偲ぶ会

13/ⅩⅡ.(木)2012 くもり
今年は年の瀬になり、中村勘三郎が亡くなったり、森光子の葬儀が行われたり、追悼プログラムが多いですね。
先日、徳田さんとお昼を食べに近くの中華料理屋に行った時も、お店のテレビではお昼のワイドショーを流していて、
中村勘三郎の歌舞伎の映像や、森光子の葬儀に列席する芸能人の数々を映し出していました。
僕が、<あっ、ヒガシだ。おっ、SMAPも来てるよ>と反応すると、
徳田さんは「ジャニーズは全員参加じゃないですか?」
と冷静だった。僕らは、今年は色んな人が死んだね、とか、知り合いでも死んだ人がいたっけね、と1年を振り返った。
当たり前のことですが、こうゆう有名人の死は連日メディアでとりあげられますが、一般人の死はひっそりとしたものです。
昔、爆笑問題の本で『死のサイズ』というのがあって、著名人の新聞における死亡記事の大きさをランキング付けしたもので、
死の報道が大きければその人は偉大なのか?、という問いを読者に投げかけるもので興味深かったです。
命の重さに違いはないのにね。
まぁ、そういう難しい話はまたの機会にして、今日のテーマにしたいのは、「故人を偲ぶ会」、についてです。
「故人を偲ぶ会」とはお通夜や告別式とは別で、亡くなってから少し間が空いてから行われる会のことで、
僕はそれへの正しい参加の仕方がいまだに良く判らなくて、どう立ち振る舞うかを悩みます。
あんまり陰気でもよくないし、ふざけすぎると怒られるし。難しいな。
僕が大学に入ってすぐ、高校の同級生が亡くなった。
そいつと僕は仲が良くて、浪人時代は同じ予備校に通って、隣の席に座って授業を聞いていた。
そいつは僕より頭が良くて、背も高くて、いつも落ち着いていて、真面目な男で、真面目すぎる所が逆に面白い位で、
大人で、だけど、若々しさに欠けていたとも言えるな。だから早死にしたのかな。
そいつが死んで、少しして高校の時の仲の良い5人だけが、自宅に招待された。
家にはそいつのお母さんとお姉さんがいた。
それが僕らの人生初の「故人を偲ぶ会」だった。
この時は大変だった。
僕らはまだ高校を出たばかりで、どんな格好をしていけばいいのかも誰も判らなかった。
前日に、僕らはゆかりの地である御茶ノ水に集まってミィーティングをした。
なぜ僕らだけ招待されたのか?
ご家族は何を望んでいるのか?
僕らはどんな顔をして、何の話をすればいいのか?
話してはいけないことはあるのか?
お姉さんが美人って本当なのか?
それはこの際、関係ないだろう?
でも、美人らしい。
結局、服装は普段通りで行こう、ということしか決まらず、その日は散開した。
僕は今思っても、結構、真剣に自分の役割とかを考えたと思う。
そうして、僕は「偲ぶ会」用に2つのネタを思いつき用意した。
「偲ぶ会」は想像したより明るい空気で進行した。
向こうのお母さんとお姉さんが僕らをとても良くもてなしてくれたからだ。
みんなのする高校時代の想い出話を、お母さんとお姉さんは<へ~、そうなんだ>とにこやかに聞いていた。
すると思いついたように、お姉さんは、予備校時代はどうだったのか?、と質問してきた。
今だ!
僕は1つ目のネタを出す。
鞄に仕込んでおいた‘エロ本’をテーブルの上に置き、<借りたまま、返せなかった本です>と姉に差し出した。
一緒にいた奴らは、びっくり仰天した顔をして、中には「馬鹿!やめろ!」と怒ってる奴もいた。
だが、時すでに遅し。
お姉さんは、‘エロ本’を手に取って、1枚1枚、丁寧にページを繰って、じっくりと見て、不意に一粒の涙が頬をつたうと、
ポーンとテーブルの上に‘エロ本’を放り投げて、「な~んだ、あの子、こんなの持ってたんだぁ」と、嬉しそうに笑った。
その優しげな笑顔に、一同胸を撫で下ろした。
それでハードルが下がったんだろう、みんなは高校時代の馬鹿話に花が咲いて、やがて暴露合戦みたいになり盛り上がった。
そして時間はアッと言う間に過ぎて、そろそろ、おいとまに。しかし、僕にはもう1つネタがある。ここがタイミングだ。
<あの~、僕、あいつに2千円、貸してて、返して貰ってないんですけど…>。
またもや一緒にいた奴らは、びっくりした顔をして、中には「馬鹿!やめろ!」と怒る奴もいたけど、すぐさま、お母さんが
「あら、ごめんなさい。もう、あの子は借りっ放しね。他にはいない?」と財布からお金をくれた。便乗する者はいなかった。
そして僕らは、お母さんとお姉さんの笑顔に見送られて、最寄駅へと向かった。
僕はみんなに、<牛丼でも、おごろうか?>と言ったけど、みんなは「その金じゃ食えないよ」と口を揃えて言った。
その日の僕の成績は、現金2千円のプラスと、‘エロ本’1冊のマイナスだった。
この2千円の正しい使い途は、どう考えても‘エロ本’だろう。当時、御茶ノ水には有名な‘エロ本屋’があった。
僕はみんなにそこに行こう、と提案した。みんなは、ブツブツ文句を言いながら、渋々、後について来た。
そして、結局、なんだかんだ言って、みんな1冊づつ、買うことになった。
「これも供養だ」と合理化する奴もいたが、僕も<その通りだな>と思ったし、それに今でもそう思う。
皆さんは、「故人を偲ぶ会」について何か考えたことがありますか?。
今の僕は、もし誰かを「偲ぶ会」に呼ばれたとしても、当時と同じ手は使わないと思います。
BGM. 岡田奈々「らぶ・すてっぷ・じゃんぷ」


