それで思い出したのですが

22/Ⅸ.(木・祝)2016 雨
こないだお話しした、「サザエさん」の堀川君、観てみました?
僕が観たのは先々週。
ワカメが、サザエとカツオは似てる、と言われるのに、姉妹なのに自分だけ似てないと悩んでる回でした。
堀川君は、ワカメの同級生ですから、教室でワカメが女子と話してる所に割り込んで来ます。
「ワカメちゃんが、カツオ君よりサザエさんに似てる点はあるよ」と言うと、ワカメが<何?>と食いつきます。
すると、堀川君は、「スカートが似合うところ」、と答えて出番が終了します。
まぁ、軽いギャグかな、と思って見過ごしてしまった方も多いのではないでしょうか?
僕も始めはそう思いました。
しかし、別の回の、カツオがイガグリ坊主コンテストに出る回とセットで考えると味わいが深まって来ます。
イガグリ坊主コンテストは優勝者に栗が1年分もらえるから、それに目がくらんだノリスケさんが勝手に応募します。
これを知った波平(僕と同い年)に叱られて、取りやめますが、クラスメートの花沢さんも同じ事を考えます。
花沢さんと彼女のお父さんは、カツオを連れて町の写真館に行きます。
1次審査は写真選考なので、せっかくだから良い写真を撮ろうという訳です。
カツオは、波平に怒られたばかりなので、ビクビクして家に帰り、家でもオドオドしています。
寝る時もサッサと布団をかぶってしまいますが、ワカメ(同じ部屋で隣に布団を敷いて寝てる)から、
<お兄ちゃん、今日、写真館に行った?>と聞かれて、ビクッとします。
カツオは、「行く訳ないだろう。おやすみ。」と嘘をつきます。
すると、ワカメがボソっと、<堀川君が、お兄ちゃんを写真館で見た、って言うから>と言って、場面が変わります。
堀川君の出番はなしでした。
しかし、どうでしょう?
この二つのエピソードを繋げて考察すると、いくつかの堀川君の倒錯的な側面にぶち当たりませんか?
まず、堀川君は、カツオを尾行している?堀川君の狙いは、「ワカメ<カツオ」?
そして、そこを抑えて、堀川君の発言を振り返ってみましょう。
「ワカメちゃんが、カツオ君よりサザエさんに似てる点はあるよ」「スカートが似合うところ」
これはジョークで女はスカート(男はズボン)と言っているのではなく、
堀川君は、脳内で何度かカツオにスカートを穿かせていたのではないでしょうか?
その上で、やっぱり、スカートはワカメちゃんの方が似合う、というマジな見解を述べてたのかもしれません。
そうなると、サザエさんのスカート(これは見てて当然)同様に、マスオさんのスカート姿も想像してるかも?
という期待が膨らみますね!
これからも、堀川君の言動をチェックして行きたいと思います。
アニメの話で、思い出したのですが、今度、CS放送の「キッズ・ステーション」の新番組で「おそ松さん」が始まります。
うちのブルーレイが勝手に予約してくれてました。
しかし、いきなり第2話から始まるようです。キッズは第1話を喜びそうですが、やっぱり駄目なんでしょうね。
ブルーレイが勝手に予約してたで思い出したのですが、Eテレの「SWITCHインタビュー」という番組で、新海誠を観ました。
川上未映子とそれぞれの作品について質問し合う番組で、聞き手が語り手の仕事場に行き、場面を SWITCHする訳です。
知らない人もいるかもしれませんから、一応説明しておくと、深海誠、とは今ブームのアニメ映画「君の名は。」の監督です。
ちなみに、僕はこの人の映画を1本も観たことがなく、でも、異常に評判が良いので、いずれ観ようと思っています。
何も知らないのに、こんなことを言ったら、怒られそうですが、僕はこの番組を見て、「君の名は。」を観る気が失せました。
それというのも、これも勝手な偏見なのですが、この人、饒舌過ぎませんか?この人も、この人の作品も、どっちも。
本来、映画や芸術って、言葉にならない部分を表現するのが役目じゃないのかしら?
だから、あんまり語られてもなぁ。
言葉は気持ちを伝える道具として、人間があみだした最高傑作だとは思いますが、と同時に言葉は心の近似値に過ぎず、
決してイコールにはなりませんね。
高校生の頃に結構悩んだものです。
女はすぐに言葉を欲しがりますが、吉田拓郎じゃないけれど、言えないことは勇気のないことかい?、などと思ったものです。
言う気がない、と勇気がない、の駄洒落ではないですからね、言われる前に言っておくけど。
高校生どころじゃないな、二十歳くらいまで、そんなことを真剣に考えていましたよ。
当時の日記にたびたび出てくるテーマです。
つまり、心は言葉にすればする程、想いからズレて行ってしまう。
「愛してる」という感情と「愛してる」というセリフはまるで別物のような気がしていました。
「愛してる」なんて言葉にした瞬間に、それはまるでシャボン玉のように、相手に届く前にこわれてしまいそうで。
こんなことがいっぱい当時の日記帳に綴られています。
きっとフラレタ負け惜しみなのでしょう(笑)
愛してる、という言葉で、思い出したのですが、加山雄三、大変ですね。ゴーストライター騒動。
文春に取り上げられてた作品の一つに、「恋は紅いバラ」がありましたが、あれは中1の頃によく聞きましたが、
♪アイラブユー・イエスアイドゥー♪、しか英語の歌詞がなかった気がしますが。
もしも、それが今回の騒ぎのゴーストライターの主張してる仕事だったとしたら、ちょっと萌えますね。
ゴーストライター騒動で思い出したのですが、RCサクセションの名曲「スローバラード」のクレジットを見たことありますか?
作詞・作曲に忌野清志郎と並んで、みかん、と記されています。
みかん、とは清志郎の飼い猫の名前で、ある日、清志郎が、みかん、の金玉にマンキンタンを塗ってジャレていたら、
みかん、が悶絶して発したよがり声が、「き~の~は~車の~中で~」というメロディだったそうです。
それで、作詞・作曲のクレジットに、みかん、の名前も一緒に載っけてるそうです。
加山雄三もそのくらいのユーモアがあったら良かったですね。
な~んて茅ヶ崎の大先輩にそんなこと言ったら怒られそうだ。すみません、先に謝っておこう。
先に謝るで思い出したのですが、三田寛子の謝罪会見は評判が良いですね。
僕は三田寛子のことはデビュー曲から知っていて、CBSソニーから出たイメージ・ビデオ「映・像・少・女」(β)も持っています。
3曲目の「駈けてきた処女(おとめ)」のクライマックスは、
果物を並べたテーブルに、三田寛子がはんなりとうつぶせてて、視線だけはしっかりこちらを見てて、
曲調が変わる瞬間に片手を払いのけるポーズで果物を一つ残らず、
テーブルから落すシーンがインパクトがありました。さすが、井上陽水、という感じの名曲です。
