きれいに生きる

10/Ⅳ.(日)2016 はれ、暑い。東精診の電話相談の番。
幼稚園の時、少しの間、おばあちゃんと一緒に住んでいた時期があった。
おばあちゃんは何かの治療のため、病院に近い家に、しばらく滞在していたのだ。
僕がおばあちゃんの部屋に遊びに行くと、おばあちゃんは、オブラートに薬を包んで、
「この薬は苦いんだよ」と言って、つらそうに薬を口に放り込んで飲み込んでいた。
翌日、家中が大騒ぎになっていた。
うちには何人ものお手伝いさんがいたが、母を筆頭に総出で、家捜しをしていた。
おばあちゃんの薬がごっそり無くなってしまったのだ。
最終的に、お手伝いさんの誰かが、外に出してあるゴミ専用のポリバケツの中から発見して事なきを得た。
しかし、なぜ、薬がそんな所に捨ててあったのだろう?
おばあちゃんは、「もしかしたら、私がタッちゃんに薬が苦いとこぼしたから…」、という推論になり、
母はもう勝手にそう決めつけ、「達二はやさしい子だね~」と褒め称え、お手伝いさん達も口々にそう言った。
僕は勝手にそういうイメージをつけられるのは、少し、迷惑だな、と思ったが、そこは黙っていた。
小学校の時、僕はクラスのリーダー格で、その日、男子が何をして遊ぶかは、僕の一存だった。
僕は頭が良く、ユーモアのセンスがあり、運動神経も顔も良かったから、女子の人気も1人じめだった。
何かで班を作って行動する時、男子の主力グループは僕と同じ班になれると思っていた。
クラスには、班に入れないような子が数人いた。
大抵、そういう子は余り者同士、そういう子を寄せ集めたグループを組まされていた。
僕は親分肌みたいなところがあって、グループを作る時、積極的にその子らに声をかけ、真っ先に班を作った。
主流派の男子は、「え~なんで~」と文句を言っていた。
そんなことはお構いなしで、僕らの班は一番面白いことをして、一番楽しいことをした。
ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。
僕は、正直、女子ってバカだと思ってたけど、そんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。
すると母は、女の子を選ぶ時に、そこは最低条件ないといけない。顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。
研修医の頃、痴呆(今でいう認知症)の患者さんを病棟で受け持った。
病棟は、班長が主治医で、指導医が実質的な主治医で、研修医が雑用をやって勉強させてもらう仕組みだった。
ある日、事故が起きて、その患者さんが亡くなった。
病院は訴訟対策を立て、僕をこの件から外した。
それは研修医という身分だからというのもあるが、「川原が余計なことを言ったら大変だ」というのが実際だ。
時代は、非を認めてはいけない、らしかった。
僕には事情の進行具合は知らされず、しかし、家族側と随分揉めているとも伝え聞いた。
「だから、お前がいなくて良かった」とも先輩に言われた。
ある日、僕は病院の廊下でその家族と鉢合わせした。
家族は、僕が入院中、その患者さんと関わっているのを、良く思っていてくれていた。
僕はあまり話しが出来ないその患者さんに、ラジカセを持って来て、三橋美智也や美空ひばりのテープを聞かせた。
すると、痴呆の患者さんでも、歌は覚えてるらしく、口ずさんだり、機嫌が良くなるのだ。
僕は家族に、患者さんが昔、好きだったものの話を聞きだして、音楽だったり、古いアルバムの写真を見せて脳を刺激した。
家族はその関わりを、自分達も治療に参加出来ると、とても感謝してくれたのだ。
家族は僕を見るなり、「川原先生~」と走り寄って来た。涙を浮かべてた。
僕は、「今回はこちらのミスですみません」と謝った。思わず、口が滑った。
すると、家族は、「その一言が欲しかったんです。でも、患者は、先生のことが大好きでした」と言ってくれた。
翌日、病院に行くと、上級医の先生から、「あの件は解決した。向こうが訴えを取り下げたんだ」と報告を受けた。
僕は、接触を禁止されていた身だから、内心、家族が僕のことを言ってやしないかとハラハラした。
でも、特に何も言われなかったし、バレてないみたいで怒られずに済んだ。
大学の野球部の頃、夕飯をおごってくれる先輩と、割り勘の先輩がいた。
おごってくれる先輩は、割り勘の先輩のことを、「あいつはケチだろう」とあざ笑った。
僕は本当にケチじゃない人は、他人のこともケチだなんて思わないはずだから、
この先輩はおごってはくれるけど、この人こそケチなんだろうなぁ、と思った。
そして、そう思う僕もケチだ。
よしだたくろうは、「イメージの詩」で、♪自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう♪
と歌ったが、
きれいに生きてる人って、きれいに生きる、なんてことを考えないんだろうな。
日々の暮らしに流され、時だけが急ぐ毎日で、きれいに生きる、って難しいけれど、
もっと、きれいになりたいな。
BGM. よしだたくろう「制服」


