11月はおとなしくしてよう⑥~家族

8/ⅩⅠ.(火)2016 
ボブ・ディランがノーベル賞をとったことにビックリしている僕はボブ・ディランに詳しくない。
泉谷しげるが「家族」というLPを出した時に、何かのレビューで、これは製作期間を考えると、
ほぼボブ・ディランのなんとかというアルバムと同時期の発想で、つまり泉谷はディランに影響されたのではなく、
同じ時期に、同じような事を考え、同じような作品を発表したのだ、ということを読んで興味を持ったくらいだ。
その頃、中学生だった僕は、何か人間の文明とか、比較文化人類学的なことを考える時の良い素材ではないか、と思った。
恐山のイタコと、沖縄のユタが、似たような側面を持っていても、地理的にも遠いし接点もなさそうなのに、
「イタ」と「ユタ」の発音が似てる、のと同じように、泉谷しげるの「家族」とディランの何かが似てるそうだ。
肝心のディランの方を覚えてなくて恐縮だが、そんな「家族」が、今日のテーマ。
僕は、たとえばコカコーラのCMのように、仲間が集まって、美味しいものを食べて、(バーべQでも可)、そういう‘場’を、
自分の家庭に作りたいと、Xmasでも盆暮れでも、行き場のない人がウチに来て、楽しめればいいな、と
ずっと小さい頃から思っていた。
こんなことを言っては、しょってるが、そういう素質はあるし、サービス精神はあるし、そういうことは好きだし努力もするから、
将来、結婚して子供を作ったら、そういう家族を作りたいな、と思っていた。
そういうお手本になるホームパーティーにも招待されたことがあるから、イメージ・トレーニングは出来ている。
結論から言うと、僕が思い描いていたものに近い形になっているのが、「カワクリ」だと思う。
まだ努力は必要だし、スタッフの熱量も大切だ。
それには、まずスタッフをその気にさせないといけないのだが、まぁ、それはいいとして。
どうして僕がそんなことを思うようになったかと言うと、僕の家は茅ヶ崎の眼科の開業医で、僕が幼い頃から周囲には、
お手伝いさんも含め、たくさんの従業員がいて、昭和40年くらいは住み込みとかあったし、常に同じ屋根の下に3~4人の
若いお姉さんと一緒に暮らしていて、僕はたくさんの大人に囲まれて育った。
その中には、19才とか20才の人もいて、僕が浪人してる頃には、そんなに年も違わないし、シチュエーション的には、
恋におちてもおかしくなかった。落ちなかったけど。受験生だけに。
愛くるしかったあの人達が今は、50~60才なんだと思うと、年齢なんて関係ないな、と思う。
ご対面番組で芸能人が子供の頃、世話になった「お姉さん」に会うという企画で、相手はもうヨボヨボなのに、
泣いて抱き合うシーンに、僕は最近、違う意味を見い出したりして、<まぁ、良いものだな>と思ってる。
僕が同窓会に参加するようになった心持ちとも共通するのだろう。
きっと死期が迫っているのだ。朝からカラスがうるさい。
さて、うちの父は、大正10年生まれの酉年だった。酉年は夜明けを告げる干支で、初代運が強いと祖母が言っていた。
父の歴史はよく知らない。
北海道にいたというが生まれはどこか知らない。
北海道って、大正時代だと海外みたいなものでしょう?
その後、戦争になって父は長男だけど、家は普通の家なのに、父は何故か医者になると言い、
満州(当時は日本)の医学部に行ったらしい。
戦争が激しくなって、父の家族は色んなところへ逃げ回るらしいが、父は家族と離れて勉強して、でも結局、日本は
戦争に負けて、満州で勉強した努力は、パー。
そして戦後、東京の大学に入り直して、勉強するけれど、その時、同級生は一回りも年が違ったと聞いた。
父は若い頃、結核になって、片っ方の足が動かなくなってビッコになっていた。
結婚も遅く僕を生んだのは40才だったから、僕は子供時代、同級生より父がうんと年寄りだから、親が死んだらどうしよう、
ということを常に考えている子供だった。
父は自分が家族と長く離れて暮らしていたから、きっと自分に関わる人には温もりのある生活をさせたいと考えていて、
従業員が多いのも、中国からの留学生を沢山とったり、自分の親戚や家族が楽しめるようにパーティーや旅行を提案して、
スポンサーになった。
子供にも教育費ばかりでなく、学校にものすごい寄付をしていた。
たとえばブラスバンドを作るための楽器一式とか、学校のグランドや遊具を整備する費用とか。
今と違って当時は節税とか開業医の経費の優遇とかあったのだと思うが、だから出来たのだとも言えるが、
別にそこにお金を使わなくてもいいのに、純粋に父は戦争で自分が味わえなかった絆や娯楽や贅沢を、
自分の家族に味あわせたかったのだと思う。
それはまるで質の良いマスターベーションのように思える。
なぜなら、父は家族旅行には一切参加しなかったから。
足が悪かったから足手まといになるというのもあったと思うし、主目的は自分が楽しむよりは家族が楽しむ事で、
家族の家族や友達が楽しむことが主眼で、眼科医だけに、そこには自分がいるのは照れがあったのかもしれないし、
経験して来なかったからどんな顔してそこにいていいのか判らなかったのかもしれない。
医学部じゃ習わないしね。
大義名分は仕事だった。当時は高度経済成長だったし、父は休まず働いていた。
夜は書斎で遅くまで書き物をしていた。論文や短歌を詠んでいたから忙しく、家族と過ごす時間は少なかった。
周りのものは始めこそ遠慮していたが、すぐに慣れるもので、そういうものだということになって、
父を置き去りにして自分達だけ楽しんでいた。父は大阪万博も行ってない。
しかし、そんな父の性格は大正生まれだし、頑固で気が短く、まるで当時流行っていたドラマの「おやじ太鼓」のようだ。
すぐに怒っていたから僕は父が嫌いで、「こいつは金だけ稼いで、死ねばいいのに」とか思っていた。
ひどいと言われれば、ひどいものだ。
小学校の同級生の三上君や内藤君のお父さんは男らしくてかっこよく僕にもよくしてくれた。
その家の家族旅行に連れてってくれてキャンプとかカブトムシをとる体験とかをさせてくれた。
あの頃の他人の家のお父さんは家庭的だったから、それは時代のせいじゃなくて、やっぱりウチが変だったんだと思う。
僕は末っ子だったから、結構、俯瞰的に家のことを見れていて、父の葛藤もみていたと思う。
兄は父の跡を継ぎ眼科医になって医者としてのアイデンティティーを引き受ける重責だ。
僕は父の願いである、兄弟で眼科医になって、父と3人で医院を大きくする願いを無視した。
つげ義春の「ねじ式」じゃあるまいし、そんなに目医者ばかりいてもしょうがない。↓。

