24/Ⅶ.(土)2010 猛暑
それにしても、暑い毎日だ。
僕が生まれたのも、真夏の暑い昼間だった、とよく母が言っていた。
今日は、お誕生日。寿司屋に行こう。
BGM. パーシー・フェイス・オーケストラ「夏の日の恋’76」
ちあきなおみの夢
22/Ⅶ.(木)2010 猛暑
炎天下。ファミレスの駐車場の片隅にて米軍兵2人としゃがみこんで煙草を吸っている。
「安保条約を延長しないと、基地周辺の住民とちあきなおみを守れなくなる。これは重要な問題だ」と
若い兵士は熱く語った。
しかし、僕はそれよりも好みの煙草があと一本になり、もう一箱買っておくのだったと後悔する。 駐車場一体に、ちあきなおみの「喝采」が流れている。
歌詞の一言一言が心に重く響いてくる。
僕は意を決し、ファミレスの中に入る。「喝采」が大音量で耳に飛び込んでくる。
♪暗い待ち合い室~♪。奥に要人がいるはずだ。
♪話す人もない私の~♪。その人物と直接交渉に向かうのだ。
♪耳に私の歌が通り過ぎてゆく~♪。ちあきなおみを助けなければ。
生まれて始めて、歌がこんなに意志を示してきた夢を見た。
BGM. ちあきなおみ「X+Y=LOVE」
赤頭巾ちゃんご用心
21/Ⅶ.(水)2010 はれ、暑い
今期のアニメでは、「オオカミさんと七人の仲間たち」というのを観てる。
キャラクターがすべて立っているが、いずれのキャラも非侵襲的で心に負担がかからなくてGood。 エンディングテーマ曲は「赤頭巾ちゃんご用心」。これは、レイジーのカバー。
僕の大学時代のガールフレンドS子は、服飾の学校に通っていて、僕をレイジーのポッキーに似てるともてはやした。 彼女は、レイジー解散後の「ネバーランド」の追っかけだった。
世が、カルチャー・クラブやチェッカーズにチヤホヤしてた時代にである。
レイジーは、影山ヒロノブがいたバンドだ。グルって回ってアニメ。
BGM. レイジー「ハローハローハロー」
青空
お誕生月☽
15/Ⅶ.(木)2010 はれ
Mさんに、「お誕生月なので」と胡蝶蘭をいただいてしまいました。ブログでアピールしすぎてしまったのかと反省。
プレゼントをおねだりした訳ではないのに、ありがとうございます。皆々様は是非、お気を遣わないように、すみません。
イーブイと記念撮影してみました。
今日はA子の誕生日。
BGM. オフコース「僕の贈りもの」
ゲスト
よく冷えた、水菓子を食べた時。
涼しげで、甘すぎなくて、あっさりさっぱり。
丁度いいその感じに、
「おいしいなぁ」
と、つくづく思っていた。
そんなことを思う自分にちょっと不慣れである。
なぜなら、私は 「あんこ」 が小さい頃から嫌いで、食べられなかった。
ドラ焼きも、真ん中のあんこは取り除いていた。
おしるこは、お餅を少し浸すだけで、すぐにあの小豆の海からは撤去する。
そんな私の行動を見て、母や祖母は、
「大人になったらわかるわよ、このおいしさが~」
と、散々言っていた。
私には到底理解できないであろうと思っていた。
結構、頑なに 「あんこ」 嫌いでいたが、転機は20歳を過ぎて、くらいの頃。
わりと自然に 「あんこ」 を受け入れていた。「おいしいなぁ」と思った。
そして、むしろ今は、好きな方。
でも、まだたまに、「あんこ」好きな自分には、違和感を覚える。
慣れるまでもう少し、時間が必要なのかもしれない・・・
ふしぎなものですね。
ザ・ヒストリー・オブ・川原④~「カエル」
13/Ⅶ.(火)2010 はれ
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第四弾。
・「蛙に似た女でも蛙のお袋とはかぎらない」、ペーパームーン。
下の写真↓ Tシャツは、ケロヨン。となりの婦人は、木馬座のもぎりのおばさん。うそ。母。↓
下の写真(カメラマン・RAMちゃん)↓は、洒落で「川原クリニック初代院長」と設定したカエル。 それに従うと、僕は「二代目院長」。初代院長の訓示は、太宰治から拝借。
初代院長の言う。
お前はきりょうが悪いから、愛嬌だけでもよくなさい。
お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。
お前は嘘がうまいから、行いだけでもよくなさい。