茅ヶ崎に背を向けて

23/Ⅲ.(水)2016 はれ、少し涼しい
最近、「らしんばん」(アニメの専門店)などで同人誌のコーナーをみると、中が読めないように袋詰めにされていて、
僕は、<これじゃ、表紙で選ぶしかないな>と考えた。ま、買わないけど、同人誌。
似たようなもので、昔は、「ジャケ買い」と言って、アーティストや内容ではなく、ジャケットの絵柄だけで、
LPを選んで買うことがあった。パティ・スミス・グループの「イースター」とか。
皆さんも、1つや2つ、思い当たるものがあるのではないでしょうか。
反対に、サザンオールスターズのデビューアルバム「熱い胸さわぎ」は内容は素晴らしいのにジャケットがひどい、
と当時の評論家が口を揃えて(?)言ってました。
僕はそのLPを持っていて、「茅ヶ崎に背を向けて」という桑田と原坊のデュエット曲が好きでした。
なぜ、そんなことを、心理のコンテストの最中に、言い出してるかと言うと、こないだの土曜日にみた夢についてです。
僕の実家は茅ヶ崎なのですが、まるで、帰っていません。
それが、土曜日の夢では、僕はスパイのように変装して、茅ヶ崎の家を見に行く設定で、暗くて何もみえない中に、
女の人が立っていました。顔とかは全然、判らなかった。
僕の夢に茅ヶ崎の実家が出てくる事は稀で、それより夢から起きた時の気分が、<なんとも不思議な気分>でした。
怖いとか、不気味ではなくて、不思議、だったのです。でも、直にそんな気分も忘れかけていました。
ところが、今日、連休中に親や祖父母が亡くなった、という知り合いの話をいくつか聞いて、
僕は、<お彼岸に亡くなる人は、さまようことなくあの世に行ける、って言うよ>となぐさめた。
しかし、言ってるそばから考えた。そんな知恵、どこでつけたんだ?
そうだ!母が死んだ時に、人からそう言われたんだ。
あれ?母って、いつ死んだんだっけ?
僕は寺の坊主とケンカしたから墓参りは一切しないし、親戚付合いもないから仏壇に線香をあげることもない。
親の誕生日は、子供の記憶が残ってるから覚えているが、命日は父の方は克明に記憶しているが、
母の命日は調べないと判らない。きっと、覚える気がないのだろう。
でも、気になったので、さっき、母の遺歌集(あとがきを僕が書いている)をめくって調べたら、3月19日だって。
先週の土曜日だ。
あの変な夢をみた日だ。
暗がりの中の不思議な女の人の感覚は、僕に夢を忘れさせなかった。
これはなんだかんだ言って、母の命日を深層心理では記銘していて、日常では忘れてる自分に自分でサインを出したのか、
とも思ったが、あの母のこと、僕が命日を忘れてるから勝手に夢に出て来て思い出させようとした可能性もある。
母には、そういうところがある。
母のエピソードは、ぶっ飛んだものが多いが、今回はちょっと趣向を変えた思い出を。
僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。
イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメだ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。
男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。
これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
…って言うか、今、思い出したくらいだ。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
BGM. よしだたくろう「かくれましょう」


水の泡

15/Ⅲ.(火)2016 はれ 暖かい
高1の教室は校舎の1番上の階で、僕の席は窓際の1番後ろだったから、
授業中にぼんやりと眺める無人の校庭は殺風景だった。
僕は、ある日、その風景が白黒に見えて、体育の授業で走ってる生徒達もカラクリ人形みたいに見えた。
今思うと、「離人症(りじん・しょう)」だったのだと思う。
離人症は、精神科の症状の中で唯一と言っていいのではないか、自己申告の症状なので、誰からも気付かれなかった。
むしろ、僕は明るく騒がしい人気者だったし。
そんな頃、僕が考えたのは、この世はひょっとすると、猿山のちょっと頭の良い一匹の猿がみている夢で、
その猿が目を覚ますと、僕も友人も家族も総理大臣も、みんないっぺんにこの世から消えてしまう、
人類とは猿の夢の中の登場人物で、猿が目を覚ますと、跡形もなく消えてしまう世の中かもしれない、
などと考えたりしていた。
そんな時代の話である。
僕は離人症を抱えてはいたが、授業中はうるさかったから、担任は僕の席を教壇の真ん前に配置した。
僕は授業中、<それとは別の解き方があるよ>とか<字が違うよ>とか<今、噛んだでしょう>とつっこみを入れるから、
教師達が参ってしまい、僕は島流しのように、教室の1番後ろの廊下側に移された。右側には真っ白い壁があった。
僕は、授業は半分上の空で聞いていて、ふと頭によぎった考えや、思いついた発想を、その白い壁に書いて行った。
ポエムや4コマ漫画や不条理な絵で、クラスメートからは「面白い!」(多分、本当に面白かったのだと思う)とか、
「もっと書いて!」(多分、本当のリクエストだったと思う)と言われ、休み時間には皆が僕の周りに集まって、
授業が始まると、皆は席について前を向き、僕1人、横を向いて壁にずっと何かを書いていた。
これは他のクラスの生徒の間でも評判になって、見学に来る人も増えた。
僕の学校は中高一貫校で、僕の中学の時の担任が噂を聞きつけ様子をみに来た。
例のサングラスの似合わない担任だ。
奴はうちの母を苦手としていたが、高1ともなると男子は母親と心理的な距離をとってるだろうという読みで、
強気に出て来た。
そして、「次の授業中、川原は授業を聞かなくていいから、落書きを全部、消すように」と砂消しゴムを2個渡した。
仕方ないので、僕は言われた通り、消していたのだが、折角書いたのに、勿体ないなと思った。
今みたいに携帯電話がある時代なら、写メとかに記念に撮っておけたのに。
授業では、何とか文明の遺跡が発掘されたとか、パピルスがどうとかで、当時の古代人の生活ぶりを解説していた。
僕は壁の落書きを消しながら、たった今、隕石が地球にぶつかって一瞬で、人類が滅亡して、
偶然、僕の書いた白い壁だけが何億年後かまで残って、未来の歴史学者に発見されて、
「当時の地球人はこんな生活や思想だったらしい」
と推理され、未来人の歴史の教科書に僕の絵が載って、学校で教えられるようになったらいいな、と空想して、
そうして、今、ここで一生懸命、勉強しているクラスの連中の努力も水の泡になればいいのにと思ったものです。
病んでたなぁ。
BGM. ダニエル・ビダル「天使のらくがき」


