9/1は、18才以下の自殺者数が1年で一番多い日だそうだ。
そのため「死にたい」と思ってる10代の声に耳を傾ける番組を8/31の夜にEテレのハートネットTVでやっていた。
司会が、千原ジュニア、ゲストに大森靖子ら。
番組を見守る「お月様」のナレーションの正体は、しょこたん、だった。↓。
うちのブルーレイ・レコーダーのお気に入りワードに、中川翔子、と、大森靖子、が入れてあるからWで引っ掛かった。
まぁ、フツーの番組だった。
9/1から新学期(だから自殺が最も多い)という想定の上、8/31の夜にやることに意味があるのだろう。
自殺、は仕事柄、常に向き合っている問題だが、いつも思うのは、命かけてまで行く価値のある学校なんてないってことで、
行きたくなけりゃ行かなきゃいい。
いまどき、「すべての人間が平等だ」、と本気で信じ込んでる人は少ないと思うが、
人間誰しも、「自分の意志で生まれて来たんじゃない」、という点と、
「自分の望むタイミングでは死ねない」、という点のみにおいては平等だ。
そんな宿命に抵抗する手立は自殺くらいしかないのだとしても、失敗して生き残るとかえって面倒だったりするし、
成功するにせよ、死ぬまでは生きてないといけない訳で、決意してから死ぬまでの時間は恐怖だろう。
自殺をする勇気がないのなら、せめて安らかに死なせて欲しいものだ。
研修医の頃、精神科の主任教授に、「川原君、今後の高齢化社会で重要なことは何だと思う?」と質問された。
僕は少し考えてから、<安楽死ですか?>と答えたら、教授は、真顔で「惜しい!」と、うなった。
(ちなみに、正解は、「安心してボケられる世の中作りだ」って)
自殺と安楽死って、ニュアンスが似てる部分があると思う。
僕の通ってた医学部の教養課程では、「医療倫理」という講座があって、主に、
・「安楽死」と「尊厳死」の違い、とか
・ヒポクラテスの誓い、などが
テストのヤマ、だった。
安楽死は、医者が末期患者などに薬を用意して自殺幇助(ほうじょ)することで医者が関与したケースで、
一方、患者が同じ薬を自分で手に入れて使用したら、それは自殺になる。
尊厳死は、患者の意志によって延命治療を止めて自然に死を迎えること。
つまり、安楽死と尊厳死の違いは、医者が手を加えるかどうかの差。
ちなみに「ヒポクラテスの誓い」では、医者は誰に頼まれても決して死に至る薬を与えない、という項目があり、
安楽死は認めていない。
時代の移り変わりで価値観は多様化し、安楽死を認めている国もある。
スイス・ベルギー・ルクセンブルグ・オランダ・アメリカの一部・オーストラリア・カナダ・コロンビア。
この中でも、スイスだけが外国人の安楽死を行ってる。
末期癌の疼痛や、痛みの激しい不治の病の安楽死は、了解しやすい。
問題は、精神的な苦痛をどこまで考慮するかだ。
ステージは末期ではないが独り身でゆくゆくは老人ホーム、これまで幸せに生きて来たがこれからは不幸になるだけ。
それならば不幸になる前に逝きたい、という人が安楽死を希望したら?
何十年も連れ添った配偶者が末期癌で、本人は病気ではないが、配偶者のいない人生は考えられないと、
夫婦同時安楽死、が論争になったこともある。
ベルギーでは精神疾患や重症の「うつ病」などにも、安楽死、が認められたケースがあるという。
一昔前は、うつ病患者に自殺をしない約束をしたものだ。
うつ病の病前性格は真面目だから、「約束は守る」とか、「医者に迷惑がかかる」、ことがブレーキになると考えられていた。
随分と、性善説だ。
電車に飛び込むと賠償金とか、飛び降りは誰かをまき沿いにするからとか、が自殺を食い止めている場合もある。
しかし、本当にヤケになって、死ぬしかない人は、死んだ後の心配など知ったこっちゃない、のであるのも確かで、
精神科医がそんな浅い性善説に頼っていては、患者に見透かされて、「何もわかってないな」と見限られてしまう。
10代からODやリスカを繰り返し、精神病院に強制入院になり、病棟で首吊り自殺をする、なんてケースはよくある。
だから閉鎖病棟の持ち物検査は厳格で、ベルトや紐靴もNGだ。
それでも本気で死のうと思ったら、入院させても100%は防げない。
シーツを破ったり、舌を噛んだりするから。
もし、こういう人に、安楽死、を認めてあげたら、逆に抑止力にならないだろうか?
