クリスマス気分~映画「けいおん」公開記念号

6/ⅩⅡ.(火)2011 朝は雨、午後から曇り
どこで買うかによって特典が異なるから、何かを買う時は迷うものである。3日、封切りの映画『けいおん』の前売り券もそうだ。
誰かはアニメイトで買ったと言ってたし、誰かはTSUTAYAで買うと言っていた。僕は、TBSショッピングで購入した。
特典は5人分の(5種類の)お面とでっかい横断幕だ。こう言っちゃなんだが、共通項は「過剰」だ。
お面は、一度、徳田さんに被ってもらったきり、使う術なし。横断幕は、思い切って診察室に貼ってみた。↓。

もしも診察室の椅子に座ったら、斜め右後方に有ります。普通に座ってたら、視界に入らないのでご心配なく。
「けいおん」関連のグッズは色々あって、全部、貰ったものですが、一部、紹介しましょう。
あっ!こんな風に言うと、何か要求されてるように思われる人もいるかもしれませんが、そんなことはありません。頂き物はご遠慮してるので、皆さん、お気持ちだけで。
下は、色紙。↓。

裏は、こう。↓。

これは、デニーズのコースター。↓。

クリスマス、つながりで澪サンタ。↓。

街は、クリスマス気分ですね。カワクリも、「けいおん」以外にも、ちょっとクリスマス・テイストを織り込んでみました。
下は、「かんなぎ」の三人娘のサンタ姿。↓。

下は、「デス・ノート」のクリスマス・バージョン。↓。‘夜神 月’がサンタで、‘L’がトナカイ。

待合室に流れるBGMは、今年はクリスマスっぽい曲は入れません。
去年、「今どき、どこへ行っても、クリスマス・ソングばかり」と嘆く意見が多かったから。
僕が、高校生の頃、FM放送で山下達郎が「クリスマスの日は、ずっと、‘フィル・スペクター’と‘ビーチ・ボーイズ’のクリスマス・アルバムを家で流してる」と聴いてから、30年くらい、ずっとそれをマネしていて、去年はクリニックでも、‘その2枚’を流したのに、「今どき&どこでも」のクリスマス・ソングと一緒にされて、軽くショックだったから。
その放送の何年後かの夏、山下達郎は「メロディーズ」というアルバムを出して、そのB面のラストに「クリスマス・イブ」が入っていた。
僕らは、<こいつ、何、夏にクリスマス・ソング出してんの?>って笑ったが、その何年後かに東海道新幹線の「クリスマス・エクスプレス」のCMソングに起用されて、それがいわゆるバブルの時期で、恋人とクリスマスをどう過ごすかと、馬鹿たちどもが馬鹿騒ぎしてた頃だから、何年か遅れでこの曲は大ヒットした。その頃の僕の仕事は、浮かれてる奴ら一人一人に、<あの歌、夏に出した歌なんだぜ!>ってネガティブ・キャンペーンを張って回ることだった。どっちもどっちだ。
「けいおん」の映画はとても混んでるそうなので、少し経ってから、ゆっくり観に行こうと思います。
券2枚あるから、2回観れる。それとも、誰かを誘おうか。


花だより

 相談室のお花を連続でご紹介します。
ⅰ.スタンダード
スタンダードって大切、と思って9月にひまわりを見つけたのがコレ。

ⅱ.マーガレット(白い花)
お花も夏よりは長持ちするようになってきたようです。

ⅲ.ガーベラ

このガーベラ、今は一輪だけ残っているのを、
岡田さんが小さい花瓶に移してくれていて、まだキレイに咲いています。


猫 VS チェック

 久々におじゃまします。とくだです。 
 少し前の話だけれど、スリッパを新しくした。
今までどの季節もナースシューズだったから、
これからは季節毎に替えてみるのも楽しいかもしれないなと思う。
赤とか3色くらいあったけど、何となく緑を選んでしまった。
クリニックの色のイメージで、自然と緑を選んでたんだな、きっと。

先生のあの猫のスリッパに対抗して、私はチェックに!


