背後霊

12/ⅩⅠ.(木)2015 はれ
僕が精神科医になった理由は、予告ブログの番外編にあげてあるので、時期も良いので、近いうちにアップします。
今回は、精神科領域でも、何故、僕が精神分析や精神療法に興味を持つようになったのか、のお話です。
大学生の頃、母が、東北から神様がやって来るという噂を聞きつけて、2人で見物に行ったことがある。
川崎の方の、何かの新興宗教の道場みたいなところだった。
僕らは熱心な信者に混じって、罰当たりみたいに、ゆるく座って、神様の登場を待っていた。
リーダーみたいな男は、神様が現れる時には強い風が吹くからこの無風の道場の松の葉が大きく揺れる、と説明した。
僕は試しに、神様が鎮座する予定の場所まで歩いて行くと、無風の道場の松の葉が大きく揺れた。
信者達は、どよめいた。リーダーみたいな男は焦っていた。母は、よくぞやった、と大喜びした。
きっと、「係りの者」がボタンでも押し間違えたのだろう。
しかし、僕ら親子は、神様が登場する前に別室に移動を命じられた。
そこに神様が待機していた。
神様は予想に反して、普通の田舎のおばさんだった。
神様は困った顔をして、「お願いだから、帰ってくれまいか?」と田舎弁でお願いした。
母はブツブツ文句を言っていたが、僕はこのおばさんが急に不憫に思えて、母を説得し帰ることにした。
<まぁ、俺たちの勝ちだから、いいじゃん>みたいに言って。
そうしたら神様は良い人(?)で、「あなたの後ろには3人の背後霊がいる」と教えてくれた。
「その3人はあなたと同年代で、あなたのことを羨ましがっていて、力を貸してくれるから安心して良い」と言った。
僕には思い当たる3人がいた。
僕は比較的、珍しいと思うのだが、10代後半に同級生3人を亡くしている。
その3人のことかな、と一瞬、納得した。
でも良く考えたら、そのうち2人は医者を目指していたが、親友という程の仲でもなかったし、力を貸すとは信じれなかった。
おばさんは、テキトーなことを言って、僕らを言い包めて信じ込ませる作戦なのかなと疑った。
そんなことはどっちでも良いのだけれど、今日の本題である。
3人のうちの1人は、確かに僕のことを今でも応援してくれていると信じられる。
彼こそ、僕に精神分析やフロイトのことを教えてくれた張本人で、中高の時の同級生だった。
彼は博識で見た目は中原中也に少し似ていた。
英語とドイツ語が堪能だった。
僕は彼に借りたフロイトの文庫本を<わかんない>と言って突き返したら、彼はこんな風に言うのだった。
「それはわからないのではなくて、つまらなかったんだね。フロイトは日本語訳より原文の方が面白いんだけどな」って。
そして彼は、「川原君は、絶対、精神科医になるべきだ」と言い、フロイトの本を彼流に噛み砕いて放課後に教えてくれた。
僕はそこで防衛機制とかを知って、それは面白いと興味を持った。
高校の3年は理系と文系で授業が分かれるから、彼とは疎遠になって行った。
卒業後、しばらくして彼は死んだ。11月だった。家族だけの密葬だった。
しばらくして、僕は彼の家族に呼ばれて、彼の家に招かれた。
家族はどうしても僕と会いたかったそうだ。
ちょっと難しい問題なのだが、彼は僕のことが好きだったらしく、彼はいわゆる同性愛者だったらしい。
簡単に言えば、ホモだった。
性の嗜好は人それぞれだ。人にとやかく言われる筋合いはない。人に迷惑をかけなければね。
東京スポーツの風俗欄をみると、色んな性癖に合わせた性産業があり驚かされる。
最近の流行は、ぺチャパイ、みたいだ。巨乳ブームの反動か?
しかし、同性愛の風俗はあまりみかけない。平成27年でもだ。
だから、彼が死んだのはまだ昭和50年代だったから、色々と思い悩んでいたのかもしれないな。
思い悩んでいなかったら、ゴメン。
彼が僕を好きなことは勘付いていたが、まさかそんな背景があるとは知らなかった。
もしも、彼がそんなに若くして死んでしまうと判っていたら、1度くらい寝てあげても良かったのになと、マジで思う。
だからもし、お前が背後霊で、これを読んでいたなら、ちゃんと俺の手助けをしなさい。
BGM. ザ・ルースターズ「恋をしようよ」


予告ブログ⑥~「爬虫類を飼うこと」

5/ⅩⅠ.(木)2015 亡き母の誕生日
この予告ブログをした頃だから、もう1年以上前のことだ。
爬虫類に詳しい、Kさん、から池袋のサンシャイン60で「大爬虫類展」をやると聞いた。
爬虫類の展示即売もするらしい。
それがうっかり家族にバレてしまった。
家族は口々に、
「行っても良いけれど、何も買ってきちゃダメよ」
「誰も世話する人が家にいないんだからね」
「飼っても、可哀想なのは、その爬虫類なんだからね」
「本当に好きならやめてあげて」
「むしろ、爬虫類展には、行かない方が良いんじゃないか」
「見たら絶対、欲しくなるものね」
「欲しくなったら、絶対、買ってきちゃうものね」
「やっぱり、爬虫類展には行かない方が良い!」
と寄ってたかって、多勢に無勢だ。
民主主義に乗っ取って、仕方なく、僕は爬虫類展に行くのをやめた。
代わりに、オオトカゲのフィギュアを買って、診察室に置いた。↓。

受付スタッフは朝に診察室のお掃除をしてくれるのだが、知っていても毎朝ドキリとする、と不評であった。
今回は特別に診察机の上に置いてお披露目。↓。

患者さんからも、「あれ、恐い。隠して」と言われ、それであちこちに移動しているうちに、首のあたりに亀裂が入り、
首の中から下のスポンジ生地がモコモコと出て来て、まるで、憐れなジラースの最後、みたいになってしまった。
ジラースとは、ウルトラマンに出てくる怪獣で、ビジュアルは同じ円谷プロのゴジラに襟巻をした怪獣だ。↓。

おそらく、ジラースはウルトラ怪獣史上、最弱の部類だ。
怪獣博士が、ジラースを作り湖の中で静かに暮らしていたのに、旅行者に発見され、ウルトラマンに怪獣という理由だけで、
何も悪いことをしていないのに退治された。
その時のウルトラマンの極悪非道ぶりは、筆舌に耐えがたく、ジラースをもてあそぶように、からかいながら、たとえば、
ジラースの襟巻を引きちぎり、その襟巻をマントのようにヒラヒラさせて、ジラースは頭から突進することしか出来ない。
ウルトラマンはそれを闘牛士気取りで、サッと身をかわして、おどけて、イジめるのである。
そしてお決まりのスペシゥム光線でやっつけて、ラストは口から血を吹いたジラースの断末魔の表情がクローズアップされ、
ブクブクと湖に沈んで行き、おしまい。
以前、ナースの塚田さんに見せたら、「これはひどい!ジラースが可哀想すぎる!」と怒っていた。
彼女は弱気を助け強気をくじく、正義感が強いからね。
憐れなジラースをマリア様の慈愛の光とともに。↓。

下が、ウルトラマンにやられた、ジラース、のような痛々しさのオオトカゲ。↓。

やはりフィギュアと言えど飼育は難しいのか。
僕は東京都が指定している半透明のビニール袋にお花を添えて、祈りを捧げて、オオトカゲのフィギュアを弔った。↓。

その昔、僕は子供の頃、カメレオン、や、グリーン・イグアナ、なども飼ったことがある。
しかし、当時はヒーターなどの装置もなく、エサもハエを叩いて、半殺しにして与えたりしていた。
これはなかなか難しく、技が必要で、爬虫類たちは動かないと食べないから、気絶だけさせて、全殺し、ではダメで。
その頃の僕は野生児のようで、学校帰りに、トカゲやカエルやイモリやヤマカガシを捕まえてきては、家の庭に放した。
僕の野望はうちの庭で爬虫類と両生類を繁殖させ彼らの楽園を作ることだった。
僕の家の街灯には夜になるとヤモリが群がるのを、理科の教師に自慢したら、「欲しい」と夜に家にやって来た。
<ご自由にどうぞ>、と僕が言うと、教師は「どうやって捕まえるの?」と尋ねた。
僕は、街灯を揺すって、ヤモリの目を回し、ふるい落とし、数匹のヤモリを教師に渡した。
すると、翌日から、学校の狭い廊下で理科教師とかち合うと、向こうが道を空け、「どうぞ」、と言った。
僕は、こんなことで人生の形勢とかが変わるものなんだと実感したものだった。
僕の家族は僕以外は皆、爬虫類(や両生類)が嫌いで、父は池で鯉を飼っていたが、「鯉が食べられてしまう」と怒った。
僕は、<アカハライモリがキンカブトを食べる訳ないじゃないか。バッカじゃなかろうか>とトニー谷みたいに言い放った。
滅多に僕を怒らない母も、目の前で大量のトカゲやカエルを庭に放つ僕の姿をみて、怒っていたな。
僕は、そんな両親をみて、<怒ったって何も変わらないのにな>、と思ったものでした。
その年の川原家の流行語大賞は、「母さん、怒ったって何も変わらないよ」でした。(うそです)。
家族は大変恐怖しましたが、しかし、母の声にびっくりしたのか、ヘビやトカゲはうちの庭からいなくなってしまって、
僕はとてもガッカリした。
あるいは、野鳥に食べられてしまったのかもしれない。女と鳥類は凶暴だな。
おじさんとおばさんの役割とは何か。
唐突だがそんなことを考えてみた。
それは、僕はこう思う。
親が禁止していて、子供が自分の経済力では買えない物をプレゼントする係りだ。
僕のおじさんの住んでいた溝の口の辺りに大きなペットショップがあり、そこにワニが売っていた。
僕は何かの記念日か何でもない日のお祝いに、おじさんにせがんでワニをゲットした。
ワニを池に放とうかとも思ったが、イモリで怒る父だ。ワニを泳がせたら卒倒してしまうかもしれない。
仕方ないから市営プールにワニを連れて行き、一緒に泳いだ。
すると、すぐに係りの者が飛んできて、厳重注意を受け、僕は出禁になった。
なので、僕はそれ以来、夏休みにプールに行くという選択肢が消えた。
だから僕がいまだに泳げないのは、市営プールの警備員のせいだ。
な~んて、そんなことを言ってはいけませんね。
なんでも、他人のせいにするのは、僕の悪い癖で、それは政治や文明や教育や世代のせいだと思う。
両親には僕とワニを厳重に管理する責任があった。
父は庭の隅に、小さなプールを作り、そこで僕らは近所の子供達も呼んで一緒に遊んだ。
子供達はすぐにワニに懐いていた。
ワニの餌は生きたドジョウや、肉を紐で縛り、動かして獲物のようにして食べさせた。
飼育は大変だったが、それなりに面白かった。
しかし、当時は知識も機械も乏しかったから、越冬するのが困難だった。
寒い冬が来ると水温を保てず、ワニは死んでしまった。
ワニが死んだ日のこと。
僕はワニを供養のために、食べる、と言って母を困らせた。
母は、ワニの料理をしたことがない、などと言い訳をして、父は寄生虫がいるからと説得した。
しかし、そんな理性的な理由は僕の衝動にブレーキを掛けるのには不十分だった。
結局、母は鶏のササミか何かを買ってきて、それをワニの形に切り抜いて、フライにした。
その日の晩ご飯のおかずは、「ワニのフライ」だった。
当時は公害の問題で、魚の値段が釣り上がっているという時事ネタを「サザエさん」の4コママンガでやっていて、
サザエとフネが「子供達が魚が好きだから困るわね」と言い、苦肉の策、鶏のササミを魚の形にしてフライにする、
という同じシーンがあった。
その4コマのオチは、カツオがワカメに「大人も苦労してるんだね」とこそりと言い、「協力しよう」と。
カツオが「あっ、魚の骨が刺さった」と口に指を突っ込み骨を取るマネをして、ワカメも「私も」と同じポーズをとり、
サザエとフネが青ざめるというものだった。
僕はそのマンガを見た直後だったから、仕方ない、黙って、「ワニのフライ」を食べた。
淡白で味も素っ気もなかった。
<ワニの肉は言われた通り、本当だ、うまくないね。もう、これからはいいや>
母は安堵の表情を浮かべ、そうして、我が家の食卓に「ワニのフライ」が登場することは、2度となかった。
この「予告ブログ」が、亡き母の誕生日に書けて良かったと思う。
BGM. エルトン・ジョン「クロコダイル・ロック」