親切

30/ⅩⅠ.(金)2012 寒い
今日で11月もおしまい。もう明日からは12月ですよ。
歳を取ると、1年は早いものだと言いますものね。
こないだ、父の歌の本を紹介したので、今日は母にします。
母の誕生日も11月だったから。11月の最後の日に親孝行。
これは、母の最初の歌集「あしたの風」。↓。

僕が中学に上がると僕と兄は東京に住み、母がその面倒を見に来ていたから、父は茅ヶ崎でほぼ1人で暮らしていた。
僕が医者になると、兄はアメリカに留学して、もう父は死んでいるから、母は茅ヶ崎で1人暮らをしていた。
父も母も、1人で暮らしてる時間が長くあった。
1人はさびしかったのかな。僕は1人になったことがないから、わからない。
母は‘1人暮らし’の頃、時々、手紙を寄こしたり、短歌の雑誌を送って来たりした。
それは同人誌みたいなもので、僕もそこに入っていたのだけれど、歌などまるで詠んでいなかったので、
母が僕の名で歌を作っては、勝手に投稿していたものだから、その雑誌には、毎号、僕の歌が載っていた。
僕はあまりそれが気に入らなくて、母を怒ったこともある。
「著作権の侵害だ!」、みたいに。正確には意味が違うけれど、言わんとしてるニュアンスは判るでしょう?。
僕は比較的若くして結婚して、妻がいて、子がいて。
母はどんな気持ちで、僕と妻に手紙を寄こしたのだろう。
封筒の宛名には必ず、僕と妻の両方の名前が書いてあった。
僕は手紙を読んだら、そんな時は茅ヶ崎に帰って、顔を出してあげればよかったのにな。
そう遠くもないんだし。
そして、これが第二歌集にして遺歌集「海桐花さく道」。↓。
海桐花は、とべら、と読みます。海岸に咲く花ですね。
さて、問題です。
この表紙の絵、どこかで見覚えはありませんか?。※正解は、この記事のラストに。


本を開くと、まず始めに「自宅前にて」というタイトルで、母の写真が著者紹介として載っています。
良い表情をして綺麗な訪問着を着て写っているのでこの写真を選んだのですが、
しかし、これは「自宅前にて」ではなく、よその御宅を訪問した時に、その玄関先で撮って頂いた写真なのです。
校正のミス。
この本は、関係者にはお配りしたので、その御宅にも当然、贈らせて頂いた。
きっと、開けて、ビックリされただろうな。だって、自分家が知らぬ間に知人の「自宅」になってるんだから。
あわてて、権利書、確認したりして。なんて、すみません。素人が急いで作ったものなので。失礼しました。
この本の、「あとがき」は僕が書いています。兄がそう言うもので。
母には、もう少し、やさしくしてあげればよかったな、と思う。
でも、もう死んじゃったから、今さら言ってもしょうがないですね。
その代わり、これから関わりのある人には親切にしていこう。
罪滅ぼしというのかな、利己的な理由だけれど。
「人の為」と書いて、「偽り」と読むのは、こういうことを言うのかな。
でも、それで誰かが損をするとか、他人に迷惑をかけると言うのでなければ、責められる筋合いでもないはずだ。
自己満足だって自覚してる分、無自覚な善人よりは無害なんじゃないかな?。完全に開き直りだ。
つまり、なんだな、まぁ、これからは、縁のある人には、出来る限り、親切にしようと思った訳です。
口先だけ、みたいに聞こえるかもしれないけれど、なるべく、そうしようと努力するつもり。
BGM. 大上留利子「嫌われ者の恋」
※文中の問題、表紙の絵の答えは、心理相談室の額縁の絵でした。↓。


父は、にわとり。唯も、にわとり。

27/ⅩⅠ.(火)2012 超、寒い
今日、11月27日は亡き父の誕生日だ。と言うことは、「けいおん」の平沢唯のバースディでもある。
と言うことは、ってのもおかしな言い回しだが。
父は11月生まれだが、亡くなったのも11月。
命日は、11月8日。ちなみに亡き母の誕生日は、11月5日。11月は気忙しい。
父は目医者だったが、臨床の傍ら、よく文を書いていた。短歌なども詠んでいた。
母もその影響で、短歌を詠んでいて、僕にもそれをさせようとしていた。
父は、大正10年生まれで、その頃の人は皆、多かれ少なかれそうだったのだろうが、複雑な背景があり、
北海道や満州などにいて、満州では医大にも通っていたそうで、最終的に真逆な環境の温暖な茅ヶ崎に居を構えて、
僕はそこで生まれ育った。
これが父の歌集で、人生の前半を連想させる「北の樹木」。↓。

これが、人生の後半を連想させる、つまり僕が生まれ育った、「海光る町」。↓。

これらは今も僕の診察室の後ろの本棚に飾ってあり、僕をバックアップしてくれている。↓。

本の手前に「にわとり」型のセロテープがあるのは、父が「にわとり」年だったから。
そう言えば、平沢唯も「けいおん部」の新歓のビラを配る時、にわとりの着ぐるみを着ていたな。
そのフィギュアどっかで、見たぞ。買おうかな。


エヴァQはどこでみる?