粋な別れ

30/ⅩⅠ.(水)2011
11月もおしまいですね。
11月は、父と母の誕生月であり、父の命日があり、息子の誕生日もあり、色々と物想う月であります。
去年は猫のミーちゃんが家出して、今だ帰らず、今年はとうとう談志が死んだ。
いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。
僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。
試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。
僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、
と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。
友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、
まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。
「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。
今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。
友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、
中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。
僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。
しかし、僕は本当に実感がなかったから、<いや、本当に悲しくないんですよ~>と軽く(明るく?)答えたら、
「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。
うちの父は顔が広いから(別に面積が広いわけではない)色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。
父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。
それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。
さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。
父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。
明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。
でも、僕は思った。
この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、
今日のところは譲ってやろうと思った。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。
僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。
父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。
そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。
それは、家庭用のカラオケの機械だった。
父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことは
前にもブログに書いたが、(2011年4月「子に習う。」です、良かったら読んで下さい)、
そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。
父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、
知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、
1から医学校に入り直したらしい。
詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。
父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。
しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。
実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。
僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、
結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。
僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。
そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。
僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。
堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、
社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。
そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。
招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。
向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。
僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」って
インプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、
ふとカラオケを購入したのかもしれない。
カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。
僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、<チッ!>と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。
これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。
よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。
おそらく父が好きな歌なのだろう。
しかし、おそろしく丸印が少ない。
僕は、「い」のページで目と手が止まった。
二つ、丸印が並んでいる。
一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。
その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。
『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる
誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』
にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。
BGM. 石原裕次郎「粋な別れ」


ナニワ・サリバン・ショー

28/ⅩⅠ.(月)2011 くもり
獨協の校医は、今年は今日が最後。目白まで歩き、新宿まで山手線。紀伊国屋は談志の追悼コーナーが出来ていた。
僕はアニメイトで雑誌を買い、武蔵野館で『いちご白書』のリバイバル上映を観るつもり。
タカノ・フルーツ・パーラーでパフェを食べてたら、映画の時間に間に合わなくなった。パフェ、食べなきゃ良かった。
『いちご白書』は12月に入っても、やってるらしいから、ま、いいか。下は、雑誌の付録、「日常」坂本さんのトート・バッグ。↓。

中味は、こんなの。↓。

それで、他に映画はどんなのをやってるかと、バルト9に行ってみると、清志郎の映画「ナニワ・サリバン・ショー」を大々的に宣伝してた。
下は、チケット売り場の上に設けられたステージ。↓。

チケット売り場から背中を振り向くと、反対側には、こんな垂れ幕が。↓。


そこは丁度、カフェになっており、店内も「ナニワ・サリバン・ショー」で彩られていた。

早速、中に潜入してみよう。メニューも、特別だ。↓。

お店のテーブルも「ナニワ・サリバン・ショー」仕様。↓。

色々なデザインがある。↓。

クリスマス・ツリーが飾られて、ミラーボールも輝いている。↓。


僕は、たこせんというのを頼む。大阪(ナニワ)の名物なのかしら?↓。

そして、それを「チャボ」のテーブルで食べる。↓。

店の中には、映画のシーンのパネルも展示されていた。↓。

その中の1枚の写真。内容を言ってしまうのは良くないからボカすけど、この映画では間寛平がマラソン・ランナーとして狂言回しみたいな役どころをしている。横のスタッフ役は松たか子。↓。

この映画の中では、清志郎は故人として扱われてはいない。この映画の中には、どこにも清志郎が死んだという記述がないのだ。
だから僕は、僕がちょっとコンサートに行くのをサボってる間に、清志郎はこんなことをしていたんだ、でも、相変らずだなぁ~と、清志郎がまだ現役で活動しているような錯覚をさせられた。
矢野顕子と憂歌団の木村が特に良かった。RCと憂歌団の合体なんて感涙ものだね。勿論、チャボも良かった、相変らず出しゃばらない人だ。下が、チャボ。↓。

