自由が丘の休日。(GW③)

2013年、ゴールデン・ウイークの過ごし方。パート3.
新宿の休日。」の続き。
新宿三丁目から乗り継ぎなしで、自由ヶ丘へ。
僕は、週1のペースで自由ヶ丘に来自由(らいじゅう、と読む)しています。
それは、体のバランスを整えるためにストレッチに通っているからです。
職業柄、ずっと座っていると、肩や首や腰や目が痛くなります。
数年前までは、大岡山の「ステラ治療院」に週1で来ステ(らいすて、と読む)して、
体のメインテナンスをしていました。
今でも、本当に体がきつくなると、駆け込み寺のように泣きつきます。
すると、時間外でも診てくれて、そして何よりすごいのは1回で良くなります。
僕がステラに行かなくなったのは、南波先生という僕の担当の人がお嫁に行くために退職したのがきっかけです。
ちゃんと新しい先生に引継ぎもしてくれたのですが、この頃から僕の考えは少し変わって来ていたのです。
「治してもらう」ばかりでなく、自分で「体を整える」努力をしようと。
それで走ったり、筋トレをしたりしていましたが、冬は外は寒いし、筋トレはやってて無意味な気がして続きません。
そこに、Fさんから、Dr.ストレッチを教えてもらいました。
なんか、雑誌に出てる広告の文みたいになってきましたね。
でも、これは宣伝ではないですよ。
とても、良心的な店です。
それは僕が始めて、訪れた時のエピソードに圧縮されています。
「何が一番お困りですか?」と聞かれたので、<目が痛い>と言ったら、
「眼科に行った方がいいですよ」と応えられたのです。
良心的でしょう?
何が何でも客をとろうとしていない。
エラい!
診察やカウンセリングにも似たところがありますが、初回で感じたインパクトはその後の関係にかなり影響しますね。
僕は、最初に担当してくれた人が気に入ったのでトレーナーをしてもらっています。
Dr.ストレッチでは、自分1人では動かせない筋肉を他動的に動かしてくれるので、
最初は楽でいいやと思っていました。
でも、それだけではなく、宿題のようなメニューが出ます。それを次回までに1日何セットかづつやってゆくのです。
それは簡単ですぐ出来るものなので、たとえば、1つの診察と診察の間でも、やろうと思えばやれます。
診察の合間には、あまり、やろうとは思いませんが。たとえば、の話です。
僕は、股関節を柔らかくするメニューと、肩の稼働域を広げる運動をしています。
そうしたら、今回、トレーナーさんに「肩が抜けやすいから、締める練習に変えましょう」と
左右の肩甲骨を寄せる方法を教わりました。
決まったメニューをガイドラインのように続けるのではなく、個人個人に沿ったプランを立てるとこも、
我々の仕事に似ています。
下が、僕の通うDr.ストレッチ自由ヶ丘店。↓。

僕のトレーナーさんは、最初に担当してくれた人で、僕に、眼科に行け、と言った女性です。
トレーナーと言うと、ポケモンを連想してしまいがちですが、ポケモンとも共通していますよ、
お互いの息が合うことが大切です。
それは、我々の仕事も同じです。信頼感が大事です。
僕は毎週、日曜か月曜の休みの日に、ストレッチをしに自由ヶ丘に来自由しています。
僕は、トレーナーさんのことを信頼しています。だから、頑張って練習しています。
そして僕は、馬鹿なのかな?、今さらになって、気付きました。
ステラの南波先生から、お嫁に行くために退職する、と聞いたのが、とてもショックだったのだと。
そして、その寂しさを胡麻化すために、「治してもらう」ばかりでなく、自分で「体を整える」努力をしようと理屈をつけたんだと。
南波先生がいなくなる現実を直視できなかったのだ。
その直後は、ステラの付近にも近付かなかった。
毎週、みていてくれてた人だったからね。
仕方ないよ。
南波先生がステラを辞めたのは去年の1月だった。
本当に受け容れられるのに、1年チョイかかったんだ。(GW④)へ続く。
BGM. 三田寛子「恋するメトロ」