僕は給食が食べれない

22/Ⅹ.(木)2015 はれ
小学校の頃、お弁当を見られるのが恥ずかしくて、パンと牛乳を買って持って行っていた。
お弁当って、その家の事情が、集約されている情報源だと感じていたから。
今、思えば、どうってことのないことを子供は気にするのだ。
子供に限らないか、大人でもそうかな。
そんなことより困ったことは、周りの皆が親切で、余計なお世話で、有り難迷惑なことだった。
彼らは自分の都合で勝手に文脈を読んだ。
概ね、こんな感じが最大公約数だったと思う。
「タッちゃん家は、忙しいから…」
と勝手に可哀想がられて、他のお母さん達が交代でお弁当を作って来て。迷惑でしょ?
僕には、その家の事情が透けて見えて、とても気分が良くなかった。
そんなことより不憫なのは、うちの両親で複雑な表情をしていたな。
弁当もそうなのだが、もっと苦手なのが給食だ。
僕は給食が食べれない。
それは今でも治ってなくて、僕は病院食も食べれない。
病院勤めの頃など、お昼は皆で仲良くこぞって病院食堂に行くのだが、僕は一回も行ったことがない。
同志や苦楽をともにした仲間の事を、同じ釜の飯を食う間柄、だと表現することがあるが、僕は同じ釜の飯が食えない。
それは比喩ではなく、文字通り、食えないのだ。
「小さな恋のメロディ」は僕の好きな映画で、クリニックのモニターでも流すことがあるが、唯一、嫌いな所がある。
主人公の男の子が、給食の時間に食堂に列を並んで、流れ作業で皿に食事を盛られるシーンだ。
僕は男の子に感情移入して映画を観てるから、絶対、この学校には入りたくないと思った。それは今でも思う。
頼んでも、入れてくれない年齢なのだが。
なんか家畜になったような気分になるのだ。
きっと前世の記憶か、未来が家畜人ヤプーになるのかもしれない逆行性の暗示かもしれない。
ま、どっちも違うだろうけれど。
人間ドッグでご飯が出されても、食べれない。
顎の骨を折って入院した時も、病院の流動食が嫌で、無断離院した。
あの時は、家族に迷惑をかけた。
そんな僕だが、外食は出来るのだ。マックでも、松屋でも、立ち食いそば、でも余裕。
何が違うのかと問われれば、そんなに違いはなさそうなのだが、とにかく給食系が駄目なのである。
だから、もし僕が将来、老いぼれて、自宅介護が不可能になって、老人ホームに入ったら、数日で栄養失調になるだろう。
年寄りだから、すぐ脱水とかになって、どっかの病院に搬送されるのだろう。
そこでも病院食は食べれないから、点滴とかで生かされるのかな。
そんなにしてまで生きていたくないな。
今、現在、身内や友人が似たような境遇におられる方がこれを読んでたら、とてもデリカシーのない文章だと思う。
気を悪くされるだろう。すみません。
でも、これはあくまで僕の死生観というか散り際の美学的な机上の空論なので、そこはどうかひとつ、ご勘弁を。
つまり僕が未来、人の力を借りなければ、食べられなくなったら、そんなにまでして生きていたくないのである。
医者は、何でも、生かせば良いと思ってるし。
だけど僕らが、生きてるうちに「安楽死」や「尊厳死」は認められないなだろうな。
国会で法案を審議してくれないかな。
安保や公認心理師も絶対大事な案件だとは思うけれど、「安楽死」も議論して欲しいな。
色々と、判定が難しいだろうけれど。
立川談志が、「このカプセルさえ飲めば、痛みもなく、スッと安らかに死ねる、という薬があったら、どんなに老人は安心することだろう」
と生前に言っていたし。
なんか話がややこしくなりそうだから、最後は談志に話を押し付けてみた。
BGM. さくら学院(クッキング部ミニパティ)「プリンセス☆アラモード」


君にメロロン

6/Ⅷ.(木)2015 はれ、暑い、36℃!
うちに出入りしていたちょっと変わったお姉さん。
その人の家によく遊びに行った。
南湖のあたりのスーパーの店先で、焼き鳥を買ってくれた。
ポップなフラワー・ムーブメントなシールもたくさんくれた。
僕はそれを家中の窓ガラスに貼ったら、母とお手伝いさん達が必死にはがしていたっけ。
その時、僕が思ったことは、<シールって貼るのは簡単だけど、はがすのは大変だな>、ってことだった。
そのうち母は、その人と遊んではいけない、と言った。
理由は、ふしだらな女、だからだとか。
そんなことを小学校低学年生に言っても判んないだろうに。
それに、仮にその人がふしだらでも、僕にとっては良い人だったから僕の評価は変えられないのに。
「ふしだら」、で思い出したのだが、「だらしない」とは本来は「しだらない」という言い方だったらしい。
いつの世も逆さま言葉は流行るらしく、「しだらない」が「だらしない」に取って代わったとか。
バイヤーな水着、みたいな感じですね。↓。