花粉症

3/Ⅲ.(木)2016 暖かい、ひな祭り
今日から暖かくなるようで、外来には花粉症に悩まされる人が多くって、不憫でした。
アレルギーマーチというのがあって、アレルギーの行進、のように形をかえて続いて行くものを言います。
僕はまさに子供の頃はそれで、アトピー体質で、アトピー性皮膚炎や蕁麻疹や小児喘息がひどかったです。
小2の時の林間学校は体が痒くて、眠れませんでした。
だから隣の布団の小竹(こたけ)君に、一晩中、背中をかかせました。
小竹(こたけ)君が寝そうになると起こして、<寝るなら代わりを探せ!>と威張って脅して、
結局、小竹(こたけ)君は小2のくせに、一睡も出来なくて、可哀想なことをしたな。
小竹(こたけ)君、もし、これみてたら、あの時はゴメンね。良かった、許してもらえた。
喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。
母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。
すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)
あれは何だったのか、いまだに判らない。
当時の医者に運動を止められていたが、僕の子供の頃は、「巨人の星」や「タイガーマスク」が大人気だったから、
僕は医者の指示をまったく無視して、野球やプロレスごっこや、一日中、走り回っていた。
それがショック療法になったのか、特別な治療をした訳ではないが、喘息はどこからか良くなった。
そう言えば、アントニオ猪木も糖尿病を氷をいれた水風呂に入る事で治したというから(医学的根拠なし)、
ストロング・スタイルの系譜なのかもしれない。
そんな僕だから、花粉症になっても良さそうだが、全然ならない。
守護霊が変わったか、体質が変わったのかもしれない。
体質と言えば、うちの家系は、お酒が呑めず、僕も昔は全然呑めなかった。
呑んでも、すぐ気持ち悪くなって、毎回、吐いていたが、ある時から呑めるようになった。
大学の野球部のコンパで呑まされては吐いて、呑まされては吐いてを繰り返していて、様子をみに来た先輩が、
「すげー、こいつ、根性あるな」と言われるくらい、呑み(吐き)続けた。
ある日、吐いた物を食べると酒に強くなるということを聞き(医学的根拠なし)、
トイレで自分の吐いた物を食べてたら、心配してみに来た上級生から、「こいつ、こえーよー」と恐ろしがられ、
それ以来、部活内での僕のポジションは、一年生ながら、二・三年生よりも上になって、幹部クラスの扱いになった。
僕は順応性が高いから、平気でえばっていられて、その勢いでサードのレギュラーの座も獲得して、
女の子からもチヤホヤされた。
僕はちょっと変わった女の子が好きだったから、花咲く乙女たちが振り撒く魅惑的な花粉にも、かどわかされないですんだ。
おわり。
BGM. ソフトクリーム「やったね!春だね !!」


みるにみかねて

9/Ⅱ.(火)2016 はれ
深酒して記憶がなくて何か失言したのではと自己嫌悪。
二日酔いと金縛りとこむら返りで満身創痍。
そんな日にみる夢には、母が出てきて、
「今日の達二はちゃんとお酒と一緒にお水も飲んだし、ちゃんとお料理も食べてたし、よく頑張りましたよ。
お酒の呑み方が、歴然とよくなってますよ」
と誉める。
これは途方に暮れた僕が、深層心理から、母を呼び出して、心のバランスをとるため、そう言わせる脚本を与えた産物か。
一概に、そうとも思えない。
あの母親って、そういうことをするんだ。そういうこと、って、死んでるのに自分の意志で平気で夢に登場する、こと。
母で思い出すのは、中学1年の時の「サングラス事件」。
僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやって来た。
高級な着物だった。これは母の戦闘モード。おそろしや。
担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」
と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。
担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」
に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、
「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。
じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。
職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。
これは指導じゃない、お願いだ」と言った。
僕の小学校は茅ヶ崎の女子校の付属だったから、小学校時代は、バレンタインに軽トラック1台分くらいのチョコをもらった。
それが、中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。
こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。
そんな訳で、カワクリもバレンタイン週間です。
ナースの塚田さんと受付の(文化部の)山﨑さんが先週、何やら打ち合わせをしてたみたい。
今週、来ると、何かくれるかも、です。↓。