父は僕が浪人してる頃に胃癌が発覚して、リタイアを余儀なくされた。
僕が父とまともに喋れるようになったのは、その1年で、父は仕事に出れない体力で、僕は所属する学校がないから、
顔を突き合わす時間が出来たのだ。
その後、父は死ぬから、現役で大学に受からなくて良かったと思う。
現役で受かってたらどう思っていたかは判らないが。
「癌とは、未練の整理に良い物だ」、と言ったのは立川談志で、僕と父はその1年は色々な話をしたものだし、
父は僕の服を真似したり、僕のタバコの銘柄を真似したり、本当は病気にタバコはイケナイけれど、
不器用な父からの息子へのせいぜいの歩み寄りだったのだろう。父が死んだのは、その2年後くらいだ。
僕は精神科医になった分、家庭人としての父が出来なかったリベンジを任されてるような気になっていた。
しかし、実際蓋を開けてみたら、DNAとは怖いものだ。
僕の子供が子供だった頃、僕は子供専門の病院に勤めた。
すると、自分の子供の運動会と、病院の行事の運動会が同じ日で、僕は病院(仕事)をとってしまったり、
家族と離れて病院で生活してる子供(患者)たちのために、1年365日、病院に出て行った。5年くらい続けた。
結果として、僕は父と同じだ。ひょっとしたら、父の悲哀をいつも近くでみていたから、心のどこかで父を乗り越えると、
父が一人ぽっちになってしまうと情けをかけたのかな。
つまり、父が成し遂げられなかった、心の豊かな生活とは何かをみつけて成就することを躊躇したのかな。
父はビッコだったから歩くのが遅くて、家族で移動する時、みんなスイスイと行ってしまい、僕は前とはぐれないように、
そして後ろの父を気にして振り返って歩いた記憶が生々しく、僕は今でも団体で行動する時に、後ろの人がついて来てるか、
気になってしょうがない。
クリニックの開業当時は10年前だから、今の僕とでは体力が全然違う。
初期設定で昼休みを1時間としたのは、仮に午前の診療が長引いて昼休みがなくなっても大丈夫、という自信。
<ノンストップで12時間は働ける>、と豪語していた。
気の狂った発言だが、当時誰もそれをおかしいと言わなかった。
仮に、「無茶ですよ~」、とやさしい人が言ってくれても、僕は平気で無視してたと思うが。
それが最近、体にこたえるようになった。
身近な同業者は、「きっちり2時間昼休みをとる。その間、入口は閉める」、と忠告をする。
<なるほどなぁ>、と近頃思うのだが、開院当初にそんな事を言われてもバカにして相手にしてないのだから、
今更、宗旨替えも出来ないし。
季節の変わり目もあるし、天候の寒暖差もある。年のせいもあるし、体力にひびく。
開院時と同じペースでやってるのは、さすがにこたえてくる。
だけど幸い頭はまだ回る。あと10年はもつと思う。
アントニオ猪木がストロング小林戦の試合後に、
「こんな戦いを続けていたら10年もつ選手生命があと3年で終わるかもしれない。それでも私は戦う!」と言った。
燃える闘魂だ。それに結局、猪木以外は皆死んでるし、猪木だけ長生きだし。これでいいのだ。
しかし、先週は本当に疲れて、診察の合間に<このまま死ぬんじゃないか>と思った。
大和言葉では、「疲れる」と「憑かれる」は語源が一緒だというから、何か悪い者に「つかれた」のかと思い、
エネルギー療法の先生に、重点的に手当てをしてもらい、何とかしのいだ。
堺正章のお父さんの堺駿二はコメディアンの鑑で、舞台の上で死んだ、という幻聴が診察の合間ごとに聞こえてきて、
<俺はここで死ぬのか…>と覚悟を決めた一週間でした。
11月8日は、父の命日。こんな記事を書いたりするのも、季節のせいならいいんだけれど。
BGM. よしだたくろう「風邪」


11月はおとなしくしてよう②~主任教授の土産

6/ⅩⅠ.(日)2016  不動前で呑む
僕が医者になったばかりの時の主任教授の息子から、デューラーの「メランコリア」の版画の複写をもらった。
この絵はかねてから僕が目をつけていて、教授にどうやって入手したのかを手紙に書いて質問したりしたから、
その回答としてこれを下さったのだ。
裏には、川原達二先生へ、と直筆で先生のサインと日付もある。ありがたい。
デューラーの「メランコリア」は、人間はすべての欲しい物が手に入ると、憂鬱になる、という意味深なモチーフで、
色んな成功の象徴が、天使の祝福とか完成された魔方陣とか、散りばめられていて、謎解きして行くのが面白い。
憂鬱になるくらい、すべての物を手に入れたいものだ。…本当か?(自問自答してみました)
昔、ハンク・アーロンの記録を抜いた頃、週刊ベースボールのインタビューで、王貞治が、
「好きな歌は、梓みちよの『メランコリー』」、と答えていたのを何故か忘れられない。
BGM.梓みちよ「メランコリー」


11月はおとなしくしてよう①~母の誕生日

5/ⅩⅠ.(土)2016  
前の記事に書いた、「湘南少年将棋大会」と同じ頃、桜木健一の「柔道一直線」がブームでした。
僕はいとこ(6つ上、男)と兄(4つ上)と3人で、「湘南少年柔道大会」をしました。
そこでは僕は3位でした。つまり、いとこと兄に柔道ゴッコで負けた訳です。
しかし、その頃の僕は負けず嫌いで、すぐに「第2回湘南少年柔道大会」を企画しました。
体格差で劣る僕は、まさに窮鼠猫を噛む、で投げられる瞬間に相手に噛み付いたのです。
兄貴は、「イテテ、イテテ~よ…」と、バナナボート、みたいに言いました。
いとこは、「タッちゃん、柔道で噛むのは反則だよ」と言いました。
僕がションボリしていると、いとこは、「でも、プロレスなら反則は5秒以内はOKだよ」と啓蒙してくれました。
プロレスラーには、噛み付きを得意技にしてる、ブラッシーという選手がいることも教えてくれました。
僕はそんな素晴らしいルールがあるのか。
清濁併せ持つのが人生だ(使い方、合ってるか?)
プロレスの方が柔道より人生向きだと思いました。
そんな頃です!テレビアニメ「タイガーマスク」が始まりました。
それ以来、僕はプロレスの魅力に取り憑かれ、梶原一騎イズムや、猪木の過激なセンチメンタリズムなどの、
相手がどんなにルール無用の悪党でも、フェアプレーで切り抜けて、こちらは正義の技で勝つ、という男の生き方が
人格形成の核になりました。
もっとも、どうしても我慢できなかったら、千倍返しの反則をしても良い、というオプションもついてます。
今日、11月5日は母の誕生日。
だから、ここ何日かは母との心暖まるエピソードや、親孝行風のちょっと良い話しを色々と考えていたのだけれど…
結局、アントニオ猪木の話になってしまいました。いのきの母A、なんてダジャレを猪木が言いそうですね。
昔、「傷だらけの天使」というドラマで、ショーケンと水谷豊が1枚だけレコードを買って良いことになりレコード店へ行き、
ビートルズやストーンズやベンチャーズやJAZZやら何やかやを嬉々として見比べて嬉しそうにチョイスする場面から、
一転して、2人は部屋に帰っていて、腕組みをして、首をひねって、レコードのターンテーブルを凝視しながら、
「どうしてこれを選んだんだろう?」とつぶやきます。
背後に流れてる曲は、浪花節、でした。
あまりに考えすぎると本来の趣旨から遠ざかってしまうということはよくあるもので、それと良く似た母の誕生日の記事でした。
BGM. 遠藤ミチロウ「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」