運が強いらしい

26/Ⅳ.(金)2013 はれ
春だと言うのに、お疲れサマーです。と、忌野清志郎っぽいおやじギャグでスタートしてみました。
今回は、ちょこちょこ、おやじギャグを入れてみましょう。
何がお疲れかと言うと、スタッフの入れ替わりと新しい人がカワクリに慣れるまでの準備です。
つまり、それに結構な労力を使っているため、新患をお断りしているのです。
もし、ご希望されていて、お断りした方がこの記事を見ていたら、すみません。そう言う訳です。言い訳です。
しかし、これは長い目で見れば、とても重要な工程で、ここをテキトーにしては後でボロが出てしまいます。
でも、ご安心。もう大体、新メンバーの布陣は決まりました。婦人ばかりです。
今後も多少のミニマム・チェンジはあるかもしれませんが、期待に応えられるように努力して行きます。
そもそもは、磐石だった受付の岡田さん&吉田さんのWおめでたい理由退職がファンファーレでした。
ファンファーレの意味、合ってるかな?
それを皮切りに、(カワクリだけに皮切り)、ここ1年ちょっとで、さっき数えたら、合計で、入った人10人、去った人9人です。
10-9=1、と引き算すると1人増えただけになりますが、「1」だけにその位置エネルギーはものすごく高いです。
それを知ってる誰かさんは、僕のプロフィールから、ナントカ占い、でこの間の運勢を調べてくれました。
すると、それは「出会いと別れの連続」だそうです。
占い、とは統計学みたいなもので、一方で、当るも八卦当らぬも八卦、とも言いますね。
占いに詳しい人に言わせると、運勢通りになる人とならない人の差は、その人の持ってる「運の強さ」によるそうです。
つまり、僕が占い通りに「出会いと別れの連続」に陥ってるのは、僕の持ってる「運」が強いのだそうです。
判ったような、判らないような、何か良いように、言い様で、言い包められてるような気もします。
でも、確かに僕は昔から、占いなどでは、必ず、運が強い、と言われます。
運が強い、と言うのは、運がいい、と言うのとは別の意味で、誉め言葉ではないそうです。
台湾では占い師が占いをして、その結果を考慮して、その人に合ったパワーストーンでブレスレットを作ってくれる店に行きました。
僕は占い師に、あなたにはパワーストーンはいらない、と販売を拒否されました。
数人でその店に行ったのですが、そんな仕打ちを受けたのは僕だけでした。オレの態度が悪かったのかな?
大学の卒業間際には、良く当る占い師のところに、数人で進路相談に行ったことがあります。
占い師は皆には親切にアドヴァイスをしていましたが、僕には「あなたはそのままでいい」と言って終わりでした。
<そのまま?、ずっと大学生かよ!>って思わず、つっこみました。
そうしたら占い師は言いました。「あなたは運が強いから、そのままでいい」って。
昔、母がまだ生きてる頃、北の方に住んでいる「神様」が上京するという噂を聞きつけて、僕を連れて鶴見の方に行きました。
だだっ広い畳の部屋に通され、何十人かの人が「神様」が来るのを待ちました。
神様が来る証拠は、風が吹くことらしく、無風のその部屋の、神棚に遙、頭上にある松の葉が揺れると説明を受けました。
1人づつ、その神棚の前を通り着席して「神様」を待つのですが、僕が通過した時に、大きく松の葉が揺れました。
すると、関係者があわてて、松の葉を抑えようとジャンプしていました。
僕は、その時、係りの人が仕掛けのボタンを押すタイミングを間違えたのだとばかり思いました。
「神様」は、僕の顔を見ると、あなたは帰って下さい、と悲しそうな目と東北弁で言われました。
母は、何故か、鼻高々でご機嫌で帰りました。冷やかしで神様に会いに行くなよ、と思いました。
神をも畏れぬ、親子でしたよ。あの時の僕らは。
アトピー性皮膚炎に効くという水を売る、講習会に行った時も、そこの代表が僕を指差し、あなたには売れない、と言って帰されました。
まぁ、仰せの通り、必要なかったんだけどね。でも、なんで判ったんだろう。やっぱ、態度が悪かったのかな?
話は、随分と脱線しましたし、言う程、おやじギャグも挟めませんでしたね。
「出会いと別れの連続」かぁ。でも、ピンチはチャンスって言うし。辛抱する木に花が咲く、って言うし。
下は、新しい受付の今週の植物係の富田さんが、飾ってくれた診察室のお花。名前は、聞き忘れました。↓。

