19/Ⅹ.(金)2018 くもり ベビメタYUIMETALが脱退!
カワクリは現在、夢について啓蒙キャンペーン中。
カウンセリングにおいて、夢を扱うことが近代的なのかどうかは別として、柔道家が足関節を極められるように、
プロとして裏技を持っていた方がいいと思う。
実際に、夢の報告をする人はいるから。
そういう訳で心理部門に夢の記事を発注してる最中です。
僕の夢日記を題材にしてもいいよ、と、少し前の記事に、夢の因数分解、を書きました。
夢はシリーズで読め、とも言われるので、その第2弾をお送りしましょう。
それではまず復習からしますか。テキストブックはこれです。
多分、僕が子供の時の家族は海外旅行というものをしたことがない。
「トリスをのんでハワイに行こう」じゃないけれど、海外旅行なんて、夢のような時代だった。
僕が小学生の時、父の妹(おばさん=と言っても年が離れてるから若い!)がハワイに行くと聞いて、
一家に衝撃が走ったのを今でも覚えている。
なんて言うのか、クラスで一番地味な子が、一番最初に結婚して、その結婚式の招待状が届いた時のような心境か。
僕は昔、いわゆる国辱ツアー、というのか、そういうことが目的の海外旅行に友人達と行ったことがある。
勿論、目的は観光とかグルメとかビーチとか異国情緒でもあったが、性産業という付属品がついていた。
しかし、僕はいい子ぶる訳ではないし、または職業差別的なことを言ってるのではなくて、職業に貴賎はないし、
人類で一番古い職業は売春だと知ってるし、なのに何かキザにロマンティックに、
愛がなければエッチは出来ないみたいな、青臭いことを盲信していたのである。まったくもってバカであった。
アルファベットで言えば、「H」のあとに、「I」が来るのだから。
そんな旅行の時、みんなで盛り上がってご飯を食べて、「次は~」という時に僕はホテルに帰るのである。
とんでもなく、付き合いが悪く、ノリの悪い、田舎モンだ。自分で自分の過去が忌々しい。
たとえば、友人と歌舞伎町で呑んでその足でそういう店に行こうよ、って時も、僕はバッティングセンターで待っている。
接待で吉原に行った時も、僕は待合室で皆を待っていた。
これは風俗嬢から嫌われるタイプの男らしい。っていうか、会ってないから、それ以前の問題だ。
あーあ、俺は何をやってんだろう。今の頭脳のまま、その頃に戻れたらもっとうまいやり方が出来るのかな?
変わらないかな?
実は僕は温泉が嫌いである。
医局旅行で、ナントカ温泉って所に行ったが、僕は体を洗ってから浴槽に3秒くらい浸かってすぐ出たら、
後輩が「もう出るんですか?」とビックリしていた。
僕は母と年末年始に箱根の温泉でゆっくりしようと出かけたことがある。
僕はもう20才くらいだった。
繁忙期の温泉宿のサービスなんか期待する方が悪いのだが、僕はあまりの雑な接客に頭に来て、「帰ろう!」と言い、
母を連れて帰ってしまった。母は悲しそうな目をしていた。
でも僕はそんなことより、自分のイライラの方が上回って、抑えようがなかった。
そんな性分は今もあまり変わってないような気がする。
売れてない頃のRCのエピソードでキヨシローと三浦友和は高校時代の友人だから、山口百恵との結婚式にキヨシは呼ばれ、
でもスーツなんか持ってなかったから、Gパンと赤い皮ジャンで行ったってエピソードを高校時代に知って、
あわてて赤い皮ジャンを探しにアメ横まで行った。
でもなかなか若く、結婚式をする友人がいなかったから、着る機会がなかったが、
若くして死んだ友人のお通夜にその格好で行ったら、友人からは非難ゴウゴウだったが、その家族からは、
「本当に急いでかけつけてくれたのね」と涙されて、感激された。
それ以来、味をしめた僕は知り合いの死には、葬式には行かず、お通夜に派手なファッションで行くという悪癖がつき、