甘くて冷たい、アイスクリーム

27/Ⅹ.(木)2016  今日は秋晴れ。
前々々回の「夢の展覧会」に2回登場した、アイスクリーム・ベイビー、は大学の同級生。
性格が悪く、意地悪だから、顔の一つ一つのパーツの作りは良いのに、
ファッションセンスがダサいから、「好きな子」とか「ルックス」という文脈で語られることが稀有な女子だった。
それでも彼女は僕にはやさしくて、僕が授業をサボってるとプリントを1枚余計にとっていてくれたり、
「川原くん、サボりはダメ!はい、プリント。面倒かけさせないでよね」とか、
「これ昨日の分のノート。貸すからさっさと写して。それ以外の目的に使わないでよ」などと、
ツンデレなどいう用語が存在する前の20世紀の終りに、立花みさと級の輝きを放っていて、
僕は「甘くて冷たい」から「アイスクリーム・ベイビー」というあだ名をこっそり付けていた。
略して、アイス、と呼ぶこともあった。
アイスは、勉強がとても良く出来た。
僕は精神科医になるため医学部に入学したから、目的が明白な分、それ以外の授業は無意味に思え、
従って、モチベーションが上がらず、パフォーマンスは下がった。
医学部は6年制、僕は毎年スレスレの成績で進級をした。
国師を通れば良いのだ。それまではビリでも良いから、まず進級、と目標を低目に設定していた。
大学4年の時、いよいよ、僕はピンチで、<もうダメかもしれない…>とあきらめかけた。
そして僕は現実逃避。
<将来は、アイスクリームと結婚して、ヒモのような生活を送ろう>と思った。
アイスにそう打ち明けてもみた。
すると、アイスは真顔で僕のノートに、
「めざせ、タッちゃん、BSL」と書いた。
これは当時、流行っていたマンガ(アニメ)「タッチ」のヒロイン・南ちゃんが主人公の達也に、
「めざせ、タッちゃん、甲子園」と書いて部屋に貼るシーンのパロディだ。
BSL(ビー・エス・エル)とは、ベッド・サイド・ラーニング、の頭文字で、5年生になると出る病棟実習のことだ。
つまり、アイスは、「一緒に5年生に進級しよう」とエールを送ってくれたのだ。
アイスは模範生だったから先生達のウケもよく、
「もしBSLに上がれたら同じ班になれるようにお願いしてみる。川原くんの面倒みなきゃだものね」と微笑んだ。
そして僕は頑張って、元々、やれば出来るタイプだから、目出度く5年生に進級した。
しかし、BSLは別の班。
アイスに、<同じ班になれなかったね>と言うと、
アイスは、「川原くんと同じ班になんかなったらお世話係で大変よ。あーあ、良かった、良かった」と底意地悪く
そっぽを向いた。
当時、「IT’s」という清涼飲料水のCMに、オードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」の髪を切るシーンで登場した。
僕は髪を切ったあと、鏡に写った自分の姿を左右に振って確かめるオードリー・ヘップバーンの美貌が、
アイスに似てると思い、「アイス、オードリー・ヘップバーンにそっくり説」をクラスに吹聴した。
アイスは性格が悪いからクラスの皆は、アイスの外見の美しさに気付いておらず、
アイスの服はイモいから、「相変わらず、川原はおかしなことを言ってるなぁ」と口々に言い、
「この間は、トモエくん(男)のことを、甲斐智枝美、に似てるなんて言ってたし」と丸無視された。
それでも、そのあと、こっそりとクラスの目立たない奴と、暗い奴と、キモイ奴が1人づつ、僕のそばに寄って来て、
「●●(アイスの名前)は、オードリー・ヘップバーンに似ているよ」と言った。
僕は6年間で彼らと口をきいたのは、それが最初で最後で、彼らが何という名前かも知らない。
そのCMのせいか、テレビの洋画劇場でタイムリーにも「ローマの休日」が放送された。
僕は見逃したが、アイスクリーム・ベイビーは録画したという。
アイスは僕に、「みた?みる?」と言った。
僕は内心、<アイスが、オードリー・ヘップバーンを録画。自撮り、じゃん。貴重だ>と思った。
自撮り、なんて言葉、まだない頃だけれど。
そして、<みる!みる!>と答えた。
僕のアパートとアイスの実家はご近所だった。
それは僕がアイスの家の近くのアパートを借りたからで、ま、軽くストーカーですね(笑)
アイスはビデオを学校にではなく、僕のアパートまで散歩がてら届けてくれた。
なのに、その日に限って、BSLの班員がうちで酒盛りをしてやがって、せっかくのチャンスだから奴らをたたき出し、
僕はアイスと二人で僕の部屋でアイスの持って来たビデオをみた。
アイスは映画のオードリー・ヘップバーンをみて、僕は画面をみてるアイスの横顔をみてた。
アイスの録った「ローマの休日」はCM入りで、CMのたびに、アイスに、「川原くん、映画に集中!」と怒られた。
下は、昔の夢日記の表紙に貼った、CMに使われたオードリー・ヘップバーン「ローマの休日」の一場面。↓。


僕は医者になってから数年後、電車の中でバッタリ、アイスクリームに出会ったことがあった。
アイスは小さな男の子を抱っこしていた。
アイスから僕に気付き、声を掛けられた。
「この子、私の子」<エッ?>
「私、結婚したの」<エッ?>
「バツイチなの」<エッ?>
「うそよ(笑)」<エッ?>
「(笑)ホントよ」<エッ?>
と、出会いがしらの連続パンチのご挨拶だ。
アイスは、その子の手を持って、「僕は頑張るのだ~!」と、エイエイオー、みたいなポーズをした。
それをみて、僕は昔、きっとこの子になりたかったんだな、と思った。
そして僕はその子の目をじっとみて、<僕に出来る事なら何でもするよ>と瞳で語りかけたら、
その子は手を伸ばして、僕の鼻をギューッとつまんだ。
アイスは、「川原くんの鼻はつまみたくなるのよ」と真剣に解説した。
ならばと僕は、アイスの方をみて、ちょっと鼻を突き出すようにして、数秒、顔を向けてみたが、
アイスは鼻をつままなかった。
そして、アイスが先に電車を降りる。
僕らは手を振って別れた。
僕は車窓から彼女の背中を見送った。
アイスは一度も後ろを振り向かなかった。
僕は、<相変わらず、アイスクリームだなぁ>と思った。
次の駅で僕も降りた。
僕は、つげ義春の「もっきり屋の少女」のラストみたいに、「頑張れ、アイス」「頑張れ、アイス」、と手を振り上げながら、
病院への道を歩いて行ったんだ。
下が、「もっきり屋の少女」のラストシーン。↓。


来年の2月には、何十周年記念かで大学全体の同窓会があるそうです。
会えるかどうかわからないけど、僕はアイスとその他に会いに行ってみようと思います。
BGM.RCサクセション「うわの空」