話は変わるが、僕は、一時期、イカレた女に「カエル」と呼ばれてた。
理由は、緑色が好きだからだって。イカレてる。
A.は、カエルが嫌いだ。
下の絵は、僕が授業中に描いた落書き。タイトルは「だって、カエルが見てるんだもん」。↓
BGM. 矢野顕子「ふりむけばカエル」
アントキの猪木
12/Ⅶ.(月)2010 少し雨、くもり
スペインが優勝したそうで、A子はきっと喜んでるだろう。
A子は、シャビ・アロンソのファンらしい。以上。サッカー、おしまい。
猪木関係の書籍を2冊読む。
一つ目は 「完本1976年のアントニオ猪木」。
コントキの猪木は狂ってる。狂ってるところを抜粋してみる。
1976年12月12日、パキスタンの英雄アクラム・ペールワンと敵地パキスタンで伝説のシュートマッチ(真剣勝負)。
試合開始30分前に、ペールワン陣営がノールールマッチを要求。
猪木陣営は話し合いを求めたが、ペールワン陣営は一切応じず、結局猪木は
「プロレスをするつもりでやってきている人間が、たった10分やそこらで気持ちを完全に切り替えて、
命のやりとりに向かった」(新間寿・談)。
試合は3ラウンド中盤、猪木が腕絡みでペールワンの左腕を捕らえる。
完全に極まったがペールワンがギブアップしないため、さらに力を込めると鈍い音とともに左肩は脱臼。
猪木は狂気の表情で「折ったぞぉ!!」と絶叫した。猪木は試合後の談話で次のように語っている。
「普通ならあそこまでやらなくてよかったと思うけど、相手も必死だし、腕がガクーッとなって、
それでも参ったしないんで、二段打ちで絞り込んだからね。
これはもうおそらく治らないでしょう。でも本当に皆さんのご期待に応えられて、よかったと思います」。
1976年10月9日、韓国の英雄パク・ソンナンを敵地韓国で一方的に叩き潰した伝説のリンチマッチ。
猪木はパクの目に指を入れ、唇は裂いて、脊椎にヒジを入れる。
パク陣営はそもそもシュートマッチ(真剣勝負)を望んでおらず、地元の英雄に花を持たせたくない猪木の暴走であった。
この試合を裁いたレフリーのミスター高橋の談話がすごい。
「私が耳元で『猪木さん落ち着いて下さい。ちょっとやりすぎですよ。これ以上やったら反則負けにしますよ』と言ったら、
猪木さんは『おお、やれるもんだったらやってみろ。そんなことしたらてめえもやってやるぞ』と言った。
まったく手が付けられなかった」。まさに「猪鬼」だ。
もう一冊は、「元気ですか!?ニッポン!!」という日本を元気にする猪木語録だ。猪木のオヤジギャグ満載。
猪木がタッキーにリング上で卍固めをかけられて笑ってた時のことを思い出す。
アントキはマジで猪木に愛想がつきた。
話を本に戻す。
猪木は、ホームレスへの炊き出しイベントを9年間続けている。
最初は「ホームレスに何かしてあげたい」と思ったのと、「お前ら、もう少ししっかりしろよ」という気持ちがあったが、
実際やってみたら涙流して手を握って「猪木さん、こんな無様な格好は見せたくないんだ」という人もいた。
そういうところに飛び込んでみてはじめてわかったことだった。
「人それぞれ人生があって、強い人ばかりじゃないし、社会に見捨てられたわけでもない。
一歩間違えば俺たちだって同じ境遇になるかもしれない、という意識は持ちたいね」と語っている。
その通りだよ。昔、猪木は「苦しみの中から立ち上がれ」という本を書いたけど、
本当に猪木は何度も何度も苦しみの中から立ち上がったものな。
正直、猪木はもうダメなんじゃないか、と思ったことが何度もある。
リングの上ならともかく、リング外でも、①日プロ除名、②新日旗揚げもノー・TV、③外人招聘ルート妨害、④M・アリ戦の酷評&借金、⑤アントン・ハイセルの赤字、⑥選手の大量離脱、⑦ブロディが決勝戦当日ドタキャン、⑧政治家になれば秘書から告訴。
それでも、猪木は必ず立ち上がった。
それを全部見てたから知ってたから、タッキーの事、怒ったんだぜ。
時という名の魔術師は偉大だ。
タッキーのことも、そんなに目くじら立てることもなかったか、と思えるようになった。
猪木のダジャレで笑えるようになってしまった。
BGM. キャンディーズ「春一番」
定例会~普段からコミュニケーションを良くしようの巻
11/Ⅶ.(日)2010 はれ
