エヴァQはどこでみる?

17/ⅩⅠ.(土)2012 雨、昨日よりは暖かい(マシ)
いよいよ今日からエヴァQが公開ですね。
昨日の金曜ロードショーで、少し流していましたが、よく判りませんでしたね。
映画に合わせて、至る所でエヴァ関連の商品を目にしますね。
「目にしますね」に引っ掛けて、綾波レイの目薬です。↓。


これはTVCMで、目にした方も多いでしょう。アスカのもあります。
下は、渚カヲルver.。こっちの方が値段が高いです。↓。


それから、エヴァはサンリオともコラボして、くじをやっています。
これは、綾波とキティちゃんの合体小物入れ。↓。


さて、キティちゃん豆知識。
キティちゃんの名前の由来は、「不思議の国のアリス」のアリスの飼い猫の名前だそうです。
小学校の同級生の女子の家に遊びに行った時、サンリオの「いちご新聞」というのを彼女が持っていて、そこに書いてあった。
彼女の名前はメグちゃんと言って、当時、「魔女っ子メグちゃん」というアニメが流行っていて、それで良く覚えているんだ。
とてもチャーミングな女の子だったな。
僕は本気で、<この子は将来、芸能界にスカウトされるんじゃないか?>と思っていた。
でも、そんな幻想は中学に入ると吹き飛んだ。
僕の中学は男子校で、皆が自分の小学校には将来アイドル候補の女子がいる、と自慢し合っていたのだから。
毎日、会ってると可愛く見えちゃうんだよな、それに世界も狭かったしね。
そうそう、キティちゃんだ。
確か、「鏡の国のアリス」の冒頭で、「不思議の国のアリス」に登場したアリスの飼い猫のダイナが子供を生んで、
その名前がキティだと書いてあった気がする。
興味のある方は確認してみて下さい。違ってたら、ゴメン。
話をエヴァに戻しましょう。映画はしばらく混んでいるんだろうな。
明日は無理でも、月曜日は平日だから観れるかな?
誰かが平和島の映画館なら、どんな人気映画でもガラガラですよ、と教えてくれたから、平和島に行ってみようかな。
平和島と言えば、昔、女友達が住んでいた街だ。
彼女はタレントに喩えると浅香唯に似ているとてもチャーミングな人だった。
僕が出合った3次元の女子の中では、メグちゃんと双璧をなしていた。
平和島の子の名前はMとしよう。Mはイニシャル。
Mはそんな美人なのに中味は男っぽくて、総合格闘技が好きで、部屋に桜庭のフィギュアを飾っているって自慢していた。
Mはお酒も強くって、僕らが2人で呑むと日本酒の一升瓶なんかすぐカラになった。
だけど、Mはやっぱり女の子っぽい面もあってピアノが上手だった。
Mの好きな音楽はRCサクセションで、彼女は忌野清志郎のファンだった。
僕とMの趣味は似ていて、とても馬が合った。
そんなMでも、アニメには理解がなく、
「あれは変態が観るものでしょ?。川原君、しっかりしよう!」などと言われた。
散々な言われようだよ。
だけど、当時はそんな時代だったな。良い時代になったよ。
だから総合格闘技の大会で桜庭がエヴァのマスクを被って、エヴァのBGMで入場してくれたお陰で、Mの誤解は解けた。
桜庭が日本の総合格闘技界に与えた影響が大きいことは誰も疑わないが、アニメへの偏見を払拭した功績も大きいと思う。
少なくともMと僕にとってはね。
Mが今頃、何をしているのか僕は知らない。
それは彼女が結婚するという話を聞いて、なんとなく連絡をとらなくなったから。
もう、平和島には住んでないんだろうな。
桜庭が新日の1・4東京ドーム大会で中邑真輔のIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦することどう思ってるのかな?
僕は楽しみにしてるよ。
桜庭は、今でも、エヴァのコスチュームで登場して頑張っているよ。
やっぱ、エヴァQは平和島に観に行くことにしようかな。

BGM. 杉田二郎「君住む街」


今日は文房具の話。

15/ⅩⅠ.(木)2012 くもり寒い
僕が普段の診察で使っているのは「BIC」のボールペン。
まとめ買いしてるので、一本当たりの単価は31円なり。↓。

昔、僕が勤めていた病院は、幾つもの大学から医者が派遣されて来ていて、
精神科ではとても有名な先生が何人もいて、とても勉強になった。
そこは500床くらいベッドがあり、各病棟には診察をするスペースがいくつも用意されていて、
診察をとても大切にする治療環境が整っていた。
診察テーブルにはペン立てがあり、常時、何本かのボールペンが入ってて、僕は主にそれを利用していた。
しかし、色々な医者がいるもので、文房具にこだわりを持つ人も少なくなかった。
「マイ・ボールペン」を白衣の胸ポケットにさしている人もいた。
むしろ、そういう人の方が多かったかな。
備え付けのペンを使用してるのは僕くらいだったかもしれない。
さっきも言ったけれど、その病院には色々な大学から医者が集まっているから、
皆がライバルで、切磋琢磨していた訳で、そんな僕の言い分は、
<カルテに書く道具でなくて、カルテに書く内容で勝負だ>
と思っていた。ま、言い訳だが。
ある日の僕は診察室で、床に万年筆が落ちているのに気がついた。
僕はそれを拾い、その万年筆でカルテの記載をしていたら、
急に別の病棟から呼び出され、
僕は急いで書き途中のペンを白衣の胸ポケットにしまって速やかに移動した。
数日後、医局(医者の集まる、学校で言う職員室のような部屋)で僕が書き物をしていたら、
気がつくとある偉い先生が僕の書く文章をもの凄い気迫で凝視していた。
僕は、<こんな偉い先生に注目されるなんて俺の腕もまんざらじゃないな>
といい気になっていた。
僕が書類を書き終えると、その先生は、「川原君、随分と高級な万年筆を使っているものだね」
と話しかけてきた。
僕は、<あぁ、これですか?。書きやすいんですよ>と答えた。
すると、その先生は、「高かっただろう?」と聞いてくる。
僕は正直に、<これは●●病棟の診察室で拾ったんですよ>と答えると、
途端にその先生は万年筆をひったくるようにして、
「これは私のだ~!。●●病棟でなくしてから、ずっと探してたんだぞ~!」
と真っ赤になって興奮して叫んでいた。
僕があっけにとられていると、その先生は正気に戻って、
「いや、見つけてくれて礼を言う。ありがとう」と頭を下げて、
人目もはばからず、愛おしそうに「マイ・万年筆」を撫でていた。
その先生とその万年筆の間にどんな感動的なドラマがあったのかを僕は知らない。
興味ないもの。
道具で思い出したのだが、王選手とかイチローなどの一流のバッターは、
これまた一流のバット職人にカスタムメイドの注文をして、
精密にバットをこしらえるらしい。
その工程をテレビで見たことがある。
重心の位置や、グリップの太さや、重さはグラム単位、それがプロのこだわりで、
それが偉大な記録を生み出すのだ。
それの対極にいるのが長嶋茂雄かもしれない。
長嶋の逸話はあまたあるが、どれが事実でどれが作り話なのか良く判らない。
僕が好きな話は、長嶋は家に自分のバットを忘れてきてしまい、
試合では土井だか黒江だかのバットを借りて打席に立ち、
他人のバットで劇的なホームランをかっ飛ばして試合を決めたという。
弘法は筆を選ばず、とはこのことだ。
僕も長嶋茂雄のスタイルにあやかろう。
だって、その方が断然、カッコ良いもの。
万年筆じゃない。BICで行こう!。