17/ⅩⅠ.(土)2012 雨、昨日よりは暖かい(マシ)
いよいよ今日からエヴァQが公開ですね。
昨日の金曜ロードショーで、少し流していましたが、よく判りませんでしたね。
映画に合わせて、至る所でエヴァ関連の商品を目にしますね。
「目にしますね」に引っ掛けて、綾波レイの目薬です。↓。


これはTVCMで、目にした方も多いでしょう。アスカのもあります。
下は、渚カヲルver.。こっちの方が値段が高いです。↓。


それから、エヴァはサンリオともコラボして、くじをやっています。
これは、綾波とキティちゃんの合体小物入れ。↓。


さて、キティちゃん豆知識。
キティちゃんの名前の由来は、「不思議の国のアリス」のアリスの飼い猫の名前だそうです。
小学校の同級生の女子の家に遊びに行った時、サンリオの「いちご新聞」というのを彼女が持っていて、そこに書いてあった。
彼女の名前はメグちゃんと言って、当時、「魔女っ子メグちゃん」というアニメが流行っていて、それで良く覚えているんだ。
とてもチャーミングな女の子だったな。
僕は本気で、<この子は将来、芸能界にスカウトされるんじゃないか?>と思っていた。
でも、そんな幻想は中学に入ると吹き飛んだ。
僕の中学は男子校で、皆が自分の小学校には将来アイドル候補の女子がいる、と自慢し合っていたのだから。
毎日、会ってると可愛く見えちゃうんだよな、それに世界も狭かったしね。
そうそう、キティちゃんだ。
確か、「鏡の国のアリス」の冒頭で、「不思議の国のアリス」に登場したアリスの飼い猫のダイナが子供を生んで、
その名前がキティだと書いてあった気がする。
興味のある方は確認してみて下さい。違ってたら、ゴメン。
話をエヴァに戻しましょう。映画はしばらく混んでいるんだろうな。
明日は無理でも、月曜日は平日だから観れるかな?
誰かが平和島の映画館なら、どんな人気映画でもガラガラですよ、と教えてくれたから、平和島に行ってみようかな。
平和島と言えば、昔、女友達が住んでいた街だ。
彼女はタレントに喩えると浅香唯に似ているとてもチャーミングな人だった。
僕が出合った3次元の女子の中では、メグちゃんと双璧をなしていた。
平和島の子の名前はMとしよう。Mはイニシャル。
Mはそんな美人なのに中味は男っぽくて、総合格闘技が好きで、部屋に桜庭のフィギュアを飾っているって自慢していた。
Mはお酒も強くって、僕らが2人で呑むと日本酒の一升瓶なんかすぐカラになった。
だけど、Mはやっぱり女の子っぽい面もあってピアノが上手だった。
Mの好きな音楽はRCサクセションで、彼女は忌野清志郎のファンだった。
僕とMの趣味は似ていて、とても馬が合った。
そんなMでも、アニメには理解がなく、
「あれは変態が観るものでしょ?。川原君、しっかりしよう!」などと言われた。
散々な言われようだよ。
だけど、当時はそんな時代だったな。良い時代になったよ。
だから総合格闘技の大会で桜庭がエヴァのマスクを被って、エヴァのBGMで入場してくれたお陰で、Mの誤解は解けた。
桜庭が日本の総合格闘技界に与えた影響が大きいことは誰も疑わないが、アニメへの偏見を払拭した功績も大きいと思う。
少なくともMと僕にとってはね。
Mが今頃、何をしているのか僕は知らない。
それは彼女が結婚するという話を聞いて、なんとなく連絡をとらなくなったから。
もう、平和島には住んでないんだろうな。
桜庭が新日の1・4東京ドーム大会で中邑真輔のIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦することどう思ってるのかな?
僕は楽しみにしてるよ。
桜庭は、今でも、エヴァのコスチュームで登場して頑張っているよ。
やっぱ、エヴァQは平和島に観に行くことにしようかな。