三田寛子は「花の82年組」だから、頭角を現すのはちょっときついかな、と思っていました。
そんな彼女にとってのターニング・ポイントは、プロポーズ大作戦の正月特番で、フィーリングカップル5vs5、
に出たことだと思います。
美人歌手5人組と素人の大学生5人組の公開お見合いで、昔は松田聖子とかも出てた。
1枠がリーダー的に可愛い子(たとえば聖子)で2~4と好みを取り揃え、5枠で落す。
主に、研ナオコとか和田アキ子がその位置にいた。
83年の正月、1枠は早見優、2枠は中森明菜、三田寛子は3枠で出場、4枠が堀ちえみ、5枠は中原理恵だった。
中原理恵はもう欽ドンで新境地を定着させていたから、この時点での5枠は妥当。
番組的には、早見優で「かわいい~」を掴み、中森明菜、三田寛子、堀ちえみが加速させ、
中原理恵で落す鉄板の布陣だった。…はずだ。
実は、この放送のビデオも僕はまだ持っているのだが、番組の流れをことごとく、三田寛子が止めるのである。
お正月だから艶やかな晴れ着を着て、おっとりした京都弁で男性陣からの質問に答えるのだが、
<デートに誘われたらどうする?(あるいは、プロポーズされたら何と言う?)>に対して、
「いや~ん」とか言って、照れて、振袖で顔を隠して答えない。
司会者は、とにかく中原理恵で落したいから、<ちゃんと答えて>とせっつく。
すると、三田寛子は、「じゃ~、お月さんが来たー、って言って空を指差して、その隙に逃げます」と答える。
終始、こんな感じで、中原理恵は完封されてしまった。
ウブというのか、まだ世間が「天然」という共通語を持たない時代だった。
翌週くらいに、三田寛子は「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングに呼ばれ、そこでもスパーク!
その翌月くらいから、月曜レギュラーになって「寛子のお菓子大好き」というコーナーを結構長くやっていた。
僕は学校があったから、毎週、録画して見ていた。
このコーナーは人気があって、同じタイトルのお菓子のレシピ本も発売された。
僕も買った。まだ持ってる。
そんな彼女が今回、立派な記者会見をやって、なんかしみじみとしたものだ。
僕は三田寛子のステップ・アップの瞬間の空気と同時代を生きてきたとも言えるのだ。
ステップ・アップの瞬間の空気と同時代を生きてきた、で思い出したのだが、やはりBABYMETALでしょう。
つらい時に助けてもらった記憶もある。
19(月)行って来ましたよ、コルセットRED NIGHT、東京ドーム。
2014年の武道館巨大コルセット祭りの時のコルセットは診察室の入口に飾ってありますが、
あの時はビニールに綺麗に封入にされていたから、開けるのが躊躇われた。
しかし、今回はむき出しの状態で渡されたから、すぐ首に巻きました。
判らない人のために説明しますね。
メタルでは首だけを振る「ヘドバン」があるので、首を守るために(?)首に巻くコルセットを配るのが定番になっています。
実際的には演出の一部で、武道館は暗がりの中が、真っ白になりました。
今回はさらに進化していて、ハイライト・シーンで光る仕組みなになっていました。
コルセットの白いボタンがどうも信号で一斉に作動するみたい。
開演前に係員から、「コルセット逆です。白い方を外側にして巻いて下さい」と直されちゃいました。
よく3人の中で誰が好きですか?と聞かれますが、それはべビメタに限らず、「けいおん」でも「ベルハー」でも、
返答に困ります。基本は、「箱推し」っていうのでしょうか、皆でやってるところが好きなのです。
キャンディーズやピンクレディの時代は、「スーちゃん」と「ランちゃん」のファンが張り合ったり、
「ミーちゃん」と「ケイちゃん」の2人がどっちが可愛いかで熱くなったりした上で、
「キャンディーズ」と「ピンクレディ」のファンが対立してる、という極めてインマチュアーな応援の仕方を、
芸能界全体があおることで(明星とか平凡がよくやってた)アイドル文化を盛り上げていたが、
今は和気あいあいだ。ベルハーのファンと、ゆるめるモ!のファンは仲良さそうだもの。
そんな背景があって、あえて誰か1人と言われることが多く、毎日、僕は<なんだかな~>と疲れているのだが、
一々、説明するのも不経済なので、ある時から誰か1人の名前をあげることにした。
「けいおん」は唯ちゃん=父と同じ誕生日だから。
「ベルハー」はみずほ=唯一の初期メンバーで度重なるメンバーチェンジのうち、自覚が出て、ベルハーを引っ張っていこう、
という姿勢の芽生えのプロセスを見てるから。
「べビメタ」は、ゆいメタルにしている。
15歳のもあ&ゆいの生誕祭は、「ゆい」の回が当たったからという赤い糸がきっかけで、
武道館の転落事故の後にみせた根性が決め手だ。
ちなみに、すうメタルの生誕祭も当たって観に行ったが、豊洲ピットは床が平坦で、あれは全然見れなかった。
豊洲で思い出したのですが、最近は築地から豊洲への移転問題のニュースばかりやっていますね。
お寿司は安全に食べたいものですが、最近は回転寿司でシャリを残す女子が多発していて社会問題にもなっていますね。
シャリを残すで思い出したのですが、逆にシャリが好きで好きでしょうがない、という女子と昔、仲良しだったことがあります。
彼女は単純に酢メシが好きらしいのだが、良いところのお嬢さんなので、シャリだけを頼むって発想がなかったみたい。
何の流れだったかは忘れたが、僕は彼女と、彼女のお家の行きつけの寿司屋に行って。
カウンターに並んで座って、その時に僕は告白されたのです。
「わたし、シャリが好きなの」って。
僕はだったら、と板さんに<この子にシャリだけ握って。上、いらないから>って注文した。
彼女は真っ赤になって、「そんなの駄目よ」と言っていたが、板さんは良い人でニコニコして握ってくれていた。
僕は大変感謝されて、お礼に「オペラ」に誘われた。
恥ずかしながら、オペラなんてハイカラなものを生で鑑賞するのは、後にも先にも、その1回だけ。
それはどうやらものすごく有名な演者がものすごく有名な演目をものすごく有名なオペラハウスで行うものらしく、
ものすごく良い席だった。
良い音楽とは人の脳に直接働きかけてリラックスさせるから、僕は開演後、数分で寝てしまった。
それ以来、その子は僕に対して機嫌が悪くなり、素っ気無い、というより、楯突いて来るようになって、
ホトホト困った。
開業医の一人娘なんて、ワガママで付き合いきれんよ。
シャリを残す女も、シャリだけ食べる女も大差ないよ、ってお話でした。本当か?
BGM.三田寛子「駈けてきた処女(おとめ)」