蛇と少女~千石撫子等身大ポップ

19/Ⅹ.(金)2012 くもり寒い
中野の「まんだらけ」で千石撫子(せんごくなでこ、以下なでこ)の等身大ポップが売っているという情報を入手。
先日、買ってきた。
それは西尾維新の「囮物語」の宣伝用に書店店頭に設置されていたポップ・スタンドである。↓。

なでこの性格は内気で恥しがり屋。
だから対人恐怖症みたいに前髪をひさしのように垂らし、帽子を深く被っている。
アニメ「化物語・なでこスネイク」の主題歌「恋愛サーキュレーション」は、恥しがり屋のなでこにラップを
歌わせてしまおうというアイデアで、そんな無茶振りに対してなでこは健気に歌い出しに「せ~の」と小声で
言ってるところが可愛らしいのだが、この子は蛇を大量に殺戮している実は恐ろしい面も持っている子であり、
そのギャップが萌えポイントのようだ。
下が、千石撫子がアニメ「化物語」に初登場した時のスタイルを再現したフィギュア。3種類を並べてみた。↓。

蛇で思い出したのだが、大学生の頃、蛇杖(へびづえ)をついて学校に行ったら、偉そうな先生に怒られたことがあった。
そんな物を学校に持ってくるな、と言う言い草なのである。
僕は大学生になってまで、持ち物を注意する人間がいることに呆れた。
まぁ、向こうも僕と同様、もしくはそれ以上に呆れていたのだろうが。
僕は反省文のようなものを書かされることになり、くやしいので桃井かおりの映画「もう頬づえはつかない」のパロディで
「もう蛇杖はつかない」とたった一行だけアンニュイな反省文を提出してやったら、偉そうな先生は元ネタを知らなかったらしく、
「もう蛇杖はつきません、だろう?!」と添削されてしまった。ギャフン!。
我校では卒業式に「ヒポクラテスの誓い」というのを暗唱する風習があるのだが、後で知ったことなのだが、
ヒポクラテスの師匠筋にギリシャの医神アスクレピオスという神様がいて、その神様のトレードマークが蛇杖なのだ。
杖は木・樹木、すなわち生命をあらわし、蛇は知恵を意味するから、蛇杖は医学を象徴するらしいのだ。
もっと早く知ってればな。
あの偉そうな先生に、「ひかえろ!、この蛇杖を誰だと思う。
アスクレピオス様だぞ」と助さん格さんみたいに啖呵を切れたのに。
ま、切らなくて良かったけど。
この蛇杖は僕がタイに旅行に行った時に、当地で大変気に入ってお土産にと20本くらいまとめて買い込んだのだ。
僕は蛇杖の束を抱えて、帰りの飛行機に乗ろうとしたら、ハイジャック犯か何かと間違えられ、警備員数人に取り囲まれた。
そのお陰で、僕らを乗せる飛行機の出発を数十分、遅れさせた思い出がある。
蛇杖は今も一本だけ残っていて、クリニックの入り口の傘立て付近に置いてあります。
良かったら探してみて下さい。
閑話休題。
何故、なでこが蛇を大量に殺したかと言えば、そもそもは恋愛事から逆恨みされて、中学生の間で流行していた
呪いのおまじないをかけられたからで、それを封じるための対処策としてであった。
しかし、それが災いして結果として、なでこは蛇の怪異にとりつかれて、縄のように二匹の大蛇に体を縛られてしまった。
主人公達の力を借りて助かるのだが、その儀式の時に蛇が見えるように肌を露出させるため、水着姿を披露している。↓。

「化物語」シリーズは、続編の「偽物語」もアニメ化され、なでこはそれにも登場する。
この時は怪異から解放されてか、別の理由でか、ピンクのカチューシャで前髪を上げ、おでこを出して変貌ぶりを見せ付けている。
どの位、変わったかを較べてみましょう。
まずは、下が「化物語」プレミアフィギュアくじC賞の千石撫子。前髪をたらしてる。↓。

そして、下が「偽物語」プレミアフィギュアくじC賞の千石撫子。前髪を上げている。↓。

そして、これが「偽物語」のなでこ小さいver.↓。

そして、これが「偽物語」のなでこキーチェーン。↓。

話をポップに戻します。これにはセンサーがついていて、近付くとなでこがそっと囁きかけてくれる仕組みになっています。
何と囁くかと言うと、「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」です。↓。

このポップは相談室の扉を開けた正面の壁に立て掛けてあるのだが、結構奥行きがあり、出っ張って通路を狭くしてるから、
だから普通に廊下を素通りしても、ポップのギリギリ前を歩くことになって、するとたちまちセンサーが反応して、
「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」
「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」
「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」
と何度も連呼されて、その囁きの音量がまたデカくて、囁きのくせに大音響で廊下中にこだまするので、
相談室のカウンセリングの邪魔になって、徳田さんに怒られそうなので、普段はスイッチをoffにしています。
もし、なでこのウィスパー・ボイスを生で耳にしたい人はスタッフに要請して下さい。
スイッチをonにしてくれるでしょう。
そんなことを頼んで変な奴だと思われないかと心配しているあなた、安心して下さい。
スタッフはすでに僕で免疫がありますから。
勇気を出して、そっとスタッフに頼んで下さい。
千石撫子も勇気を出しておしゃべりしてくれます。↓。

人間って人それぞれだなぁ、と思うのは、徳田さんはこのポップを見て、作者の西尾維新がローマ字にすると、
どっちから読んでも、‘NISIOISIN’だということにある種の感銘にも似た驚きを抱いていたことで、でも本当だ。
徳田さん、よく気付いたね!。↓。

最後に全然関係ないけれど、これが蛇杖。↓。

BGM. 千石撫子(花澤香菜)「恋愛サーキュレーション」


レモン

30/Ⅷ.(木)2012 晴れ
ハワイ旅行に行くにあたって、何か書きかけのノートでもないかと漁っていたら、古い日記を見つけた。
ノートの始め2頁くらいしか使っていない。あとは、まっさら。丁度いい、これをワイハに持っていこう。
行きの飛行機でそのノートブックに目を通してみる。昔、どんなことを書いていたか気になったから。
そこには、どうやら友人の主催した合コンが舞台で、そこで知り合った女子とのやりとりが記載されていた。
よほどインパクトがあったんだろうな、読んでて思い出したもの、その子のこと、<いたなぁ~>、って。
その子との第一次接近遭遇の模様は以下のようである。
女「あなたは人を外見で判断すると思ってる」
僕 <そんなことない。僕は決してそんなことはないよ。人からもそんな風に言われたことはない>
女「そうじゃなくて。
  人がみんな外見で判断すると思ってるでしょう?。でも、そんなことはないわ。ダイジョーブよ」
僕 <(何のこっちゃ?)>
女「コンプレックス!」
こいつはよほど俺がモテないと思ってるのだろうか?。
と、日記には記されていて、この会話の後も、彼女はフェミニズムみたいなことを延々と喋っていて、
僕はその場で、「レモンちゃん」というあだ名をつけている。由来は落合恵子、『くれよんハウス』の。
落合信子じゃないからね、念のため、信子は落合博満夫人。
僕は、その後、それでも数年はレモンちゃんとたまに長電話などをしたりする仲だった。
僕の国家試験のための勉強が本格的になり、レモンちゃんも社会人になり、お互い忙しくなって、連絡が途切れた。
今、こうして思い返してみるとレモンちゃんって、ちょっと痛い子だったな。
でも、不思議と気が合ったんだよな。
あっ、別に不思議じゃないか。レモンちゃん、元気かな?。
ちなみに日記の日付は、’88.4.22(F)となってる。24年前のノートを再利用なんてすごいな。
BGM. ザ・スパイダース「ノーノーボーイ」