そういう席では浮くのであるが、喪主や親族達は意外と喜んで近寄って声掛けしてくれるから、
しばらくはこのライフスタイルで行こうと思ってる。
僕は大学5年生の時に大失恋をした。
それは相手が僕のことを好き(だと思ってた)なのに、相手が僕じゃないダサいクラスメートと付き合って、
僕は告白もしてないのに、捨てられて、何故かすごく傷心して、学校にも行けなくなって、クラスの女子達が、
「早く元気出して」
「学校に来てね」と寄せ書きをくれて、それが余計に自分をみじめなような気にさせた。
世の中はバブルで、皆、クリスマスにお目当ての女の子をどこに誘って落すかなどという雑誌の特集に夢中で、
僕はと言えば、いつの世も一定数いるような疎外された部外者の人間で、ふてくされるエネルギーもなく、
ただ離人症(りじんしょう。現実が害だから現実感を失うことによってバリアを張って心を守ろうとする防衛手段)のように、
ほうけていた。
すると、クラスの人気者のレレちゃんが、クリスマスイブに僕を誘ってくれた。
お家でホームパーティーをするから、「タツジもおいでよ」と言うのである。
僕は暇だったから、そこに参加した。
ところがそこはとんでもない異世界で、外人とかハーフとか美男・美女の集まりで、みんなドレスアップしてて、
ある男はローストビーフを焼いてきたとお土産に持って来ていた。
僕は料理人以外で、男が料理するのか?とビックリした。
まだビストロSMAPのずっと前の時代で、ジャニーズで言えば、マッチが「愚か者」を歌ってる頃だと思う。
そんな僕はレレちゃん家のパーティーで、隅っこの四角いソファにポツンと座っていて、
そしたらレレちゃんがやたら親しげに話しかけてくれて、彼女のいい所は決して僕を他の人と仲良くさせようとしない所で、
彼女は僕とだけしか通じない話(たとえば、カレーうどんはさまして食べた方がおいしい、とか)をして、僕をもてなしてくれた。
僕はそれを見習って、今の人付き合いの基礎にしている。
山口百恵で印象的なのは、ジュリーと共に東京音楽祭に出た時、「夢先案内人」を歌ったのだが、音程を外しまくっていた。
後のインタビューで読んだのだが、「私は生理になると極端に音を外す」と、まだ中学生だった僕は女体の神秘におののいた。
山口百恵は、年端も行かないデビュー直後から、「青い性」路線みたいなもので人気を博したり、
「百恵白書」というアルバムの一曲では、自らの性(欲)体験を述べていたり、さっきの「生理」発言だったり、
性的な感じを戦略的に打ち出していたと思うのだが、僕が好きな期間は、珍しくセクシャルな要素が薄い時期だった。
とくに「花ざかり」というLPを買った時にもらったポスターの彼女は、となりのお姉さんみたいな普通の姿で、
僕はそれが一番のお気に入りで今も診察室の後ろの扉に貼ってある。↓。
僕が山口百恵のファンだったのはセクシャルじゃない時期だと言ったが、例外的に「冬の色」という曲は好きだ。
「あなたなら他の子と遊んでるとこをみかけても待つことが出来る私です」
という歌詞は、いじらしさというよりも、相手の事を誠実に心の中に定着させているからこそ言える発言で、
たとえば子供が母の姿がみえなくなると泣き叫び、みつけると泣き止む、という赤子から、
一段、大人になって、みえなくても泣かないで待てる、という成長のステージを恋愛関係の中で表現してるところに、
目新しさを感じたのだ。
心のノート、は何かそれと似てるフィーリングがする。
相手や自分やお互いが忙しくて、離れ離れの時間が長くても、いつも一緒だと信じられる力、それをサポートする小道具。
それが、心のノート。
小ちゃい子がお母さんが不在の時も、お母さんの匂いのするタオルの切れ端をお守りかわりに持っていれば、
安心っていうのとちょっと似てると思った。
BGM. 山口百恵「乙女座宮」