自殺が出来ない自殺願望のある人の最大の苦しみは、死ねない、という事実で、
「この薬さえ飲めばいつでも自分のタイミングで楽に逝ける」と思えば、結局死なないで済むケースも出て来ないか?
ただ難しいのは、自殺の意志や本気度は今日言ってることと5年後に言うことが全く違うことがあることだ。
「うつ状態」の時と、薬を飲んで「良くなった」時では言ってることが、180度違い、そのどっちが「本気」なのかはわからない。
安楽死はまだ日本では認められていないが、今後の動向はわからない。
早いうちから、「安楽死専門外来」、を立ち上げておくと、その道のオーソリティーになって、認可されやすいかもしれない。
だから、自殺を今考えてる人は、もう少し待てるなら、「安楽死専門外来」、に通ってみたらどうか。
医者が手助けして、無痛で20分くらいで苦しまずに死ねて、事故物件とか残された人にも文句を言われないで済む。
何なら、死ぬ前に、パーティーをしてシャンペンとか飲んで、思い出話に花を咲かして、皆に見守られながら毒薬を呑む。
自殺、と一口に言っても、「死ぬしかない」「死んでお詫びを」「消えたい」「死んでやる」などのバリエーションがある。
昔、「自分の葬式に誰が来るか?リスト」を作ったことがあるが、「死んでやる」という人には、それのリアル版で、
関わりのある人たちの「反省」の肉声を生前葬儀のパーティーで聞けるメリットもある。
オチとして、「なーしよ」も有りである。
この間、自殺願望の強い女の子に、「安楽死専門外来」を考えてるんだとフライング気味に話してしまった。
すると驚いたことに彼女は、「私はスイスに行きたいんです」と教えてくれた。
彼女は、どんなビザをとったらいいか、とか、手続きとかを一生懸命調べていた。
思わず僕は、<あなた、よく勉強してるね>って感心すると、
彼女は照れ笑いして、「そんなの皆、知ってますよ」と謙遜した。
彼女の言ってる「皆」がどの辺りのグループをさしているのかは疑問だが少なくとも「自殺」をあきらめて、
「安楽死」に希望を託す人たちがいる空間がこの世に存在してるようだ。
僕が、<色々と難しい問題はあるが、そういうことも考えているんだ>と告白したら、
彼女は、「それはとても安心しました」、「もう少し生きててもいいかな」、と言った。
繰り返しになるが、一番難しいのは、人間は状況に依存しているから、状況次第でコロコロ考えが変わったり、衝動的になったりする点だ。
だから、一時の勢いで重要な決断をしない方が良い。安楽死、もそうだ。
人間は信用出来ないが、中でも一番信用おけないのが「自分」だったりするものだ。
一生懸命生きてる人は一瞬一瞬を大切にしてる分、発言に一貫性がないのと似ている。
だから賢明なのは、自分のことをよく知っていてくれる人を身近に置いておくことだ。
家族や友人でもいいが彼らは思い入れがある分、ノイズが入るであろう。
だから、専門家に定期的に通い、そういうことにブレない恒常的な外部オプションを作っておくのが良いと思う。
それが、安楽死専門外来、の設立の理念。
ブラックジョークみたいに思うかもしれないけれど、「自殺」がこれだけ問題になっているのだから何かしなきゃね。
綾小路きみまろのギャグで、
「頑張りましょう。頑張るために生きてるんだもん。幸せになるために生まれて来たんだもん。ただ、幸せになれないだけの話し」
というのがあるが、命かけてまで頑張る価値のあることってこの世にあるんですかね?
幸せ、って言うけど、幸せの基準を決めてもらわないと、何をもって幸せというか判らない。
膣内に一度に射出される精子の数は、数千万~数億個で、それが日本の人口と同じ位で、
それで精子の時点で競争に勝って受精したのだから、生まれて来ただけで人間は「勝ち組」って言う人もいるけれど、
そういう人が数千万~数億人いるのだから、その理屈で自分を「特別」と思えるほど、お気楽にはなれない。
生きること死ぬこと、を考えるのは難しいですね。
「安楽死」はとりあえず、脇に置いておいて、「生きる意味」とか、「自殺は何故悪い」とか、
「人殺しは悪いのに戦争だと英雄になる矛盾」とか、このご時勢もふまえて皆さん、どうお考えになりますか?
そうだな、ソネさんの意見を聞いてみよう。ソネさんとは、よくそういう話をするから。
「なんで頼んでないのに生んどいて勉強しなきゃいけないの?」とか。