スランプ

25/Ⅳ.(水)2012 晴れ、暖かい
そもそもの始まりは、「巷では院長はブログをやるものらしい」と聞いたからで、
<しまった、そうだったのか?>とお調子者みたいに始めたのがきっかけだった。
通常の院長ブログは、医療の啓蒙的な普及や、診療のインフォメーションだったり、
世間を賑している現象を精神医学的な角度から解説するものが好まれる姿のようだが、
僕は自分の好きなことや見て来たものをつらつらと書いている。
すなわち、自ずと僕自身のパーソナリティーをさらしてるようなものだ。
知り合いからは、「よく、あそこまで自己開示できるね」、と感心されたり、驚かれたり、
リスペクトされたり、畏れられたりする。
反応は様々だけれど、底辺に流れている共通した認識は、呆れている、という感情みたいだ。
それでも、物を書くというのは、僕にとっては自分の心身の健康に良いらしく、
毎回、自分の趣味に皆さんを付き合せているのも気がひけるので、穏やかな季節におだてられ、
ちょっとした出来心で「桜」の写真を撮影して、手抜きした記事を3回くらい連続で載せたりしました。
そうしたら、案外、その反響が良くて、コメントも普段の3倍くらいあって、ビックリしました。
冗談で徳田さんに、
<渾身の力を込めて書いた「格闘技」とか「落語」の記事より、「桜」の写真の方が上、って書く気なくすな>と、
言ったら、言葉というのは力があるんですね、言霊とは良く言ったもので、本当に何も書けなくなってしまったのです。
書きたいと思ってた記事は幾つもあるんだけれど、
たとえば「しょこたんバスツアー」とか「北山修と杉田二郎のコンサート」とか「志らくの落語独演会」とか、
「書きたい~want」内容がいつのまにか「書かねばならない~must」とか「書くべきこと~should」になっていて、
宿題みたいで、途端にペンが進まなくなってしまったのです。
ブログ開始以来、初のスランプです。
じゃ、なんで、今書いているのかというと、
「でしたら、そのまま書けないということを、ブログに書いたらいいんじゃないですか?」と徳田さんに言われたからで。
<なるほど、そうしよう>と思って。
言いなりみたいで、シャクだけど。
今はまた時期も悪くて、やらなきゃいけないことが沢山あって、
たとえば「新しいナゾナゾを作る」とか「ホームページ用のカウンセリングの新しいお知らせを作る」とか
「薬のアンケート調査」とか「クリニックでかける新たなBGMの選曲」とか。
昔、試験直前にマンガを読んでる奴がいて、<お前、そんなんでいいの?>と聞いたら、
そいつは「何もやることがないんだよ」と笑顔で答えるのだけれど、
よく聞いたら、そいつは何も勉強をしていなくて、「何から手をつけていいのかわからない」ことを、
「何もすることがない」こと、と錯覚していたのだった。
<とりあえずここだけは出るから丸暗記しときな>と教えてやったことがあったけれど、今の僕はそいつの心境に近いかも。
悪いことに、そういう時は色んな方面にも波及して、気候も悪いでしょ、疲れるし、スタッフの入れ替わりも激しくて、疲れるし、
テレビや新聞は嫌なニュースしか流さないから、疲れるし、
そういえば「疲れる」って言葉と「憑かれる」って言葉は語源が一緒だから、「疲れた~」って言わない方がいいよ、「憑かれるから」。
そういう時は、「くたびれた~」って言った方がいいよ、と大昔、オカルト研の女子に教わったことがある。
それにしても世間の大人はどうかしてるな。
特に40代、50代が酷いな。
まだ若い子の方がちゃんとしてるよ。
40代、50代ってオレの世代だ。
イヤだな、あんな奴らと一緒にくくられるの。
世の中の「普通」の基準とか、社会のシステムとかルールや決め事が馬鹿げてることが多すぎるよ。
若い子はいいな、「人間嫌い」とか「大人不信」とか言えるから。
僕がそんなことを言ったら、良くて「同属嫌悪」、そもそもそれらを作ったのも僕らの世代の責任だから、
結局は「自己否定」とか「自己嫌悪」にしか行き着かない。
あっ、でも、悪くても、しっぺ返しか。
オカルト研じゃないけれど、僕はスランプの時にいつもお守りのように「ある人形」と一緒に寝る。
それは、いつからか家にいて、誰が家に持ち帰ったのかは家族の誰も心当りがなかった。
きっと、プレゼントかどこかのお土産で買って来たのだろうが、その行為自体を当人が忘れてしまっていたにちがいない。
この人形は、僕が物心がついた頃には家にはいなくて、僕が中学生の時には記憶にあるから、
多分、小学校の頃に家に来たのだろう。
昔の家族も今の家族も、(構成員は別なのだけれど)、皆、こぞってこの人形を不気味がる。
だから必然的に人形は僕の部屋に飾られている。もう3~40年になるのか。↓。

残念ながら、この人形に何か特別な力がある訳ではなくて、ただ、僕の中学受験のための塾通いの頃から中学合格、その後の僕の生活をずっと見てきて知ってる存在なのだ。
僕がマンガを読んでいる時も、投函しそびれたラブレターを書いていた時も、ホルンの練習をしていた時も、
深夜ラジオを聴いていた時も、友達が遊びに来て馬鹿騒ぎしてる事も、
親に隠れてウイスキーをこっそり飲んだことも、憬れのアイドルのピンナップも、
好きなプロレスラーのポスターも、僕のお気に入りの歌手とレコードも、
整髪料で髪型に異常にこだわって鏡の前に立っていた姿も、それから、僕の喪服姿も何度か見て知っている。
僕の歴代の彼女も、友人も、一回きりの人も僕の部屋に遊びに来たことのある人は皆会っている。
今も、僕の部屋に来れば会えます。
昨日、僕は人形を枕元に座らせて、久し振りに一緒に寝た。最近、スランプだからね。
そうしたら、奥さんが株で大儲けしたので熟年離婚しよう、と言い出した夢を見た。
(ちなみに、奥さんは株はしない)。
目が醒めて僕は人形に、
<まさかとは思うけど、確かにお前は女だし、母親が死んだ今、お前が一番、オレとの付き合いが長い女だけど、
だからって、嫉妬して変な夢を見させたんじゃないよな?>と問い詰めた。
いい年して人形と話すってのもおかしな話だが、半覚醒の僕は結構マジで、
<頼むぜ、お前くらいは、そういうのなしにしてよ>と懇願するように、寝返りをうつ体勢で話しかけると、
ベッドの振動で人形はわずかにコクリとうなづいたように動いて見えた。