BGM. 大場久美子「エトセトラ」


カラオケの表彰状

18/Ⅰ.(月)2016 雪
前にも話したことがあるような気がするけれど、
僕が医学部の1~2年の頃だったと思う。
カラオケ好きな友人がいて、その付き合いで赤坂だか六本木だかの「カラオケ道場」に行ったことがある。
当時はまだ「カラオケ・ボックス」などはこの世に存在せず、家庭用のカラオケが普及する一方で、
外でカラオケをするには、スナックとかパブに行かなければならなかった。
大抵、そういう店は、幾つかのテーブルに客が座り、店のコーナーには大きなステージがあった。
そこに各テーブルから1人づつそのステージに出て行って歌うから、他の知らない客に歌を聞かれたり、
逆に聞きたくもない悪趣味な歌を聞かされる羽目にもあった。
ただ、そんなシステムなので、順番がまわって来るには時間がかかり、歌いたくない人には良かった時代だ。
カラオケ道場は、同様に1人づつステージに上がって持ち歌を披露するのを、元・歌手のオーナーが審査して、
「何級」とか「何段」とかのランクと賞状をくれるのが売りだった。
僕は人前で歌を歌うことは好きじゃないので、他の客の歌を聞いてるだけだったが、その時、
ステージで歌ってる人が突然、ぶっ倒れてしまった。
店中は大慌てで、「お医者さんはいませんか?」と叫ばれたが、その場に医者はいなかった。
仕方がないから、僕が出て行ったのだが、医学部の1~2年と言えば、まだ教養課程で専門的な勉強はしていなかった。
つまり、何も医学的な知識はないのである。
ただ、こうやって皆がパニックになってる時には、どうしたら良いかということは経験則として知っていた。
落ち着いた人間が、とりあえず、その場を仕切ってしまえば良いのである。
その役が僕に回って来たというだけだった。
倒れた人は、幸い、息もしてたし、目も開けられた。
僕は、落ち着いた声で、オーナーに、<119番!>と指示した。
ただ、それだけなのだが、オーナーには大変感謝されて。
「お礼と言っては失礼だが、初段、を差し上げる」
と歌ってもないのに、賞状を貰った。
その賞状にはオーナーの慌てぶりが表れていて、「川原達二殿」のはずが「河原達二殿」となっていて、
皆で笑った思い出がある。
面白かったし、別に実力で貰った勲章でもないから、そのまま直さずに貰っておいた。。
最近、部屋の整理をしていたら、その賞状を発掘した。それがこれ。↓。

クリニックに飾って、皆で笑って貰おうと思って、今日、雪の中、新宿の世界堂で額装して来た。
で、どこに飾ろうかなと考えたけど、やっぱりここしかないかな、と思って。
喫煙所にしました。↓。

たばこを吸わない人も、良かったら見てみて下さい。
認定書の日付を見たら、昭和58年6月27日だって。
まだ生まれてない人もいるのでしょうね。患者さんの中にも、ひょっとしたらスタッフの中にも。
BGM. 田原俊彦「ラブ・シュプール」