映画にならない話

22/Ⅹ.(土)2016  はれ マミさんのフィギュアの備品の扇子が紛失し、凹む
映画「聲の形」を観ました。
これで「こえ・の・かたち」と読みます。「かに」、と読み間違えそうですね。
この映画の原作はマンガで、単行本で全7巻です。
僕は1巻だけ読んで、暗い気持ちになったので、読むのをやめてしまいました。
「障害」とか「イジメ」をテーマにしていると、思ったからです。
映画化が決まり、京アニ(ハルヒ、や、かんなぎ、や、けいおん、や、日常、を制作した会社)と聞き、胸騒ぎ。
そして、うちの受付スタッフの約67%が「観た」というので、僕も観る事にしました。
観た後、なんとも懐かしい感じがしたのは、監督さんが「けいおん」の監督だったからかも。
男の主人公の声は、「おそ松さん」のトド松でした。しかし、トッティには聴こえませんでした。↓。

女の主人公は、「物語シリーズ」のアンリミテット・ルールブックでお馴染みの、斧乃木余接↓、の声の人。

聴覚障害の役の声なので、どうやるんだろう、と思ってましたが、上手でした。
誰かが、ももクロの元メンバーがやっている、と言ってましたが、「早見」違いですよ。
この声優さんは、「俺妹」の新垣あやせ、の声もやっている人です。
よつぎ、より、あやせ、の方が似てました。…って、同じ人なんですけどね。
全然関係ないですが、こないだ、「新垣あやせ」の抱き枕を買ってしまいました。(後日、みせます)
下の、向って右が、あやせ。↓。

僕が観た回は、「プレミアムなんとか」と言って、耳の聞こえない人用(?)の、字幕つきでした。
字幕は、「役名」&「セリフ」、で出るから役名を覚えやすかったです。
びっくりしたのは、主人公の男子の高校の同級生、永束、のセリフの度に、劇場の女子が受けまくってたことです!
ドッカン、ドッカン。
まるで、出オチ状態。
後で、パンフを観たら、人気の声優さんみたいですね。
そうそう、まどマギ、の、鹿目まどか、の声の人も出てました。
男言葉だから、わかりにくかったですが、ボソっと言う独り言が、まどか、の声でした。↓。

僕は昔、「こどもの病院」に勤務してたことがあります。
その時、こどもの治療では、オーソリティーである先生が当時の僕の師匠でした。
僕が今でも、印象的なのは、ある小学生が自殺願望を抱いていると直観された師匠は、
その子に、戦争で亡くなった方の写真(死体)をみせたのです。
すると、その子はじっと食い入るように写真(死体)をみて、「あ~、死ぬのも駄目か」とあきらめたという荒技でした。
僕も師匠の真似をしてみました。
幸い、病院には、大きな図書館が付属されていたので、写真(死体)をみつけるのは容易でした。
それを持って、病棟に行き、これから患者にみせると話したら、スタッフ全員に大反対されました。
非常識だというのです。
でも、僕はオーソリティーの先生の直伝だという自信があるから、スタッフを説得し、敢行しました。
すると、どうでしょう?
判で押したように、患者から、「あ~、死ぬのも駄目か」、という反応が返って来たのです。
今から、15年くらい前のことです。
そして、話しを、映画「聲の形」に戻します。
主人公(女)の妹は、動物の死骸ばかりを写真に撮っていました。下は、原作マンガから。↓。

そして、それらを家中に貼っていました。
姉がその中の1枚をコンクールに応募すると、入賞します。↓。

賞をとったのは、死骸をどけた空白の写真でした。
西宮とは、主人公(女)のことです。
妹が、家中に写真(死骸)を貼る理由は、映画の中では語られませんが、マンガではそれが描かれています。
ある日、妹は「障害」のため、ずっとイジメられているお姉ちゃんから、手話で、「死にたい」、と告白されます。
どんなにイジメられてても、ニコニコしてて、「わけ、わかんねぇ」と思っていた姉の切実な本音でした。↓。

それからです。妹が、死骸の写真ばかりを撮るようになって、家中に貼るようになるのは。
妹は、それを毎日みていれば、お姉ちゃんが死ぬのをあきらめると思ったのです。
僕の師匠と同じ発想ですね。
ところが、それでもお姉ちゃんは自殺未遂をしてしまいます。
それを男主人公が救うシーンが、映画ではハイライトです。
絵になる見せ場です。
しかし、その時の妹の心境はどうだったのでしょうか?
幼いなりに考えて、頑張っていたのに、自分の非力さを思い知ったのでしょうか?
さっきも言いましたが、映画はマンガ7巻分をまとめたものですから、どこかが割愛されるのは仕方がないです。
原作では、もう少し詳しく妹の心理が描写されています。
姉の自殺未遂のあと、妹は、家中の写真(死骸)を剥がして周ります。
お母さんに、「あら、剥がすの?」と聞かれると、「もう貼ってる意味がないんだ」とつぶやきます。
死骸を毎日みていれば、お姉ちゃんが死ぬのをあきらめると思い、そうしていたからです。
このあたりの妹の純情は健気で、キュンと抱きしめたくなる程、ひとりよがりで無力でした。↓。

最近、実は僕が気になっていることがあるのです。
それは、インターネットやスマホの普及で、若者の情報量が師匠が荒技を振るっていた15年前とは、段違いなのです。
自殺の方法や、「死体」の写真も簡単にみれるそうなのです。
僕が驚いているのは、「死体の写真」をみて、「きれい」とか「安心する」と言う若い子が結構いることです。
その発言自体の衝撃というよりも、もはや「師匠の荒技」が通じない世の中になったという時代の変化への戸惑いです。
人間の心の仕組みは、100年や200年で変わりはしないから、フロイトの精神分析の根幹は現代でも通用するでしょう。
でも、こどもを取り巻く環境や情報は15年前とは大違いだから、技法という枝葉は通じなくなったということなのでしょう。
むしろ、通じないのが当たり前で、修正してゆくべきなのでしょうね…。
僕はなんとなく、あやふやにしておきたかったセンチメンタリズムを、「聲の形」の、「映画にならない話」の部分で、
直面させられてしまった訳です。
人間というのはひょんなことから日頃モヤモヤしていた抑圧の輪郭がみえたりするもので、
今回の記事で一番、言いたかったのはそのことです。
さよなら、師匠。
BGM. BELLRING少女ハート「タナトスとマスカレード」


夢の展覧会(完璧版)

14(金)~20(木)/Ⅹ. 2016
ベルハー・ショックの、みずほロス、で、こんな時は何を言ったらいいのか、わからない。
FM北海道「みずほのほ」には、<あまりのショックで手がふるえます>と、
ふるえた文字のファックスを送ってみました。…ちょっと、怖いですね。↓。


気分はまるで、フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」、で、そんな時こそ互助精神で、
スタッフに何かご機嫌な記事で繋いでもらって、時間を稼いで、気持ちを立て直せればとも思うのだが、
気分が下がっていると、人に頼るのも億劫で…。
人に頼れないなら、昔の自分に力を借りよう、と、思いついたのが、僕は高校の頃から夢日記をつけていて、
時々、挿絵も添えているから、それらをアトランダムに載っければ、まるで、夢のイラスト展覧会。
絵には解説は無用の長物、風味を味わってもらえばよい。
あっ、待てよ。今、僕の携帯電話はカメラ機能が壊れたままだから、撮影を誰かに頼まなきゃ、だ。
頼めば、誰も嫌とは言わ(え)ないだろうけれど、それもそれで気を使い、とかくにこの世は住みにくい。
そんな、すったもんだ、も、一っ飛び、完成させました!夢の展覧会。
・カラス貝のマニキュア女vsトラディショナル・ブルー~瞳~少年風(1981.9月)