BGM. RCサクセション「君が僕を知ってる」


就職

22/Ⅲ.(木)2012 はれ、暖かい
こういうご時勢だもの、就活は大変そうですね。
服装とか髪型もちゃんとしないといけないんでしょう?、大変だね。
バンバンの「『いちご白書』をもう一度」では、
就職が決まると髪型をちゃんとしなくてはいけない、と言った趣旨の事を歌っていましたが、
平成になって24年も経つというのに、そんな慣習がまだ残っているんですね。南無三。
思い出すのは、昔、NHKの「YOU」という若者番組に白井貴子がゲストで出演していて、
「就職」がテーマの回で、白井貴子が就職面接にTシャツにGパンで行ったら、
面接官に「あなたは何故、スーツを着て来なかったのですか?」と質問され、
<私自身を見て欲しいから!>と自信満々に答えたら、
面接官に、「就職面接とは、TPOに合わせた格好が出来る人物なのか、も見るポイントなんだよ」
と諭されたという話をしていて、僕はすこぶる嫌な気分になったのを覚えている。
僕が、高3の頃かな。今でも、思い出せるよ、あの嫌な気分。
白井貴子は当時、自分のジャンルを「ロック」と言っていたからね。
<ロックが、TPOに合わせるか?>とテレビに向かって文句を言ったよ。
まぁ、別に白井貴子が悪い訳ではないんだけれど。
この番組は、少なからず、後々の僕の人生に影響を与えた。
今から10数年前かな、僕は児童・思春期の治療をしたいと思った。
日本では数少ない児童・思春期を専門にやっている伝統のある病院に、
ちょっとした縁があり、面接を受けられるチャンスをもらった。
そこは、「行きたいです!」と言って、おいそれと行けるような病院でもなくて、
一応、公的な病院なので採用されると公務員の扱いになるし。
精神科の部長さんとの面接は好感触だったが、
「あとは病院長との面接があるから、そこでしくじらないように」と助言された。
その時、さっきの白井貴子の面接官のセリフが、
バンバンの「『いちご白書』をもう一度」のBGMに乗って、
僕の脳裏をかすめたのである。
そこで僕がとるべき行動の正解は、美容院に行って髪を染める、であった。
その病院には患者向けの病院報があり、そのタイトルが『みどりの〇×』だったので、
僕は、髪の毛の色を緑色に染めることに決めた。
だけど簡単に緑に染めると言っても、黒髪を緑にするのは結構大変で、
ブリーチでまず脱色して、髪が白っぽくなったら、その上に緑色の染料を塗るのである。
まだ、初音ミクなんていない時代だった。
そうやって、病院長との面接に挑んだ。
「病院」と「美容院」って、響も似てるしね。
病院長は、「何故、あなたはそんな髪の色をしているのですか?」
と紳士的に尋ねられた。
僕は健康的に<病院のイメージカラーにしてみました!>とさわやかに返答した。
さすが、そういう病院の病院長ともなると器が大きいもので、
「そういうセンスは、子供向けでいいですね」とうなづいて、見事、僕は合格した。
合格すると今度は、職員向けの会報誌に、同時期に採用されたメンバーと一緒に、
アンケート形式の同じ質問に答える自己紹介記事が載るのだが、
その最後の質問が「あなたのモットーは?」というものだった。
僕は、‘モットー’ってのも死語だな、と思いながら、ふざけて、
<いや~ん、モットー!>と書いて提出した。
なんと、それは検閲をパスして、そのまま刷られて全職員に配布された。
僕は、器の大きい病院だな、と感心した。
さすがに怒られるかな、と思ったけれど、ちゃんとチェックしなかったのかもな、係の人が。
そんな採用面接の思い出でしたが、実は今回、カワクリにも新しい人が入りま(す)した。
受付の仕事量も残業時間も増えて来たので、人員を補充した訳です。
新しい仲間が、心理も含め、2~3人増えそうです。よろしくお願いしますね。
詳しくは、あらためて紹介します。
アンケート形式の自己紹介記事にしようかな。
勿論、最後の質問は、「あなたのモットーは?」で。
下は、今週のお花、白と黄色のチューリップ。ういういしいでしょう?。↓。

BGM. 戸松遙「motto☆派手にね!」


野球部OB会

3/Ⅲ.(土)2012
数日前のブログの記事にも書いたが、こないだの大学の同窓会で、
僕が1年の時の野球部のキャプテンと遭遇し、キャプテンは獨協高校の卒業生で、
僕にしたら高校&大学&野球部と3つの先輩にあたる人物で、
なかば強引に(って言い方もないな。訂正、親切に)誘われて野球部OB会に参加することになった。
場所は、渋谷セルリアンタワー。
土曜日は外来なので、遅刻して合流。こういう会はちょっと遅れて行くくらいが大物っぽくて丁度良い。
…って、発言が小物っぽいですが。
テーブルが幾つか有り、一番奥が初期のメンバーで、順々に年代毎に輪になっていた。
だから、入り口から入ったら知らない顔ばかりだった。
僕は、知ってる顔を探して歩いて行ったら、結局、一番奥のテーブルに行き着いた。
皆様、威厳がある。僕が1年の時の幹部達だ。下は、当時の写真。
尚、プライバシー保護のために先輩方の顔にはゴリラのシールを貼っておく。↓。


僕は、諸先輩方に挨拶がわりに、先日の「しょこたんファンクラブ日帰りバスツアー」で撮った
中川翔子とのツーショット写真を見せびらかした。
先輩方の口からは、
「お前、何やってんだ?」「まだ、こんな事をしてるのか?」「誰だこれは?」「知ってるぞ、‘ひょこたん’だろ」
などと鈍い反応が返って来た。
しかし、いくら何でも‘ひょこたん’はないだろう。
‘ひ’と‘し’の区別がつかないのか?江戸っ子か?。
それでも空気は温まり、そのうち先輩方の口からは、
「俺は、理解できる」「俺には、川原の気持ちがわかる」「俺も、実は○×のファンなんだ」
「もしAKBに会ったら、紹介してくれ」などと一部、訳のわからない発言もあるが、
結局、皆アイドル好きで、盛り上がった。
僕が1年の時の文化祭で野球部は喫茶店を模擬店として出し、
僕はそこで歌謡ステージのようにアイドルのアテブリをした。
下が、当時の模様。曲は、多分、早見優の『急いで!初恋』。↓。


「川原君?」と今までとは異質の声のトーンで呼びかけられた。
それは、僕が1年の時の野球部のマネージャー(女子)だった。
彼女は、当時、看護学校の2年生で、マネージャー(女子)とはいえクラブの先輩だった。
僕は彼女にずっと本を借りっ放しで、その本は今も部屋の本棚にあるから、
それを見るたびに、今でもマネージャー(女子)のことを思い出していて、
でももう返す機会もないだろうなとずっと思っていたから、再会できてビックリした。
彼女は、「ここのテーブルの人しか判らないわ」と言い、
「でも、みんな、変わらないね」と当時と変わらぬ笑顔で言った。
マネージャー(女子)は、
「川原君は、うさぎ?」と年を聞くから、僕は<とら>と答えると彼女は驚いて両手で自分の口を隠し、
「うさぎかと思った…。年上なんだ…」と絶句していた。
僕は浪人してるからね。
下が、当時のマネージャー(女子)とのツーショット写真。
尚、プライバシー保護のためにマネージャー(女子)の顔にはうさぎのシールを貼っておく。↓。