やっと暖かくなって来ましたね。もう、そろそろ運期、変わらないかな?
BGM. 吉田拓郎「春を待つ手紙」


電話の話し

18/Ⅳ.(木)2013 はれ
今年から、東京都精神神経科診療所協会(東精診)というのに入会した。
いや、させていただいた。
その勉強会が、13日(土)にあり、テーマは「精神科救急」関連のこと。
翌日の、14日(日)は、「こころの電話相談」の当番をした。
15日(月)は、月1の精神分析の研究会と、この休みは、精神科一色だった。
多分、皆さん、知らないと思うので紹介しますが、東精診では毎週日曜日に無料の電話相談をしています。
それは入会している診療所の「精神科医」が、当番で担当しているのです。
心理士やケースワーカーではなくて、精神科医がやっているのが貴重だと思います。
実は、僕はこのサービスを入会するまで知らなかったのです。
つまり、あまり知られていないと思う。
なので、ここで宣伝しましょう。
東精診のホームページを開いてもらうと、左端に「こころの電話相談」という囲いがあります。
そこをクリックしてみて下さい。
毎週日曜、PM2~5時まで、対応しています。
これは、当番の数日前にクリニックに宅急便でそれ専用の携帯電話が送られてくるのです。
僕は、自分がその当番だと知りながら、本部か何かに行ってやるものだと勝手に思い込んでいたから、
電話機が送られてきた時には驚いた。
前の当番の先生が次の当番の医者に直接、送るルールなのだ。
伝票には、「電話機」と記されている。
僕は、説明文をよく読んでなかったから、電話機の送り主のクリニック宛てに直接電話して、
「そちら名義で、謎の電話機が送られて来たのですが、こ、これ、心当りありますか?」って聞いちゃった。
時限爆弾か何かと勘違いして、あわてて。
そしたら、そのクリニックの受付の方は、朗らかで、親切に、「きっと、電話相談の当番ではないですか?」と教えてくれた。
そこで、やっと気がついた。お恥しい。前のクリニックの先生、失礼いたしました。
今後とも、よろしくご指導ご鞭撻の程を。
で、電話相談である。
相談は、3件あった。
これが「多い」のか「少ない」のかの判断は微妙だ。
試しに、ヤフーで「こころの電話相談」と検索してみたら、少なくとも10頁以内には見つからなかった。
岡山や広島や宮崎や埼玉はあったのに。宣伝不足なのかな。
なので、ここで紹介して、少しでも認知度を上げようと、記事にしている訳です。
無料相談ですが、通話料だけはかかりますので、念のため。
そうそう、電話で思い出したのだが、僕が高1の時、学習塾で知り合った女の子にやたら長電話をする子がいた。
その子は電話魔で、一時期、毎日のように電話がかかってきた。
当時は、携帯電話などない時代で、家の電話にかかってきた。それで、平気で2~3時間、喋るのだ。
内容は、どうでもいいことばかり。
たとえば、世良公則&ツイストの新曲について、とか。
先日、古い日記を見ていたら、架空の電話のシナリオを発見した。
それは、その子に電話する前に、僕がシュミレーションしたもので、数頁にわたっている。
シチュエーションは、僕が電話をするところから始まっている。
僕はその子の長電話には慣れっこだったのだが、自分から電話をするのは、緊張したのかな、そんなものを作って。
こちらが話しかけて、相手の答えを想像して、話が進んでゆく台本なのだが、
実際には、「一言目」から想定外のフレーズが返ってきて、無駄に終った想い出が残ってる。
僕はその子と塾の友達たちで海水浴に行ったことがある。
その子は、高1のくせに真っ赤なビキニを着ていて、それがまた何とも色っぽくなかったことを、
真夏の強烈な日差しとともに思い出す。
それは、その子の性格があまりに明る過ぎたからだと思う。
その子は、僕をそのグループで「1番可愛い子」とくっつけようと色々とおせっかいを焼いては、すべてを台無しにした。
「私に任せておきなって~」みたいなことを言って、すべて台無し。悪気はないんだよなぁ。
その子のお兄ちゃんは小さな暴走族のリーダーをしていて、その子は、それをとても嫌がっていた。
僕は、「そんなことはどうでもいいことさ」、と電話越に言ったことがある。本当にそう思ったし。
珍しくその子は、黙り込んでいた。
今、思うと僕は、その子のことが好きだったのだと思う。
BGM. ピーターとゴードン「愛なき世界」


もしかして外科医?