夏の思い出

8/Ⅷ.(火)2016 はれ 暑い! 
今はオリンピックのシーズンだが、僕はまずオリンピックやサッカーのワールド・カップなどを観ない。
とにかくイヴェントっぽいものや風物詩のように皆でにわかに盛り上がるものが嫌いだ。
プロ野球の日本シリーズや高校野球も観ない。
昔は観てたから、いつからこんな屈折した性格になったのだろう。
早く直さなければ。(うそ)
ところが、今日、久し振りに、甲子園の放送を生で観た。
大会2日目の第2試合に出る、大分高校の女子マネージャーがなかなか可愛いと評判だから。
僕らが二十歳を過ぎた頃、「いつからが大人か?」という議論をよくしたものだ。
選挙権とか、車の免許をとれるとか、酒が呑めるとか、パチンコに行けるとか、ポルノ映画館に入れるなど、ではなく、
もっとメンタリィティーな命題だった。
その結果、当時、1番説得力があったのが、「高校野球の球児をみて、全員が年下にみえること」だった。
これは今の若者にも通用するのかな?
ちなみに、僕は全員、年下に見えましたよ、今日。
高校野球のマネージャーで思い出したのだが、僕が高1の時に通っていた学習塾で一緒だった女子がそうだった。
彼女は、塾で1番可愛い女子で、一緒に海水浴に行ったこともある。
その塾には電話魔の女子もいて、その子が僕とその子をくっつけようとしていた。
あれ、これは前にも書きましたね?(「電話の話」2013年4月の記事)
で、その可愛い女子が、夏場になると、ノー・スリーブの服を着て来ていて、彼女が伸びをするたびに男子たちが、
彼女の脇の下をみて興奮していた。それは彼女が脇の下の毛をそのままにしていたからで。
僕は彼女と帰り道が途中まで一緒で、僕らはいつも同じホームで別の電車を待っていた。
僕は彼女に、<ノー・スリーブ、やめたら?>と言ったら、彼女は、「不自然なことはしたくないのよ」と言った。
それでも、彼女は翌日から、Tシャツを着て来るよになった。
時系列でいうと、その後に僕らは海水浴に行ったことになる。
その時に彼女がどうしていたのか覚えていない。多分、記憶からデリートしたのだと思う。
僕はこのやりとり以降、彼女に限らず、薄着の女の子がいると過剰にそこに目をやらないようになった。
少し、強迫的だったとも思う。
友人に「脇坂」という男がいたが、彼の名を、<日本一、ひわいな名前だ>と思ったことさえある。
今はそこまで極端ではないが、すっかりクセになっていて、だから薄着の女性をチラチラみなくて、
セクハラと間違われる率も低くて、結果オーライだ。
なんて思っていたら、最近の若い女性の間では、脱毛をしない、というのがブームのきざしだと聞いた。
理由は、自然なままで、ということらしい。
本当?
BGM. 吉川晃司「サヨナラは八月のララバイ」