・伊藤つかさは、トマソンがお好き(1982.1月)


・貪婪(どんらん)…非常に欲が深いこと(1982.1月)


・手のひらを太陽に(1982.1月)


・もう君に逢うこともない、心は揺れても(1982.2月)


・小田急線のひとコマ(1982.2月)


・本厚ちゃん(1982.3月)


・キヨシローのまね(1982.3月)


・川守田(1982.4月)


・一人になりたい…ううん、一人がいやだから。(1982.7月)


・伊代はまだ(1982.8月)


・天才の誤算(1982.9月)


・テスト前日(1982.12月)


・物理ダメ(1983.2月)


・ダルなboyは、Love is Real.(1983.3月)


・マリン・スポーツ(1983.5月)


・カルピス(1983.5月)


・誕生日。小指と小指をつないで歩く、理科室でキス(1983.7月)


・夢見る年頃~36/38≒95(1983.8月)


・野球大会(1983.8月)


・クリスマス・イブ(1983.8月)


・恋人峠の昼下がりPart.2(1983.9月)


・すっかりトロピカル(1985.7月)


・明日のイブはRC(1985.12月)


・オキドキの古着で遊園(1986.5月)


・直ちゃん(1987.6月)


・Hanesの白のTシャツに血を滴らせてしまった(1987.6月)


・元・日本軍の男と、ユキヒョウ(1987.7月)


・大船観音がくずれた(1987.7月)


・みつけてくれたらキスしてあげる(1987.7月)


・甘くて冷たいアイスクリーム・ベイビー(1987.7月)


・気がつけば兵隊(1987.7月)


・眠れ。ライオネル・リッチーの墓の上(1987.7月)


・スタン・バイ・ミー(1987.8月)


・ニース予想図(1987.8月)


・アイスもハシャいでる、僕は日焼け(1987.8月)


・ダチョウ(クジャク)ともも焼き(1987.8月)


・僕は照れる(1987.8月)


・新宿地下の靴専門店(1987.8月)


・過ぎ行く夏を惜しんで~絵を描く2人の少女(1987.9月)


・念力(1987.9月)


・さっきまでの競争のつづきだ(1987.9月)


・渡り廊下の窓から連中が手を振る(1987.9月)


・脳外科はじまる(1987.9月)


・お前はストーブの前でのびていた。あくびしかしなかった(1987.9月)


・聴神経腫?すぐに手術(1987.10月)


・宙に浮く機械(1987.10月)


・すいみんやくが欲しい(1987.10月)


・明るく生きるコト(1987.10月)


・サンボのジャケット(1988.7月)


・オバQが正ちゃんのクラスの記念写真に写ってしまった。皮膚科テスト、60点。(1988.7月)


・ウサギに乗って空を飛ぶ(1988.12月)


・うその固まり(1989.1月)


・すべては幻想である(1989.1月)


・柔道(着)一直線!激しい視線の火花が散る(1989.4月)


・世代交代の口約束(1995.3月)