21/Ⅲ.(木)2013 はれ
その朝、目がさめたら、となりに知らない美人がいた。
彼女はとっくに起きていて、「やっと起きた。遅刻」と僕に言った。
それは、まだ病棟実習をする前だから、大学の3年か4年の頃のはず。
僕は、友達と、大学の近くの街で呑んでいた。
たまたま、その店でとある運動部がコンパをやっていたので、そこに顔を出した。
その頃の運動部は2次会以降は最上級生が払う、という暗黙のルールがあったから、うまいこと紛れ込んで、
ただ酒にありつこうと考えた訳だ。
その作戦はまんまと成功して、僕は3次会のパブにもなだれ込んだ。
そのパブでは、第一外科、通称「1外(いちげ)」が飲み会をしていた。奥の方で外科の医者と看護婦さんたちが騒いでいた。
僕らのグループの最上級生の6年生は、1外の方々に挨拶に行っていた。「お前も言って来い!」と言われるまま、
僕は挨拶に行き、そこで呑んだ。
気が付いたら、結構、夜も更けていて、僕は「ところで、お前、誰?」とか言われてた時には、
最初に呑んでた友人も運動部のメンバーも皆、帰っていて、僕1人だけ、1外の人達と呑んでいた。
1外のスタッフは、普段、ハードな仕事なので、飲み方も豪快だった。
忙しさやストレスと、飲み会の発散の仕方は正比例すると思う。
救命救急の飲み会に参加したことがあるが、そこでは「パイ」が飛び交っていた。ケーキのパイである。
看護婦さん達が、医者の顔面めがけて「パイ」をぶつけるのだ。普段の憂さ晴らしなのか?
こうやってバランスをとってるのか、と興味深く、上級医の顔に付く生クリームを観察した記憶がある。
話は戻るが、僕は1外の飲み会に最後までつきあい、病院の近くに住むナースの家に皆で雑魚寝したのであった。
医者や看護婦は偉いもので、あれだけ呑んで騒いでも、翌日、休まないのだから。
それに比べて学生は、僕などは、甘いのだ。
そう、僕が目をさましたその部屋は、1外のナースのアパートだったのだ。
彼女は、僕に、「将来、何科に行くの?」と聞いた。僕は、「精神科」と答えた。
彼女は、「プシコ?意外ね。外科にしたら?」と真顔で言った。
当時は、都内でも郊外は畑などがあって、僕は彼女のアパートから学校に行く路を教わって、あぜ道のようなところを歩いて行った。
すると、向こうから畑仕事を終えた、おばあさんとすれ違ったりして、僕は何か後ろ暗い気分にさせられた。
僕が、彼女にあったのはそれっきり。
医学生が病棟のナース・ステーションに顔を出すのはそんなにおかしなことでもなかった。
それに泊めていただいたお礼を言いに行くのは、むしろ人間として当たり前なのかもしれなかった。
正直、何度か、会いに行こうかな、という誘惑と戦った。だけど、僕は行かなかった。
もう1度、彼女と会ったら、僕は自分の描いている人生の線路が違う方向に行ってしまう危険を予感していたのだ。
BGM. 市川染五郎「野バラ咲く路」


まっしろ

15/Ⅰ.(火)2013 晴れ、雪が残る
昨日は大雪でしたね。今朝、近所の中学の前を通ったら、校庭がまっしろでした。↓。

僕は、こう見えても、昔は運動神経が良くて、特にイレギュラーなルールなもの程、力を発揮しました。
「スポーツ」がルールを厳格に守るものだとしたら、やってる最中にルールが変わるのが「遊び」ですね。
僕は後者の方が好みで、だから観戦するのもボクシングよりプロレスが好きでした。
高校の体育の授業で柔道がありましたが、僕は隙あらば「コブラツイスト」や「卍固め」を狙っては体育教師から「指導」を受け、
クラス対抗戦では、「反則負け」を食らいました。その時に相手にかけた技は、「回転揺り椅子固め」でした。
もっと子供の頃は、「三角ベース」や「ポコペン」や「水中騎馬戦」などはほぼ無敵。
中でも、悪天候だと、それを専門にしてる人より上手かったです。
ぬかるみでは、陸上部の奴より早く走れました。
僕は、雪の中でも早く走れたから、雪中野球なんかは大得意でした。
雪の日の野球はいいですよ。ヘッドスライディングしても痛くないしね。隠し玉とか引っ掛かりやすいし。
下は、雪の日に勢い勇んで、グラブ片手に家を出る、小学生時代の僕のスナップ。↓。