番外編④~さらば過去の栄光

19/Ⅶ.(火)2016 はれ
中1の時、陸上部か野球部かブラバンで迷った。
僕は芸能人野球大会みたいな野球をしたかったのに、1番お洒落をしたい時期に丸刈りなどは考えられず。
したがって、野球部はなし。
陸上部は見学に行ったが、顧問の教師が、「お前は小さいから要らない」という目をしたから、
<せいぜい、ウドの大木でも集めてな>と言って、ブラバンにした。
小学校の時にトロンボーンを吹いていたが、‘レ’の音が遠いので、ホルンに転向した。
こうして僕の体育会系の才能はもったいなくも発揮されないでいた。
マラソン大会も、「たりぃから、後ろの方でゆっくり行こうぜ」という偏差値低目の奴らの誘いに乗って、
俺はまだ本気出してないだけ、の状態が続いていた。
友達のせいにしてはいけないが、友達で変わることもある。
高3で親しくなった友人は、熱血ボーイだった。
彼にとってはマラソン大会も重要なイベントで、前もってランニングなどのトレーニングをしていた。
僕も付き合って、走ったりしていた。
本番、僕はスタートダッシュで行ける所まで行こうと、短距離走の要領で走った。
友人は「そんなに飛ばすな!」と後ろからゲキを飛ばしたが、ペース配分とか考えるのはカッコ悪い気がしたし、
高3だし、最後だし、サムライはたとえ目の前が泥水でも前向きに倒れると言うし、どんどんダッシュした。
マラソン大会の上位の常連や運動部の主軸メンバーは、僕に追い越されるたびに一様にビックリした顔をしていた。
そして、僕はペースが落ちる事もなくゴール。銀メダルを取った。
それから僕の体育会系の潜在能力はムックムクと頭角を現した。
体育の授業でも、50m走は6秒2、でクラス1位。
走り幅跳びや走り高跳びも1番だった。
僕のことをクラスメートが、「鳥人」と呼んだ。
鳥のように宙を舞う姿と「超人」を引っ掛けたのだろう。
…ひょっとしたら、僕が自分で命名して、皆にそう呼ぶように強要していただけかもしれない。昔のことなので、覚えてないや。
当時、うちの高校には筑波大学の体育学部の推薦入学の枠が採用されて、僕は体育教師から、
「川原、お前、筑波に行かないか?」と白羽の矢を立てられた。
その教師こそ、僕が中1の時に、僕を追い帰した陸上部の顧問だった男で、僕は6年越しで見返してやったのである。
僕は子供の頃から精神科医になるつもりだったから、進路は医学部以外は考えてなくて、推薦は断ったが、
案外これは僕の自己評価をアップさせるエピソードで、いざという時に、
<俺は、筑波の体育学部に推薦をされそうになった男>という後ろ盾が、気持ちを大きくさせていた。
意外と人間なんて、そういう利子で食いつないでいる生き物なのかもしれない。
ところが、先日、お昼ご飯の時に高校時代の話になり、受付のミクちゃんに、「50m走が6秒1」だったと聞いた。
6秒1?
俺より、0秒1、速いじゃん!
僕の頭の中で精神的支柱のようなものが音を立てて崩れた。
その日の夢に陸上部の顧問が出てきて、「お前にはもう体育大学の推薦はやんな~い」と意地悪く言った。
…ランチタイムが、随分と堪えていたようだぜ。
でも、それで良かったんだと思う。
僕には十分な精神科医としての実力と実績がある。
もう体育学部にすがる必要はないのではないか?
クリニックも法人化したし、僕は精神科医として、皆を引っ張って行く責任のあるチーム・リーダーだ。
もう体育学部の看板は捨てよう。
さようなら、50m6秒2、に支えられていた僕。
こんにちは、50m6秒1、で駆け抜けるミクちゃん。
そして、僕らは、風になる。
BGM. アリス「さらば青春の時」


白い部屋

12/Ⅳ.(火)2016 はれ、暖かい。
子供の頃から、繰り返しみる夢があった。
僕は静かな白い部屋にいて、壁にもたれかかるように体育座りして、高い窓から光が差し込む。
見覚えの無い部屋だが、どこか懐かしい部屋だった。
心当たりのない部屋なのに、鮮烈な記憶があった。
そんな風だから、一時期は前世の記憶かしら?、などと考えたりもした。
どの夢にも共通するのは、無音の白い部屋ということで、なぜそこにいるのかは、夢によってバリエーションがあった。
理由が無い場合もあったし、ある時は、政治犯だったし、ある時は凶悪犯罪を起こした罰だった。
正義であるがゆえに、悪い権力者に無実の罪で投獄されたこともあった。
いずれも、僕の感情は無感情、何の抵抗も工夫もせず、その状況を受け入れていた。
結局、そこが僕の「居場所」であったような気さえした。
精神科医になって、研修医の2年目で関連病院の単科の精神病院に出向した。
僕は大学病院とリハビリセンターくらいしか病棟を知らなかった。
今はもうそんな病院はないが、僕が医者になりたての頃の精神病院は、アメニティより収容に重きを置くような作りだった。
そんな中、過度に刺激的になっている患者さんを、他の患者さんから隔離する部屋を「保護室」と呼んだ。
保護室は大学病院の病棟にもあったが、僕は僕の勤務先の病院の保護室をみて愕然とした。
それは、ずっと子供の頃から、夢に出て来ていた、白い部屋、だったから。
僕は医者になって3年目から大学院に進学するため、大学に戻った。
医者になるとお金が儲かりそうだと思われがちだが、それは何年かしてからで、
今は随分と改善されたようだが、当時の研修医の月給は5万円だった。
僕は比較的、若く結婚していて子供もいたが、大学院生は無給で、むしろ学費を払わないといけなかったし、
卒後教育も大切で、勉強会やスーパービジョンにもお金がかかった。
見かねたオーベン(指導医)が、アルバイト先を紹介してくれて、日曜日やまとまった休みには出稼ぎに行った。
今はもうそんな所はないだろうが、当時は「無医村」のような精神病院が地方にはあった。
僕は夏休みに家族を連れて、九州や東北の病院に2週間泊り込みで勤務に行った。
宿舎を用意してくれると言われたが、そこのお風呂場に黄色い巨大な物体があり、家族は悲鳴をあげた。
何かと思ったら、キノコ、が浴槽からはえていた。
僕は昼間、病院に行って仕事をして、夕方に宿舎に帰った。
九州の病院では、赤とんぼ、がいっぱい飛んでいて、僕は<なんとかこれ食えないかな?>と思ったものだ。
僕の仕事は、「いればいい」、だけだった。
さすがに医者がいないのはまずいからという理由で、雇ってもらえていたのだから。
回診と言って、病棟の患者さんの様子をみて回る時に、保護室の患者さんの様子もみる。
看護婦さんは、「この人はもう何年もここから出られないのです」と僕に説明した。
僕は、ナース・ステーションに戻ってから、カルテをみた。
すると入院時から何年も1回も薬が変更されていなかった。
これは何とかなるかもしれない、と思った。
僕は薬の調整と患者さんへの働きかけを考えた。
看護婦さん達は、やる気になって、どんな指示にも嫌がらず、無理な要求も頑張って動いてくれた。
僕には2週間の時間しかなかったが、複数の患者さんを保護室から出す事に成功した。
看護婦さん達は、自分たちがあてにされたことをすごく喜んで、仕事をしてて良かったと言った。
僕の大学院の生活は4年間だったから、そんな出稼ぎを、その間、ずっと続けた。
同じ病院にも行ったし、違う病院にも行った。
それは、僕が雇われる理由は、医者の腕ではなくて、医者がいないと困るから、で、その時の病院の都合によった。
でも、行く先々で看護婦さん達の反応は同様だった。
よく「チーム医療」などと言って、医者はそのリーダーだと言われる。
リーダーに求められるのは、その人の治療的な姿勢に尊敬が出来て、強力なリーダーシップで皆をその気にさせ、
明確な指示をだし、役割分担の采配をして、その結果における責任のすべてを医者自信が背負うという覚悟だと思う。
僕にもしそれがあるとするならば、それは大学や教育機関では習わなかったし、教えてももらわなかった。
僕はこのジプシーのようなアルバイト生活で、限定した2週間の仕事で、それを実感したのだと思う。
看護婦さんや薬剤師さんや栄養士さんやお掃除のおばちゃん達が一丸になって結束した力は、
我々の臨床のエネルギーにも転換された。
そして僕は大学院を修了し関連病院に派遣され、医者になって7年目で、やっとアルバイトをしなくて良い生活が送れた。
それまでに、多くの患者さんを保護室から出せた。
不思議な物で、そのせいなのか、それ以来、僕は、白い部屋、の夢をみなくなった。
BGM. 八神純子「さよならの言葉」