僕の小学校は女子高の付属で中高は女子校で、小学校だけ共学だった。
道を一本挟んだ敷地に中高の校舎があった。
そこの体育館倉庫のそばに、ミリンダの自販機があって、本当はいけないのだが、僕は休み時間に買いに行っていた。
バレるとヤバイから、体育館倉庫の中で、ミリンダ、を飲んで小学校校舎に戻る、ということをこっそりしていた。
誰かと行くと、そいつが足手まといになるのが嫌だから、一人で行っていた。
すると、その体育館倉庫の中には、隠れてタバコを吸っている女子高生がいた。
僕らは弱味を握り合い、ここはお互いのために秘密にしようと、共犯関係になった。
僕らはほぼ毎日、体育館倉庫で落ち合った。
彼女は何かの運動部に所属していて、その顧問の教師と内緒で付き合っているのだと打ち明けた。
でも、それはリンリ的にイケナイことらしかった。
僕はえらそうにミリンダを飲みながら、<ふ~ん、リンリ的ねぇ~>などと応えていた。
彼女はあまり頭の良い生徒ではなかったようで、僕と彼女の年の差を、簡単な引き算なのに、指を折って数えていた。
その数字が自分と教師の年の差より小さな数だったらしく、「よし!」と僕に乗り換えることにすると宣言した。
そして僕は、<将来、この人と結婚するのかなぁ>とボンヤリと思った。
それから数日後、彼女は体育館倉庫にパタリと姿を見せなくなった。
おかしいな、と思って、放課後、正門でまちぶせしていたら、彼女がやって来た。
明るい陽の下で逢うのは、初めてだった。
僕は<最近、どうしたの?>と聞くと、彼女は「あんたのお父さん、PTA会長なんだって?」、<そうだけど>。
「立場が違うよ!」と彼女は目を合わさずに、そう言った。
僕はそんなこと関係ないじゃん、と言いながらも、<この人は障害付きの恋に恋する人なんだ>とも思った。
だけど、風の噂で、彼女は卒業してから、その教師と結婚したと聞いて、<そいつは良かった>と思ったものだ。
うちの実家は眼科の開業医でたくさんの従業員がいて、僕は末っ子なので、大人たちから可愛がられていた。
僕とよくキャッチボールをしていた男の人は野球とギターが上手な、ギッチョの好青年だった。
僕が淡い恋心を寄せていた女性とその人が付き合っていると知った時には、お似合いだと思って、祝福した。
だけど、彼女の国籍か家柄がネックで、結婚は出来ないという話を聞いた時にはショックだった。
僕はもうハイティーンだったので、ある程度の事情も理解できるつもりだった。
僕は彼女と茅ヶ崎の海岸を海水浴場から辻堂の方向に話しながら遊泳禁止区域まで歩いて来た。
江ノ島が僕らに近寄って来る。
僕は僕なりに良いアドバイスをしたつもりだったが、彼女は「タッちゃんは、まだ子供だから判らないのよ」と馬鹿にした。
すると、急に雨が降り出して、まるで彼女の涙雨みたいで、僕らは濡れネズミみたいになったから、大慌て。
海辺から近くのパシフィックホテルに駆け込んだ。
家に帰ったら、父がパシフィックのことを、「昔は一流ホテルだったが、今は連れ込みホテルになった」と嘆いていて、
少し焦った。
後にサザンが「夏をあきらめて」で同じような光景を歌っていたから、僕は桑田にこのこと喋ったっけ?と頭をひねったものだ。
茅ヶ崎の海には、潮から町を守るように松林が立っていた。
そこのある区域に、ホモの浮浪者がいて、僕が通りかかると、「坊ちゃん、こっちへおいで」と自分の物を露出させて不気味に笑った。
僕はムシャクシャしていたから、騙された振りをして、松林の中に入って、油断した男の顔面に膝蹴りして逃げた。
そうしたら、その晩、複数のホモの浮浪者に追いかけられて蹂躙される夢にうなされた。
どっからどこまでが夢なのか、判らない。
僕が東中野に住んでる頃。
高校の先輩とたまたまご近所で出くわしたら、友好的で、「これから家に遊びにおいでよ」と豪華なマンションに招待された。
地下の駐車場にはジャガーというアメ車があって、先輩はそれを乗り回してると言った。
良いのか?高校生がジャガーに乗ってて。「巨人の星」の花形満じゃあるまいし。
「僕はこれから家庭教師と勉強だから、彼女が来るから相手してて」と言い残して部屋に消えて行った。
僕はだだっ広いリビングのソファに一人でいると、その彼女という人が入って来た。
大理石のように冷たい表情の美人で、僕は軽く挨拶をした。
彼女は、「隣に来ない?」と誘ったり、「吸う?」と吸いかけの薄紅いタバコを手渡そうとしたりした。
<いえ、煙が目にしみるから>と僕はプラターズのヒット曲のように断った。
が、何だ、これは?誘惑してるのか?
そもそも、あの先輩は何のつもりだ?家庭教師なんか来ないじゃないか。
そうか、きっと俺たちのやりとりを部屋からこっそり見てて、こっちが女に手を出したら、
「俺のスケに何してんだ?」って美人局みたいに出てくるつもりか?
それとも、倦怠期のカップルが刺激を求めて、チェリー・ボーイを交えて倒錯的な趣味に走るつもりか。3Pとか。
<ん~、弱ったものだ>と頭をフル回転させてると、先輩が部屋から出て来て、驚いたことに後ろに家庭教師がいた。
<あれ?本当に勉強してたの??家庭教師、いつ部屋に入ったの?あっ、先にいたの?じゃ、3Pは?なし?>
よく聞いたら、ジャガーも父親が運転するのに同乗してるだけなんだって。普通じゃん。馬鹿みたい。
高3の塾の夏期講習は泊まり込み。そこの女子たちに誘われて夜中に女子寮に忍び込んだ。
僕はその中の一番勝ち気な子と仲良しで彼女の布団に潜り込んで話をしていた。
「初恋の相手はどんな人?」の質問に、<石野真子かな>、と答えたら、「それは恋じゃないでしょ?」と怒られた。
うわ、面倒くさいパターンの奴だ。
その女子はカリメロに似ていたが、石野真子の悪口を言うたびに、表情は邪悪に変化して、最終的にスターウォーズのヨーダに見えた。
そして、他の間抜けが寮長に見つかった後は一網打尽。
僕らはそれぞれ、呼び出されて怒られた。
しかし、彼女は勝ち気で、怒られてる時に僕の片腕を閂の要領でギュっと自分の方に引き寄せて、講師たちを睨みつけた。
「私達は付き合っているんだから、誰にも邪魔はさせない!」と啖呵を切った。
彼女の胸が腕に当たる。<あぁ、僕は将来この子と結婚するのかな>と思った。顔はヨーダだけど。
後で寮長に僕だけ呼び出され、「あの子はやめろ」と説得された。
受験で恋愛すると、女は受かるが、男は落ちる、とも言われた。
頭ごなしに否定されると、恋の炎は逆に燃え上がる。西城秀樹じゃないけれど、やめろと言われても今では遅すぎた。
亀の甲より年の功、大人の意見もたまには合っていることがあるから注意が必要だ、という意味だったと思う。違ったらゴメン。
その子は受験直前に、頭の良い浪人生の男子と付き合うことにした、と僕に一方的に通告した。
それならそれでこっちは良いのだけれど、何が情けないって、「あれはないよな」と不細工な男どもに同情される現実だった。
そっちの方がきついよ。
で、寮長の予言通り、僕だけ大学に落ちるのである。
そして、僕は予備校を代ゼミに変えて浪人生活をした。
その時の様子は、受付カウンターのところに貼ってある「浪人の頃」に書かれています。
これは左側の上から下に読んで行くのが順番です。
「川原」の「川」の字の書き順と同じ要領で読む、と覚えると良いでしょう。↓。


浪人の夏休み。高校の同級生のお姉ちゃんが美人だと言う噂を悪友から耳にした。
冗談で、<ネェちゃんのパンティ盗んで来い>と命令したら実物を連れて来た。
それは、ものすごく美人だった。アイシャドーがブルーでエンジェルフィッシュみたいだった。
まぁ、浪人生が女子大生を見たら、誰でも、そう見えたのかもしれないけれど。
<お姉様ですか?始めまして>と挨拶すると「弟から伺っていますわ」、<はて?何を?>、「パンティー」。
そして、彼氏も連れて来ていた。
その彼氏とやらは、衣紋掛けみたいな男だった。
僕らは、ボーリング場に行くことになり、そこで僕は、ボーリング対決、を申し込んだ。
スコアの良い方が彼氏になれる、と。
姉はその話に乗った。衣紋掛けは、ぶつくさ文句を言っていたが、僕はまるでシカトした。
そして、僕は川原史上最高点、自己ベスト216を叩き出した。衣紋掛けは、90くらいだった。
だけど、それから先は、何もなかった。
冷静に考えれば、球転がしで男を決める女もどうかと思うし、二年連続、女で受験に失敗したら馬鹿みたいだし。
だからこの話しはここまでで、オチはない。受験生だけに。
大学に入り誰かの知り合いの女子高生と富士急ハイランドに4:4でピクニックに行った。
富士急には迷路があって、あみだで決めたカップルでペアになって入った。