ロックは語れない

4/Ⅰ.(月)2016 きっと今日も暖かそう
正月早々、こんな自慢もあったものではないが、僕はメカに弱い。
それは多分、人間は思春期までに獲得した能力とその利息で生きているのでは?と思ったりするからだ。
まぁ、この仮説は甚だインチキで、さっき思い付いた思いつきで、統計学的にも疑わしい。
サンプルは1、僕だけだから。
学術的に言えば、仮説というより、「1例報告」に過ぎない。
僕は中高でタイプライターを習わなかった。
だから、今でも、パソコンのキーボードは右手の人差し指1本で打っている。
ジャスト・ナウ、たった今、皆さんがご覧になっている、この文章も右手の人差し指1本で打っている。
とは言え、それでも毎日、使っているから、結構、速いのだ。
「世界・指1本だけ・早撃ちコンテスト」なんてのがあったなら、上位入賞、狙えるかも。
意外と盲点なのは、思春期の頃はまだ一般家庭にFAXがない時代だったので、FAXが判らない。
FAXは今でも業務上使用頻度が高いもので、全部、受付にやって貰っている。
オーディオ機器も、レコード・プレーヤーとカセットレコーダーの接続とか、
ビデオもβやVHSの類なら自在にダビング出来るのだが。
コピーガードを外す機械も秋葉原で買って持っていた。
しかし、時代が変わって、僕が大学生の頃、CDとかMDが出て来た。
あそこら辺からがダメ。まず、MDが判らない。
従って、DVDのダビングとかが出来ない。
いや、しちゃいけないのだから、出来なくて良いのだ。捕まる心配もないし。
つまり、生活していく上で、分相応に暮らしている分には、何の不自由もないのだが、
1点困るのは、クリニックの待合室に流しているBGM.が、Ipod.なのだ。(←スペル、合ってるか?)
パソコンの中のItunesって奴に、曲を入れて、Play listを編集する所までは何とか学習した。
あとは、見よう見まねで、テキトーにイジって、何とかしている。
何が困るって、CDによって音量(音質?)が異なるのだ。
クリニックは天井に8個のスピーカーが埋め込んであるから、ちょっとの差が増幅される。
曲によって爆音でビックリさせられたり、小さすぎてノイズのようにしか聞こえなかったり。
最近の新譜は大体、音を揃えて来たが、極端に大きいのは、きゃりーぱみゅぱみゅ。
それとアニメ「日常」ブルーレイの特典CDの劇中伴奏曲。これがデカイ。
逆に小さいのが、ビートルズ。プロパティからオプションを選択して音量を調整しようとしても、
出来る限りMAXの(+5)にしても、きゃりーちゃんの(-5)より小さい。だから使えない。
最近出た、「Beatles 1」とジョン・レノンのソロだけ何故か、普通。
だから、それらだけ流している。
音量を一定に出来る方法があれば良いのだが、これまで一応、何とか手作業で微調整してきて、
なんとかなっているので、それがオジャンになるのは悲しい。
だから、仮に教えて貰っても、100%の確率か駄目だった時の保障がなければ、冒険する気になれない。
それに今のところ、コツをつかんだから、日々の暮らしは凌げるし。
ずっと不思議だったのが、曲順。
シャッフルに設定しているのだが、一曲目が毎回、必ず同じ曲なのだ。
以前に小森さんがブログの記事に書いてた気がするが(違ってたらゴメン)、
偽物語、の月火ちゃんの「白金ディスコ」がずっとかかっている時期があった。
毎朝、月火ちゃんの、♪ホラ、どっこい♪、の掛け声で1日が始まる。
それはそれで素敵だった。
それでも我々は解析を進めた。
そのうちに判った法則は、「プレイリストの1曲目がかかる」だった。
当時、「白金ディスコ」はプレイリストの1曲目だった。
しかし、プレイリストの順番がどうやって決まるのかが判らない。
Ipodに入れた順番でもなかった。
なんだろう?と思って、最近、発見したのは、どうやら、曲名・アーティスト・アルバムの次の
「ジャンル」が最優先されていて、そのアルファベット順に並んでいるようだった。
これを調べてみると、「Alternative」がトップで、「Blues」「Classical」「Pop」「R&B」「Rap」
「Rock」「Sounnd track」…などとなる。
アニメの主題歌・劇中歌は「Sounnd track」に分類されるのだが、何故か、「白金ディスコ」は
「Alternative」に振り分けられていた。
「Alternative」って、簡単に言うと、前衛音楽、のこと。
ディスコ+音頭の融合だから前衛なのかな?
何かの間違いだろうと思って、今は「Sounnd track」に修正したから、順番は下の方に来ている。
この「ジャンル」というのはCDに記憶されているのだが、誰がどういう基準で決めているのか?、が、
今の1番の謎だ。
さくら学院やしょこたんや大瀧詠一が「Pop」だったり、
きゃりーちゃんが「Dance & House」で、BABYMETALが「Metal」というのは、まぁ判る。
初音ミクが「Electronica」もなるほどと膝をうつ。
ところが、ビートルズは「Rock」だが、ジョン・レノンのソロは「Pop」という基準は何だ?。↓。

さらに興味深いのは、同じジョンのソロの同じアルバムでも「イマジン」だけは「Rock」なのだ。
昨年、亡くなった野坂昭如の楽曲も「Rock」に分類されていた。↓。

一々尤もだと僕は感心しているのだが、一体どんなセンスの持ち主がこの作業を担当してるのだろう?
野坂先生と、イマジン、と、ビートルズは「Rock」。
アニメ「おそ松さん」の主題歌のカップリングを内田裕也が歌っているが、それは「Pop」。↓。

良いセンスだなぁ。誰が選別しているんだろう。
よく「Rock」とは音楽のジャンルではなく、生き様だ、などと言われる。
極めつけは、野坂昭如の「サメに喰われた娘」。
この曲は僕が昔、野坂先生の記事を書いた時に(BGM)に抜擢したくらい、1番好きな歌なのだが、
この曲の「ジャンル」がなんと「Indie Rock」だって。↓。

本当にそうだよなぁ。誰なんだろう、コレ決めてる人。
会ってみたいなぁ。
ちなみに、戸川純は「Rock」で、大森靖子は「Pop」だった。
頑張ろう!大森靖子!!