BGM. 杉田二郎「君住む街」


今日は文房具の話。

15/ⅩⅠ.(木)2012 くもり寒い
僕が普段の診察で使っているのは「BIC」のボールペン。
まとめ買いしてるので、一本当たりの単価は31円なり。↓。

昔、僕が勤めていた病院は、幾つもの大学から医者が派遣されて来ていて、
精神科ではとても有名な先生が何人もいて、とても勉強になった。
そこは500床くらいベッドがあり、各病棟には診察をするスペースがいくつも用意されていて、
診察をとても大切にする治療環境が整っていた。
診察テーブルにはペン立てがあり、常時、何本かのボールペンが入ってて、僕は主にそれを利用していた。
しかし、色々な医者がいるもので、文房具にこだわりを持つ人も少なくなかった。
「マイ・ボールペン」を白衣の胸ポケットにさしている人もいた。
むしろ、そういう人の方が多かったかな。
備え付けのペンを使用してるのは僕くらいだったかもしれない。
さっきも言ったけれど、その病院には色々な大学から医者が集まっているから、
皆がライバルで、切磋琢磨していた訳で、そんな僕の言い分は、
<カルテに書く道具でなくて、カルテに書く内容で勝負だ>
と思っていた。ま、言い訳だが。
ある日の僕は診察室で、床に万年筆が落ちているのに気がついた。
僕はそれを拾い、その万年筆でカルテの記載をしていたら、
急に別の病棟から呼び出され、
僕は急いで書き途中のペンを白衣の胸ポケットにしまって速やかに移動した。
数日後、医局(医者の集まる、学校で言う職員室のような部屋)で僕が書き物をしていたら、
気がつくとある偉い先生が僕の書く文章をもの凄い気迫で凝視していた。
僕は、<こんな偉い先生に注目されるなんて俺の腕もまんざらじゃないな>
といい気になっていた。
僕が書類を書き終えると、その先生は、「川原君、随分と高級な万年筆を使っているものだね」
と話しかけてきた。
僕は、<あぁ、これですか?。書きやすいんですよ>と答えた。
すると、その先生は、「高かっただろう?」と聞いてくる。
僕は正直に、<これは●●病棟の診察室で拾ったんですよ>と答えると、
途端にその先生は万年筆をひったくるようにして、
「これは私のだ~!。●●病棟でなくしてから、ずっと探してたんだぞ~!」
と真っ赤になって興奮して叫んでいた。
僕があっけにとられていると、その先生は正気に戻って、
「いや、見つけてくれて礼を言う。ありがとう」と頭を下げて、
人目もはばからず、愛おしそうに「マイ・万年筆」を撫でていた。
その先生とその万年筆の間にどんな感動的なドラマがあったのかを僕は知らない。
興味ないもの。
道具で思い出したのだが、王選手とかイチローなどの一流のバッターは、
これまた一流のバット職人にカスタムメイドの注文をして、
精密にバットをこしらえるらしい。
その工程をテレビで見たことがある。
重心の位置や、グリップの太さや、重さはグラム単位、それがプロのこだわりで、
それが偉大な記録を生み出すのだ。
それの対極にいるのが長嶋茂雄かもしれない。
長嶋の逸話はあまたあるが、どれが事実でどれが作り話なのか良く判らない。
僕が好きな話は、長嶋は家に自分のバットを忘れてきてしまい、
試合では土井だか黒江だかのバットを借りて打席に立ち、
他人のバットで劇的なホームランをかっ飛ばして試合を決めたという。
弘法は筆を選ばず、とはこのことだ。
僕も長嶋茂雄のスタイルにあやかろう。
だって、その方が断然、カッコ良いもの。
万年筆じゃない。BICで行こう!。


蛇と少女~千石撫子等身大ポップ

19/Ⅹ.(金)2012 くもり寒い
中野の「まんだらけ」で千石撫子(せんごくなでこ、以下なでこ)の等身大ポップが売っているという情報を入手。
先日、買ってきた。
それは西尾維新の「囮物語」の宣伝用に書店店頭に設置されていたポップ・スタンドである。↓。

なでこの性格は内気で恥しがり屋。
だから対人恐怖症みたいに前髪をひさしのように垂らし、帽子を深く被っている。
アニメ「化物語・なでこスネイク」の主題歌「恋愛サーキュレーション」は、恥しがり屋のなでこにラップを
歌わせてしまおうというアイデアで、そんな無茶振りに対してなでこは健気に歌い出しに「せ~の」と小声で
言ってるところが可愛らしいのだが、この子は蛇を大量に殺戮している実は恐ろしい面も持っている子であり、
そのギャップが萌えポイントのようだ。
下が、千石撫子がアニメ「化物語」に初登場した時のスタイルを再現したフィギュア。3種類を並べてみた。↓。

蛇で思い出したのだが、大学生の頃、蛇杖(へびづえ)をついて学校に行ったら、偉そうな先生に怒られたことがあった。
そんな物を学校に持ってくるな、と言う言い草なのである。
僕は大学生になってまで、持ち物を注意する人間がいることに呆れた。
まぁ、向こうも僕と同様、もしくはそれ以上に呆れていたのだろうが。
僕は反省文のようなものを書かされることになり、くやしいので桃井かおりの映画「もう頬づえはつかない」のパロディで
「もう蛇杖はつかない」とたった一行だけアンニュイな反省文を提出してやったら、偉そうな先生は元ネタを知らなかったらしく、
「もう蛇杖はつきません、だろう?!」と添削されてしまった。ギャフン!。
我校では卒業式に「ヒポクラテスの誓い」というのを暗唱する風習があるのだが、後で知ったことなのだが、
ヒポクラテスの師匠筋にギリシャの医神アスクレピオスという神様がいて、その神様のトレードマークが蛇杖なのだ。
杖は木・樹木、すなわち生命をあらわし、蛇は知恵を意味するから、蛇杖は医学を象徴するらしいのだ。
もっと早く知ってればな。
あの偉そうな先生に、「ひかえろ!、この蛇杖を誰だと思う。
アスクレピオス様だぞ」と助さん格さんみたいに啖呵を切れたのに。
ま、切らなくて良かったけど。
この蛇杖は僕がタイに旅行に行った時に、当地で大変気に入ってお土産にと20本くらいまとめて買い込んだのだ。
僕は蛇杖の束を抱えて、帰りの飛行機に乗ろうとしたら、ハイジャック犯か何かと間違えられ、警備員数人に取り囲まれた。
そのお陰で、僕らを乗せる飛行機の出発を数十分、遅れさせた思い出がある。
蛇杖は今も一本だけ残っていて、クリニックの入り口の傘立て付近に置いてあります。
良かったら探してみて下さい。
閑話休題。
何故、なでこが蛇を大量に殺したかと言えば、そもそもは恋愛事から逆恨みされて、中学生の間で流行していた
呪いのおまじないをかけられたからで、それを封じるための対処策としてであった。
しかし、それが災いして結果として、なでこは蛇の怪異にとりつかれて、縄のように二匹の大蛇に体を縛られてしまった。
主人公達の力を借りて助かるのだが、その儀式の時に蛇が見えるように肌を露出させるため、水着姿を披露している。↓。