僕らのカップルだけなかなか出れずかなり皆を待たせた。
僕はもうこのまま迷路から抜け出せなかったら、<僕はこの子と将来結婚する羽目になるのかな>と思って焦ったがなんとか脱出出来た。
僕らが最後に出て行くと、それぞれのカップルは良い感じになっていて、「ヒューヒュー」と僕らを冷やかした。
それ以来、富士急はトラウマ。
別のお嬢さん学校の女の子とも誰かのつてで仲良くなった。
何か勝手にカップルが決められていて、バレンタインに品川のアンナミラーズで待ち合わせ。
でも、僕はあんまり気乗りがしなかった。
それは、その子が僕との関係のことを、女たらしの男、に相談していたからだと聞いて。
こんな心理ゲームを知っています?
遠くに住んでいる「M君」を好きな「Lさん」は、「M君」に逢いたいばかりに「S君」に相談を持ち掛けました。
「S君」は1回、やらせてくれたら、「M君」の所まで連れて行ってやる、と約束しました。
「M君」に逢いたい一心の「Lさん」は「S君」に1回だけさせてやり、「M君」に逢いに行きました。
その事を打ち明けられた「M君」は「Lさん」のことを軽蔑して振ってしまいます。
さて、あなたが悪いと思う人を順番にあげなさい。
これは、恋愛の価値観を見る、心理ゲームですね。
もうお判りだと思いますが、「M君」はモラル、「Lさん」は愛情、「S君」はセックスです。
大学に入って初めて行った合コンは人数合わせで、当日に誘われた。
僕は合コンの作法を知らず、ガンガン呑んで、途中から記憶がない。
翌朝、起きたら、左腕に見慣れぬゴールドのブレスレット。
昨日の女の誰かのに違いない。
そうしたら、その晩、女から電話があって、ブレスレットを取りに、僕の家まで来ると言う。
それは嫌だから、なんとか中央線のどっかの駅のサテンで待ち合わせすることにした。
女は別に怒っていなかったが、「合コンでああいう呑み方は駄目だ」とか「女の子の扱い方」をレクチャーし出した。
途中から面倒くさくなったので、話は聞かないで、表情筋の動きだけを観察していた。感想は、<よく動くなぁ>。
すると、女は僕が素直に話を聞いてると勘違いして、調子に乗って喋り続ける。
僕はさらに目をこらし、皮膚の下の骨を透視して、そうしたら骸骨がガクガク動いてるように見えて、面白くなって来た。
そんな漫画が蛭子さんの作品にあったことを思い出して、余計におかしくなって、笑いをこらえるのに必死で、お尻をつねったりした。
そんな僕の我慢が、真剣さと勘違いされて、好意を持たれてしまった。
彼女は決して悪い人ではないが、僕の好みの外見ではなかった。
ピンク・フラミンゴのデバインみたいな容姿だった。
何故か、僕とデバインとその妹の3人でボーリングに行くことになった。
昔は中野の丸井の上にボーリング場があった。
妹は、お姉ちゃんには似てなくて、ションベンライダーの河合美智子にちょっと似ていた。
僕らは仲良くなった。
当時、僕は東中野にほぼ1人暮らしだったから、家は乱雑だった。
その子は家に来て掃除をしてくれたりしたから助かった。
「化物語」の阿良々木暦が神原駿河の部屋を片付けるの逆パターン。
お礼にデートも何回かした。
当時は千葉に東京ディズニーランドがオープンした頃だったが、僕は<ああいうのは愚民が行くものだ>、と思っていたから、
東京タワーの蝋人形館とか目黒の寄生虫館をチョイスしたけれど、彼女は普通の女の子だったから、
もうちょっとロマンティックな物を望んでいたのかもしれないな。
その後、彼女と何があったか忘れたが、どこかから一切、連絡をとらなくなった。ケンカとかしてないと思うけど。
でも、きっと原因があるとしたら、僕が悪かったんだろうな。
イジメと同じで、された方はいつまでも覚えていて、した方は忘れちゃってんだろうな。
皆さんも、人の振り見て我が振り直せ、です。気をつけて下さいね。
医学部の同期だったマリちゃんに、僕は猛アプローチをしたが、周囲からは「嫌われようとしてるとしか思えない」と言われた。
僕の出した暑中見舞いをマリちゃんのお母さんが見たらしく、マリちゃんに「お母さんが気持ち悪がっていたよ」と言われた。
頭に来たから、こけし、の形をした封筒で手紙を送った。案の定、マリちゃんより先にお母さんがそれを開いた。
中の便箋には、<お母さん、見てる?>。とだけ書いておいた。
マリちゃんに、「お母さん、恐がっていたよ」と言われた。
そんなマリちゃんと僕は今じゃメル友です。
こないだ何かの話の流れで、<マリちゃんは皆の心のマドンナだよ>と書いたら、
「いまだにそんなことを言ってくれるのは川原君くらいよ」と返事を貰った。
僕は、<あっ、ところで、このメール、旦那さん見てないよね?>と尋ねたら、「見てないよ。なんで?」って聞かれた。
そうかぁ、何も覚えてないんだぁ。
他の同級生の女子には、葉山のユーミンのライブに誘われた。
彼女の車で僕が助手席で。
学校で話したことはあるけど、2人きりは緊張するもので。
当時のユーミンのライブの盛り上がりは爆発的で、大盛況だったが、帰りの車中は沈黙気味。
僕はこのまま彼女が、海岸沿いのモーテルに車を突っ込んだら、断るのが大変だな、と勝手な妄想ばかりしていた。
しかし、彼女は紳士的で、海沿いのリッチなレストランみたいなカフェに寄ることにした。
その店は、当時は有名なお洒落な店で、気取った客ばかりがいて、息苦しかった。
とりたてて彼女と盛り上がる話題もなく、店も緊張するし、第一、僕はユーミンのこと詳しくないからまるで話しにならなかった。
それでも、彼女とは今でも、年に1回くらいはメールする間柄だ。
フィリピンパブのことは以前の記事「マイラ」に書いたから参照されたし。
ここでは、そこで勤めてた日本人の女の子について。
店がはねてから、「自分の家で呑み直そう!」と誘われた。
断る理由もないから付いて行った。
すると、家に着くなり、彼女は「ちょっと待っててね」と言って、神棚を開いて、お経をあげ出した。
それは簡素なものだった。
それから彼女は、店からくすねて来たというウイスキーのボトルをバッグから出して、「呑もう!」と言った。
僕は、<あなたの信じてる神様は、こういうことして怒らないの?>って聞いたら、黙り込んじゃった。
次の日曜日、彼女は僕のアパートに来て、部屋を掃除してくれた。
お礼に近くで、ビールでもおごるよ、と蕎麦屋まで歩く道すがら、彼女は「日曜の昼間に歩けるなんて嬉しい」と言った。
僕はなんとなく<僕は、この人と結婚するのだろうか>、と思った。
しかし、マイラの禁止令が出て、僕は店に行かなくなったし、彼女からも何のアクションもなかったから関係は途絶えた。
何年か経って、気になって、その店のあたりに行ってみたが、それっぽい店はいまだにあったが、店名も変わっているし、
もうさすがにその子はいまいと思って、店には入らずに帰って来た。ただそれだけのこと。
僕の国試の勉強はアパートの近くのカフェテリアで開店から閉店まで。
僕は朝からモーニング、昼はランチ、夜はハンバーグドリアを食べて勉強した。地元の奥様が通うような店。
お店は3人の女性がいて、毎日、勉強に通う僕を暖かく迎えてくれた。
僕は背中越しに、3人が見守ってくれてる気がして、1日中勉強を頑張れた。
クリニックのカウンターテーブルはそのイメージで作った。勉強しに来る子を受付が見守ってあげるイメージにした。
この店も気になっていて、何年か前に行ってみたら、もう区画整理にあって、その店の入っていたビル毎、消滅していた。
クリニックに飾るポスターのラミネートをしてくれる文房具屋の女の子は、最近、急に綺麗になった、と思っていた。
そうしたら、先日、向こうから、「お酒は呑めますか?」と聞かれ、呑みに誘われた。
その事を受付に話したら、「それは逆ナンですよ!まさか、行く気ですか?」とちょっとしたバッシング。
彼女は僕がポールのコンサートに行った時のユニオン・ジャックのネイルに感激していて、
「男の人のネイルって素敵ですよね。なのに全然浸透してなくって」と嘆いていた。
文房具屋の上司が言うことには、彼女は来週でお店をやめてしまうのだそうだ。
これからは、ネイリストを目指すそうで、それでずっと僕のネイルが気になってたらしいのだ。
なるほどね。それで僕を誘ったのか。ネイルをする男に興味があったのね。そういう事か。
植木等の「スーダラ節」ではないけれど、俺がそんなにモテるわきゃないよ、だ。
でも、なんか清々しいオチだ。あまりに清々しいから、今度一緒に飲みに行く約束をした。
男の上司も一緒に、つまり三人で。
なんで文房具屋の女の子の送別会に僕が参加するのかという疑問も残るが。
ま、細かいことは気にしない。人生、成り行きだ。