結局、僕は最後までのことは言い出せず、バレたらどうしようとビクビクしていた。
今、考えれば、これから返せばいい、だけなのだが。
ここまでだと、あまり野球部っぽくないですね。
そこで、野球をやっていた写真を紹介しましょう。
下は、僕が1年の時の東医体(東日本医科学生総合体育大会の略)、場所は仙台。
僕はサードの控えで、隣に写ってるのがサードのレギュラーのY先輩。
Y先輩は、我が道を行くタイプで、今回のOB会にも来てなかった。
きっと、我が道になかったのだろう。
尚、プライバシー保護のためにY先輩の顔にはラクダのシールを貼っておく。↓。


下は、僕がレギュラーをとった頃の春合宿だ。
寒かった。ユニフォームの上に、HAKKAのトレーナーを着て遠投をしてるところ。↓。


僕はこの頃から、野球に飽きて顔を出さなくなり始めた。
幹部達は、そんな僕に責任を持たせるために、僕を副キャプテンに指名した。
でも、その作戦は裏目に出て、
僕は<なんかそういう手はこすいな>と思って、先輩達の厚意を裏切った。
僕は、子供の頃から飽きっぽくて、色んな習い事をやったがどれも長続きしなかった。
中学でブラバンに入ってホルンをやるが3年の途中で飽きて、打楽器に転向。
それも結局、飽きてやめてしまった。
飽きてやめるのだから、やめ方も中途半端で、どれもフェイド・アウトだった。
それでも、大学の野球部の人達はやさしくて僕が卒業をする時には、
「追い出しコンパ」に呼んでくれた。
卒業アルバムにも、野球部として写真を載せた。
ユニフォームが新しくなっていたので、後輩のを借りた。
写真撮影だけだから、サンダル履きのままで撮った。↓。


そんな僕でも、今の仕事だけは飽きずにもう20年以上もやっている。
だから、もし、「自分は何をしても長続きしなくて駄目だ…」と思ってる人がいたら、
何か自分に合うものが見つかれば、きっと長続きするので、
そんな風に悪く自分を決めつけない方がいいと思う。
夢中になれるものなんて、一生のうち、1つあればいいんじゃないか?
人生、長いしね。
人生は野球みたいなもの。
野球は9回ツーアウトからだよ。
まぁ、そんなことはどうでもよくて、今宵は懐かしい人達と逢えて楽しかったです。
それも偏にこの会に誘ってくれた、キャプテンのお陰です。
山田さん、ありがとうございました。
BGM. よしだたくろう「Have  A  Nice  Dayー天然色写真編」(フジカラーCMソング)


同窓会

18~19/Ⅱ.(土)~(日)2012
2月の始めに「大学の同期会」をやるとの葉書が来た。
<随分と直前に連絡をよこすものだなぁ。それで、人、集まるか?>と思って、同期の友人Wに連絡したら、
「その日は、大学全体の同窓会があって、その葉書は、二次会のものだ」と教えてくれた。
言われてみれば、去年の年末に大学の同窓会のお知らせが来ていた。
返事を出さずに、放っておいた。
Wは、それから仲の良かった友人や女子にも連絡をして、「この際だから皆で、
同窓会に出よう」と話しをまとめた。
Wは、同窓会事務局に問い合わせ、僕が出欠の連絡を出していないが、出席できるように手配をしてくれた。
Wは、元々、頭のいい奴なのでこのくらいは朝飯前だ。
今の仕事も成功しているみたいだ。
場所は、都内の一流ホテル。僕はWに<何を着ていくの?>と尋ねると、
Wは「スーツ」と答えた。
僕はスーツを持っていないから、
<襟のついたシャツと高級なGパンならいいかな?それだと入れてくれないかな?>と
質問した。
それというのも、以前、有名なレストランに招待されたことがあり、草履で行ったら、
お店に用意してあるブカブカの靴に履き替えさせられた苦い体験があるから。
でも、店に靴が用意されてるということは、結構、草履で来る人が多いってことだよな。
なんだよ、偉そうに、大して旨くもないのに、味の違いわかんねぇよ。
それは舌の問題か?、失礼しました。
するとWの返事は、
「どんな格好でも、大丈夫。ただ、俺はスーツで行く。
医者って格好とか気にする奴いるじゃん。それが面倒くさいから。ホテルはGパンでOK!」
とお墨付きを貰ったので、
僕はミック・ジャガーが上半身裸でズボンのポケットに手を突っ込んでいるプリントTシャツの上に、
白地に淡い花柄のシャツを羽織り、腿の辺りに音符が描かれてるGパンを履いて、
靴は履きなれない靴を履くと必ず靴ズレするからいつものスニーカーがカラフルだからそれでいいと、
コーディネート終了。
同窓会は土曜日なので、外来が終ってから行くので、遅れて合流することに。
先に着いたWから「今、どこ?」とか
「何線に乗り換えて、何個目」とか
「何番出口から出て、橋を渡って右の建物」とか
「入ったら守衛がいるから‘○○の間’はどこか聞けばいい」とか
一つづつミッションが送られてくるので、
僕はそのナビに従って会場に向かった。
実際、僕は何ホテルでやるのか知らなかったから。
正確に言えば、‘知らなかった’のではなく‘知ろうとしなかった’のだけれど。
途中、Wに<皆、何着てる?>ってメールをしたら、「全員、スーツ」と返って来た。
ちょっとだけ<帰ろうかな…>と弱気になったが、
忌野清志郎が山口百恵と三浦友和の結婚式に招待された時
(清志郎と三浦友和は高校の同級生だったから)にGパンに革ジャンで行った、
と何かで読んだのを思い出し、勇気を出した。
会場に着くと、首から提げる名札を渡され、
誰だか判る目印にするのだろう、首からブラ提げた。
すぐにW達の待つ場所に合流し、そこにはMやVもいて、少し遅れてT君も到着した。
皆で会うのは10年いや20年ぶりくらいなんじゃないか?
僕はワインを駆けつけ3杯、すぐに皆と打ち解けた。
食事がバイキング方式になってるので、グラスと皿を持って会場をウロウロしていると、
「川原君、変わらないね」と色んな人が声を掛けてきてくれた。
皆、懐かしそうに、嬉しそうな顔をしている。
卒業してから20年以上経っているのだ、僕の見た目が変わらない訳がない。
おそらく皆が言いたいのは、
こういう会にもこういう格好で来て偉そうにしているところが変わらない、ということなのだろう。
そして、そのことに対して、皆、好意的もしくは寛容であった。
僕は好きだった女の子の何人かと一緒にツーショット写真を撮らせてもらった。
大事に保存するつもりだ。
いきなり背後から大声で、
「キャーボー!」という声がして、振り向くまもなく、スリーパーホールドを極められた。
勿論、愛情表現である。
僕のことを「キャーボー!」などと呼ぶ人間は限られている。
それは野球部でだけ使用されていた僕の愛称だったからだ。
「川原坊や」が「キャーハラ・坊や」に転じて、「キャーボー」とあいなった訳である。
声の主は僕が1年の時の4年生のキャプテンだった。
「元気か?何だ、お前その格好は?今度の野球部の謝恩会は来るのか?相変らずだな、キャーボー!」と
矢継ぎ早に脈絡のないことを言われ、僕も矢継ぎ早に
<元気です。ミック・ジャガーです。謝恩会の返事は出してません。皆にもそう言われました>と
質問の順番通りに答えた。
僕は新歓コンパで酔い潰れてキャプテンのアパートに泊めてもらい、
翌日には風呂にも入れさせて貰った恩義があり、その時のことを感謝して、その舌の根も乾かぬうちに、
<でも、水風呂で冷たかった>と文句を言った。
するとキャプテンは「すまん、追いだき機能がなかったんだ」と頭を下げた。
しかしキャプテンになるような人はやはり器が違うのだ、翌日に僕にメールをくれ、
野球部の謝恩会に参加できるようにしておいたから、
いついつの何時にどこどこホテルの‘何の間’に来い、
と手配してくれていた。
仕方ないから、行くことにする。
…仕方ない、って言い方も失礼だな。
訂正、喜んで参加する。
二次会は同じホテルの上の階で各々の学年ごとに同期会をするのだ。
そもそも、これが冒頭の葉書の正体なのだ。
違う大学に入局したために、同窓会に来ていないO君を呼ぼうと意見が一致した。
メールで<おいでよ>と出すが、
O君は「俺は同窓会名簿に入っていないから」と言うので、
<二次会は名札を返しちゃってるから紛れ込んでも判らないよ>と返信した。
すると、O君は「○○ホテルに行ける様な服じゃない」と遠慮するので、
<俺とかVはGパンだよ>と説得すると、
O君は「俺は作業着みたいなズボンだ。ホテルは遠慮しておくよ。3次会に呼んでくれ」と
寂しいことを言う。
O君が好きだった女の子も来てるんだし、服装ごときを理由に辞退するのはくだらないことさ。
そこで僕は、Vに僕の格好を写メに撮らせ、
その際、丁度、帽子とマフラーと手袋が一体となってる防寒着を着て来てたので、
それは豹柄で帽子には豹のように耳が付いていて、その方がインパクトがあるので
(つまり格好なんて関係ないよ、というメッセージ性が強いので)、
その写メを添付してO君に送った。
その効果は抜群で、O君は二次会に合流した。
呼んどいて言うのもなんだが、本当に作業着みたいな服だった。
しかし、O君は僕の格好を見て安心したから来たのではあるまい。
そこまでしてくれる旧友への男気として駆けつけたのだろう。
じゃなきゃ、普通の神経で、○○ホテルにあんな格好で来れまい。
あれ?俺、矛盾したこと言ってるか?。
下が、O君の男気を稼動させた写メ。↓。