「化物語」シリーズは、続編の「偽物語」もアニメ化され、なでこはそれにも登場する。
この時は怪異から解放されてか、別の理由でか、ピンクのカチューシャで前髪を上げ、おでこを出して変貌ぶりを見せ付けている。
どの位、変わったかを較べてみましょう。
まずは、下が「化物語」プレミアフィギュアくじC賞の千石撫子。前髪をたらしてる。↓。

そして、下が「偽物語」プレミアフィギュアくじC賞の千石撫子。前髪を上げている。↓。

そして、これが「偽物語」のなでこ小さいver.↓。

そして、これが「偽物語」のなでこキーチェーン。↓。

話をポップに戻します。これにはセンサーがついていて、近付くとなでこがそっと囁きかけてくれる仕組みになっています。
何と囁くかと言うと、「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」です。↓。

このポップは相談室の扉を開けた正面の壁に立て掛けてあるのだが、結構奥行きがあり、出っ張って通路を狭くしてるから、
だから普通に廊下を素通りしても、ポップのギリギリ前を歩くことになって、するとたちまちセンサーが反応して、
「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」
「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」
「お探しの本は見つかりましたか?なでこの探し物はまだ見つかりません」
と何度も連呼されて、その囁きの音量がまたデカくて、囁きのくせに大音響で廊下中にこだまするので、
相談室のカウンセリングの邪魔になって、徳田さんに怒られそうなので、普段はスイッチをoffにしています。
もし、なでこのウィスパー・ボイスを生で耳にしたい人はスタッフに要請して下さい。
スイッチをonにしてくれるでしょう。
そんなことを頼んで変な奴だと思われないかと心配しているあなた、安心して下さい。
スタッフはすでに僕で免疫がありますから。
勇気を出して、そっとスタッフに頼んで下さい。
千石撫子も勇気を出しておしゃべりしてくれます。↓。

人間って人それぞれだなぁ、と思うのは、徳田さんはこのポップを見て、作者の西尾維新がローマ字にすると、
どっちから読んでも、‘NISIOISIN’だということにある種の感銘にも似た驚きを抱いていたことで、でも本当だ。
徳田さん、よく気付いたね!。↓。

最後に全然関係ないけれど、これが蛇杖。↓。

BGM. 千石撫子(花澤香菜)「恋愛サーキュレーション」


レモン

30/Ⅷ.(木)2012 晴れ
ハワイ旅行に行くにあたって、何か書きかけのノートでもないかと漁っていたら、古い日記を見つけた。
ノートの始め2頁くらいしか使っていない。あとは、まっさら。丁度いい、これをワイハに持っていこう。
行きの飛行機でそのノートブックに目を通してみる。昔、どんなことを書いていたか気になったから。
そこには、どうやら友人の主催した合コンが舞台で、そこで知り合った女子とのやりとりが記載されていた。
よほどインパクトがあったんだろうな、読んでて思い出したもの、その子のこと、<いたなぁ~>、って。
その子との第一次接近遭遇の模様は以下のようである。
女「あなたは人を外見で判断すると思ってる」
僕 <そんなことない。僕は決してそんなことはないよ。人からもそんな風に言われたことはない>
女「そうじゃなくて。
  人がみんな外見で判断すると思ってるでしょう?。でも、そんなことはないわ。ダイジョーブよ」
僕 <(何のこっちゃ?)>
女「コンプレックス!」
こいつはよほど俺がモテないと思ってるのだろうか?。
と、日記には記されていて、この会話の後も、彼女はフェミニズムみたいなことを延々と喋っていて、
僕はその場で、「レモンちゃん」というあだ名をつけている。由来は落合恵子、『くれよんハウス』の。
落合信子じゃないからね、念のため、信子は落合博満夫人。
僕は、その後、それでも数年はレモンちゃんとたまに長電話などをしたりする仲だった。
僕の国家試験のための勉強が本格的になり、レモンちゃんも社会人になり、お互い忙しくなって、連絡が途切れた。
今、こうして思い返してみるとレモンちゃんって、ちょっと痛い子だったな。
でも、不思議と気が合ったんだよな。
あっ、別に不思議じゃないか。レモンちゃん、元気かな?。
ちなみに日記の日付は、’88.4.22(F)となってる。24年前のノートを再利用なんてすごいな。
BGM. ザ・スパイダース「ノーノーボーイ」