BGM. トワ・エ・モア「初恋の人に似ている」


男達のホワイト・デー

今回は、以前のブログ記事「タグ」の中で予告した「ゆたかさん」と中西先生の友情を軸にした特別企画です。
「男は強くなければ生きて行けない、優しくなければ生きて行く資格がない」
知らない皆さんも多いかと思うので説明すると、これは「野生の証明」という映画のキャッチコピーでした。
「野生の証明」は、「人間の証明」に次ぐ角川映画の第2弾で、薬師丸ひろ子のデビュー作です。主演は、高倉健。
ちょっと男っぽい、導入をして、2人にゴマをすってみました。
先日、「ゆたかさん」から電話をもらった。
「ゆたかさん」は僕の大学の先輩で、それは恐ろしい先輩だった。
出来れば、あまり関わりを持ちたくないような怖い人だった。
昔の上級生には、本当に恐ろしく怖い人がいたものだ。
それに比べて、中西先生の優しかったこと。
その二人が同期で仲良しだと言うから、人生は味わい深い。
僕の入学した大学には、学生会館というロッカーや食堂やロビーのある棟があった。
そこの1階にはジュースの販売機や喫煙スペースがあり、ベンチがあって学生の休憩場所だった。
学生の休憩場所だから、自由に使って良い物と思い、入学したての僕は派手な格好でデカイ態度でくつろいでいた。
その頃の学生会館を牛耳っていたのが、「ゆたかさん」だった。
僕は何人かの人に、「ゆたかさん」に目を付けられない様に注意しろ、と忠告を受けていた。
しかし、僕はまさか大学生にもなって、そんな原始的な上下関係が通用するものか、と相手にしなかった。
「ゆたかさん」はしばらく僕を泳がせて様子を見ていたらしい。
そして、僕の一挙手一投足を観察しては、周りのものにリサーチしていた。
僕のクラブの先輩は、普段は喋ったこともない怖い先輩に呼び出され、僕の事で尋問されたらしい。
「あいつは、なんで、南軍の帽子をかぶって、学校に来てるんだ?」
「あいつは、なんで、フェース・ロックにチキン・ウイングを合体させた技を使うんだ?」
僕の先輩達は可愛そうに、僕の服装やプロレス技のことで、問い詰められ、答えられないと鉄拳制裁だ。
そして、先輩達は、「川原、なんで、その帽子なの?それより目立つ格好、やめて」とか、
「川原、なんで、チキンなんとかって技を選んでるの?それより、学生会館でプロレス技、かけないで」って懇願した。
僕は当時、アメ横の中田商店というアーミーな店で軍隊の服を買って来ては好んで着ていた。
また当時は、UWFがブームで、ス-パー・タイガー(佐山サトル)がチキン・ウイング・フェースロックを流行らせた。
「ゆたかさん」は古くからのプロレス通だとは聞いていた。
だから、僕は学生会館で「卍固め」や「足4の字」をかけてる分には、見過ごしてくれたのだろう。
しかし、当時のUWFは、既存のプロレスを否定し、派手な技より地味にギブアップを奪える技が決め技だった。
その代表が、チキン・ウイング・フェースロックだった。
これは背後から相手の片腕を手羽先の様に「く」の字にとって、逆の手で相手の顔を横に引っ張り、自分の両手を
ロックさせる。これは両手の人差し指1本をフックするだけで、極まった。
多分、この辺が、「ゆたかさん」の臨界点だったようで。
僕は、「ゆたかさん」に呼び出しをくらった。
覚悟はしてたが、ついに来たか、という感じだった。
僕は大勢の取り巻きを引き連れた「ゆたかさん」に学生会館の屋上か何かに連れ出され、ボコられるのかと覚悟した。
殴られたら、すぐ女子の所に行き、同情票を引いて、女子を扇情して心理的に逆襲に出ようと作戦を練っていた。
しかし、「ゆたかさん」は1年生相手にそんな野蛮な手段はとらなかった。
取り巻きはなし。1人で来て、「メシをおごってやる。付いて来い」と言った。
そして、僕らは、学生食堂ではなく、ちょっと高級な病院のレストランに行った。
「ゆたかさん」は、「川原って言ったな?何でも好きな物を頼め。遠慮はするな」と微笑んで言った。
僕のシュミレーションとは違った展開なので、少し拍子抜けした。
そんな人を相手に、この場面で遠慮をするのは、かえって危険だ。
先輩の顔を潰すことになると空気を読み、そのレストランで1番高いメニューの「焼肉定食」を注文した。
しかし、これにはきっと罠があることくらいの想定はしていたから、僕は苦手の「きゅうり」対策として、、
ウエイトレスにこっそり、<きゅうり、は抜いてね。サラダからも、漬物からもね>とお願いしておいた。
「おごってやったんだから、残すな」とか言いそうだし。
僕が、「きゅうり」を嫌いなことをリサーチしてる可能性だって、ゼロではないからね。
そして、僕らは他愛のない話をしていると、「焼肉定食」がテーブルに届いた。
ちなみに「ゆたかさん」はコーヒーしか頼んでいない。
<「ゆたかさん」は食べないんですか?>と尋ねると、「俺はいいから。お前、食え」。
<そうですか、じゃ、遠慮なく>、「ちょっと待て」。
「ゆたかさん」は、「ただし、箸を使って食うな」と言った。
は~、なるほど。
そういうこと言うんだ。
だったら、サンドイッチとかにしときゃ良かったよ。
「焼肉定食」は、焼肉が盛り付けられた皿と、白飯、サラダ、汁物にデザートだ。
箸を使って食うな、って犬食い、するしかないな。
それでこういうちょっと高級なレストランに連れて来た訳か。
恥をかかせて、上下関係を叩き込もうという作戦か。なかなか、頭脳犯だな。
そうなったら、トンチ合戦だ。トンチと言えば、一休さん、だ。
一休さんが「この橋を渡るべからず」の看板を、堂々と橋の真ん中を渡り、「端ではなく真ん中を渡りました」
と言ったトンチを応用して、僕は箸を持ち、焼肉の皿の真ん中の肉を食べた。
ゲンコツが飛んできた。
イテっ。
「箸で食うな、と言っただろう」との怒声。
僕は頭をさすりながら、<だから、端じゃなく真ん中で食べました>と答えた。
「ゆたかさん」はしばらくポカンとして、トンチに気付いたら、「お前、面白いな」とニヤリと笑った。
そして、急に良い人になって、「ゆっくり食え。俺は行くから。何か困ったら、俺に言え。力になるぞ」って。
僕は「ゆたかさん」が去った後、ゆっくりと焼肉定食を堪能した。
さすが病院のレストランで1番高いメニューだ。うまかった。ご飯、オカワリした。
翌日から、学生会館に行くと、風景は様変わりした。
「ゆたかさん」は僕の姿を見かけると、「お~!川原!元気か?」と声を掛けてくれ、僕も南軍の帽子をとって挨拶した。
それを見かけたクラブの先輩は、「なんで、「ゆたかさん」が川原に挨拶するの?」と慌てていた。
僕が、<仲良くなったから>と答えると先輩は頭を抱えていた。
史上最強の先輩と史上最悪の後輩がタッグを組んだから。
それからと言う物、僕は「ゆたかさん」が用心棒をしてくれることを良い事に益々、増長して行く訳である。
僕らの大学には、2つの野球部があった。
「硬式野球」と「準硬式野球」。準硬(ジュンコー)は、B球という芯が硬式と同じで周りが軟式のようなゴムボールを使う。
医学部の野球部は、ジュンコーの方が一般的で、クラブ数も多かった。
うちの大学では、ガチで野球をやりたい猛者が硬式に入り、おっかない人や柄の悪い奴が多かった。
一方、ジュンコーは、芸能人野球大会みたいな華やかなプレーをしたい人が集い、カッコいい滑り込みの練習とかをしてた。
僕は、ジュンコーに所属して、背面キャッチや天秤打法などの練習をしていた。
ちなみに、「ゆたかさん」と中西先生は、硬式野球部のチームメイトだった。
そして、冒頭の「ゆたかさん」の電話につながるのだ。
今度、「ゆたかさん」の代の硬式野球部の面子で、3月14日に、豚しゃぶを食べにいくらしい。
で、その時に、中西先生の写真が欲しいのだが、誰も持ってないから、「川原に頼むしかない」とのお願いだった。
3月14日と言えば、世間は、ホワイト・デーだ。
しかし、硬派の男達には関係のないイベントだ。
男ばかりで豚しゃぶを食うらしい。
豚を食うところが、また男っぽい。
そして、そんな同期の会に中西先生も参加させたいという男気だ。
中西先生はもう死んでいて、死人に口なしだけど、同期だから一緒に豚しゃぶを食べたいと云う優しさに心を動かされた。
まさに、「男は強くなければ生きて行けない、優しくなければ生きて行く資格がない」を地で行っている男達のホワイト・デー。
<判りました。任せて下さい。何とかします>と僕は大見得を切った。
そして、中西先生が開業する直前まで、同じ病院に勤務していたF.に電話した。
すると、F.は「俺は、写真を持たない主義だ。だったら、サスガに頼むと良い」と教えてくれた。
サンキュー。
だけど、F.って写真を持たない主義だったのか?初耳だ。
あいつは昔から、今さっき決めたことでも、「俺の主義だ」とカッコつける癖があるからな。
きっと最近、浮気の現場写真でも見つかって懲りたんだろう。
そして、僕はサスガに電話して、これこれこう言う訳で、中西先生の写真が欲しいのだが、と聞いてみた。
すると、サスガはあっさりと、「有りますよ」と言った。
「中西先生のお別れの会で、僕らでスライド・ショーを作って、評判が良かったんですよ。
硬式野球部の方も一部、見えていて、感動して泣いてましたよ。
あれ?川原先生は中西先生のお別れの会に来ませんでしたか?」
と批判的な口調で言った。
<いや、行くつもりだったのだが、その日はきゃりーぱみゅぱみゅのコンサートとかぶってさ。
靴を投げて中西先生の会に行く予定だったんだけど、直前にきゃりーちゃんのスキャンダルが発覚してさ。
きゃりーちゃん、落ち込んでるかと思って応援に行かなきゃと思い直してさ。
それに、お別れの会って言ったって、中西先生がそこにいる訳じゃないし。俺が行かなくても会には関係ないだろうしさ>
って言い訳をした。
サスガは、仕方ないなと言う感じで、「判りました。先生のクリニックに送ればいいですね」と言い、ミッション終了!
中西先生と僕とサスガは不思議な縁で、高校と大学と医局が同じで、先輩後輩の仲なのです。
順番は、中西>川原>サスガです。
精神科は他大学との交流のため、毎年、野球のリーグ戦があった。
僕らの医局は、中西・川原・サスガの3人が主力メンバーだった。
そうそう、サスガもジュンコーです。だから、あいつは、高校も大学も部活も医局も僕の後輩になります。
ある年の野球大会。僕は派遣病院に出向していて、そこのMSさん(秘書みたいな人。ケースワーカーの卵。若い女子)
が野球観戦の応援に行きたいと言うから、3人くらいを僕の私設応援団員として帯同した。
そうしたら、若い女の子の前ですから、ちょっと良い所を見せたいと思うじゃないですか?判るでしょ?だんな。
僕は、サスガに、<おい、ピッチャーを変われ>と途中からマウンドに立って。
しかし、僕の下心はナインにみえみえで、「大丈夫なのか?」と心配の声があがって。
僕は、<大舟に乗ったつもりで。こう見えても、中学の頃は「小さな巨人」と呼ばれてたくらいだから>って、
ドカベンの里中を持ち出して。
実際、僕は中学の頃、草野球で、「小さな巨人」と呼ばれていた。
ま、正確には、友人に<そう呼べ!>と脅迫していたからで、皆は不要な争い事を避けたいから、自分の損失にならない
範囲では俺の言う通りにしていた。
他にも、「キャプテン」と呼ばせていた事がある。
これは、キャプテン・ハーロックとリリーズの「好きよキャプテン」をかけていた。
教師には、「川原、お前は一体、何のキャプテンなんだ?」とよく聞かれて、説明するのが面倒くさかった。
<何かに限定された範囲のものではなく、将来、トップに立つ資質のようなものを中学生の嗅覚が嗅ぎ分けるのでは?>
などと適当な事をフカしておいた。
話が脱線したが、僕はリリーフとしてマウンドに立った。
僕はドカベンの里中のように華麗なアンダースローから幾つかの変化球を投げ分けた。
しかし、練習は裏切らない、というか、ボールは正直だ。
1球として、ストライク・ゾーンに入らない。3者連続フォアボールで、あっと言う間に無死満塁。
風雲急を告げ、大ピンチだ。
400戦無敗で知られるヒクソン・グレーシーが最強の男であった1番の理由は、負けそうな相手とは戦わない、
というのがあって、前田や桜庭の挑戦からは逃げていた。
でも、これは案外、生きる知恵だ。
戦場で生き残るのは、必ずしも勇敢な兵士ではない、と言うのと同じだ。
僕は、ピンチに強い男と自認しているから、負けそうなピンチはヒクソン方式で分母から消そう。
そうすれば、勝率は下がらない。
これは良いアイデアだ。
そこで僕は、マウンドにサスガを呼び、<おい、ピッチャーを変われ>とリリーフを押し付けると、
「嫌ですよ、僕は!自分で蒔いた種なんですから、自分で責任をとって下さい。次から、クリーンナップですからね」
と言い放って、自分の守備位置に戻って行ってしまった。
あいつは、高校も大学もジュンコーも医局も俺の後輩のくせに、少しも俺を尊敬してないな。
平気でこういう冷たい態度をとる。
普通、男の上下関係って、上が「黒」って言ったら、「白」でも「黒」だろ。
なんて僕がブツブツ文句を言ってると、マウンドに駆け寄ってきて優しい言葉をかけてくれたのが、その時のキャッチャーで、
女房役とは良く言ったもので、キャッチャーマスクをとって、
「川原、切り替えて行こう!
野球では、ピンチはチャンスだ。
川原の得意のフォームは、スリークォータだったよな。あの投球を俺に見せてくれないか?」
と優しくなだめる人物こそが、そうです!中西先生だったのです。
そうして僕はマンガの真似をやめて、中西先生のおだてに乗って、このピンチを最小失点で切り抜けた。
それで、試合は次の回に中西先生が逆転タイムリーを打って、残りのイニングをサスガがピシャリと抑えて、我々の勝利。
試合後の打ち上げで、<今日のMVPは誰か?>、と僕が言い出して、
「逆転打を打った中西先生では」とか「ピッチャーとして、先発とリリーフの両方の役割をしたサスガでは」と意見が分かれた。
しかし、もっとも大勢を占めたのは「野球はチームプレー。皆で勝ち得た勝利だから、皆がMVP」というぬるま湯のような意見だった。
僕はそこでも譲らず、新日世代闘争の時の前田が空気を読まず「誰が一番強いか決めればいい」と言ったフレーズがいつも頭の隅にあったから、
<誰がMVPかをはっきり決めるべきだ>と主張して、座はシラケた。
その時、中西先生がこう言った。
「今日のMVPは川原だよ。こんなに試合を盛り上げてチームに一体感を抱かせたんがから」と。
その意見にその場にいる皆が救われて、「MVPは川原」、ということになった。
僕はその時、中西先生って何て優しくて、正しい意見の持ち主なんだろう、と感心した。
僕はおそらく、そんな風な発言もした。
すると中西先生は、わざとらしく頭をかいて、照れるポーズをして、それを見て皆が笑って。僕も笑った。
そんな事を思い出しながら、僕はサスガから送られて来た中西先生の写真を「ゆたかさん」に送った。
電話口で「ゆたかさん」は、何度も何度も礼を言った。
<いや~、僕はただサスガに送ってもらったのを渡しただけだし>って。
それでも、「ゆたかさん」は繰り返し繰り返し、礼を言った。
「ホント、川原サンキューな。今度、メシ、おごるから。ホントに!」って。
<良いって、良いって。もう律儀なんだから、「ゆたかさん」ったら>
でも、あんまり断るのも失礼かな。
この場合、模範的な後輩の態度としては、おごられるべきなのかな?
目上の人の顔を立てて。
だったら、しょうがない、ゴチになるかぁ。
何にしようかな?
寿司が良いかな。
座っただけで、何万円みたいな店で。
よし、寿司にしよう。
寿司なら、箸がなくても食べれるからね。
豚しゃぶ、なんかに連れて行かれたら、大変だ。
やけど、しちゃうよ。
BGM. かまやつひろし「我が良き友よ」


スポ根!