二〇一六年一月四日 川原達二


年賀状2016

3/Ⅰ.(日)2016 春の陽気みたいに暖かい
去年のラストは忙しかった。
イブの診療が終わったのが11時半で、25日は0時5分だった。
気がついたら、クリスマスなかったです。
ですから、両日に来院された方は、とても待ったでしょう。
ごめんね。
今年は、なるべく待ち時間を短縮し、皆さんが終電で帰れる、ことを目標にします。
年末は地上波で格闘技もやるし、休みも短いから、ずっと家で呑んでいました。
不思議な物で1年に1回くらい、ケンタッキーって食べたくなりますね。
さいたまスーパーアリーナに行ったことがある人なら判ると思いますが、
SSTと言えば、KFCですね。
なので僕は大晦日の格闘技を観ながらチキンを食べて、ワインを数本空けました。
そのあおりを受けて、一日遅れで、元旦に年越しそばを食べて、日本酒を数本空けました。
2日になって、やっと、おせちを食べて、日本酒を数本空けました。
本当なら一升瓶の方が安上がりなのですが、
「一升瓶を何本もゴミの日に出すのは恥ずかしい」と家の者が言うものですから。
うちは誰も呑まないので、僕の飲酒分だけなのですが、
休日ともなると朝から呑んでしまうのが人情ですね。
一升瓶がゴロゴロ出る。
4kg、太りました。
今年は、5日から外来がスタートなので、今日あたりからリハビリを兼ねて生活しないといけません。
ようやく今日、年賀状書きをしました。
今、書き終わって、投函して来ました。
やっと暦に追いついた感じです。
その勢いで、皆さんにも新年のご挨拶の記事を書こうと考えたのですが、
機械の文字でご挨拶というのも味気ないので、
せっかくですから、今、書き上げた年賀状を写メに撮ったので、
それをここにアップすることで、年賀状代わりにして頂こう、という企画です。
本来なら、「しょこたんバースディ・ライブのレビュー」を書くと予告しておいたのですが、
お正月明けに逢えない方もいるでしょうから(特に、遠方の方や入院中の人をターゲットに)、
予定を無視して、優先順位を変更しました。
最初はこんなバージョンで書いてみました。↓。

1枚、1枚と書いてるうちにアイデアが湧いてきて、少しづつ、ミニマム・チェンジして、
いつのまにやら、スリムになりました。体重は減らないけど。
一月三日に年賀状を出す良い点は、年賀状とは慣習では一斉に三賀日に届くものでしょう。
それが遅れて届く分、じっくり味わって読んで頂ける点でしょうか。
一月三日に年賀状を書くメリットは、もらった賀状のコメントが書けることでしょうか。
対話というか、文通みたいになりますね。
家族写真を載っけてる方には、<ベスト・ファミリー賞を差し上げたいですね!>とか、
赤ん坊やペットの写真を全面的に打ち出してる人には、<可愛いね~>などと、
思ってもいない言葉を添えて。
ま、初嘘、ですね。
…って、そんなに悪い人ぶることもないですね。
話の筋を、年賀状に戻しましょう。
同じ教室出身の先生方には、
去年、恩師が亡くなってしまったけれど、我々は長生きしよう、と書いて出しました。↓。

晴れ着の綺麗な娘さんが写ってる方には、
<娘さん?キレイでござるな>
と書きました。突然変異みたいに、とても綺麗だったから。↓。

健康のために、テニスを始めた、という旧友には、
ジャンケンのパーに‘す’を書いて絵文字にして(テニスの意味)家族に読まれたくなさそうなことを書いてやった。
ちなみにこいつの奥さんとはよく美容院で一緒になるらしいから、奥さんにもメッセージを書いておいた。↓。

同じく健康のために、マラソンを始めたという人生の先輩には敬意を払って、
<マラソンですか?すごいですね~>
と書き、差をつけて置く。↓。

毎回、ポールの来日公演のチケットをとってくれる友人F.の誕生日が、一月三日、だから、
<誰かのハッピー・バースディ>として暗に覚えているよ、と伝えておく。
大抵、一月三日生まれなんて、誕生日と正月を一緒に祝われて、卑屈になっているはずだから。↓。

前の病院で一緒に勤めていた先生は、今年、還暦になるそうで、
<ヒデキ、カンレキ~!おせちにあきたらカレーもね!>
と昔懐かしいCMのダジャレを書いて送った。
あっ、若い人は知らないよね。
西城秀樹が「ヒデキ、感激~!」ってやってたハウス・バーモンド・カレーが元ネタです。
今、ユーチューブ、検索したら、動画があった。
今後の人生で何の役にも立たないと思いますが、良かったらみて下さい。↓。

遠くの年取った親戚が寄越す便りには、「皆さんで遊びに来て下さい」という血の通った物を感じるから、
<ぜひ、遊びに寄らせていただきたいと思います>
と心を込めて伝えることが出来たのも、一月三日に年賀状を書くメリットだ。
まぁ、忙しくて、遊びにいけないがな。口先だけでも。↓。