・2002.8月6日からの夢日記の表紙


BGM. サザンオールスターズ「別れ話は最後に 」


それで思い出したのですが

22/Ⅸ.(木・祝)2016 雨
こないだお話しした、「サザエさん」の堀川君、観てみました?
僕が観たのは先々週。
ワカメが、サザエとカツオは似てる、と言われるのに、姉妹なのに自分だけ似てないと悩んでる回でした。
堀川君は、ワカメの同級生ですから、教室でワカメが女子と話してる所に割り込んで来ます。
「ワカメちゃんが、カツオ君よりサザエさんに似てる点はあるよ」と言うと、ワカメが<何?>と食いつきます。
すると、堀川君は、「スカートが似合うところ」、と答えて出番が終了します。
まぁ、軽いギャグかな、と思って見過ごしてしまった方も多いのではないでしょうか?
僕も始めはそう思いました。
しかし、別の回の、カツオがイガグリ坊主コンテストに出る回とセットで考えると味わいが深まって来ます。
イガグリ坊主コンテストは優勝者に栗が1年分もらえるから、それに目がくらんだノリスケさんが勝手に応募します。
これを知った波平(僕と同い年)に叱られて、取りやめますが、クラスメートの花沢さんも同じ事を考えます。
花沢さんと彼女のお父さんは、カツオを連れて町の写真館に行きます。
1次審査は写真選考なので、せっかくだから良い写真を撮ろうという訳です。
カツオは、波平に怒られたばかりなので、ビクビクして家に帰り、家でもオドオドしています。
寝る時もサッサと布団をかぶってしまいますが、ワカメ(同じ部屋で隣に布団を敷いて寝てる)から、
<お兄ちゃん、今日、写真館に行った?>と聞かれて、ビクッとします。
カツオは、「行く訳ないだろう。おやすみ。」と嘘をつきます。
すると、ワカメがボソっと、<堀川君が、お兄ちゃんを写真館で見た、って言うから>と言って、場面が変わります。
堀川君の出番はなしでした。
しかし、どうでしょう?
この二つのエピソードを繋げて考察すると、いくつかの堀川君の倒錯的な側面にぶち当たりませんか?
まず、堀川君は、カツオを尾行している?堀川君の狙いは、「ワカメ<カツオ」?
そして、そこを抑えて、堀川君の発言を振り返ってみましょう。
「ワカメちゃんが、カツオ君よりサザエさんに似てる点はあるよ」「スカートが似合うところ」
これはジョークで女はスカート(男はズボン)と言っているのではなく、
堀川君は、脳内で何度かカツオにスカートを穿かせていたのではないでしょうか?
その上で、やっぱり、スカートはワカメちゃんの方が似合う、というマジな見解を述べてたのかもしれません。
そうなると、サザエさんのスカート(これは見てて当然)同様に、マスオさんのスカート姿も想像してるかも?
という期待が膨らみますね!
これからも、堀川君の言動をチェックして行きたいと思います。
アニメの話で、思い出したのですが、今度、CS放送の「キッズ・ステーション」の新番組で「おそ松さん」が始まります。
うちのブルーレイが勝手に予約してくれてました。
しかし、いきなり第2話から始まるようです。キッズは第1話を喜びそうですが、やっぱり駄目なんでしょうね。
ブルーレイが勝手に予約してたで思い出したのですが、Eテレの「SWITCHインタビュー」という番組で、新海誠を観ました。
川上未映子とそれぞれの作品について質問し合う番組で、聞き手が語り手の仕事場に行き、場面を SWITCHする訳です。
知らない人もいるかもしれませんから、一応説明しておくと、深海誠、とは今ブームのアニメ映画「君の名は。」の監督です。
ちなみに、僕はこの人の映画を1本も観たことがなく、でも、異常に評判が良いので、いずれ観ようと思っています。
何も知らないのに、こんなことを言ったら、怒られそうですが、僕はこの番組を見て、「君の名は。」を観る気が失せました。
それというのも、これも勝手な偏見なのですが、この人、饒舌過ぎませんか?この人も、この人の作品も、どっちも。
本来、映画や芸術って、言葉にならない部分を表現するのが役目じゃないのかしら?
だから、あんまり語られてもなぁ。
言葉は気持ちを伝える道具として、人間があみだした最高傑作だとは思いますが、と同時に言葉は心の近似値に過ぎず、
決してイコールにはなりませんね。
高校生の頃に結構悩んだものです。
女はすぐに言葉を欲しがりますが、吉田拓郎じゃないけれど、言えないことは勇気のないことかい?、などと思ったものです。
言う気がない、と勇気がない、の駄洒落ではないですからね、言われる前に言っておくけど。
高校生どころじゃないな、二十歳くらいまで、そんなことを真剣に考えていましたよ。
当時の日記にたびたび出てくるテーマです。
つまり、心は言葉にすればする程、想いからズレて行ってしまう。
「愛してる」という感情と「愛してる」というセリフはまるで別物のような気がしていました。
「愛してる」なんて言葉にした瞬間に、それはまるでシャボン玉のように、相手に届く前にこわれてしまいそうで。
こんなことがいっぱい当時の日記帳に綴られています。
きっとフラレタ負け惜しみなのでしょう(笑)
愛してる、という言葉で、思い出したのですが、加山雄三、大変ですね。ゴーストライター騒動。
文春に取り上げられてた作品の一つに、「恋は紅いバラ」がありましたが、あれは中1の頃によく聞きましたが、
♪アイラブユー・イエスアイドゥー♪、しか英語の歌詞がなかった気がしますが。
もしも、それが今回の騒ぎのゴーストライターの主張してる仕事だったとしたら、ちょっと萌えますね。
ゴーストライター騒動で思い出したのですが、RCサクセションの名曲「スローバラード」のクレジットを見たことありますか?
作詞・作曲に忌野清志郎と並んで、みかん、と記されています。
みかん、とは清志郎の飼い猫の名前で、ある日、清志郎が、みかん、の金玉にマンキンタンを塗ってジャレていたら、
みかん、が悶絶して発したよがり声が、「き~の~は~車の~中で~」というメロディだったそうです。
それで、作詞・作曲のクレジットに、みかん、の名前も一緒に載っけてるそうです。
加山雄三もそのくらいのユーモアがあったら良かったですね。
な~んて茅ヶ崎の大先輩にそんなこと言ったら怒られそうだ。すみません、先に謝っておこう。
先に謝るで思い出したのですが、三田寛子の謝罪会見は評判が良いですね。
僕は三田寛子のことはデビュー曲から知っていて、CBSソニーから出たイメージ・ビデオ「映・像・少・女」(β)も持っています。
3曲目の「駈けてきた処女(おとめ)」のクライマックスは、
果物を並べたテーブルに、三田寛子がはんなりとうつぶせてて、視線だけはしっかりこちらを見てて、
曲調が変わる瞬間に片手を払いのけるポーズで果物を一つ残らず、
テーブルから落すシーンがインパクトがありました。さすが、井上陽水、という感じの名曲です。
三田寛子は「花の82年組」だから、頭角を現すのはちょっときついかな、と思っていました。
そんな彼女にとってのターニング・ポイントは、プロポーズ大作戦の正月特番で、フィーリングカップル5vs5、
に出たことだと思います。
美人歌手5人組と素人の大学生5人組の公開お見合いで、昔は松田聖子とかも出てた。
1枠がリーダー的に可愛い子(たとえば聖子)で2~4と好みを取り揃え、5枠で落す。
主に、研ナオコとか和田アキ子がその位置にいた。
83年の正月、1枠は早見優、2枠は中森明菜、三田寛子は3枠で出場、4枠が堀ちえみ、5枠は中原理恵だった。
中原理恵はもう欽ドンで新境地を定着させていたから、この時点での5枠は妥当。
番組的には、早見優で「かわいい~」を掴み、中森明菜、三田寛子、堀ちえみが加速させ、
中原理恵で落す鉄板の布陣だった。…はずだ。
実は、この放送のビデオも僕はまだ持っているのだが、番組の流れをことごとく、三田寛子が止めるのである。
お正月だから艶やかな晴れ着を着て、おっとりした京都弁で男性陣からの質問に答えるのだが、
<デートに誘われたらどうする?(あるいは、プロポーズされたら何と言う?)>に対して、
「いや~ん」とか言って、照れて、振袖で顔を隠して答えない。
司会者は、とにかく中原理恵で落したいから、<ちゃんと答えて>とせっつく。
すると、三田寛子は、「じゃ~、お月さんが来たー、って言って空を指差して、その隙に逃げます」と答える。
終始、こんな感じで、中原理恵は完封されてしまった。
ウブというのか、まだ世間が「天然」という共通語を持たない時代だった。
翌週くらいに、三田寛子は「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングに呼ばれ、そこでもスパーク!
その翌月くらいから、月曜レギュラーになって「寛子のお菓子大好き」というコーナーを結構長くやっていた。
僕は学校があったから、毎週、録画して見ていた。
このコーナーは人気があって、同じタイトルのお菓子のレシピ本も発売された。
僕も買った。まだ持ってる。
そんな彼女が今回、立派な記者会見をやって、なんかしみじみとしたものだ。
僕は三田寛子のステップ・アップの瞬間の空気と同時代を生きてきたとも言えるのだ。
ステップ・アップの瞬間の空気と同時代を生きてきた、で思い出したのだが、やはりBABYMETALでしょう。
つらい時に助けてもらった記憶もある。
19(月)行って来ましたよ、コルセットRED NIGHT、東京ドーム。
2014年の武道館巨大コルセット祭りの時のコルセットは診察室の入口に飾ってありますが、
あの時はビニールに綺麗に封入にされていたから、開けるのが躊躇われた。
しかし、今回はむき出しの状態で渡されたから、すぐ首に巻きました。
判らない人のために説明しますね。
メタルでは首だけを振る「ヘドバン」があるので、首を守るために(?)首に巻くコルセットを配るのが定番になっています。
実際的には演出の一部で、武道館は暗がりの中が、真っ白になりました。
今回はさらに進化していて、ハイライト・シーンで光る仕組みなになっていました。
コルセットの白いボタンがどうも信号で一斉に作動するみたい。
開演前に係員から、「コルセット逆です。白い方を外側にして巻いて下さい」と直されちゃいました。
よく3人の中で誰が好きですか?と聞かれますが、それはべビメタに限らず、「けいおん」でも「ベルハー」でも、
返答に困ります。基本は、「箱推し」っていうのでしょうか、皆でやってるところが好きなのです。
キャンディーズやピンクレディの時代は、「スーちゃん」と「ランちゃん」のファンが張り合ったり、
「ミーちゃん」と「ケイちゃん」の2人がどっちが可愛いかで熱くなったりした上で、
「キャンディーズ」と「ピンクレディ」のファンが対立してる、という極めてインマチュアーな応援の仕方を、
芸能界全体があおることで(明星とか平凡がよくやってた)アイドル文化を盛り上げていたが、
今は和気あいあいだ。ベルハーのファンと、ゆるめるモ!のファンは仲良さそうだもの。
そんな背景があって、あえて誰か1人と言われることが多く、毎日、僕は<なんだかな~>と疲れているのだが、
一々、説明するのも不経済なので、ある時から誰か1人の名前をあげることにした。
「けいおん」は唯ちゃん=父と同じ誕生日だから。
「ベルハー」はみずほ=唯一の初期メンバーで度重なるメンバーチェンジのうち、自覚が出て、ベルハーを引っ張っていこう、
という姿勢の芽生えのプロセスを見てるから。
「べビメタ」は、ゆいメタルにしている。
15歳のもあ&ゆいの生誕祭は、「ゆい」の回が当たったからという赤い糸がきっかけで、
武道館の転落事故の後にみせた根性が決め手だ。
ちなみに、すうメタルの生誕祭も当たって観に行ったが、豊洲ピットは床が平坦で、あれは全然見れなかった。
豊洲で思い出したのですが、最近は築地から豊洲への移転問題のニュースばかりやっていますね。
お寿司は安全に食べたいものですが、最近は回転寿司でシャリを残す女子が多発していて社会問題にもなっていますね。
シャリを残すで思い出したのですが、逆にシャリが好きで好きでしょうがない、という女子と昔、仲良しだったことがあります。
彼女は単純に酢メシが好きらしいのだが、良いところのお嬢さんなので、シャリだけを頼むって発想がなかったみたい。
何の流れだったかは忘れたが、僕は彼女と、彼女のお家の行きつけの寿司屋に行って。
カウンターに並んで座って、その時に僕は告白されたのです。
「わたし、シャリが好きなの」って。
僕はだったら、と板さんに<この子にシャリだけ握って。上、いらないから>って注文した。
彼女は真っ赤になって、「そんなの駄目よ」と言っていたが、板さんは良い人でニコニコして握ってくれていた。
僕は大変感謝されて、お礼に「オペラ」に誘われた。
恥ずかしながら、オペラなんてハイカラなものを生で鑑賞するのは、後にも先にも、その1回だけ。
それはどうやらものすごく有名な演者がものすごく有名な演目をものすごく有名なオペラハウスで行うものらしく、
ものすごく良い席だった。
良い音楽とは人の脳に直接働きかけてリラックスさせるから、僕は開演後、数分で寝てしまった。
それ以来、その子は僕に対して機嫌が悪くなり、素っ気無い、というより、楯突いて来るようになって、
ホトホト困った。
開業医の一人娘なんて、ワガママで付き合いきれんよ。
シャリを残す女も、シャリだけ食べる女も大差ないよ、ってお話でした。本当か?
BGM.三田寛子「駈けてきた処女(おとめ)」