14/Ⅳ.(火)2015 小雨
今日こそは、「男達のホワイト・デー」を書こうと思っていたのですが、後輩のヤスオが参ってるみたいで。
急遽、予定を変更して、ヤスオを励ます記事にします。
義を見てせざるは勇無きなり、だ。
ヤスオの場合はもらい事故に近い気もするが、よく事情も知らないのに、勝手なことを書いて迷惑かけちゃいけないし。
今は我慢だよね。
ヤスオと僕の接点は野球だから、今日、<人生は野球と同じで、ピンチがチャンスだ!>とハガキに書いて投函した。
と言う訳で、今日のお題は、野球つながりで、スポ根にしてみました。
僕の子供の頃のヒーロー・マンガはこぞって、スポ根もので、だから僕のメンタリティーもこう見えてスポ根で出来ている。
カワクリのそこかしこに、スポ根が隠し味であります。
下が、テレビ側の待合室の「巨人の星」。↓。

ウォーター・サーバーの近くには、「あしたのジョー」。↓。

そして、ブルース・リー。あれ、ブルース・リーはスポ根じゃないか。↓。

僕が1番影響を受けたのは、「タイガーマスク」です。プロレス好きもそこからです。
小学校3~4年からの筋金入りです。
だから高校の体育の柔道にも、僕はプロレス技を持ち込み、弓矢固めや回転揺りイス固めやグランドコブラを炸裂させ、
体育の教師を唖然とさせました。
うちの学校の柔道は安全性を考慮して、結構縛りが多くて、絞め技や関節技は禁止だった。
僕のプロレス殺法は教師に言わせると、それに該当するらしかったが、僕は<これは寝技だ>と主張し、一部の技の了承をとった。
乱取りでは皆が背負い投げや大外刈りを掛け合ってる真ん中で、僕はツバメ返しの練習をしていた。
うちのクラスに、イノー君、という長身で体躯の良い子がいた。
授業の練習試合で、僕はイノー君と対戦になった。身長差20cmの無差別級の試合だ。
イノー君は、運動神経も良くて、柔道も強そうだった。
これはまともに行ったら負けるな。
そこで僕のとった作戦は、はじめの合図と同時に猛ダッシュで片足タックルに行き、相撲の小股すくいの要領で片足立ちにさせた。
だけど、イノー君はバランスが良くて、それでも倒れなかった。
ならばと僕はとった片足を思いっきり担ぎ上げ、軸足を蹴って、相手を背中から倒した。<やった!一本!>
しかし、判定は、「川原、反則負け!」。柔道では、軸足を攻撃するのは反則らしかった。
倒れた際、軽量級とは言え、僕の全体重が、イノー君の片足にかかって、イノー君は軸足を骨折した。
イノー君のお父さんも医者で、うちの父親はイノー君のお父さんに頭が上がらなかったらしい。
うちの父は短歌もやっていたが、それもイノー君のお父さんの導きだったから。
そう言えば、母の歌集にもイノー君のお父さんに世話になったと書いてあった。
しかし、僕はそんなことは、イノー君の骨を折るまで知らされてなかった。
両親が、「どうしよう、どうしよう」とあんなに困り果ててる姿をみたのは、あれが最初で最後だ。
両親は、イノー君の家まで、謝りに行った。僕は連れて行かれなかった。だって親同士の問題に子供が口を出すのもね。
しかし、イノー君はとっても良い奴で、「気にしなくていいよ」と松葉杖をつきながら、笑っていた。
イノー君は、治療の為、何日か学校を休んでいたので、僕はその間、普段とらないノートをとって貸してあげた。
「そうしろ」って親に言われたから。
サービスで、ノートの下にパラパラマンガも書いてつけておいた。
パラパラマンガのストーリーは、小股すくいから軸足蹴りで一本そして骨折の巻。
反省の色なし、だ。
でも、イノー君はそれをみて笑っていた。「よくこんなの思いつくね」って。人格者だな。
こいつは一本取られた。って、うまいこと、言ってるつもり。
ある雨の日。僕は友人と地下鉄の駅へ坂を下ろうとしてるところだった。
イノー君は、松葉杖で傘もさせないで、目白方面へのバス停に濡れながら歩いてるのが見えた。
僕はその姿を遠巻きに見てるだけで、体が動かなくって。
みかねた友人が「オイ、いいのかよ」と僕に声をかけて、それで僕は我に返って<あぁ>と答えて。
その瞬間、他の生徒が、イノー君に傘を差し出して入れてあげる光景がみえた。
僕は今でも、そのシーンを鮮明に思い出す。
だけど、その時の僕は、もうことは済んでいたので、<行こうぜ>と言って、友人と池袋へ出て遊んで帰った。
僕はサンシャイン60の中のソニプラで、アメリカ製のおもちゃの光線銃を買った。
それは、レバを引くと、けたたましい7色の音がして、未来っぽかった。
僕はそれを翌日、学校に持って行き、友人達に乱射した。(音しか出ませんから、念のため)
そうしたら誰かがチクったらしく担任の教師に怒られた。
そいつは前の週に僕がおもちゃの刀を持って行き、廊下でチャンバラをしてたら「川原、幼稚なことをするな!」と怒った奴で。
つまり、2週連続で、僕と担任はおもちゃの武器のことで怒ったり怒られたりしていたことになる。
イノー君とは、その後なんの接点もないが、確かどこかの医学部に行ったはずだ。
良い奴だったから、きっと、今頃、立派な医者になってるんだろうな。
何科になったのかな?
自分の体験を活かして、整形外科医になって、多くの骨折患者さんの治療をしてるのかな。
それとも親の後を継いでるのかな。
元気でやってるかな。
あれから何年、経ってるんだろう?
去年、石野真子がデビュー35周年って言ってたから、そのくらいかな。
今日みたいな雨の日は、古傷がうずくかな。
なんか全然、スポ根な記事じゃなかったですね。
すみません。
昨日、ネイル、ミルキーっぽくしたんだよ。見る?

じゃぁね、ヤスオ、頑張れ、俺がついてるぞ。
BGM. 忌野清志郎「空がまた暗くなる」


アニバーサリー・リアクション

2/Ⅳ.(木)2015 はれ
今回こそ、前々々回の記事『タグ』で予告した、「ゆたかさん」と中西先生の友情を軸にした特別企画「男達のホワイト・デー」
をお届け出来るつもりだったのですが、これが案外難儀で、本日も、挫折。
もう4月になっちゃったし、ホワイト・デーでもないし、もう誰も予告ブログなんて気にしてないだろうし。
ブログの検閲を頼んでる「顧問」も、「ブログは、センセーの発散に使って、ブログがストレスにならないように」
と事あるごとに言ってくれてるし。
この記事の右側に並ぶ「タグ」の項目の「川原達二の履歴書」というネーミングを考案してくれたのも、「顧問」です。
メールで、色々とやりとりをして、一晩寝かせて、3月19日にそのベールを脱いだのです。
その数日前、僕は何か落ち着かなくて、気忙しくって、何かをしないではいられなくて、夜中中、タグを付けてて。
「トモトモさん」などリアルタイムでタグが増えてくところを見ていたそうで。
「顧問」も異変に気付いて、「何をやってるんですか?!」と忠告をしてくれて。
その辺の顛末は、『タグ』に書いてあるから、興味があったら見て下さい。
それで何を言いたいかと言うと、その時期の僕は傍目から見てても、心配になるみたいで疲れてるみたいで。
憑かれてるみたいで?
心理の徳田さんが、「ストレス社会で闘う人のためのチョコ」をわざわざ買って来てくれたくらいです。
しかし、精神科医にそんなチョコをあげるなんて、按摩の肩を揉む、のにも似た行為ですね。
さすが、ストレス社会、みんなが紙一重だ、という徳田さんの臨床心理士としてのメッセージか。
徳田さんがくれたチョコは2種類あって、BABYMETALみたいに「黒」と「赤」の2バージョンあります。
これが、「黒」。疲れて机に突っ伏した吉田拓郎と一緒に撮ってみました。↓。

そして、これが「赤」。山口百恵のLPを背景に撮影しました。百恵ちゃん、これでハタチですよ。
うひょー、セクシー、…って言うより、老けてないか?。今のきゃりーちゃんで22だよ。↓。

ストレスと言えば、前回のブログを読んで、元・同僚がメールをくれました。
彼女も自身で医院を開業されていて、「人を雇うって大変よね、もう頭に来ちゃうことばっかり」みたいな内容でした。
まぁ、本当はそこまで露骨な言い回しではなかったのですが、そんなニュアンスも何割かあったってことです。
いわゆる「開業医アルアル」でした。
しかし、疲れるけど、新しい人が入って来てくれるのは、刺激になるから良い面もありますね。
昨日、紹介した山崎さんや心理の高橋さんや原さん。
あしたの風、って感じです。
あしたの風、と言えば、それは僕の母の第一歌集のタイトルです。
母の、第二歌集は遺歌集になりました。
あとがきは僕が書きました。
それは、母の一周忌に合わせて出版しました。
平成19年の3月19日の出版です。
ちなみにカワクリの開業は、平成19年1月だから、僕は開業準備と平行して、本を編む作業をしてたことになります。
そうなのです!
僕がやたらと「タグ」を付けまくってたのが母の命日の前日で、「川原達二の履歴書」のタグを発表したのが命日でした。
これは別に考えてそうやったのではなくて、たまたま、偶然、重なったのです。
そうは言っても、僕らは職業柄、偶然なんてあまり信用しなかったりもします。
たとえば、アニバーサリー・リアクションは、頭で考えるのではなく、その季節になると自然に体が思い出すことを指します。
つまり、思ってなくても、木々のざわめきや、空の高さや空気感、雑踏の季節感が、時空を超えて心をタイム・スリップさせるのです。
日本語では記念日反応と訳しますが、命日反応と言う場合もあります。
命日に限ったワケではないのに、命日反応と言う訳が存在するのが、日本人の死生観のようなものを表しているような気がしてこっちの方がしっくり来ませんか?
僕は、母が死んでから、墓がある寺の坊主と喧嘩して、墓参りには全然行きません。
行ってられっかよ!
大体、あんな神奈川の田舎の北の寂れた墓に、母や父がいるとは思いません。
生前に何のゆかりもない寺ですからね。
神仏は人間が信仰するから、はじめて存在しうる、という考え方も一般的にありますね。
なので僕が墓参りに行かなければ、父母の魂はあんな薄暗い墓に葬られていられないという計算式も成り立ちます。
そう考えると、僕が信仰しないおかげで父母の魂は開放されていて、案外、俺、親孝行じゃん。
なので僕は墓参りをしません。
父母の命日や誕生日には、心の中で話しかけるようにしています。
でも、タグの「川原達二の履歴書」の公開日が3月19日だったのは、意図的ではないです。
かと言って、無意識の仕業だけでもないのです。
なぜなら、それは「顧問」との共同作業だし、「顧問」は母の命日のことを知らないはずだから、たまたまです。
だけど、こうも考えます。
逆に母が、自分の命日を忘れないでね、と働きかけ、それに霊的なポジションで僕が呼応して、3月19日になったのだと。
偶然ではなくてね。
ちょっとオカルトチックな発想かな。
墓参りとか行かないくせに、信心深いのか罰当たりなのか、紙一重ですね。
BGM. BABYMETAL「ギミチョコ」