きれいに生きる

10/Ⅳ.(日)2016 はれ、暑い。東精診の電話相談の番。
幼稚園の時、少しの間、おばあちゃんと一緒に住んでいた時期があった。
おばあちゃんは何かの治療のため、病院に近い家に、しばらく滞在していたのだ。
僕がおばあちゃんの部屋に遊びに行くと、おばあちゃんは、オブラートに薬を包んで、
「この薬は苦いんだよ」と言って、つらそうに薬を口に放り込んで飲み込んでいた。
翌日、家中が大騒ぎになっていた。
うちには何人ものお手伝いさんがいたが、母を筆頭に総出で、家捜しをしていた。
おばあちゃんの薬がごっそり無くなってしまったのだ。
最終的に、お手伝いさんの誰かが、外に出してあるゴミ専用のポリバケツの中から発見して事なきを得た。
しかし、なぜ、薬がそんな所に捨ててあったのだろう?
おばあちゃんは、「もしかしたら、私がタッちゃんに薬が苦いとこぼしたから…」、という推論になり、
母はもう勝手にそう決めつけ、「達二はやさしい子だね~」と褒め称え、お手伝いさん達も口々にそう言った。
僕は勝手にそういうイメージをつけられるのは、少し、迷惑だな、と思ったが、そこは黙っていた。
小学校の時、僕はクラスのリーダー格で、その日、男子が何をして遊ぶかは、僕の一存だった。
僕は頭が良く、ユーモアのセンスがあり、運動神経も顔も良かったから、女子の人気も1人じめだった。
何かで班を作って行動する時、男子の主力グループは僕と同じ班になれると思っていた。
クラスには、班に入れないような子が数人いた。
大抵、そういう子は余り者同士、そういう子を寄せ集めたグループを組まされていた。
僕は親分肌みたいなところがあって、グループを作る時、積極的にその子らに声をかけ、真っ先に班を作った。
主流派の男子は、「え~なんで~」と文句を言っていた。
そんなことはお構いなしで、僕らの班は一番面白いことをして、一番楽しいことをした。
ある日、女子のお母さん達から、母が話を聞いてきた。
「タッちゃんは、やさしくて、班を作る時に、班に入れない子を誘って組んでいる」って。
母は、そのことを聞いてきて、大喜びで、「さすがは、達二だ!清水の次郎長の血をひいている」と真顔で言った。
僕は、正直、女子ってバカだと思ってたけど、そんなところを見てるんだぁ、とちょっとびっくりした。
すると母は、女の子を選ぶ時に、そこは最低条件ないといけない。顔やみてくれは、二の次と言った。
この言葉は案外、その後の僕の女子を見る目に大きく影響を及ぼした。
研修医の頃、痴呆(今でいう認知症)の患者さんを病棟で受け持った。
病棟は、班長が主治医で、指導医が実質的な主治医で、研修医が雑用をやって勉強させてもらう仕組みだった。
ある日、事故が起きて、その患者さんが亡くなった。
病院は訴訟対策を立て、僕をこの件から外した。
それは研修医という身分だからというのもあるが、「川原が余計なことを言ったら大変だ」というのが実際だ。
時代は、非を認めてはいけない、らしかった。
僕には事情の進行具合は知らされず、しかし、家族側と随分揉めているとも伝え聞いた。
「だから、お前がいなくて良かった」とも先輩に言われた。
ある日、僕は病院の廊下でその家族と鉢合わせした。
家族は、僕が入院中、その患者さんと関わっているのを、良く思っていてくれていた。
僕はあまり話しが出来ないその患者さんに、ラジカセを持って来て、三橋美智也や美空ひばりのテープを聞かせた。
すると、痴呆の患者さんでも、歌は覚えてるらしく、口ずさんだり、機嫌が良くなるのだ。
僕は家族に、患者さんが昔、好きだったものの話を聞きだして、音楽だったり、古いアルバムの写真を見せて脳を刺激した。
家族はその関わりを、自分達も治療に参加出来ると、とても感謝してくれたのだ。
家族は僕を見るなり、「川原先生~」と走り寄って来た。涙を浮かべてた。
僕は、「今回はこちらのミスですみません」と謝った。思わず、口が滑った。
すると、家族は、「その一言が欲しかったんです。でも、患者は、先生のことが大好きでした」と言ってくれた。
翌日、病院に行くと、上級医の先生から、「あの件は解決した。向こうが訴えを取り下げたんだ」と報告を受けた。
僕は、接触を禁止されていた身だから、内心、家族が僕のことを言ってやしないかとハラハラした。
でも、特に何も言われなかったし、バレてないみたいで怒られずに済んだ。
大学の野球部の頃、夕飯をおごってくれる先輩と、割り勘の先輩がいた。
おごってくれる先輩は、割り勘の先輩のことを、「あいつはケチだろう」とあざ笑った。
僕は本当にケチじゃない人は、他人のこともケチだなんて思わないはずだから、
この先輩はおごってはくれるけど、この人こそケチなんだろうなぁ、と思った。
そして、そう思う僕もケチだ。
よしだたくろうは、「イメージの詩」で、♪自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう♪
と歌ったが、
きれいに生きてる人って、きれいに生きる、なんてことを考えないんだろうな。
日々の暮らしに流され、時だけが急ぐ毎日で、きれいに生きる、って難しいけれど、
もっと、きれいになりたいな。
BGM. よしだたくろう「制服」