録画しておいたDREAMを観る。青木真也、おそるべし。
昨日は、クリニックの飲み会。徳田、塚田、岡田、吉田と「田」の付く人が集結した。 いつものお店、新メニューの「鳥ナポリ」というのを注文してみる。
するとお姉さんに「ナポリは‘鳥’と‘豆腐’がありますが?」と聞かれた。だから、‘鳥’。
昔、お茶の水の「ノーム」というスペース・インベーダーが出来るテーブルがいっぱいある喫茶店で、 僕の友達は海老ピラフを注文した。
するとウエイトレスに
「ピラフは、‘海老’と‘カニ’がありますが?」と言われ、
「じゃ、‘カニ’で」と答えていたのを思い出した。海老とカニ、結構違うよ。
僕ら二人とも大学にすべて落ち、一緒にどこの予備校に行くかを相談する会議でのこと。
自信喪失しててブレやすかったのかな。
昨日もワインを飲みすぎた。家に帰り、台所でお水を飲んだまま力尽きたようだ。
朝、起きたら台所だった。コップを握ったまま眠っていた。背筋がよじれて痛い。
BGM. 加藤和彦「キッチン&ベッド」
ザ・ヒストリー・オブ・川原③~「エロスとタナトス」
11/Ⅶ.(日)2010
7月はお誕生月なので、「ザ・ヒストリー・オブ・川原」と題して思い出にひたることにする。
その第三弾。
僕が小さい頃、父親は雷おやじだったので~父は大正生まれで戦時中は樺太や満州などで苦学したらしい~
いつも怒ってたので、僕は「早く死ねばいいのに」といつもいつも思っていた。
ただ、父が死ぬと生活が困るのは判っていたから、あの世から送金されるシステムができないものかと考えた。
逆に、母が死んだら僕はどうやって生きて行っていいか判らない。 だからカルメン・マキの「時には母のない子のように」というヒット曲を聞くとやるせない気持になり、
母が死んだら後を追おうと決意した、小学校低学年の頃である。
母が死んだ後に、死ねる場所をいくつかみつける。 僕は泳ぎが出来ないので、海や川は候補から外した。
死ぬことより溺れることの方が恐ろしいからだ。
茅ヶ崎駅から少し離れた所に開かずの踏切があり、そこなら確実だと考えた。 何度か下見に行った。
ある日、線路の脇の草むらにエロ本が捨ててあった。
中味を見た。オバさんがセーラー服姿で載っていて、吐き気をもよおしたが、
掲載されてるマンガがシュールで面白かった。
誰かが定期的にエロ本を捨てる場所だったらしく、僕は「エロ本の墓場」と名付け、
いつしかそこに本を読みにいくのが愉しみに変わっていた。
エロスがタナトスに勝利したのだ。
後日、茅ヶ崎ライオンズクラブあたりが「有害図書ポスト」みたいなものを設置して
エロ本の不法投棄はなくなった。
そして僕はその頃には、あまり真剣に死について考えなくなっていた。
話は父に戻るが、父は胃癌でリタイアしてから僕に歩み寄った。
僕が普段着ていたつなぎ(ダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドが着てたような奴)を自分も着たいと言うから、
藤沢の東急ハンズで買ってきてあげ、そろいで着て喫茶店に行ったりした。
医者に止められてるはずのタバコも、僕が吸ってる銘柄のsometimeに変え、
「メンソールは茅ヶ崎に合う」と僕のチョイスを絶賛した。
父が死ぬ直前~兄はもう医者になっていて僕は医学生だった~僕は毎日、
学校の実習を終えるとお見舞いに通った。
父には「癌だ」と言わない約束だった。母も兄も、内緒にしておくのがよいと判断したのだ。
僕は医学校で「尊厳死」なんてものを習ったばかりだったし、大体嘘をついてるのが嫌だったから、
ある日、2人きりの時にすべてを教えた。
父も医者だったから判っていたようで、
「達二、告知というのは大事なことだ。何でも告知をすればいいものでもない。
その時、その人によって、告知すべきか、すべきでないかと考えるのも医者の仕事だ。
主治医が告知しない方がいい、と言うのだから、今の話は聞かなかったことにする」
というようなことを言われた。
だから、僕もこの件は誰にも言っていない。今、始めて言った。
父が死んだのは、進級を左右する大学の定期考査の直前で、
まったくもって迷惑な時期に死んでくれたものだと恨んだものである。
BGM. 青山和子「愛と死をみつめて」