この映画は、昔、大阪城ホールで清志郎が実際にやった「ナニワ・サリバン・ショー」の当時のフィルムと、今のミュージシャンたちの映像をまじえてストーリー仕立てにしたもので、エンディングがオープニングに繋がる循環小説のように出来ているから、「終りが来ない」=「死んでいない」感じを強く持たせるのかもしれないな。
談志が死んだ直後だから、余計そんな風に思うのかな?。でも、談志が死んだ直後だからこの映画を観れて良かったな。

結果論だが、『いちご白書』観れなくて良かった。笹原先輩が言うように、我々の日常は奇跡の連続だ。
パフェ、食べてて正解だった。


子のキモち

25/ⅩⅠ.(金)2011 くもり?寒い
今日はマスク姿。それは昨日から鼻水が止まらないから。時折、涙目にもなる。平熱で、咳はなく、ダルくもなく、食欲はある。風邪じゃないな。談志ショックかな?。
昨日は、遅くに帰宅すると、娘が晩御飯を温めて用意してくれて、「おやすみ~」と言って部屋に去った。僕の帰りを待っていたみたいに。
代りに息子がリビングに降りて来て、「野坂の別バージョンのCM見つけたよ」と、動画サイトから、‘サントリー・ウイスキー’や‘キャビンの煙草’や‘犬洗いのアルバイト・ニュース’のCMなど5パターンくらいを見せてくれた。
僕が、談志が死んでガックリきてると思って、気遣ってるつもりなのだろう。でも、よく見つけたな。
サンキュー、そうだな、まだ野坂先生が生きてるもんな。久し振りに、一緒に、野坂昭如の歌でも聴こうか、レクイエム代わりに。
下の写真は、今日のお花、「ケイトウ」。受付(植物係)のチョイス。一見、力強い炎にも似てるが、よーく観るとやさしい質感。↓。

暖炉みたいに、あったかい。
BGM. 吉田拓郎「明日に向かって走れ」


はいそう

24/ⅩⅠ.(木)2011 くもり、寒い
月曜日の校医の帰りに中野ブロードウエイで買い物をして、重いので配送にしてもらったものが、今日、クリニックに届いた。
一つは、藤子F不二雄のSF全集。藤子作品は、今、どこかから全集が刊行されているが、あれはデザインがイマイチ。こちらの方が良いでしょう?。↓。

これは、「まんだらけ」で買ったレア物なので、自分用です。待合室には置きません。見せるだけね、あしからず。全8巻。↓。

それから、もう一つは椎名林檎の等身大パネル。僕は、椎名林檎はそんなに詳しくないが、「等身大パネル」という響きに惹かれて、衝動買いしてしまった。理由は判っている。
「けいおん」のあずにゃんの「ほぼ等身大パネル」というのがTBSショッピングで、中野梓の誕生日を記念して、売り出しているのだ。買おうかどうか迷ったが、「結局、邪魔だし、さすがに引かれるな」と思って、欲望を抑圧していたのだ。
その無意識に閉じ込めていたはずの欲動が、椎名林檎・等身大パネルを目にした瞬間に発動されてしまったのだろう。あずにゃん、買っとけば、これは無かったかも。
でも、結構、かっこいいでしょう?。「相談室」と「処置室」の間の壁に立て掛ける。↓。


談志が死んだ、翌日。

24/ⅩⅠ.(木)2011 くもり、寒い
今朝のスポーツ紙の一面は談志一色。
見出しは、スポニチ&スポーツ報知が「談志が死んだ」、ニッカンが「談志が死んじまった」、サンスポが「くたばっちまった。
談志さん死去」。
東京中日スポーツとデイリースポーツは芸能面に、「談志さん、死す」、「談志が逝っちまった」とそれぞれ大きく取り上げた。↓。

談志の死は密葬で弟子達もこの日に知ったそうだ。
各紙は著名人のコメントを載せるが、僕が知りたかったのは、三平やヨネスケやきくぞうのコメントではなく、
弟子達の反応だった。
志の輔が「スポニチ」と「ニッカン」と「デイリー」で、志らくが「東京中日」で、談笑が「ニッカン」でコメントが載り、
談春のコメントはどこにも掲載されてなかった。
東京中日スポーツに、2008年の「立川談志 談春 親子会」の写真が使われていただけだ。
爆笑問題・太田のコメントもなかった。
朝のワイドショーもこのニュースで持ちきりだったが、
ゲスト・コメンテーターのチョイスで各局の立川談志への理解度(つまり、そのTV局の文化水準)が理解る。
後は、帰って東スポを読む。東スポのチョイスは誰だろう?。きっと、一番、センスいいぞ。
BGM. グレープ「朝刊」