茅ヶ崎に背を向けて

23/Ⅲ.(水)2016 はれ、少し涼しい
最近、「らしんばん」(アニメの専門店)などで同人誌のコーナーをみると、中が読めないように袋詰めにされていて、
僕は、<これじゃ、表紙で選ぶしかないな>と考えた。ま、買わないけど、同人誌。
似たようなもので、昔は、「ジャケ買い」と言って、アーティストや内容ではなく、ジャケットの絵柄だけで、
LPを選んで買うことがあった。パティ・スミス・グループの「イースター」とか。
皆さんも、1つや2つ、思い当たるものがあるのではないでしょうか。
反対に、サザンオールスターズのデビューアルバム「熱い胸さわぎ」は内容は素晴らしいのにジャケットがひどい、
と当時の評論家が口を揃えて(?)言ってました。
僕はそのLPを持っていて、「茅ヶ崎に背を向けて」という桑田と原坊のデュエット曲が好きでした。
なぜ、そんなことを、心理のコンテストの最中に、言い出してるかと言うと、こないだの土曜日にみた夢についてです。
僕の実家は茅ヶ崎なのですが、まるで、帰っていません。
それが、土曜日の夢では、僕はスパイのように変装して、茅ヶ崎の家を見に行く設定で、暗くて何もみえない中に、
女の人が立っていました。顔とかは全然、判らなかった。
僕の夢に茅ヶ崎の実家が出てくる事は稀で、それより夢から起きた時の気分が、<なんとも不思議な気分>でした。
怖いとか、不気味ではなくて、不思議、だったのです。でも、直にそんな気分も忘れかけていました。
ところが、今日、連休中に親や祖父母が亡くなった、という知り合いの話をいくつか聞いて、
僕は、<お彼岸に亡くなる人は、さまようことなくあの世に行ける、って言うよ>となぐさめた。
しかし、言ってるそばから考えた。そんな知恵、どこでつけたんだ?
そうだ!母が死んだ時に、人からそう言われたんだ。
あれ?母って、いつ死んだんだっけ?
僕は寺の坊主とケンカしたから墓参りは一切しないし、親戚付合いもないから仏壇に線香をあげることもない。
親の誕生日は、子供の記憶が残ってるから覚えているが、命日は父の方は克明に記憶しているが、
母の命日は調べないと判らない。きっと、覚える気がないのだろう。
でも、気になったので、さっき、母の遺歌集(あとがきを僕が書いている)をめくって調べたら、3月19日だって。
先週の土曜日だ。
あの変な夢をみた日だ。
暗がりの中の不思議な女の人の感覚は、僕に夢を忘れさせなかった。
これはなんだかんだ言って、母の命日を深層心理では記銘していて、日常では忘れてる自分に自分でサインを出したのか、
とも思ったが、あの母のこと、僕が命日を忘れてるから勝手に夢に出て来て思い出させようとした可能性もある。
母には、そういうところがある。
母のエピソードは、ぶっ飛んだものが多いが、今回はちょっと趣向を変えた思い出を。
僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。
イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメだ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。
男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。
これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
…って言うか、今、思い出したくらいだ。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
BGM. よしだたくろう「かくれましょう」