スランプ

25/Ⅳ.(水)2012 晴れ、暖かい
そもそもの始まりは、「巷では院長はブログをやるものらしい」と聞いたからで、
<しまった、そうだったのか?>とお調子者みたいに始めたのがきっかけだった。
通常の院長ブログは、医療の啓蒙的な普及や、診療のインフォメーションだったり、
世間を賑している現象を精神医学的な角度から解説するものが好まれる姿のようだが、
僕は自分の好きなことや見て来たものをつらつらと書いている。
すなわち、自ずと僕自身のパーソナリティーをさらしてるようなものだ。
知り合いからは、「よく、あそこまで自己開示できるね」、と感心されたり、驚かれたり、
リスペクトされたり、畏れられたりする。
反応は様々だけれど、底辺に流れている共通した認識は、呆れている、という感情みたいだ。
それでも、物を書くというのは、僕にとっては自分の心身の健康に良いらしく、
毎回、自分の趣味に皆さんを付き合せているのも気がひけるので、穏やかな季節におだてられ、
ちょっとした出来心で「桜」の写真を撮影して、手抜きした記事を3回くらい連続で載せたりしました。
そうしたら、案外、その反響が良くて、コメントも普段の3倍くらいあって、ビックリしました。
冗談で徳田さんに、
<渾身の力を込めて書いた「格闘技」とか「落語」の記事より、「桜」の写真の方が上、って書く気なくすな>と、
言ったら、言葉というのは力があるんですね、言霊とは良く言ったもので、本当に何も書けなくなってしまったのです。
書きたいと思ってた記事は幾つもあるんだけれど、
たとえば「しょこたんバスツアー」とか「北山修と杉田二郎のコンサート」とか「志らくの落語独演会」とか、
「書きたい~want」内容がいつのまにか「書かねばならない~must」とか「書くべきこと~should」になっていて、
宿題みたいで、途端にペンが進まなくなってしまったのです。
ブログ開始以来、初のスランプです。
じゃ、なんで、今書いているのかというと、
「でしたら、そのまま書けないということを、ブログに書いたらいいんじゃないですか?」と徳田さんに言われたからで。
<なるほど、そうしよう>と思って。
言いなりみたいで、シャクだけど。
今はまた時期も悪くて、やらなきゃいけないことが沢山あって、
たとえば「新しいナゾナゾを作る」とか「ホームページ用のカウンセリングの新しいお知らせを作る」とか
「薬のアンケート調査」とか「クリニックでかける新たなBGMの選曲」とか。
昔、試験直前にマンガを読んでる奴がいて、<お前、そんなんでいいの?>と聞いたら、
そいつは「何もやることがないんだよ」と笑顔で答えるのだけれど、
よく聞いたら、そいつは何も勉強をしていなくて、「何から手をつけていいのかわからない」ことを、
「何もすることがない」こと、と錯覚していたのだった。
<とりあえずここだけは出るから丸暗記しときな>と教えてやったことがあったけれど、今の僕はそいつの心境に近いかも。
悪いことに、そういう時は色んな方面にも波及して、気候も悪いでしょ、疲れるし、スタッフの入れ替わりも激しくて、疲れるし、
テレビや新聞は嫌なニュースしか流さないから、疲れるし、
そういえば「疲れる」って言葉と「憑かれる」って言葉は語源が一緒だから、「疲れた~」って言わない方がいいよ、「憑かれるから」。
そういう時は、「くたびれた~」って言った方がいいよ、と大昔、オカルト研の女子に教わったことがある。
それにしても世間の大人はどうかしてるな。
特に40代、50代が酷いな。
まだ若い子の方がちゃんとしてるよ。
40代、50代ってオレの世代だ。
イヤだな、あんな奴らと一緒にくくられるの。
世の中の「普通」の基準とか、社会のシステムとかルールや決め事が馬鹿げてることが多すぎるよ。
若い子はいいな、「人間嫌い」とか「大人不信」とか言えるから。
僕がそんなことを言ったら、良くて「同属嫌悪」、そもそもそれらを作ったのも僕らの世代の責任だから、
結局は「自己否定」とか「自己嫌悪」にしか行き着かない。
あっ、でも、悪くても、しっぺ返しか。
オカルト研じゃないけれど、僕はスランプの時にいつもお守りのように「ある人形」と一緒に寝る。
それは、いつからか家にいて、誰が家に持ち帰ったのかは家族の誰も心当りがなかった。
きっと、プレゼントかどこかのお土産で買って来たのだろうが、その行為自体を当人が忘れてしまっていたにちがいない。
この人形は、僕が物心がついた頃には家にはいなくて、僕が中学生の時には記憶にあるから、
多分、小学校の頃に家に来たのだろう。
昔の家族も今の家族も、(構成員は別なのだけれど)、皆、こぞってこの人形を不気味がる。
だから必然的に人形は僕の部屋に飾られている。もう3~40年になるのか。↓。

残念ながら、この人形に何か特別な力がある訳ではなくて、ただ、僕の中学受験のための塾通いの頃から中学合格、その後の僕の生活をずっと見てきて知ってる存在なのだ。
僕がマンガを読んでいる時も、投函しそびれたラブレターを書いていた時も、ホルンの練習をしていた時も、
深夜ラジオを聴いていた時も、友達が遊びに来て馬鹿騒ぎしてる事も、
親に隠れてウイスキーをこっそり飲んだことも、憬れのアイドルのピンナップも、
好きなプロレスラーのポスターも、僕のお気に入りの歌手とレコードも、
整髪料で髪型に異常にこだわって鏡の前に立っていた姿も、それから、僕の喪服姿も何度か見て知っている。
僕の歴代の彼女も、友人も、一回きりの人も僕の部屋に遊びに来たことのある人は皆会っている。
今も、僕の部屋に来れば会えます。
昨日、僕は人形を枕元に座らせて、久し振りに一緒に寝た。最近、スランプだからね。
そうしたら、奥さんが株で大儲けしたので熟年離婚しよう、と言い出した夢を見た。
(ちなみに、奥さんは株はしない)。
目が醒めて僕は人形に、
<まさかとは思うけど、確かにお前は女だし、母親が死んだ今、お前が一番、オレとの付き合いが長い女だけど、
だからって、嫉妬して変な夢を見させたんじゃないよな?>と問い詰めた。
いい年して人形と話すってのもおかしな話だが、半覚醒の僕は結構マジで、
<頼むぜ、お前くらいは、そういうのなしにしてよ>と懇願するように、寝返りをうつ体勢で話しかけると、
ベッドの振動で人形はわずかにコクリとうなづいたように動いて見えた。