父親が撮影したもの。おそらく自身に欠けている物を我が子に見つけ、記録せずにはおられなかったのだろう。
黄色いドットは、当時の鍋焼きうどんの染み。
今でも、人さえ集まれば野球をやりたいな。雨天決行。雪なら大喜び。そんなことを思った初雪の翌朝でした。
BGM. 小倉優子「まっしろ」


偲ぶ会

13/ⅩⅡ.(木)2012 くもり
今年は年の瀬になり、中村勘三郎が亡くなったり、森光子の葬儀が行われたり、追悼プログラムが多いですね。
先日、徳田さんとお昼を食べに近くの中華料理屋に行った時も、お店のテレビではお昼のワイドショーを流していて、
中村勘三郎の歌舞伎の映像や、森光子の葬儀に列席する芸能人の数々を映し出していました。
僕が、<あっ、ヒガシだ。おっ、SMAPも来てるよ>と反応すると、
徳田さんは「ジャニーズは全員参加じゃないですか?」
と冷静だった。僕らは、今年は色んな人が死んだね、とか、知り合いでも死んだ人がいたっけね、と1年を振り返った。
当たり前のことですが、こうゆう有名人の死は連日メディアでとりあげられますが、一般人の死はひっそりとしたものです。
昔、爆笑問題の本で『死のサイズ』というのがあって、著名人の新聞における死亡記事の大きさをランキング付けしたもので、
死の報道が大きければその人は偉大なのか?、という問いを読者に投げかけるもので興味深かったです。
命の重さに違いはないのにね。
まぁ、そういう難しい話はまたの機会にして、今日のテーマにしたいのは、「故人を偲ぶ会」、についてです。
「故人を偲ぶ会」とはお通夜や告別式とは別で、亡くなってから少し間が空いてから行われる会のことで、
僕はそれへの正しい参加の仕方がいまだに良く判らなくて、どう立ち振る舞うかを悩みます。
あんまり陰気でもよくないし、ふざけすぎると怒られるし。難しいな。
僕が大学に入ってすぐ、高校の同級生が亡くなった。
そいつと僕は仲が良くて、浪人時代は同じ予備校に通って、隣の席に座って授業を聞いていた。
そいつは僕より頭が良くて、背も高くて、いつも落ち着いていて、真面目な男で、真面目すぎる所が逆に面白い位で、
大人で、だけど、若々しさに欠けていたとも言えるな。だから早死にしたのかな。
そいつが死んで、少しして高校の時の仲の良い5人だけが、自宅に招待された。
家にはそいつのお母さんとお姉さんがいた。
それが僕らの人生初の「故人を偲ぶ会」だった。
この時は大変だった。
僕らはまだ高校を出たばかりで、どんな格好をしていけばいいのかも誰も判らなかった。
前日に、僕らはゆかりの地である御茶ノ水に集まってミィーティングをした。
なぜ僕らだけ招待されたのか?
ご家族は何を望んでいるのか?
僕らはどんな顔をして、何の話をすればいいのか?
話してはいけないことはあるのか?
お姉さんが美人って本当なのか?
それはこの際、関係ないだろう?
でも、美人らしい。
結局、服装は普段通りで行こう、ということしか決まらず、その日は散開した。
僕は今思っても、結構、真剣に自分の役割とかを考えたと思う。
そうして、僕は「偲ぶ会」用に2つのネタを思いつき用意した。
「偲ぶ会」は想像したより明るい空気で進行した。
向こうのお母さんとお姉さんが僕らをとても良くもてなしてくれたからだ。
みんなのする高校時代の想い出話を、お母さんとお姉さんは<へ~、そうなんだ>とにこやかに聞いていた。
すると思いついたように、お姉さんは、予備校時代はどうだったのか?、と質問してきた。
今だ!
僕は1つ目のネタを出す。
鞄に仕込んでおいた‘エロ本’をテーブルの上に置き、<借りたまま、返せなかった本です>と姉に差し出した。
一緒にいた奴らは、びっくり仰天した顔をして、中には「馬鹿!やめろ!」と怒ってる奴もいた。
だが、時すでに遅し。
お姉さんは、‘エロ本’を手に取って、1枚1枚、丁寧にページを繰って、じっくりと見て、不意に一粒の涙が頬をつたうと、
ポーンとテーブルの上に‘エロ本’を放り投げて、「な~んだ、あの子、こんなの持ってたんだぁ」と、嬉しそうに笑った。
その優しげな笑顔に、一同胸を撫で下ろした。
それでハードルが下がったんだろう、みんなは高校時代の馬鹿話に花が咲いて、やがて暴露合戦みたいになり盛り上がった。
そして時間はアッと言う間に過ぎて、そろそろ、おいとまに。しかし、僕にはもう1つネタがある。ここがタイミングだ。
<あの~、僕、あいつに2千円、貸してて、返して貰ってないんですけど…>。
またもや一緒にいた奴らは、びっくりした顔をして、中には「馬鹿!やめろ!」と怒る奴もいたけど、すぐさま、お母さんが
「あら、ごめんなさい。もう、あの子は借りっ放しね。他にはいない?」と財布からお金をくれた。便乗する者はいなかった。
そして僕らは、お母さんとお姉さんの笑顔に見送られて、最寄駅へと向かった。
僕はみんなに、<牛丼でも、おごろうか?>と言ったけど、みんなは「その金じゃ食えないよ」と口を揃えて言った。
その日の僕の成績は、現金2千円のプラスと、‘エロ本’1冊のマイナスだった。
この2千円の正しい使い途は、どう考えても‘エロ本’だろう。当時、御茶ノ水には有名な‘エロ本屋’があった。
僕はみんなにそこに行こう、と提案した。みんなは、ブツブツ文句を言いながら、渋々、後について来た。
そして、結局、なんだかんだ言って、みんな1冊づつ、買うことになった。
「これも供養だ」と合理化する奴もいたが、僕も<その通りだな>と思ったし、それに今でもそう思う。
皆さんは、「故人を偲ぶ会」について何か考えたことがありますか?。
今の僕は、もし誰かを「偲ぶ会」に呼ばれたとしても、当時と同じ手は使わないと思います。
BGM. 岡田奈々「らぶ・すてっぷ・じゃんぷ」