夏の思い出

8/Ⅷ.(火)2016 はれ 暑い! 
今はオリンピックのシーズンだが、僕はまずオリンピックやサッカーのワールド・カップなどを観ない。
とにかくイヴェントっぽいものや風物詩のように皆でにわかに盛り上がるものが嫌いだ。
プロ野球の日本シリーズや高校野球も観ない。
昔は観てたから、いつからこんな屈折した性格になったのだろう。
早く直さなければ。(うそ)
ところが、今日、久し振りに、甲子園の放送を生で観た。
大会2日目の第2試合に出る、大分高校の女子マネージャーがなかなか可愛いと評判だから。
僕らが二十歳を過ぎた頃、「いつからが大人か?」という議論をよくしたものだ。
選挙権とか、車の免許をとれるとか、酒が呑めるとか、パチンコに行けるとか、ポルノ映画館に入れるなど、ではなく、
もっとメンタリィティーな命題だった。
その結果、当時、1番説得力があったのが、「高校野球の球児をみて、全員が年下にみえること」だった。
これは今の若者にも通用するのかな?
ちなみに、僕は全員、年下に見えましたよ、今日。
高校野球のマネージャーで思い出したのだが、僕が高1の時に通っていた学習塾で一緒だった女子がそうだった。
彼女は、塾で1番可愛い女子で、一緒に海水浴に行ったこともある。
その塾には電話魔の女子もいて、その子が僕とその子をくっつけようとしていた。
あれ、これは前にも書きましたね?(「電話の話」2013年4月の記事)
で、その可愛い女子が、夏場になると、ノー・スリーブの服を着て来ていて、彼女が伸びをするたびに男子たちが、
彼女の脇の下をみて興奮していた。それは彼女が脇の下の毛をそのままにしていたからで。
僕は彼女と帰り道が途中まで一緒で、僕らはいつも同じホームで別の電車を待っていた。
僕は彼女に、<ノー・スリーブ、やめたら?>と言ったら、彼女は、「不自然なことはしたくないのよ」と言った。
それでも、彼女は翌日から、Tシャツを着て来るよになった。
時系列でいうと、その後に僕らは海水浴に行ったことになる。
その時に彼女がどうしていたのか覚えていない。多分、記憶からデリートしたのだと思う。
僕はこのやりとり以降、彼女に限らず、薄着の女の子がいると過剰にそこに目をやらないようになった。
少し、強迫的だったとも思う。
友人に「脇坂」という男がいたが、彼の名を、<日本一、ひわいな名前だ>と思ったことさえある。
今はそこまで極端ではないが、すっかりクセになっていて、だから薄着の女性をチラチラみなくて、
セクハラと間違われる率も低くて、結果オーライだ。
なんて思っていたら、最近の若い女性の間では、脱毛をしない、というのがブームのきざしだと聞いた。
理由は、自然なままで、ということらしい。
本当?
BGM. 吉川晃司「サヨナラは八月のララバイ」