談志が死んだ。

23/ⅩⅠ.(水)2011 勤労感謝の日 寒い、少し雨
夕方、寝ていたら息子に「談志が死んだ」と起こされた。
寝ぼけて、<ダンス・ハ・スンダ?>とミカ・バンドの歌かと思い聞き返すと、「立川談志が死んだんだよ」と大声で言われた。
そりゃ、大変だ、とあわててTVをつけると、4チャンが特集みたいにしてやっていたから、それを観ていた。
談志は「笑点」の初代司会だから、4は力を入れたのかな?ゲストが始めは「きくぞう」だったが、
後半に円蔵(昔の円鏡)が加わったのは良い人選だと思う。
円鏡は何度も、「洒落じゃないの?なさけないなぁ。生きてなきゃ。
洒落じゃないの?」と画面越しにもガッカリしてみえた。
談志と円鏡と言えば、「談志・円鏡の歌謡合戦」という番組が伝説だ。
談志の言うイリュージョンの世界だ。今はCDで聴ける。↓。

談志はおととい亡くなったらしい。
息子が、夜の9時から「ニコニコ生放送」が独占で遺族による記者会見をするという情報をゲットしたので、
8時半くらいから2人で、パソコンの前に椅子を並べ、中継を待った。
すると、8時51分に、「ご遺族の意向により、中継中止となりました」というテロップが流れた。
ここに一冊の手帳がある。
これは、1999年8月10日から2000年11月30日までの、談志の「ひとり会」や「独演会」に行った時に用いたものだ。↓。

爆笑問題の太田光が何かで談志と落語について語っていたことがある。
落語には‘まくら’と言って本題の前にウォーミングアップみたいな小話が入る。
そこで談志は漫談のようなことを長々と言うのだが、そのジョークの数々がウイットに富み、毒を含み、社会に切り込み、
そして爆笑をさらう。
それは自分たちの漫才よりもすごいものを見せつけ、
その立川談志が談志よりも落語はすごいのだと言って見せ付けられる「落語」にはかなわない、
という様な趣旨のことを言っていた。
僕はこの手帳に、その‘まくら’のジョークを走り書きでメモした。
その日の着物の様子も後で思い出せるようにスケッチした。↓。

国立演芸場の「ひとり会」は毎月欠かさず通ったし、その他の「独演会」もほぼ追っかけた。
99年8月10日の「ひとり会」の前座は、アンジャッシュと底ぬけエアラインが出演。
NHKの「オンエアバトル」の審査員を談志がして、目をかけた彼らを「ひとり会」の舞台にあげたのである。
12月9日の「ひとり会」の前座は志の輔がつとめ、談志は「もったいない前座。
今度は、小さんを使おう」と自分の師匠である小さんの名前をあげたりしていた。
2000年になると、談志の体調は悪くなり、落語が出来ず、テリー伊藤や毒蝮や山藤章二が舞台にあがりトークをしたりした。
ファンは、それで十分だった。
ただ、そこに座って、お茶を飲んだり、居眠りしてるのを見てるだけで十分だった。
しかし、談志自身が一番それを嫌った。
ファンに満足行く落語を見せれない葛藤を吐露していた。
1月11日の「ひとり会」は前座の後、談志が出るかと思いきや、
何と突然、円楽(笑点の司会をしてた、もう死んだ人の方)が登場して「蒟蒻問答」を一席演じた。
談志は、普段から「笑点は俺が作ったんだ。
あいつらは、俺のおかげで食えてるんだ」みたいなことを言い、円楽のこともバカにしたりしてたのに、
談志のピンチに円楽が駆けつけるとは思わなかった。
皆、ビックリして、そして歓迎した。
円楽が舞台を下りると、談志が登場し、
「風邪で今、ボーっとしてんだよ。それで、俺よりもボーっとしてる奴、前に出しゃいいと思ってね」と憎まれ口を叩いて、
友情への感謝の表現としていた。
そして毒蝮や山藤章二や西丸震哉も壇上に上がり、座談会をしようということになり、円楽も呼ぼう、ということになったら、
楽屋から「円楽師匠、お帰りになっちゃいました」という声。
ヒーローは颯爽と登場し、ピンチを救うと、姿を消す、みたいな感じだった。
だけど、円楽の方が、先に死んだんだよな。
久しぶりに、「ひとり会」のビデオでも観てみるかな。↓。