親切

30/ⅩⅠ.(金)2012 寒い
今日で11月もおしまい。もう明日からは12月ですよ。
歳を取ると、1年は早いものだと言いますものね。
こないだ、父の歌の本を紹介したので、今日は母にします。
母の誕生日も11月だったから。11月の最後の日に親孝行。
これは、母の最初の歌集「あしたの風」。↓。

僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。
1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、
母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
「著作権の侵害だ!」、みたいに。正確には意味が違うけれど、言わんとしてるニュアンスは判るでしょう?。
僕は比較的若くして結婚して、妻がいて、子がいて。
母はどんな気持ちで、僕と妻に手紙を寄こしたのだろう。
封筒の宛名には必ず、僕と妻の両方の名前が書いてあった。
僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかったのにな。
そう遠くもないんだし。
そして、これが第二歌集にして遺歌集「海桐花さく道」。↓。
海桐花は、とべら、と読みます。海岸に咲く花ですね。
さて、問題です。
この表紙の絵、どこかで見覚えはありませんか?。※正解は、この記事のラストに。


本を開くと、まず始めに「自宅前にて」というタイトルで、母の写真が著者紹介として載っています。
良い表情をして綺麗な訪問着を着て写っているのでこの写真を選んだのですが、
しかし、これは「自宅前にて」ではなく、よその御宅を訪問した時に、その玄関先で撮って頂いた写真なのです。
校正のミス。
この本は、関係者にはお配りしたので、その御宅にも当然、贈らせて頂いた。
きっと、開けて、ビックリされただろうな。だって、自分家が知らぬ間に知人の「自宅」になってるんだから。
あわてて、権利書、確認したりして。なんて、すみません。素人が急いで作ったものなので。失礼しました。
この本の、「あとがき」は僕が書いています。兄がそう言うもので。
母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。
罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
でも、それで誰かが損をするとか、他人に迷惑をかけると言うのでなければ、責められる筋合いでもないはずだ。
自己満足だって自覚してる分、無自覚な善人よりは無害なんじゃないかな?。完全に開き直りだ。
つまり、なんだな、まぁ、これからは、縁のある人には、出来る限り、親切にしようと思った訳です。
口先だけ、みたいに聞こえるかもしれないけれど、なるべく、そうしようと努力するつもり。
BGM. 大上留利子「嫌われ者の恋」
※文中の問題、表紙の絵の答えは、心理相談室の額縁の絵でした。↓。