タグ

19/Ⅲ.(木)2015 小雨
近頃の診察室で目立つのは、これ。↓。

Wさんのディズニー・シーのお土産で、「ダッフィー」の「不思議の国のアリス」の「チェシャ猫」模様。
なんでも、シーでは、ディズニー・キャラクターの色々な模様の「ダッフィー」を売ってるそうです。
うまいことを考えますね。
何事も、アイデアですね。
ちょっと前に、以前に勤めていた病院で一緒だった女医さんから葉書をもらって。
彼女は、ある日、忌野清志郎の、「アイデア」、を聴いていたら、僕のことを想い出して、書いてくれたという。
そんな彼女からもらったポストカードはなんかシュールな気分のものだった。
と言う訳で、今回のテーマは、アイデア、です。
そこで僕も、ちょっと良いアイデアを考えました。
それはこのブログに関しての、アイデアです。
ブログは結構長いこと、やっているので、最近、知った人は、過去のものを全部読むのは大変でしょうから、
CDで言うところの「ベスト盤」みたいなものを考えました。
それはブログの記事の最後に、「カテゴリ分類」というのが付けられるのを発見したからです。
「カワクリ紹介」、「グルメ」、「ファッション」、「受付」、「相談室だより」などのカテゴリを作りました。
僕より受付に興味が有る方は「受付」をクリックして下さい。
同様に、徳田さんの書いた記事を読みたい人は「相談室だより」をクリックすると、それだけが選択されます。
ついつい面白くなって、真夜中まで、調子に乗って、カテゴリ項目を量産しました。
「BABYMETAL」、「中川翔子」、「まどマギ」、「格闘技」、「けいおん」、「落語」、「川原の歴史」など…。
真夜中に書いたラブレターは翌朝に読むと恥ずかしいから、投函する前に読み直せ、とよく言いますが、
それと同じように翌朝、見たら、ブログのトップページがすごいことになっていた。
荒れていた。犯人は、僕。
思い直して、消そうとしたが、これは自分では削除できないらしく、HPの管理会社のセットアップの成田さんに
頼んで後始末をしてもらった。
もう、タッちゃん、人騒がせ。成田さん、いつも迅速に対応してくれてありがとうございます。
いつもブログの検閲をしてくれている「顧問」は、「川原の歴史」は残しても良かったのでは、と言ってくれました。
そう?
だったらついでに、「川原の歴史」だとあまりセンスが良くないので、タグのネーミングも依頼しちゃいました。
「顧問」は頭を悩ませ、アイデアを振り絞り、以下の候補をあげてくれました。
①「川原達二の物語」
②「川原達二の歴史」
③「<川原達二>シリーズ」
④「川原達二の履歴書」
⑤「川原達二の××」
⑥「川原達二の声を聞くがよい」
そうそう言い忘れましたが、このタグを増やした遠因は、僕の歴史、を編集・整理しておこうと思ったからなのです。
それは、先日、大学時代の大先輩の「ゆたかさん」に、「中西先生」の写真をくれ、と頼まれたのがきっかけでした。
中西先生とはこないだ死んだばかりの僕の高校&大学&医局の先輩のことです。
「ゆたかさん」は中西先生と学生時代同期で、今度その集まりに中西先生の写真が欲しい、との頼みでした。
僕の高校&大学&医局の後輩の「さすが」は、すなわち中西先生の高校&大学&医局の後輩でもあります。
だから、「さすが」は中西先生のお別れ会の時に、中西先生の写真を編集してDVDを作って流しました。
なので、「さすが」から写真を取り寄せ、「ゆたかさん」に渡す仲介役を僕はやったばかりなのです。
その時に観た中西先生のお別れのDVDが思いの他、感動的で、僕もそういうのが欲しくなったのです。
「さすが」、俺のも作ってくれないかな?
死んだら作ってくれるのかもしれないけれど、今、観たいんだよな。
縁起でもない、と言う人がいるかもしれないが、お墓とかは生きてるうちに作った方が長生きするって言うし。
ターキーの生前葬みたいなものだ。
小学校の時、休み時間にクラスの隅でいつも1人で何か書いてる女子がいて、ある日、<何、してるの?>って聞いたら、
「あたしのお葬式に来る人の名簿。タッちゃんも来てくれる?」と聞かれてちょっと怖かった思い出がありますが、
今思うと、それに近いかも。
あの子、元気かな?
まだ葬式の招待状、来てないから、大丈夫なんだろう。
そんな訳で、タグを作ることにしたのでした。
そして、結局、僕のタグのネーミングは、迷った挙句、④の「川原達二の履歴書」になりました。
ここをクリックすると僕の人柄や過去のエピソードがダイジェストみたいに見られる仕上がりです。
これから受診しようか迷っていて、「だけど精神科って医者との相性だよな」と思ってる方は参考にして下さい。
新患、激減したりして…。
これまでもブログを読んでいたが、もう1度、読みたいと思ってくれた人は、タグを利用してみて下さい。
この記事の右横に「タグ」が縦に並んでいますから。
初期の頃は、文体が今と全然、違います。
「受付」には懐かしい岡田さんのエピソードも出てきますよ。
さて次回は、「ゆたかさん」と中西先生の友情を軸にした特別企画「男達のホワイト・デー」をお送りする予定です。
後輩の「さすが」も脇役で出演させる予定です。
あぁ~、今年は、予告ブログはやらないつもりだったのになぁ。
BGM.忌野清志郎「IDEA/アイディア」


プロの洗礼~「ヒーローは、敗北からスタートしている」

4/Ⅱ.(水)2015 くもり
※受付の求人の応募のための視察の方は、1つ前の、後藤さんが書いた記事を参考にどうぞ※
昨日は節分だそうで、今日は立春だそうで、カワクリも新しい人材が加入しつつある。
今日、緊急にお伝えしたいメッセージがある。
それは、僕の知っているサクセス・ストーリーは、皆、黒星スタートだ、である。
プロの洗礼、とでも言うべきか。
アントニオ猪木のデビュー戦は、大木金太郎に頭突きでフォール負け。
(ちなみに、同日デビューのジャイアント馬場は田中米太郎に勝っている)
その後のサクセスは猪木、という文脈で使っている。(反対意見もあるだろうが)
新人・長嶋茂雄の開幕戦は、国鉄スワローズの金田正一の前に4打席4連続三振。
世界のホームラン王・王貞治は、デビューから26打数ノーヒット。
下は、横尾忠則のポスト・カードの「ON」。王と長嶋だから、オーエヌ、ね。↓。

僕も研修医に成り立ての頃、無断欠勤がバレて、ペナルティーで「2週間連続当直」の刑になった。
今でもそうだが、医者の当直は、翌日も勤務である。
当直は当直室で仮眠して、呼ばれたらすぐ病棟や救急外来に行くのが仕事。
だから、運が悪ければ、2週間まともに寝れないのだ。
でも僕は、へこたれなかった。勿論、自業自得だと反省した、のではない。
2週間、当直室から家に帰れない泊り込みという状況が、「日本一のホラ吹き男」の植木等みたいだと思ったからで。
映画で、臨時雇いで会社に入った植木等が配属された部署は、会社にとって何の関係もない古い書類の整理。
皆、やる気がない。
「ここじゃ、いくら頑張っても出世はないよ」と先輩から言われる。
すると、植木等は、底抜けに明るいテンションで、張り切って、荷物をまとめて会社に泊まり込み、仕事をする。
「そんなにまでして残業代が欲しいのか」という皮肉にも、<いいえ、残業代はビタ一文、いりません>。
そして、1人で、書類を全部、片付けてしまう。
労働組合は残業して残業代を取らないことを問題視し、同じ職場の人間達は「仕事がなくなってしまった」と不満を言う。
そうして、会社は仕方なく、植木等を他の部署に係長待遇で異動させる。ここからホップ・ステップ・ジャンプ!
東京オリンピックの直後の映画で元・三段跳びの選手だったという設定の植木等は、三段跳びの様に出世して行く。
高度経済成長の時代のサラリーマンに元気を与えたと言われる映画だが、今、観ても色褪せないパワーだ。
なので、僕も植木等のマネをして、家から色んな物を当直室に持ち込んだ。
浅草のマルベル堂で、クレージーキャッツのブロマイドをオーダーメイドで引き伸ばしてもらった。
それを当直室の壁に貼った。
陰気な当直室が、まるで僕の1人暮らしの部屋みたいに衣替えした。
評判を聞いて、何人もの看護婦さんや他科の研修医も覗きに来た。皆、「お~」って言ってた。
精神科の先輩には、「川原、やりすぎ!」と注意されたが、怒られはしなかったから、スルーした。
今思うと、カワクリの空間作りのルーツは、この当直室に起源があったのかも。
クレージーの特注ブロマイドは、今もカワクリの待合室のテレビ側のソファの方に貼ってあります。↓。