二期のサインには、「遺言がわりに…」と書いてある。
2000年正月だから、上記の円楽が助っ人に来た頃だ。↓。

せっかくだから、メモ帳に書かれてる中味を少し紹介しましょう。
・野球好きの2人。先に死んだ方が、天国にも野球があるか知らせようと約束。
1人が死んで、約束通り(幽霊になって)やってくる。
「良い知らせと悪い知らせがある。良い知らせは、天国にも野球がある」。
生きてる方は喜び、<で、悪いのは?>、「来週の火曜、お前が先発だ」。
・「あなた!変なことすると妹を呼ぶわよ!」。
<じゃ、俺も弟を呼ぼうか?>。
・酒は人間を駄目にするのではなく、酒は人間が駄目だということをわからせるためのもので、
呑んで後悔するためにあるもの。
・「人生は真面目に生きなさい」って言うけど、「そうはいかないよね。いいんだよ、ちゃんとしなくって」というのが落語だった。
それが、近頃、みんな、ちゃんとしなくなって、落語家が「ちゃんとしよう」と言わなくちゃいけなくなった。これを「末世」という。
・「芸人ってのは、どんなにつらくても客にサービスをして」って言うでしょう?
オレ、そういうのないから。
嫌でしょ?オレがそんなことしても。お互い、嫌な思いしても。
・(横山ノックが訴えられた時)芸能界では、女の人が来たら、お尻触ってやるのが礼儀ですよ。
触り方に、センスがいるんですよ。
・オレん所に来る客は一筋縄でも二筋縄でもいかない連中。良く言えば、マニアック。
社会から認められてない連中。傷を舐め合ってるんだ。
・(国立演芸場での「ひとり会」は今日でおしまい。毎回「ひとり会」の券を買うのが大変だったという話から)。
「もう走らなくっていいから。ごめんね、苦労かけてるって知らなかった。
でも、知ってると、心配したり、変に優越感にひたったりするから。
また、どこかでやる。引退なんて言ってないし、できない」。
2000年3月9日。
・酔っ払って、最後にチンポコ出して踊ってるんだ。一緒に連れてった、(ビート)たけしも出すよ。
小朝は出さないんだ。ここに差がある。下品ね、って言われりゃ、それまでだけど。
円楽は出さないね。志ん朝は出すかな。勘九郎は出すね。意外に、染五郎は出すと思うよ。鶴瓶は出すね。
ざこばは、言う前に出すよ。こういうところに差が出るんだよ。
立川談志、享年75才。家元、今まで、色々とありがとうございました。


LV50

21/ⅩⅠ.(月)2011 はれ
今日、獨協の校医の帰り、カテドラル教会のウインドウをのぞいたら、クリスマスの飾りつけがしてあった。↓。

そう言えば、クリスマスの雰囲気作りって何時くらいから始まるのだろう?。やはり、ディズニーランドのパレードが一つの目安なのかな?。ミッキーマウスの誕生日が、11月18日らしいから、その日が過ぎたらボチボチかな、と本当はどうでもいいことを考えながら目白駅まで歩いた。
目白駅でしょこたんのゲームの宣伝の看板を見つける。↓。

目白は、渋谷や新宿と違って、往来が少ないので、写メしやすい。折角だから、アップも撮影する。↓。

しょこたんは、一時期、年齢を「永遠の16歳」と言っていたが、最近は年齢をテレビゲームで使われる‘レベル’という単位で表現している。だから、今はレベル26。
僕はもうすぐ「LV50(レベルごじゅう)」になる。