父は、にわとり。唯も、にわとり。

27/ⅩⅠ.(火)2012 超、寒い
今日、11月27日は亡き父の誕生日だ。と言うことは、「けいおん」の平沢唯のバースディでもある。
と言うことは、ってのもおかしな言い回しだが。
父は11月生まれだが、亡くなったのも11月。
命日は、11月8日。ちなみに亡き母の誕生日は、11月5日。11月は気忙しい。
父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。
母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。
父は、大正10年生まれで、その頃の人は皆、多かれ少なかれそうだったのだろうが、複雑な背景があり、
北海道や満州などにいて、満州では医大にも通っていたそうで、最終的に真逆な環境の温暖な茅ヶ崎に居を構えて、
僕はそこで生まれ育った。
これが父の歌集で、人生の前半を連想させる「北の樹木」。↓。

これが、人生の後半を連想させる、つまり僕が生まれ育った、「海光る町」。↓。

これらは今も僕の診察室の後ろの本棚に飾ってあり、僕をバックアップしてくれている。↓。

本の手前に「にわとり」型のセロテープがあるのは、父が「にわとり」年だったから。
そう言えば、平沢唯も「けいおん部」の新歓のビラを配る時、にわとりの着ぐるみを着ていたな。
そのフィギュアどっかで、見たぞ。買おうかな。


エヴァQはどこでみる?

17/ⅩⅠ.(土)2012 雨、昨日よりは暖かい(マシ)
いよいよ今日からエヴァQが公開ですね。
昨日の金曜ロードショーで、少し流していましたが、よく判りませんでしたね。
映画に合わせて、至る所でエヴァ関連の商品を目にしますね。
「目にしますね」に引っ掛けて、綾波レイの目薬です。↓。


これはTVCMで、目にした方も多いでしょう。アスカのもあります。
下は、渚カヲルver.。こっちの方が値段が高いです。↓。


それから、エヴァはサンリオともコラボして、くじをやっています。
これは、綾波とキティちゃんの合体小物入れ。↓。


さて、キティちゃん豆知識。
キティちゃんの名前の由来は、「不思議の国のアリス」のアリスの飼い猫の名前だそうです。
小学校の同級生の女子の家に遊びに行った時、サンリオの「いちご新聞」というのを彼女が持っていて、そこに書いてあった。
彼女の名前はメグちゃんと言って、当時、「魔女っ子メグちゃん」というアニメが流行っていて、それで良く覚えているんだ。
とてもチャーミングな女の子だったな。
僕は本気で、<この子は将来、芸能界にスカウトされるんじゃないか?>と思っていた。
でも、そんな幻想は中学に入ると吹き飛んだ。
僕の中学は男子校で、皆が自分の小学校には将来アイドル候補の女子がいる、と自慢し合っていたのだから。
毎日、会ってると可愛く見えちゃうんだよな、それに世界も狭かったしね。
そうそう、キティちゃんだ。
確か、「鏡の国のアリス」の冒頭で、「不思議の国のアリス」に登場したアリスの飼い猫のダイナが子供を生んで、
その名前がキティだと書いてあった気がする。
興味のある方は確認してみて下さい。違ってたら、ゴメン。
話をエヴァに戻しましょう。映画はしばらく混んでいるんだろうな。
明日は無理でも、月曜日は平日だから観れるかな?
誰かが平和島の映画館なら、どんな人気映画でもガラガラですよ、と教えてくれたから、平和島に行ってみようかな。
平和島と言えば、昔、女友達が住んでいた街だ。
彼女はタレントに喩えると浅香唯に似ているとてもチャーミングな人だった。
僕が出合った3次元の女子の中では、メグちゃんと双璧をなしていた。
平和島の子の名前はMとしよう。Mはイニシャル。
Mはそんな美人なのに中味は男っぽくて、総合格闘技が好きで、部屋に桜庭のフィギュアを飾っているって自慢していた。
Mはお酒も強くって、僕らが2人で呑むと日本酒の一升瓶なんかすぐカラになった。
だけど、Mはやっぱり女の子っぽい面もあってピアノが上手だった。
Mの好きな音楽はRCサクセションで、彼女は忌野清志郎のファンだった。
僕とMの趣味は似ていて、とても馬が合った。
そんなMでも、アニメには理解がなく、
「あれは変態が観るものでしょ?。川原君、しっかりしよう!」などと言われた。
散々な言われようだよ。
だけど、当時はそんな時代だったな。良い時代になったよ。
だから総合格闘技の大会で桜庭がエヴァのマスクを被って、エヴァのBGMで入場してくれたお陰で、Mの誤解は解けた。
桜庭が日本の総合格闘技界に与えた影響が大きいことは誰も疑わないが、アニメへの偏見を払拭した功績も大きいと思う。
少なくともMと僕にとってはね。
Mが今頃、何をしているのか僕は知らない。
それは彼女が結婚するという話を聞いて、なんとなく連絡をとらなくなったから。
もう、平和島には住んでないんだろうな。
桜庭が新日の1・4東京ドーム大会で中邑真輔のIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦することどう思ってるのかな?
僕は楽しみにしてるよ。
桜庭は、今でも、エヴァのコスチュームで登場して頑張っているよ。
やっぱ、エヴァQは平和島に観に行くことにしようかな。