水の泡

15/Ⅲ.(火)2016 はれ 暖かい
高1の教室は校舎の1番上の階で、僕の席は窓際の1番後ろだったから、
授業中にぼんやりと眺める無人の校庭は殺風景だった。
僕は、ある日、その風景が白黒に見えて、体育の授業で走ってる生徒達もカラクリ人形みたいに見えた。
今思うと、「離人症(りじん・しょう)」だったのだと思う。
離人症は、精神科の症状の中で唯一と言っていいのではないか、自己申告の症状なので、誰からも気付かれなかった。
むしろ、僕は明るく騒がしい人気者だったし。
そんな頃、僕が考えたのは、この世はひょっとすると、猿山のちょっと頭の良い一匹の猿がみている夢で、
その猿が目を覚ますと、僕も友人も家族も総理大臣も、みんないっぺんにこの世から消えてしまう、
人類とは猿の夢の中の登場人物で、猿が目を覚ますと、跡形もなく消えてしまう世の中かもしれない、
などと考えたりしていた。
そんな時代の話である。
僕は離人症を抱えてはいたが、授業中はうるさかったから、担任は僕の席を教壇の真ん前に配置した。
僕は授業中、<それとは別の解き方があるよ>とか<字が違うよ>とか<今、噛んだでしょう>とつっこみを入れるから、
教師達が参ってしまい、僕は島流しのように、教室の1番後ろの廊下側に移された。右側には真っ白い壁があった。
僕は、授業は半分上の空で聞いていて、ふと頭によぎった考えや、思いついた発想を、その白い壁に書いて行った。
ポエムや4コマ漫画や不条理な絵で、クラスメートからは「面白い!」(多分、本当に面白かったのだと思う)とか、
「もっと書いて!」(多分、本当のリクエストだったと思う)と言われ、休み時間には皆が僕の周りに集まって、
授業が始まると、皆は席について前を向き、僕1人、横を向いて壁にずっと何かを書いていた。
これは他のクラスの生徒の間でも評判になって、見学に来る人も増えた。
僕の学校は中高一貫校で、僕の中学の時の担任が噂を聞きつけ様子をみに来た。
例のサングラスの似合わない担任だ。
奴はうちの母を苦手としていたが、高1ともなると男子は母親と心理的な距離をとってるだろうという読みで、
強気に出て来た。
そして、「次の授業中、川原は授業を聞かなくていいから、落書きを全部、消すように」と砂消しゴムを2個渡した。
仕方ないので、僕は言われた通り、消していたのだが、折角書いたのに、勿体ないなと思った。
今みたいに携帯電話がある時代なら、写メとかに記念に撮っておけたのに。
授業では、何とか文明の遺跡が発掘されたとか、パピルスがどうとかで、当時の古代人の生活ぶりを解説していた。
僕は壁の落書きを消しながら、たった今、隕石が地球にぶつかって一瞬で、人類が滅亡して、
偶然、僕の書いた白い壁だけが何億年後かまで残って、未来の歴史学者に発見されて、
「当時の地球人はこんな生活や思想だったらしい」
と推理され、未来人の歴史の教科書に僕の絵が載って、学校で教えられるようになったらいいな、と空想して、
そうして、今、ここで一生懸命、勉強しているクラスの連中の努力も水の泡になればいいのにと思ったものです。
病んでたなぁ。
BGM. ダニエル・ビダル「天使のらくがき」


花粉症

3/Ⅲ.(木)2016 暖かい、ひな祭り
今日から暖かくなるようで、外来には花粉症に悩まされる人が多くって、不憫でした。
アレルギーマーチというのがあって、アレルギーの行進、のように形をかえて続いて行くものを言います。
僕はまさに子供の頃はそれで、アトピー体質で、アトピー性皮膚炎や蕁麻疹や小児喘息がひどかったです。
小2の時の林間学校は体が痒くて、眠れませんでした。
だから隣の布団の小竹(こたけ)君に、一晩中、背中をかかせました。
小竹(こたけ)君が寝そうになると起こして、<寝るなら代わりを探せ!>と威張って脅して、
結局、小竹(こたけ)君は小2のくせに、一睡も出来なくて、可哀想なことをしたな。
小竹(こたけ)君、もし、これみてたら、あの時はゴメンね。良かった、許してもらえた。
喘息は、息をするたびに、ヒューヒューと音がして、夜になったり、運動をするとひどくなった。
母は、庭にあるサボテンみたいな(アロエ?)植物を千切って、それを液状化して、僕の胸に塗り込んだ。
すると不思議と、ヒューヒューが止まった。(医学的根拠なし)
あれは何だったのか、いまだに判らない。
当時の医者に運動を止められていたが、僕の子供の頃は、「巨人の星」や「タイガーマスク」が大人気だったから、
僕は医者の指示をまったく無視して、野球やプロレスごっこや、一日中、走り回っていた。
それがショック療法になったのか、特別な治療をした訳ではないが、喘息はどこからか良くなった。
そう言えば、アントニオ猪木も糖尿病を氷をいれた水風呂に入る事で治したというから(医学的根拠なし)、
ストロング・スタイルの系譜なのかもしれない。
そんな僕だから、花粉症になっても良さそうだが、全然ならない。
守護霊が変わったか、体質が変わったのかもしれない。
体質と言えば、うちの家系は、お酒が呑めず、僕も昔は全然呑めなかった。
呑んでも、すぐ気持ち悪くなって、毎回、吐いていたが、ある時から呑めるようになった。
大学の野球部のコンパで呑まされては吐いて、呑まされては吐いてを繰り返していて、様子をみに来た先輩が、
「すげー、こいつ、根性あるな」と言われるくらい、呑み(吐き)続けた。
ある日、吐いた物を食べると酒に強くなるということを聞き(医学的根拠なし)、
トイレで自分の吐いた物を食べてたら、心配してみに来た上級生から、「こいつ、こえーよー」と恐ろしがられ、
それ以来、部活内での僕のポジションは、一年生ながら、二・三年生よりも上になって、幹部クラスの扱いになった。
僕は順応性が高いから、平気でえばっていられて、その勢いでサードのレギュラーの座も獲得して、
女の子からもチヤホヤされた。
僕はちょっと変わった女の子が好きだったから、花咲く乙女たちが振り撒く魅惑的な花粉にも、かどわかされないですんだ。
おわり。
BGM. ソフトクリーム「やったね!春だね !!」