BGM. RCサクセション「君が僕を知ってる」


就職

22/Ⅲ.(木)2012 はれ、暖かい
こういうご時勢だもの、就活は大変そうですね。
服装とか髪型もちゃんとしないといけないんでしょう?、大変だね。
バンバンの「『いちご白書』をもう一度」では、
就職が決まると髪型をちゃんとしなくてはいけない、と言った趣旨の事を歌っていましたが、
平成になって24年も経つというのに、そんな慣習がまだ残っているんですね。南無三。
思い出すのは、昔、NHKの「YOU」という若者番組に白井貴子がゲストで出演していて、
「就職」がテーマの回で、白井貴子が就職面接にTシャツにGパンで行ったら、
面接官に「あなたは何故、スーツを着て来なかったのですか?」と質問され、
<私自身を見て欲しいから!>と自信満々に答えたら、
面接官に、「就職面接とは、TPOに合わせた格好が出来る人物なのか、も見るポイントなんだよ」
と諭されたという話をしていて、僕はすこぶる嫌な気分になったのを覚えている。
僕が、高3の頃かな。今でも、思い出せるよ、あの嫌な気分。
白井貴子は当時、自分のジャンルを「ロック」と言っていたからね。
<ロックが、TPOに合わせるか?>とテレビに向かって文句を言ったよ。
まぁ、別に白井貴子が悪い訳ではないんだけれど。
この番組は、少なからず、後々の僕の人生に影響を与えた。
今から10数年前かな、僕は児童・思春期の治療をしたいと思った。
日本では数少ない児童・思春期を専門にやっている伝統のある病院に、
ちょっとした縁があり、面接を受けられるチャンスをもらった。
そこは、「行きたいです!」と言って、おいそれと行けるような病院でもなくて、
一応、公的な病院なので採用されると公務員の扱いになるし。
精神科の部長さんとの面接は好感触だったが、
「あとは病院長との面接があるから、そこでしくじらないように」と助言された。
その時、さっきの白井貴子の面接官のセリフが、
バンバンの「『いちご白書』をもう一度」のBGMに乗って、
僕の脳裏をかすめたのである。
そこで僕がとるべき行動の正解は、美容院に行って髪を染める、であった。
その病院には患者向けの病院報があり、そのタイトルが『みどりの〇×』だったので、
僕は、髪の毛の色を緑色に染めることに決めた。
だけど簡単に緑に染めると言っても、黒髪を緑にするのは結構大変で、
ブリーチでまず脱色して、髪が白っぽくなったら、その上に緑色の染料を塗るのである。
まだ、初音ミクなんていない時代だった。
そうやって、病院長との面接に挑んだ。
「病院」と「美容院」って、響も似てるしね。
病院長は、「何故、あなたはそんな髪の色をしているのですか?」
と紳士的に尋ねられた。
僕は健康的に<病院のイメージカラーにしてみました!>とさわやかに返答した。
さすが、そういう病院の病院長ともなると器が大きいもので、
「そういうセンスは、子供向けでいいですね」とうなづいて、見事、僕は合格した。
合格すると今度は、職員向けの会報誌に、同時期に採用されたメンバーと一緒に、
アンケート形式の同じ質問に答える自己紹介記事が載るのだが、
その最後の質問が「あなたのモットーは?」というものだった。
僕は、‘モットー’ってのも死語だな、と思いながら、ふざけて、
<いや~ん、モットー!>と書いて提出した。
なんと、それは検閲をパスして、そのまま刷られて全職員に配布された。
僕は、器の大きい病院だな、と感心した。
さすがに怒られるかな、と思ったけれど、ちゃんとチェックしなかったのかもな、係の人が。
そんな採用面接の思い出でしたが、実は今回、カワクリにも新しい人が入りま(す)した。
受付の仕事量も残業時間も増えて来たので、人員を補充した訳です。
新しい仲間が、心理も含め、2~3人増えそうです。よろしくお願いしますね。
詳しくは、あらためて紹介します。
アンケート形式の自己紹介記事にしようかな。
勿論、最後の質問は、「あなたのモットーは?」で。
下は、今週のお花、白と黄色のチューリップ。ういういしいでしょう?。↓。