BGM. 杉田二郎「君住む街」


今日は文房具の話。

15/ⅩⅠ.(木)2012 くもり寒い
僕が普段の診察で使っているのは「BIC」のボールペン。
まとめ買いしてるので、一本当たりの単価は31円なり。↓。

昔、僕が勤めていた病院は、幾つもの大学から医者が派遣されて来ていて、
精神科ではとても有名な先生が何人もいて、とても勉強になった。
そこは500床くらいベッドがあり、各病棟には診察をするスペースがいくつも用意されていて、
診察をとても大切にする治療環境が整っていた。
診察テーブルにはペン立てがあり、常時、何本かのボールペンが入ってて、僕は主にそれを利用していた。
しかし、色々な医者がいるもので、文房具にこだわりを持つ人も少なくなかった。
「マイ・ボールペン」を白衣の胸ポケットにさしている人もいた。
むしろ、そういう人の方が多かったかな。
備え付けのペンを使用してるのは僕くらいだったかもしれない。
さっきも言ったけれど、その病院には色々な大学から医者が集まっているから、
皆がライバルで、切磋琢磨していた訳で、そんな僕の言い分は、
<カルテに書く道具でなくて、カルテに書く内容で勝負だ>
と思っていた。ま、言い訳だが。
ある日の僕は診察室で、床に万年筆が落ちているのに気がついた。
僕はそれを拾い、その万年筆でカルテの記載をしていたら、
急に別の病棟から呼び出され、
僕は急いで書き途中のペンを白衣の胸ポケットにしまって速やかに移動した。
数日後、医局(医者の集まる、学校で言う職員室のような部屋)で僕が書き物をしていたら、
気がつくとある偉い先生が僕の書く文章をもの凄い気迫で凝視していた。
僕は、<こんな偉い先生に注目されるなんて俺の腕もまんざらじゃないな>
といい気になっていた。
僕が書類を書き終えると、その先生は、「川原君、随分と高級な万年筆を使っているものだね」
と話しかけてきた。
僕は、<あぁ、これですか?。書きやすいんですよ>と答えた。
すると、その先生は、「高かっただろう?」と聞いてくる。
僕は正直に、<これは●●病棟の診察室で拾ったんですよ>と答えると、
途端にその先生は万年筆をひったくるようにして、
「これは私のだ~!。●●病棟でなくしてから、ずっと探してたんだぞ~!」
と真っ赤になって興奮して叫んでいた。
僕があっけにとられていると、その先生は正気に戻って、
「いや、見つけてくれて礼を言う。ありがとう」と頭を下げて、
人目もはばからず、愛おしそうに「マイ・万年筆」を撫でていた。
その先生とその万年筆の間にどんな感動的なドラマがあったのかを僕は知らない。
興味ないもの。
道具で思い出したのだが、王選手とかイチローなどの一流のバッターは、
これまた一流のバット職人にカスタムメイドの注文をして、
精密にバットをこしらえるらしい。
その工程をテレビで見たことがある。
重心の位置や、グリップの太さや、重さはグラム単位、それがプロのこだわりで、
それが偉大な記録を生み出すのだ。
それの対極にいるのが長嶋茂雄かもしれない。
長嶋の逸話はあまたあるが、どれが事実でどれが作り話なのか良く判らない。
僕が好きな話は、長嶋は家に自分のバットを忘れてきてしまい、
試合では土井だか黒江だかのバットを借りて打席に立ち、
他人のバットで劇的なホームランをかっ飛ばして試合を決めたという。
弘法は筆を選ばず、とはこのことだ。
僕も長嶋茂雄のスタイルにあやかろう。
だって、その方が断然、カッコ良いもの。
万年筆じゃない。BICで行こう!。