僕らは学生時代は馬鹿騒ぎをする方で、
たとえば学園祭などでは、ステージで各クラブごとに出し物をする恒例があるのだが、
そういうステージに乱入したりして楽しんでいた。
学園祭実行委員会は当然ながら進行を妨害するものを排除したい。
そのため、柔道部とかの屈強な奴らが警備に当たっていて、
彼らとは何度か衝突したことがある。
そんな因縁もあり、我々はお互いを煙たがり、距離をとっていた。
同期会では、そんな柔道部の一人が
「おぉ、川原。相変らずだね。まぁ、一杯やれよ。何呑んでんだ?ワインか」と
俺の持ってるワイングラスにワインを注いだ。
普通、ワインというのは、チマチマとグラスの半分位づつ入れて呑むものだと思うのだが、
奴はワインをグラスにナミナミと注いだ。
相変らず、嫌な奴だな。
俺は、そう思いながら、グラスを一気に呑み干した。
すると、奴はビックリした顔をして、「お前、何、やってんの?」と言った。
俺は、<つがれた酒は一気に呑まないと>と理由を答えたら、奴は苦笑しながら、
「俺な、実は、そういう体育会系のノリ、苦手なんだよ」と耳元で囁いた。
僕らは顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
昔のことは恩讐の彼方に、我々は20年以上の歳月を経て和解した。
時は魔法使いのようだ。
さっきも言ったが、二次会は名札がないので誰が誰だか判らない。
しかし、同期なら判らないのは失礼である。
ところが僕は同級生の顔と名前を覚えるのが苦手なのである。
正確に言えば、覚えようとしなかったのである。
以前、山手線の中で、
「もしかして、川原君だよね?俺、○×だよ!」と声を掛けられたことがあるが、
誰だか判らなかった。
彼は必死で、
「俺、○×だよ!一緒に、海外旅行に行ったじゃないか?」と言われて、ナントナク、そんな人いたなぁ、
と思ったくらいで、たいそう、相手をガッカリさせた前科がある。
だから、二次会は危険だ。
向こうはこっちを知っている。
しかし、こっちは向こうを知らない。
さらに、それを向こうにさとられてはいけない。
そこで僕が考えた作戦は、
僕の近くにMを配置し(Mは僕がそういう人間だと知っている)、
<もし誰かが俺に話しかけてきて俺がそいつを誰だか判らなかったら、‘コマネチ!’ってたけしのギャグをやるから、
そうしたら自然に『おぉ、×○じゃないか、元気?』と小芝居をして、さりげなくそいつが誰だか俺に教えろ>
と仕込んでおいた。
結果、俺は二次会中、ずっと‘コマネチ!’、‘コマネチ!’と言い続けていた。
平成24年2月のサタデーナイト、
おそらく日本中で一番、‘コマネチ!’と叫んでいたのは自分だという自信がある。
自負と言ってもよい。
しかし、僕の失敗はそばに配置しておいた人間の人選ミスで、
Mは俺が‘コマネチ!’、‘コマネチ!’という度に、
「わかんねぇ~」とか「俺に聞くなよ~」とか言って、
Mは俺と同じくらいクラスメートの名前を知らなかった。
そのせいで、僕は後輩にペコペコ頭を下げて逆に恐縮されたり、
先輩に横柄な態度をとって呆れられたりする始末。
学年毎に、分かれてるといっても、
そこはアコーディオン・カーテンみたいなもので仕切られてるだけだから、結局、入り乱れるのだ。
そうは言っても、印象的な人たちもいて、たとえばヨット部の1個上の3人組の先輩(女子)は、
「たつじ、元気?アンタ、何、やってんの?相変らずねぇ。T君も来てる?」と矢継ぎ早に脈絡なく話しかけられ、
僕も矢継ぎ早に、
<元気です。あなたたちと話しています。皆にそう言われます。どっかにいますよ、連行しましょうか?>
と質問順に答えた。
3人組の先輩(女子)をそこに待たせ、Mを誘って、T君を探しに各階・各部屋を回っていった。
T君は、僕らのグループの一人で、ヨット部のキャプテンだった人だ。
ちなみに僕はヨット部の幽霊部員でもあった。
僕はさっきO君に送った写メ用の豹の帽子付きマフラーを被ったままの格好で歩き回っていて、
最初に入った部屋が運悪く、一回生の集まりの部屋だった。
さすがに一回生は10歳とか20歳とか年上の人達だから、知らん顔して退室しようとしたら、
そのマフラーが怪しがられた。
一回生たちは、何か妙なものが入って来たと僕とMを取り囲んだ。
今、考えれば、帽子を脱ぐだけで随分違ったのだろう。
「ちょっと、待て!お前は誰だ!何回生だ?何科の医者だ?それより医者か?名刺を出せ!」と
矢継ぎ早に脈絡のないことを言われたので、
僕も矢継ぎ早に
<待ちます。川原と言います。何回生かは思い入れがないのでわからないです。精神科です。名医です。名刺は明日、作ります>
と質問順に答えた。
ここはもう腹をくくるしかない。
‘居残り佐平次’にでもなったつもりで、口からデマカセなことを言って、適当に先輩方をおだてたり、
<上品なネクタイですね。万引きですか?>などと軽口を叩いてるうちに、
「面白い、気に入った」などと認められ、
握手を求められたり、ハグされたりして、最後は胴上げまでされる始末。
何とか無事に逃れることが出来た。
もしも同じ様なことが起きた時のために、アドバイスをしましょう。
このように沢山の偉い人に囲まれたら、瞬時にその中で一番偉そうな人を見分けて、
その人だけをターゲットにたらしこみましょう。
一人で大勢と喧嘩をする時には、その中で一番強そうな奴だけを倒しに行け、
という喧嘩の極意に通じるものがあるでしょう。
しかし、僕とMにはまだT君を探す仕事が残っている。
3人組の先輩(女子)を待たせているのだから。
あっさりと、次に開けた扉の向こうにT君の姿があった。
僕は、
<T君!探したよ!先輩が逢いたがってるよ!一回生、最悪だったよ!早くおいでよ>
と腕を引っ張ると、
T君は丁度、その部屋の集会でスピーチをしている最中だった。
なるほど、だから、T君だけ立っているのか、と納得した。
そこにいた人達は驚いただろうな、いきなり豹を被った男が無遠慮に侵入してきて、
しみじみと思い出にふけっているT君を拉致しようとしたのだから。
しかし、T君はキャプテンともなるような人間だから器が大きく、僕の扱いにも慣れているから、
うまく僕をいさめて、スピーチを続けた。
しばらく僕はT君の隣に立って、テーブルの奴らのことを見回したが、知ってる顔はいなかった。
T君は、結構、感動的な話をしていたから、僕は空気を読んで、
<じゃ、T君!下にいるからね!皆さん、お邪魔しました~!ご歓談をお続け下さい~!
じゃぁね~、また見てね~!バハハ~イ!>
とか言って、その場を立ち去った。
部屋の外のソファにMが座って待っていた。
Mは、一回生の部屋で懲りたらしく、この部屋には入ってこなかったのだ。
Mよ、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。
T君は間もなく、下に降りて来て、3人組の先輩(女子)と再会し、僕にも、
「さっきはサンキューな。あの乱入のおかげで場が盛り上がったよ」と、
明らかに嘘だと判る、お礼を述べた。
ホテルの会がお開きとなり、僕はWとMとVとO君とT君の6人で、女子を誘って3次会に行った。
普通の居酒屋の奥の座敷だったが、僕はこの辺りから記憶があやしい。
色んな人に逢って懐かしかったし、Wのはからいで来て良かったと思ったけれど、
それなりに気を使ったし、緊張もしたね。
だから、4次会は、男6人だけでもう一軒行こうよ。
僕はやはり、この6人だと楽だな、と思った。
それは6人ともそう思ったんじゃないかな。
ここに今日来れなかった、沖縄にいるKがいたらより最高だったな。
Vの行きつけのオカマバーで呑んだ。
明日が日曜日だから、こんな時間まで騒いでいられるんで、翌日、仕事だったら大変だな、
と僕が言ったら、
Wが「俺、今日、仕事(会議?)なんだよ」と言った。
朝の5時だった。
Wは酒を呑めないので、二日酔いこそないが、さすがに徹夜はきついだろう。
そう言えば、学生の頃もこのメンツで呑んで、Wは朝までシラフでつきあっていたっけ。
W、お前が一番変わってねぇよ。
帰りは、Mが家が同じ方面だからと、タクシーに一緒に乗っけてくれて、僕の家の前で降ろしてくれて、無事、ご帰還。
家に帰ってから寝て、夕方に起きたら、声が出ない。
晩年の立川談志みたいにかすれている。
家族は驚いて、「カラオケでも行ったの?」。
俺、<いや、普通に喋ってただけ>。
家族は不安そうに、「何を、喋ったの?」。
俺、<よく覚えてない>。
家族、「覚えてないの?」。
俺、<そう。でもね、おそらく…>。
家族、無言。
かすれた声で俺は言う、<おそらく、十中八九N・G>。
BGM. 山本山田「旧友再会フォーエバーヤング」