みるにみかねて

9/Ⅱ.(火)2016 はれ
深酒して記憶がなくて何か失言したのではと自己嫌悪。
二日酔いと金縛りとこむら返りで満身創痍。
そんな日にみる夢には、母が出てきて、
「今日の達二はちゃんとお酒と一緒にお水も飲んだし、ちゃんとお料理も食べてたし、よく頑張りましたよ。
お酒の呑み方が、歴然とよくなってますよ」
と誉める。
これは途方に暮れた僕が、深層心理から、母を呼び出して、心のバランスをとるため、そう言わせる脚本を与えた産物か。
一概に、そうとも思えない。
あの母親って、そういうことをするんだ。そういうこと、って、死んでるのに自分の意志で平気で夢に登場する、こと。
母で思い出すのは、中学1年の時の「サングラス事件」。
僕は学校にサングラスをかけて行ったら、担任にみつかって、没収&親の呼び出し。
母が茅ヶ崎から目白までやって来た。
高級な着物だった。これは母の戦闘モード。おそろしや。
担任が、「校則違反で…」と言いかけると、「学校にサングラスをかけて来てはいけない、という校則ありました?」
と上品に答える母。担任、絶句。ここまでで、勝負あり。
担任は、気を取り直し、「しかし、達二君は、サングラスをかけないと目が変性して三つ目になる奇病だ、という嘘を…」
に、母は、「先生、それは嘘ではなく、ユーモアですよ(笑)達二は昔から、トンチが効いて」と、むしろ自慢気。
大人のやりとりをみてるこっちが冷や冷やする。
母は、問題のサングラスを手にとって、「先生もかけてごらんになったら?」と無理矢理、担任にグラサンをかけさせ、
「あら、あまりお似合いになりませんね。似合ってたら、差し上げようかと思ったのですが、達二の方が似合いますね。
じゃ、これは家でかけさせます。先生、サングラス、持って帰りますね~ごきげんよう~」と、つむじ風のように帰って行った。
職員室に取り残されたのは、僕と担任だ。
担任は、真顔で、「オレ、お前の母ちゃん、苦手。川原よ、もう学校に余計な物を持って来てくれるなよ。
これは指導じゃない、お願いだ」と言った。
僕の小学校は茅ヶ崎の女子校の付属だったから、小学校時代は、バレンタインに軽トラック1台分くらいのチョコをもらった。
それが、中学に上がって、東京の男子校に入学してからは、女子と知り合うチャンスもなかった。
中2のバレンタインに、母から原宿で買ったという机一面大の板チョコをもらった。
こんな物を売る奴も考える奴もおかしいが、買ってきちゃう母も母だ。
翌日、教室で「昨日、チョコ、もらった?」と探り合いの会話があって、僕は<このくらい>と机一面の面積を両手で示した。
すると、クラスメートから、「すげー」と驚嘆されて。皆も、同様な条件で、チョコなんかもらってなかったからね。
ま、僕は嘘もついてないし。
しかし、中学生の男子なんてこんなことでクラスの階級が決まったりして、おかげで僕はその後の学園生活は随分と楽だった。
そんな訳で、カワクリもバレンタイン週間です。
ナースの塚田さんと受付の(文化部の)山﨑さんが先週、何やら打ち合わせをしてたみたい。
今週、来ると、何かくれるかも、です。↓。

BGM. 大場久美子「エトセトラ」


カラオケの表彰状

18/Ⅰ.(月)2016 雪
前にも話したことがあるような気がするけれど、
僕が医学部の1~2年の頃だったと思う。
カラオケ好きな友人がいて、その付き合いで赤坂だか六本木だかの「カラオケ道場」に行ったことがある。
当時はまだ「カラオケ・ボックス」などはこの世に存在せず、家庭用のカラオケが普及する一方で、
外でカラオケをするには、スナックとかパブに行かなければならなかった。
大抵、そういう店は、幾つかのテーブルに客が座り、店のコーナーには大きなステージがあった。
そこに各テーブルから1人づつそのステージに出て行って歌うから、他の知らない客に歌を聞かれたり、
逆に聞きたくもない悪趣味な歌を聞かされる羽目にもあった。
ただ、そんなシステムなので、順番がまわって来るには時間がかかり、歌いたくない人には良かった時代だ。
カラオケ道場は、同様に1人づつステージに上がって持ち歌を披露するのを、元・歌手のオーナーが審査して、
「何級」とか「何段」とかのランクと賞状をくれるのが売りだった。
僕は人前で歌を歌うことは好きじゃないので、他の客の歌を聞いてるだけだったが、その時、
ステージで歌ってる人が突然、ぶっ倒れてしまった。
店中は大慌てで、「お医者さんはいませんか?」と叫ばれたが、その場に医者はいなかった。
仕方がないから、僕が出て行ったのだが、医学部の1~2年と言えば、まだ教養課程で専門的な勉強はしていなかった。
つまり、何も医学的な知識はないのである。
ただ、こうやって皆がパニックになってる時には、どうしたら良いかということは経験則として知っていた。
落ち着いた人間が、とりあえず、その場を仕切ってしまえば良いのである。
その役が僕に回って来たというだけだった。
倒れた人は、幸い、息もしてたし、目も開けられた。
僕は、落ち着いた声で、オーナーに、<119番!>と指示した。
ただ、それだけなのだが、オーナーには大変感謝されて。
「お礼と言っては失礼だが、初段、を差し上げる」
と歌ってもないのに、賞状を貰った。
その賞状にはオーナーの慌てぶりが表れていて、「川原達二殿」のはずが「河原達二殿」となっていて、
皆で笑った思い出がある。
面白かったし、別に実力で貰った勲章でもないから、そのまま直さずに貰っておいた。。
最近、部屋の整理をしていたら、その賞状を発掘した。それがこれ。↓。

クリニックに飾って、皆で笑って貰おうと思って、今日、雪の中、新宿の世界堂で額装して来た。
で、どこに飾ろうかなと考えたけど、やっぱりここしかないかな、と思って。
喫煙所にしました。↓。

たばこを吸わない人も、良かったら見てみて下さい。
認定書の日付を見たら、昭和58年6月27日だって。
まだ生まれてない人もいるのでしょうね。患者さんの中にも、ひょっとしたらスタッフの中にも。
BGM. 田原俊彦「ラブ・シュプール」