考文献は、筒井康隆の「夢の検閲官」という短編小説で、
「夜のコント・冬のコント」に収録されている。

簡単に要約すると、ある女性が夢をみると、夢法廷、というものが開かれ、夢の検閲官が登場する。
この女性は二ヶ月前に息子を亡くしていて、その悲しみから毎日酒びたりで、夢の舞台に登場しようとするものは、
息子に関する内容ばかり。
しかし、それをそのまま通してしまったら、彼女は息子のことを思い出し、飛び起きてしまう。
なんとか、そうとは判らないものに検閲しなくてはならない。
ルールは、彼女の記憶にあって、息子を連想させない別のものにする、のである。

まずは息子が通っていた中学校がやってくる。こんなものをそのまま通すわけにはいかない。
そこで検閲官は、建物つながりで、彼女の故郷の合掌造りの家に土木工事班に命令して作り変え、舞台に出す。
次に来たのは担任の教師。こんなものを通したら大変だ。たまたま、この担任の下の名が、おじさんの名と一緒だから、
おじさんを呼びつけ、置き換える。幸い、彼女はこのおじさんのことを良く思ってないから人材としても適している。
次にクラスメイトたちがゾロゾロ来るが、彼女は息子がイジメを受けてたのではないかと思っている。
こいつらも舞台に出すわけにはいかない。
しかし、こんなたくさんの人物を一つ一つ変換するのは大変だから、そう言えば、授業参観の時に彼女は、
教室の後ろからみるたくさんの坊主頭を「くさった黒いトウモロコシみたい」と思った記憶があった。
それを利用して、圧縮して舞台に出した。
そうすると、夢の舞台では、合掌造りの家の前で、おじさんが黒いトウモロコシを食べてる途中経過だ。
「これなら、何の夢か判らないだろう」と検閲官はご満悦。
ところが、そこに息子がやってきてしまう。
もう毎日毎日、この息子はやってきて、あらゆるものに変換しつくしていた…。

ここから先は内緒にしておくから、興味がある人は読んで下さい。面白いですよ。油断してると泣きますよ(笑)

さて、しばらくブログで心理部門のコンテストをやってないので、折角だから、夢について何か書いて貰おうかな。
もうコンテストじゃなくてもいいから、合作でも、対談でもいいです。

一般的な啓蒙でもいいし、こぼれ話風な面白エピソード、あるいはカウンセリングで夢はどう扱うかでもいいですね。
まぁ、夢の報告は、治療関係の進み具合を反映しているから、慎重に取り扱う必要があるから一概には言えないということを判った上での無茶振りです。

そうそう、僕の夢日記「地獄寿司」をテキストにして思いついたことを書いてもいいですね。
ここでこんな風に質問してみる、とか、ここはきっと川原先生のことだからこんなことだろうと想像するが、今は言わないで、
これこれこういう時が来たら介入するヒントにするとか。
企画的には面白いと思うけれど。
では心理の皆さん、よろしくどうぞ~。

BGM.ビートルズ「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」


トランポリン

7/8(日)サーカスを観に行った。
お台場は、心理的に遠いだけで、時間的には断然近い。

僕を魅了したのは、丸い装置の中に隠れてる赤い服の小人。
はじめ、子供かと思った。
ラストに撮影して良いタイムがあるので、狙って撮った。

一つのズボンを二人で履く、シャム双生児を思わせる男も後半では上半身裸になって、アクロバティックな空中パフォーマンスをみせて、
ブリティッシュ・ブルドックスを彷彿とさせた。
うちの受付スタッフのため、上半身裸男の写真も撮っておいた。

サーカスの後半にみたトランポリンはすごかった。
見てるうちに判ったのだが、あれは大人数でやる団体プレーで、一人を高く飛ばせたいなら、
他の人達が同時にトランポリンの端っこを勢い良く跳んでバネを効かせ、
止まらせたい時は近くに集まって寄って反動を抑止するステップをふむ。
そう言えば、うちに開封してないトランポリンがある。
5分で1km走ったのと同じダイエット効果がある、との謳い文句に乗せられて購入したが、
買ったら満足しちゃったのと、冷静に考えたら天井に頭をぶつけちゃうんじゃないかと思って、開けてない。
「買う前に、そう思わないんですか?」と受付に言われた。
でも、今回のシルクドソレイユ「キュリオス」で僕のショーマンシップに火が付いた。

先月、恒例の精神科開業医仲間の集まりがあった。
不倫と、商談と、子供の進路の話が中心のちっとも面白くない会なのだが、今のブームは体幹トレーニングだ。
皆、年をとってきてるのと、そうは言っても医者だから健康志向ということもあって、
体幹トレーニングの個人レッスンを受けてる人が半数で、残りも感化され、
「これからやろう!皆でやろう!だから、川原もやろう!」という話になった。
呑みの席なので、あまり頑なに拒絶するのも場がシラけるから、<グッド・アイデアだね!>と親指を立てておいた。

しかし、そんなものやるもんか。
総合格闘技の五味隆典が、UFCにいた時、
「UFCはもうUFCという競技になっていて、戦術が決まっていて、面白くない。
自分はあえてそれに逆らって自分のやり方でやってスカ勝ちしたい」とインタビューに答えてて、
まぁ、結果はダメだったけれど、そういう心意気というものにすごく共感したものだ。

だから僕も、効率よいダイエットが体幹トレーニング個人レッスンだと判っていても、そこは五味と一緒の了見で、
トランポリンで自主トレしよう!

今は何でも自己流よりコーチについて習った方が効率も良いし、間違いも少ないし、そういう環境も整っている。
精神療法の卒後トレーニングも充実していて、毎週何らかのワークショップがある。
精神療法の技法も多様化し、時代や病態に合わせて、色んなやり方が編み出され、その勉強会が雨後の竹の子、
のごとくだ。
そんなものに参加して勉強した気になるのを、体幹トレーニング個人レッスンや、UFCの戦術と同じように感じてしまうのだ。

五味が、グダグダ言わず、パンチとキックで倒す、と言ってたのを、我々の治療ストラテジーに置き換えると、
それは、支持・傾聴・共感、になるのだと思う。
これって、シンプルなようで奥深い。
流行のテクニックに浮気せず、大切なことに磨きをかけて行きたいと思う。

BGM. 忌野清志郎 「JUMP 」