丁度、半分の1週間が終った時点で、調子に乗った僕は、「トニー谷」のブロマイドの特注も発注した。
そのニュースに異常に反応した人たちがいた。
さて、問題です。
それは誰だと思いますか?
シンキング・タイム。
って言うか、皆さん、トニー谷、知ってます?
さて問題の答えです。
正解は、病棟のナース達でした。
意外と女性には、つらそうな姿をアピールするより、平気の平左、で明るく振舞った方が母性本能をくすぐるみたいだ。
ナースは一丸となって、僕の味方をした。
彼女らのナイチンゲール精神は組織立って、医者や教授や医局長に「いくら何でも可愛そうだ」と意義を申し立てた。
「過重労働でミスが起きたらどうするつもり?」
「川原先生だから笑って仕事が出来ているのよ」
「いえ、ああ見えて、顔で笑って心で泣いているのよ」
「あぁ、いじらしい」
「それに比べて、他の医者は川原先生に仕事を押し付けて、楽をしてるのよ」
「他の医者は、ズルイわ」
などと、本来、僕が無断欠勤したのが問題なのに、矛先が他の医者に向いた。
実際は、僕は研修医だったから、当直には必ず上級医の先生が日替わりで付いていてた。
「2週間当直」というのは、半分、洒落だった。
つまり、学生気分の抜けない僕に社会人の厳しさを教え込ませるための親心であり、問題を大きくしない配慮だった。
そして、2週間、毎日、日替わりで色んな先輩から、生の知識を吸収できるチャンスを用意してくれたのだった。
僕は、ゴールデン・ルーキーで、精神科医として期待されていたのだ。
そんな内輪な洒落は、ナースには通じない。
彼女らは、川原先生を守るためにはストライキも辞さず、の構えだ。
病棟でナースにストなどされたら、大変だ。
医者が、検温や配膳や採血や保清など、駈けずり回らなければならなくなる。
ナース・コールも医者がとる事態になる。
これには上層部もあわて、急遽、僕のペナルティーは1週間で解除された。
そして、医局長はナースの前で、僕を労う為の1席を自腹でもうける約束までさせられた。
憎憎しげに、医局長が、「川原君、何を食べたいんだい?」と僕にだけ見える角度で恐ろしい顔をして質問した。
僕は、<●●のうなぎ>と高級な鰻屋の名前を告げ、<個室で、コースにしてね>と答えた。
ナースを納得させるには、そうとでも言うしかない。それが最善の策だった。
そして、僕と医局長は週末、本当に二人きりで、鰻屋の個室でコースを食べたのでした。
さすが、名店!、うまかったですよ。
もう皆さん、ご承知かもしれませんが、僕はこういう空気、平気なんだ。
えーと、何を言いたいかと言うと、<始めから上手く行く人はいない!>、ということです。
最初は皆、黒星スタートなんだから、皆、そんなものだよ、ってことです。
だから、腐らずに頑張ろう!、というカワクリ新スタッフへの、エールのつもりで書いたのですが…。
趣旨、伝わったかしら?
もし情報にノイズが発生していたら、それはきっと植木等のせいだと思う。
猪木とONのエピソードだけ読み直して、その後はカットで。
BGM. 植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)「無責任一代男」


冬物語

前回に引き続き、家庭教師の思い出です。
後編の今回は、「良い家庭教師」の巻。
高1の時、母が、駅前に「東大進学塾」というのがあるから、行ったらどうかと言い出した。
東中野の駅前の塾から、大量に東大生が量産されるとも思えなかったが、骨法武術と同じビルだったので、
何かの縁かと思い、行ってみた。
受付もいなくて、ただ現役東大生が何人か講師としていた。
母は、その中から品定めして、1番賢そうな人を選び、僕の担当に指名した。
僕も、やはり、この中ではその人が1番賢そうに見えた。
あんまりアクセクしてないのだ。
その人は髪型と声と面影が井上陽水に似ていた。さすがにグラサンはしてなかったけどね。
「東大進学塾」は、ここに通えば東大に受かる、とか、東大を目指す人のため、などと謳ってはいなかった。
単に、現役の東大生が生活費を稼ぐために講師をしている、という進学塾だった。
僕は、誇大広告が多い世の中で、こういう正直さに好感を持った。
ひょっとしたら、経営者はものすごくユーモアのセンスのある人ではないかと空想してみたりした。
と、同時に、<経営者、経営、大丈夫なのか?>とも杞憂した。
余計なお世話だが。
しかし、たかだか15~6の男子高校生に経営を心配されるような塾だ。
僕の予感は的中し、わずか1ヶ月もしないうちに、その塾は潰れることになった。
僕の担当の東大生は、「今後のことは、僕が責任を持ちます。川原君の家庭教師になります」と宣言した。
そして、その人は僕のカテキョー(※家庭教師のこと。以下、そう呼びます)になった。
その人は、東大の芸術学科の8年生だと言っていた。
僕が、<なんで、そんなに長く大学にいるの?>と聞くと、
カテキョーは、「なるべく長く大学にいたいんだ」と答えた。
僕は心の中で、<お前はモラトリアムかっ!>とツッコんだ。
僕らは、時には本郷のカテキョーのアパートで勉強をした。
ほら、カテキョー、8年生だから、色々、忙しいみたいだし。
カテキョーの部屋には、いっぱい本があり、それには圧倒された。
カテキョーは僕に「どんな本を読むの?」と聞くから、<星新一とか眉村卓>と答えた。
カテキョーは「好きな本を持ってっていいよ」と言うから、本棚を物色させてもらった。
他人の本棚を物色するのはとても楽しい。
僕はタイトルのインパクトだけで、ビアス『悪魔の辞典』と三島由紀夫『不道徳教育講座』をチョイスした。
カテキョーは、その2冊を見て、「う~む」と不満そうにうなった。
カテキョーは、「あなたには、これが合うよ」と言って3冊をピックアップしてくれた。
ちなみに、カテキョーが僕を呼ぶ時の2人称は、「あなた」だった。ね、井上陽水っぽいでしょ?
僕らは勉強の為の契約を交わしていたはずなのだが、カテキョーの家では勉強以外のことをしていた。
スパゲティー・ミートソースを本格的に作る、とか。
東大のグラウンドで知らない人に声を掛け、4人対4人くらいの草野球をするとか。
カテキョーは高校時代はブラバンでクラリネットを吹いていて、僕はホルンを吹いていたから音楽の話をしたり。
レコードを持ち寄って鑑賞会をしたり。
カテキョーの音楽は主にクラッシックばかりで退屈で。
僕は、日本コロムビアから出たばかりの10枚組みのフォークソング大全集を持って行った。
カテキョーは、その中のフォー・クローバース『冬物語』をとても気に入ったらしくて。
僕の部屋で勉強をする時に、カセット・テープを持参し、『冬物語』を録音してくれとリクエストした。
『冬物語』のサビは、♪春は近い~春は近い~足音が近~い~♪という歌詞で。
僕はカテキョーに今、この歌を吹き込んだら、モラトリアム人間の現実逃避を助長すると危惧して。
そこで、僕は機転を利かせ、こっそり別の曲に差し替えて録音し、カセットを渡した。
ま、軽いドッキリです。
次に会った時のカテキョーの第1声は、「何だい?あの曲は?」だった。
僕は石野真子のピンナップを挟んである透明の下敷きをチラつかせ、<春ラ!ラ!ラ!>と答えた。
すると、カテキョーはマジマジと石野真子の写真を見て、「あなたに似てるね」と言った。
頭の悪い人じゃない。きっと目が悪いのだろう。うちの父は眼医者だ。今度、父に診察させようと思った。
僕はカテキョーの誘いで東大の五月祭(ごがつさい)のコンサートも観に行った。
トリは大橋純子で『シンプル・ラブ』『たそがれマイ・ラブ』などのヒット曲を持っていた。
僕らの目当ては、サザン・オール・スターズで3枚目のシングル『いとしのエリー』がヒット中だった。
同じステージで潜水夫の様な姿のムーンライダーズを観た。
ムーンライダーズのステージが1番イカシテいた。
トリの大橋純子の途中で、僕はつまらなくなって<帰ろう>とカテキョーに言った。
カテキョーは、まだ見たそうにしていた。
僕は、<ニュー・ミュージックなんか聞いててもしょうがないだろ。今度、『冬物語』録音してやるから>って、
半ば、強制的にコンサートを抜け出して帰った。
そんな風に僕らは遊んでばかりいたから、テストの直前は詰め込み式だった。
高1の最後の数学「確率」は手強かった。
難易度の高い問題集は、カテキョーが答を見ても、中々、判らなかった。
答には、正解しか書いてなくて、どうしてそうなるかの説明は省略されていたのだ。
僕は、<なんで、判んねぇんだよ!>とイライラして、食ってかかって。
カテキョーは、そんな僕を脇に置き、黙々と問題に取り組んでいた。
そして、1つ解けると、1つそれを僕に教えて。
それの繰り返し。
カテキョーは、「問題集の問題は全部解く!」、と根性を見せ付けた。
全部、解き終えた時は朝になっていて。
僕らは徹夜をして、まさに一夜漬けで、僕はそのまま寝ないで学校に行き、テストを受けて。
そのテストは、ものすごく学年平均点の低い結果だったが、僕は97点をマークして学年トップの成績を叩き出した。
若い頃の成功体験はその後の人生や性格形成に多少の影響を及ぼすようで、それは自信になったり過信だったり。
それ以来、僕は自己暗示のように数学が得意になった。
そして、ここぞ、という時は、徹夜をすれば何とかなる、と思うようになった。
それは今だにそうで、滅多にないが、学会発表の前日などは、取り敢えず、徹夜をする。
覚えてる人もいるでしょうか、例の「5/18問題」の徹夜もその名残りです。
それが僕とカテキョーの最後の勉強だった。
カテキョーは大学8年生だったが、ついに就職が決まった。大手広告代理店だった。
カテキョーは髪を切り、スーツをきめていた。
僕は、<『いちご白書』かよっ!>と、口に出して、ツッコんだ。
と同時に、カテキョーは、モラトリアムを卒業するんだって実感した。
就職祝いに、僕は今度こそ、本当に、『冬物語』を録音したカセットをあげた。
この1年を、カテキョーを主人公に物語にしたら、♪春は近い~春は近い~足音が近~い~♪というフレーズが、
主題歌にはうってつけだと思ったからさ。
冬来たりなば、春遠からじ、と言う。
これを僕は、冬の後には春が来る、という、雨の後には虹が出る、的な、今は耐えろ、みたいな意味かと思っていた。
カテキョーは、これにはそれ以外に、春(新しい者)が台頭して来たら冬(古い者)はその道を譲るべく空けろ、という
世代交代を推奨する意味もあるのだと、かつて、教えてくれた。
プロレスに喩えるなら、アントニオ猪木とUWF(特に、前田日明)みたいな関係だな。
そうやって胸に手を当てて考えてみると、僕らの業界って、あんまりそういう新陳代謝ってないな。
僕が研修医の頃のリーダーが今でも堂々とトップに君臨している世界だもの。どうなんだろうね?
僕らはこういう事をちゃんと考えた方がいいのかもしれないな。
なんか、最後になってややこしい問題になってしまった。
ま、いいか。
次回、予告ブログ⑥~「爬虫類を飼うこと」に行きます。
BGM.フォー・クローバース「冬物語」