仲間の新年会2012~ゴルフの思い出

7/Ⅰ.(土)2012 
今日は、大学医局の先輩&同輩&後輩と、4人で寿司屋で新年会をする。
同窓の仲だから、医療に関する考え方やバックボーンが似通っていて、話していて楽だし、
勉強にもなったし、お寿司もお酒も美味しくて満足な会であった。
同輩が近頃ゴルフを始めたらしく、これで僕以外の3人はゴルフをやることになり、
もし僕がゴルフをやってたら、4人でコースに出ようと言う話しで盛り上がるのだろうな。
そういう僕は、一度だけゴルフをしたことがある。
それは、研修医1年目の医局コンペで、研修医は強制参加、だったから。
面倒見のいい、ゴルフ好きの先輩がいて、本番の前に練習場に何回か連れて行かれ特訓をし、
本番はその先輩と一緒に回る組になった。
キャディさんというんでしょう、僕らのグループと一緒に回るそのおばさんはきつい性格の感じの悪いキャディで、
口うるさくて、僕の歩き方が悪いとか、芝が駄目になるとか文句ばかりをつけてきた。
こっちだって、好きで来てる訳じゃないし、初めは我慢していたが、途中から
<うるせぇ!ババァ>とか<林にボールを打ち込んだから、その自慢の声でカラスを追っ払え>とか
<池に落ちたボールを潜って取って来い>とか言い、ババァも負けじと
「自分で池に入れ」とか「カラスのことまで知らない」とか「ゴルフをやる資格がない」などと言った。
<別に俺はゴルフをやらなくったって困らないから、ただ進行が遅れるだけで、それも知ったこっちゃない>
と言うと、先輩が「まぁまぁ、仲良くやろうよ」とか、キャディに「彼は純粋な性格なだけなんだ」と言い訳したり、
「池のボールは取らなくていいんだよ」と新しいボールを差し出したり、
「‘少年ジェット’みたいにやってみようかな~」とおどけて大声をあげて
「ウー、ヤー、ター!」とカラスを追い払ったりしていた。
こう書き連ねてみると良い人だな、先輩、元気かな?
結局、前半が終了した所で、医局の偉い先生達で話し合って
、僕は後半のラウンドは出なくていいことになり、風呂に入ったりして自由にしていて良いと許しをもらった。
皆が打ち終わると優勝者とか準優勝者とかブービー賞とかに賞品を授与するセレモニーがあるのだが、
僕は「努力賞」とかいう名目で電子ピアノの玩具みたいなのを貰った。
帰りはそれぞれ車に分乗するのだが、僕はさっきの親切な先輩の運転する車に乗った。
僕は、もらった玩具のピアノを車中でずっとデタラメに弾いていて、
先輩は「川原君、ちょっと静かに出来ないかな?」とハンドルを握りながら言って、
僕は<あと少しでやめますから>と即興で不協和音を鳴り響かせた。
その先輩はとても穏やかな人で、「川原君、もうそろそろいいかな?」と静かに言った。
<もうチョイ>そんなやりとりを僕がピアノに飽きるまでやって、僕は飽きたらやめて、
その後は後部座席で爆睡し、やさしく先輩に起こされて、目を覚ましたら自宅の前だった。
ま、当然だが、翌年の医局コンペに僕は誘われなかった。
それ以来、僕はゴルフのクラブを触ったことがない。
そんな若かりし研修医時代を思い出す2012年~新年会でした。