BGM. 戸松遙「motto☆派手にね!」


野球部OB会

3/Ⅲ.(土)2012
数日前のブログの記事にも書いたが、こないだの大学の同窓会で、
僕が1年の時の野球部のキャプテンと遭遇し、キャプテンは獨協高校の卒業生で、
僕にしたら高校&大学&野球部と3つの先輩にあたる人物で、
なかば強引に(って言い方もないな。訂正、親切に)誘われて野球部OB会に参加することになった。
場所は、渋谷セルリアンタワー。
土曜日は外来なので、遅刻して合流。こういう会はちょっと遅れて行くくらいが大物っぽくて丁度良い。
…って、発言が小物っぽいですが。
テーブルが幾つか有り、一番奥が初期のメンバーで、順々に年代毎に輪になっていた。
だから、入り口から入ったら知らない顔ばかりだった。
僕は、知ってる顔を探して歩いて行ったら、結局、一番奥のテーブルに行き着いた。
皆様、威厳がある。僕が1年の時の幹部達だ。下は、当時の写真。
尚、プライバシー保護のために先輩方の顔にはゴリラのシールを貼っておく。↓。


僕は、諸先輩方に挨拶がわりに、先日の「しょこたんファンクラブ日帰りバスツアー」で撮った
中川翔子とのツーショット写真を見せびらかした。
先輩方の口からは、
「お前、何やってんだ?」「まだ、こんな事をしてるのか?」「誰だこれは?」「知ってるぞ、‘ひょこたん’だろ」
などと鈍い反応が返って来た。
しかし、いくら何でも‘ひょこたん’はないだろう。
‘ひ’と‘し’の区別がつかないのか?江戸っ子か?。
それでも空気は温まり、そのうち先輩方の口からは、
「俺は、理解できる」「俺には、川原の気持ちがわかる」「俺も、実は○×のファンなんだ」
「もしAKBに会ったら、紹介してくれ」などと一部、訳のわからない発言もあるが、
結局、皆アイドル好きで、盛り上がった。
僕が1年の時の文化祭で野球部は喫茶店を模擬店として出し、
僕はそこで歌謡ステージのようにアイドルのアテブリをした。
下が、当時の模様。曲は、多分、早見優の『急いで!初恋』。↓。


「川原君?」と今までとは異質の声のトーンで呼びかけられた。
それは、僕が1年の時の野球部のマネージャー(女子)だった。
彼女は、当時、看護学校の2年生で、マネージャー(女子)とはいえクラブの先輩だった。
僕は彼女にずっと本を借りっ放しで、その本は今も部屋の本棚にあるから、
それを見るたびに、今でもマネージャー(女子)のことを思い出していて、
でももう返す機会もないだろうなとずっと思っていたから、再会できてビックリした。
彼女は、「ここのテーブルの人しか判らないわ」と言い、
「でも、みんな、変わらないね」と当時と変わらぬ笑顔で言った。
マネージャー(女子)は、
「川原君は、うさぎ?」と年を聞くから、僕は<とら>と答えると彼女は驚いて両手で自分の口を隠し、
「うさぎかと思った…。年上なんだ…」と絶句していた。
僕は浪人してるからね。
下が、当時のマネージャー(女子)とのツーショット写真。
尚、プライバシー保護のためにマネージャー(女子)の顔にはうさぎのシールを貼っておく。↓。


結局、僕は最後までのことは言い出せず、バレたらどうしようとビクビクしていた。
今、考えれば、これから返せばいい、だけなのだが。
ここまでだと、あまり野球部っぽくないですね。
そこで、野球をやっていた写真を紹介しましょう。
下は、僕が1年の時の東医体(東日本医科学生総合体育大会の略)、場所は仙台。
僕はサードの控えで、隣に写ってるのがサードのレギュラーのY先輩。
Y先輩は、我が道を行くタイプで、今回のOB会にも来てなかった。
きっと、我が道になかったのだろう。
尚、プライバシー保護のためにY先輩の顔にはラクダのシールを貼っておく。↓。


下は、僕がレギュラーをとった頃の春合宿だ。
寒かった。ユニフォームの上に、HAKKAのトレーナーを着て遠投をしてるところ。↓。


僕はこの頃から、野球に飽きて顔を出さなくなり始めた。
幹部達は、そんな僕に責任を持たせるために、僕を副キャプテンに指名した。
でも、その作戦は裏目に出て、
僕は<なんかそういう手はこすいな>と思って、先輩達の厚意を裏切った。
僕は、子供の頃から飽きっぽくて、色んな習い事をやったがどれも長続きしなかった。
中学でブラバンに入ってホルンをやるが3年の途中で飽きて、打楽器に転向。
それも結局、飽きてやめてしまった。
飽きてやめるのだから、やめ方も中途半端で、どれもフェイド・アウトだった。
それでも、大学の野球部の人達はやさしくて僕が卒業をする時には、
「追い出しコンパ」に呼んでくれた。
卒業アルバムにも、野球部として写真を載せた。
ユニフォームが新しくなっていたので、後輩のを借りた。
写真撮影だけだから、サンダル履きのままで撮った。↓。


そんな僕でも、今の仕事だけは飽きずにもう20年以上もやっている。
だから、もし、「自分は何をしても長続きしなくて駄目だ…」と思ってる人がいたら、
何か自分に合うものが見つかれば、きっと長続きするので、
そんな風に悪く自分を決めつけない方がいいと思う。
夢中になれるものなんて、一生のうち、1つあればいいんじゃないか?
人生、長いしね。
人生は野球みたいなもの。
野球は9回ツーアウトからだよ。
まぁ、そんなことはどうでもよくて、今宵は懐かしい人達と逢えて楽しかったです。
それも偏にこの会に誘ってくれた、キャプテンのお陰です。
山田さん、ありがとうございました。
BGM. よしだたくろう「Have  A  Nice  Dayー天然色写真編」(フジカラーCMソング)