今、アップして気付いた。「ぜひ」が「せび」になってる。
口先だけだから、書き間違っちゃったのかな。もう投函しちゃったよ。しようがないや。
以前に、家族に来た年賀状にも勝手にコメントを書いたら、ひどく怒られたので、今年はそこだけ注意して、
こんな感じで、およそ3時間くらいで、思ったよりスイスイと仕上がった。
今年は良い年になる予感がする。
1つ残念なのは、
「大岡山のホームで、川原クリニック、の看板が見れて嬉しかった」
と書いてくれた親戚がいたことで、
何が残念かと云うと、あの看板はもうやめてしまうのです。
新患のアンケートでも、あの看板を見て来た、という人は年間1人くらいで、宣伝効果はなくって、ほとんどはネット。
でも、こうして見て喜んでくれる親戚がいるなら、看板を残しておけばよかったカナぁ。
世の中、金や効率ばかりじゃないからなぁ。
ワニを買ってくれた恩もあったしなぁ。
まぁ、過ぎたことを言っても、しょうがない。
前向きに行こう!
皆さん、2016年もよろしくお願い致します。↓。

今後のブログは、去年のGWに行われた「しょこたんバースディ・ライブのレビュー」から開始と言いたい所ですが、
ちょっと難航しており、また心理部門が充実して来たので、そちらからのメッセージが先になるかもしれません。
では、今年が皆さんにとって良い年になりますように。
去年、運が悪かった人は今年がうんと良い年になりますように。
今年もどうぞ、よろしくお願い致します。
二〇一六年一月三日 川原達二


僕が精神科医になった訳

24/ⅩⅠ.(火)2015 あたたかい
僕の生まれた頃は、子供は親の家業を継ぐのが、まだ「普通」だった。
医者の子供は医者になるように育てられ、歯医者は歯医者、八百屋は八百屋、パン屋はパン屋だった。
クラスの同級生は、皆、そうだった。
ギリギリ、そんな世代だった。
僕の家は眼科の開業医で、僕は二人兄弟だったから、将来は、父と兄と3人で医院を大きくすることが刷り込まれていた。
周囲の誰もがそう思っていたし、それをやっかむ人もなく、暖かく見守られていた。
そういう時代だった。
それは仕方がなかった。
こればかりは個人の力ではどうしようもなく、僕は物心付いた時から、医者になることになっていた。
勿論、その後の人生で、思春期や反抗期で、それを修正する機会は平等に与えられた。
だけど、僕は医者になった。
それは医者になる、のではなく、精神科医になろうという強い意志があったのだ。
医者になるには医学部に入り、全教科を勉強して、全教科の国家試験をパスしないといけない。
だから、逆に言えば、医師免許があれば、何科にでもなれた。
僕にとっての将来の約束は、医者になることだった。
親の都合は、家の眼科を手伝うことだった。
しかし、拡大解釈をすれば、医者になれば何をやっても良いとも言えた。
僕の親族には医者が多かったから、僕は専門的に色んな科があることを知っていた。
ここまでが前置き、ね。
僕の生まれは湘南の茅ヶ崎の海側で、そこは別荘地の多い温暖なゆったりとした風土だった。
僕が幼稚園の頃、近所をブツブツと独り言を言いながら、乳母車を引いている貧しい老婆が徘徊していた。
老婆は乳母車に古い赤ん坊の人形を乗せていて、その人形を本当の赤ん坊だと思っているという噂だった。
すずめ、を捕まえて食べてるという噂もあった。
僕は母親やお手伝いさん達に、「タッちゃん、あの人に話しかけてはダメですよ」と教えられていた。
ある日、狭い路地で、乳母車の老婆と鉢合わせになった。
僕は思わず、<すずめ、って食べれるの?>と聞いた。
すると、老婆は「坊や、そんな可哀想なことをしてはいけないよ」とビックリするほど、優しい声で言った。
僕は一瞬で、この人は良い人だ、とピンと来た。
すると、そんな気持ちが以心伝心、彼女にも伝わったらしく、僕らは仲良くなった。
老婆は乳母車から赤ん坊を抱え上げて、「ほら、こうするとお日様が透けて見えて綺麗なんだよ」と僕に教えてくれた。
セルロイドの人形に夕陽が差し込んで、それはキラキラと反射して輝いて虹のように見えた。
しかし、僕はこの事は、親には秘密にしておいた。
同じ頃、似たような事件があった。
僕の実家は診療所の2軒隣りにワンブロックほどの広さを持っている大きな家だった。
だから、時々、「乞食」(←これは不適切な表現なのでしょうが、差別を助長する意図ではないので使用します)が来た。
母親やお手伝いさんは、「タッちゃん、乞食が来たら、食べ物をあげちゃダメですよ。クセになってまた来るから」と言った。
僕は言う通りにしていた。
ところが、ある日、僕しか家にいない時に、勝手口から、女の乞食が、「何か恵んで下さい」と入って来た。
僕は、<お前に、何かあげるとクセになってまた来るから、やらない>とピシャリと言い放った。
すると女の乞食は、「坊ちゃん、もう何日も何も食べてないのです。約束します。今日だけですから」と懇願した。
僕は女乞食の目をジッと観察して、僕にはこの人が嘘をつくようには見えなかった。
そこで、従業員がいつでも、食べれるように台所に置いてある塩むすびを持って来てあげた。
女乞食は何度も何度もお礼を言い、約束は守る、と言って帰って行った。
僕はこの事も、大人達には話さなかった。
代わりに、毎日、<ねぇ、今日、乞食、来なかった?>と聞くのが日課だった。
すると、親やお手伝いさん達は、「変な事を気にするのね。乞食なんか来ませんよ」と笑った。
女乞食は僕との約束をちゃんと守ったのだ。
僕はこれらの事を通じて、大人たちの言う事はなんていい加減なものだろうとあきれた。
そして、こういう「常識」とか「普通」は疑ってかかる必要があると思った。
当時の僕は幼稚園生だったから、実際はそんな風に言語化は出来なかったと思う。
今、振り返って、解説すると、そういうことだと言うことです。
僕はそれ以来、無批判にこの世を支配している「常識」とか「普通」とか「規則」とか「一般」とかを敵視するようになった。
それは、そういう事によって、無力な人が、抵抗する術もなく、不当に扱われてることに義憤を感じると同時に、
「常識」に縛られて、生きている大人たちも決して、自由に見えなかったからだ。
僕は将来、医者になったら、歪んだ「常識」や「普通」で窮屈をしている人達を助ける仕事をしたいと思った。
その頃の知識で、精神科という科があることを僕は知っていた。
僕は医者と言う権威を武器に、差別や誤解を受けてる人や、不自由に生きている大人たちの心を解放するために力を発揮しようと決めた。
そして、それは僕の性質上、とても向いているとも思った。
それが僕が精神科医になった訳で、この初心はブレることなく今に至っている。
初心忘れるべからず、と言うのは、初心に立ち返れ、とか、初志貫徹みたいな意味で使われることが多いと思う。
でも本当は別の意味があるのだと、中学の時の担任が国語の教師だったから、ホームルームの時間に教わったのを
今でも覚えている。
「~べからず」、と言うのは、「~できない」つまり「can not」の意味で、だからこのフレーズの正しい意味は、
初心はいつまで経っても忘れることの出来ない事で、一生、付いて回るものなのだ、という意味になるそうだ。
初心忘れるべからず、が味わい深くなりませんか?
今はカワクリの新しいスタッフを増員しようとしているところですが、よくどんなスタッフを選ぶのかと言う質問を受ける。
本当は、もしカワクリに、テロリスト集団が雪崩れ込んで来た時に、身を挺して、患者さんを守ってくれる人、と答えたい。
しかし、実際そんなことがあったら、まずは我が身を心配するのが「正常」だから、そこまでは求めない。
そんなことを言っていたら、求人、来ないもの。
ですから、どんなスタッフを求めるかと言えば、僕が精神科医になった訳に共感して、一緒に働きたいと思ってくれるような人です。
その為には、こっちも日々努力して、口先ばかりでなく、態度でそれを示す覚悟が必要だ。
そのつもりで、やってはいるんだけどね。
なかなかね…。
BGM. よしだたくろう「ひらひら」