粋な別れ

30/ⅩⅠ.(水)2011
11月もおしまいですね。
11月は、父と母の誕生月であり、父の命日があり、息子の誕生日もあり、色々と物想う月であります。
去年は猫のミーちゃんが家出して、今だ帰らず、今年はとうとう談志が死んだ。
いつも僕は思うのだが、日本の葬儀というのは、何故にあんなに家族がしみじみ出来ないシステムになっているんだろう。
僕が大学2年の時に父親が死んで、それがテストの直前だったが、僕の学友たちは大勢弔問に駆けつけてくれた。
試験前なのに、友人の父親の葬儀を優先するなんて、立派なやつらだ。皆、良い医者になっていることだろう。
僕の父は胃癌で死んだので、家族にはそれなりの心の準備が出来る時間があったのだが、いざ死にました、
と言われても、僕にはリアリティーが湧かなかった。
友達が来てくれたのは、お通夜だったが、僕は着慣れない喪服に黒いネクタイなんかを締めていたから、
まるで仮装して友人をお出迎えしてるみたいで、照れくさくって、ちょっとハイ・テンションになっていたのだと思う。
「チャップリンのマネしてる欽ちゃんみたいだ」、なんて思われたらやだな、とか思ってた。
今思えば、こんな時にそんなこと考える奴はいないよな。オレ以外には。
友達は口々に「そんなに無理に明るく振舞わなくていい」と言い、
中にはそんな僕の姿に感情移入して勝手に泣いてる奴もいた。
僕より年上の友人は、「お前は、偉いよな。オヤジさんが亡くなったのに、悲しい様子を見せないで」と労ってくれた。
しかし、僕は本当に実感がなかったから、<いや、本当に悲しくないんですよ~>と軽く(明るく?)答えたら、
「ハ~、だとしたらお前は、何て冷たい男なんだ」と呆れられた。
うちの父は顔が広いから(別に面積が広いわけではない)色んな人がたくさん遅くまで弔問に集まってくれた。
父は眼科の開業医をしていたから、父の患者さんたちも来てくれて、涙を流して、お線香をあげてくれる。
それに一々、頭を下げるのである。喪服の黒ネクタイで。忙しいったらない。しみじみなんかしてる暇もない。
さすがに夜中になったら、皆、帰るだろうと思っていたら、父の棺桶の安置されてる部屋で酒盛りが始まった。
父の死を嘆き悲しむ人達だった。結構の数いたな、早く帰ればいいのに、と思った。
明日は、焼き場で焼かれて骨になっちゃう。今宵が最期だ。父と対話もしたいし。
でも、僕は思った。
この人たちは今日、ここでこれをしないともう機会がないけど、僕はいつでも今日のことを思い出せるから、
今日のところは譲ってやろうと思った。多分、母も兄も同じ思いだったのではないだろうか。
僕は、父の書斎に入り、圧倒的にそびえ立つ本棚たちの中にいた。
父は、眼科医のかたわら歌人でもあったから、本はたくさんあった。
そんな本棚の隅に不釣合いな物体を発見した。
それは、家庭用のカラオケの機械だった。
父は音痴で、昔、医師会の忘年会で出し物をしなくてはならなくて、僕がドリフの歌を教えてあげたことは
前にもブログに書いたが、(2011年4月「子に習う。」です、良かったら読んで下さい)、
そんな父が何故、カラオケの機械を持っていたのか僕にはピンと来た。
父は、大正生まれなので、医学生の頃、戦争があって、家族とは離れて、北海道や樺太や満州に渡り、
知らない土地で大病を患って、敗戦後、東京に戻り、自分より一回りくらい下の学生にまざって、
1から医学校に入り直したらしい。
詳しい事情はよく知らないが、戦争中の単位はノー・カウントになったからだそうだ。
父は、家族愛みたいなものをあまり知らなかったからか、家族や親戚をとても大切にした。
しかし、大切に仕方を知らなかったようで、自分は医院を休まず働いて、親戚達一向にお金を出し旅行に行かせた。
実際に父がお金を払ってる場面を見たわけではないが、そんなことは子供でも判る。
僕が東京の中学に入ると、茅ヶ崎から通うのが大変だと、兄と僕を東京のマンションに住まわせ、
結局、母が二重生活をするのだが、結果はほとんど東京にいて、週末に家族で茅ヶ崎に帰るという具合だった。
僕が高校生の頃、家族で父の先輩のお宅に遊びに行ったことがある。
そこは眼科の大きな病院で、父はそこの見学が主目的だったのだ。
僕はその家のことを今でも鮮明に覚えている。
堂々とした風格で優しそうなお父さんと、気が利くお母さん、チャーミングなお姉ちゃんに、
社交的なお兄さんの4人家族で、まるで「絵に描いたような」家族だった。
そして、そこの家では夕食の後、家族でカラオケをするのである。
招かれた我々は、度肝を抜かれた。マイクを回されたからである。
父は音痴、母もこういうのは苦手で、兄は自分の殻に入ってしまうから、仕方なく僕が、ドリフの「いい湯だな」を歌って凌いだのである。
向こうの家族は、心からの笑顔で拍手して、一人づつからお褒めの言葉をいただいた。
僕はそれ以来、人前で歌を歌うのが嫌いになったが、父には「家族団欒」=「カラオケ」って
インプットされたのかもしれない。ちがうのに。
それで、僕らが学校に行ってて1人で家族のために働いて茅ヶ崎で淋しく過ごしてる時に、
ふとカラオケを購入したのかもしれない。
カラオケの機械の横には、カラオケのソング・ブックがあった。↓。


通夜の宴会は、終わることをしらない。
僕はだらしなく酔っ払った大人たちの騒音に、<チッ!>と舌打をしながら、パラパラと本をめくった。
これには、索引があって、「あ・い・う・え・お順」に歌が並んでいる。
よく見ると、そのタイトルの上に、父の手によるものだろう、鉛筆書きで丸印がしてある。
おそらく父が好きな歌なのだろう。
しかし、おそろしく丸印が少ない。
僕は、「い」のページで目と手が止まった。
二つ、丸印が並んでいる。
一つは、ドリフの「いい湯だな」。これは僕があの家で歌った歌だ。
その隣は、石原裕次郎の歌で、「粋な別れ」だ。↓。


僕は、「粋な別れ」のページをめくり、歌詞を音読した。父からのメッセージに思えた。
『生命に終わりがある 恋にも終わりがくる 秋には枯葉が小枝と別れ 夕には太陽が空と別れる
誰も涙なんか流しはしない 泣かないで 泣かないで 粋な別れをしようぜ』
にぎやかな宴の音を聞きながら、僕は、ふるえていた。
BGM. 石原裕次郎「粋な別れ」