番外編④~さらば過去の栄光

19/Ⅶ.(火)2016 はれ
中1の時、陸上部か野球部かブラバンで迷った。
僕は芸能人野球大会みたいな野球をしたかったのに、1番お洒落をしたい時期に丸刈りなどは考えられず。
したがって、野球部はなし。
陸上部は見学に行ったが、顧問の教師が、「お前は小さいから要らない」という目をしたから、
<せいぜい、ウドの大木でも集めてな>と言って、ブラバンにした。
小学校の時にトロンボーンを吹いていたが、‘レ’の音が遠いので、ホルンに転向した。
こうして僕の体育会系の才能はもったいなくも発揮されないでいた。
マラソン大会も、「たりぃから、後ろの方でゆっくり行こうぜ」という偏差値低目の奴らの誘いに乗って、
俺はまだ本気出してないだけ、の状態が続いていた。
友達のせいにしてはいけないが、友達で変わることもある。
高3で親しくなった友人は、熱血ボーイだった。
彼にとってはマラソン大会も重要なイベントで、前もってランニングなどのトレーニングをしていた。
僕も付き合って、走ったりしていた。
本番、僕はスタートダッシュで行ける所まで行こうと、短距離走の要領で走った。
友人は「そんなに飛ばすな!」と後ろからゲキを飛ばしたが、ペース配分とか考えるのはカッコ悪い気がしたし、
高3だし、最後だし、サムライはたとえ目の前が泥水でも前向きに倒れると言うし、どんどんダッシュした。
マラソン大会の上位の常連や運動部の主軸メンバーは、僕に追い越されるたびに一様にビックリした顔をしていた。
そして、僕はペースが落ちる事もなくゴール。銀メダルを取った。
それから僕の体育会系の潜在能力はムックムクと頭角を現した。
体育の授業でも、50m走は6秒2、でクラス1位。
走り幅跳びや走り高跳びも1番だった。
僕のことをクラスメートが、「鳥人」と呼んだ。
鳥のように宙を舞う姿と「超人」を引っ掛けたのだろう。
…ひょっとしたら、僕が自分で命名して、皆にそう呼ぶように強要していただけかもしれない。昔のことなので、覚えてないや。
当時、うちの高校には筑波大学の体育学部の推薦入学の枠が採用されて、僕は体育教師から、
「川原、お前、筑波に行かないか?」と白羽の矢を立てられた。
その教師こそ、僕が中1の時に、僕を追い帰した陸上部の顧問だった男で、僕は6年越しで見返してやったのである。
僕は子供の頃から精神科医になるつもりだったから、進路は医学部以外は考えてなくて、推薦は断ったが、
案外これは僕の自己評価をアップさせるエピソードで、いざという時に、
<俺は、筑波の体育学部に推薦をされそうになった男>という後ろ盾が、気持ちを大きくさせていた。
意外と人間なんて、そういう利子で食いつないでいる生き物なのかもしれない。
ところが、先日、お昼ご飯の時に高校時代の話になり、受付のミクちゃんに、「50m走が6秒1」だったと聞いた。
6秒1?
俺より、0秒1、速いじゃん!
僕の頭の中で精神的支柱のようなものが音を立てて崩れた。
その日の夢に陸上部の顧問が出てきて、「お前にはもう体育大学の推薦はやんな~い」と意地悪く言った。
…ランチタイムが、随分と堪えていたようだぜ。
でも、それで良かったんだと思う。
僕には十分な精神科医としての実力と実績がある。
もう体育学部にすがる必要はないのではないか?
クリニックも法人化したし、僕は精神科医として、皆を引っ張って行く責任のあるチーム・リーダーだ。
もう体育学部の看板は捨てよう。
さようなら、50m6秒2、に支えられていた僕。
こんにちは、50m6秒1、で駆け抜けるミクちゃん。
そして、僕らは、風になる。
BGM. アリス「さらば青春の時」


白い部屋

12/Ⅳ.(火)2016 はれ、暖かい。
子供の頃から、繰り返しみる夢があった。
僕は静かな白い部屋にいて、壁にもたれかかるように体育座りして、高い窓から光が差し込む。
見覚えの無い部屋だが、どこか懐かしい部屋だった。
心当たりのない部屋なのに、鮮烈な記憶があった。
そんな風だから、一時期は前世の記憶かしら?、などと考えたりもした。
どの夢にも共通するのは、無音の白い部屋ということで、なぜそこにいるのかは、夢によってバリエーションがあった。
理由が無い場合もあったし、ある時は、政治犯だったし、ある時は凶悪犯罪を起こした罰だった。
正義であるがゆえに、悪い権力者に無実の罪で投獄されたこともあった。
いずれも、僕の感情は無感情、何の抵抗も工夫もせず、その状況を受け入れていた。
結局、そこが僕の「居場所」であったような気さえした。
精神科医になって、研修医の2年目で関連病院の単科の精神病院に出向した。
僕は大学病院とリハビリセンターくらいしか病棟を知らなかった。
今はもうそんな病院はないが、僕が医者になりたての頃の精神病院は、アメニティより収容に重きを置くような作りだった。
そんな中、過度に刺激的になっている患者さんを、他の患者さんから隔離する部屋を「保護室」と呼んだ。
保護室は大学病院の病棟にもあったが、僕は僕の勤務先の病院の保護室をみて愕然とした。
それは、ずっと子供の頃から、夢に出て来ていた、白い部屋、だったから。
僕は医者になって3年目から大学院に進学するため、大学に戻った。
医者になるとお金が儲かりそうだと思われがちだが、それは何年かしてからで、
今は随分と改善されたようだが、当時の研修医の月給は5万円だった。
僕は比較的、若く結婚していて子供もいたが、大学院生は無給で、むしろ学費を払わないといけなかったし、
卒後教育も大切で、勉強会やスーパービジョンにもお金がかかった。
見かねたオーベン(指導医)が、アルバイト先を紹介してくれて、日曜日やまとまった休みには出稼ぎに行った。
今はもうそんな所はないだろうが、当時は「無医村」のような精神病院が地方にはあった。
僕は夏休みに家族を連れて、九州や東北の病院に2週間泊り込みで勤務に行った。
宿舎を用意してくれると言われたが、そこのお風呂場に黄色い巨大な物体があり、家族は悲鳴をあげた。
何かと思ったら、キノコ、が浴槽からはえていた。
僕は昼間、病院に行って仕事をして、夕方に宿舎に帰った。
九州の病院では、赤とんぼ、がいっぱい飛んでいて、僕は<なんとかこれ食えないかな?>と思ったものだ。
僕の仕事は、「いればいい」、だけだった。
さすがに医者がいないのはまずいからという理由で、雇ってもらえていたのだから。
回診と言って、病棟の患者さんの様子をみて回る時に、保護室の患者さんの様子もみる。
看護婦さんは、「この人はもう何年もここから出られないのです」と僕に説明した。
僕は、ナース・ステーションに戻ってから、カルテをみた。
すると入院時から何年も1回も薬が変更されていなかった。
これは何とかなるかもしれない、と思った。
僕は薬の調整と患者さんへの働きかけを考えた。
看護婦さん達は、やる気になって、どんな指示にも嫌がらず、無理な要求も頑張って動いてくれた。
僕には2週間の時間しかなかったが、複数の患者さんを保護室から出す事に成功した。
看護婦さん達は、自分たちがあてにされたことをすごく喜んで、仕事をしてて良かったと言った。
僕の大学院の生活は4年間だったから、そんな出稼ぎを、その間、ずっと続けた。
同じ病院にも行ったし、違う病院にも行った。
それは、僕が雇われる理由は、医者の腕ではなくて、医者がいないと困るから、で、その時の病院の都合によった。
でも、行く先々で看護婦さん達の反応は同様だった。
よく「チーム医療」などと言って、医者はそのリーダーだと言われる。
リーダーに求められるのは、その人の治療的な姿勢に尊敬が出来て、強力なリーダーシップで皆をその気にさせ、
明確な指示をだし、役割分担の采配をして、その結果における責任のすべてを医者自信が背負うという覚悟だと思う。
僕にもしそれがあるとするならば、それは大学や教育機関では習わなかったし、教えてももらわなかった。
僕はこのジプシーのようなアルバイト生活で、限定した2週間の仕事で、それを実感したのだと思う。
看護婦さんや薬剤師さんや栄養士さんやお掃除のおばちゃん達が一丸になって結束した力は、
我々の臨床のエネルギーにも転換された。
そして僕は大学院を修了し関連病院に派遣され、医者になって7年目で、やっとアルバイトをしなくて良い生活が送れた。
それまでに、多くの患者さんを保護室から出せた。
不思議な物で、そのせいなのか、それ以来、僕は、白い部屋、の夢をみなくなった。
BGM. 八神純子「さよならの言葉」