へそもち

20/ⅩⅠ.(金)2015 はれ
まったくもって季節はずれの話で恐縮だが、白玉あずき、について。
幼い頃、母に言われて、近所のおばあちゃんの家に遊びに行っていた。
いつも1人で寂しがっているから、話相手になってやれ、とのこと。
おばあちゃんは、僕を可愛がり、昔話を聞かせ、おやつの時間に磯辺焼きを焼いてくれた。
夏には、気が向くと、白玉あずき、を作ってくれた。
おばあちゃんの作る、白玉、はちょっと変わっていた。
白玉のお腹の部分を指で押してくぼみを作り、「へそもち」を呼んでいた。
おへそ、みたいな形だからね。
おばあちゃんは、「へそもちを作ると、雷様が欲しがって、鳴り出すんだよ」が口癖だった。
僕は子供とは言え、そんな馬鹿馬鹿しい話を鵜呑みにしなかった。
おばあちゃんが、へそもちを作った日に高確率で、雷が鳴っても、それはそういう季節だから、とクールに受け止めていた。
ある夏の日、おばあちゃんが、へそもちを作った。
おばあちゃんは、「今日は雷様が来るよ~」といつもの様に言うが、僕は老人の独語だと思い、受け流していた。
しかし、衝撃だったのは、台所に立つおばあちゃんが鼻をほじっている光景を目撃してしまったことだ。
多分、僕はこの頃から、食べ物に潔癖症になったのだと思う。
僕は鼻をほじった手で作った、へそもち、を食べる気になれず、手をつけず、<帰る>と言った。
すると、おばあちゃんは、「タッちゃんの好きな、へそもちなのにどうしたの?」と聞いた。
だけど、そこで何を答えられようか。
おばあちゃんは、お土産に、へそもちを包んでくれた。
僕は、へそもちを家に持ち込むと家全体が汚染されそうな気がして、帰路、民家の塀の向こうに投げ捨ててしまった。
やれやれ。やっとこれで晴れた気分で家に帰れる、ホッとしたのも束の間。
にわかに空が暗くなり、雷様がゴロゴロと泣き出しそうな雲行きだ。
慌てて僕は全速力でダッシュして、両手でへそを隠して、大急ぎで家まで走った。
BGM. 堀ちえみ「稲妻パラダイス」