夢日記~「心の音」

季節は真夏で若者たちはバカンスを楽しんでいた。
ハワイでみたこともないマリンスポーツをしてる日本人が取材をうけてる様子を、隣でみてた。
皆楽しそうに笑ってる。僕は2階建てのバスに乗っている。

国内でも仲間内で、温泉旅行に行こうという話があちこちで出てる。
僕も温泉に行ってみたいなぁ。でも、一緒に行く相手がいない。
お金を出せば、ついて来る人もいるかもしれないけど、それでもイヤイヤ来られても、かえって気を使ってしまう。

僕は何かのパーティーに紛れ込んでしまった。芸能人の結婚式だろうか。バンドが演奏をしてる。
僕はポツンと四角いソファに座ってる。
僕はこんな不釣合いな場所に、短パンと踵を踏んづけたスニーカーで来てしまった。靴下も履いていない。
僕には飲み物も渡されなかった。

するとそこに山口百恵がやって来て、「いた!もう行きましょう」と僕の腕をとった。
「こんなところにいても楽しくないでしょ」と言った。
僕はずっと君を探してたけどどこにもいなかった、と言うと、
「バカね。こころのノート、を持ってるでしょ?
それを持ってる限り、私はいつだって、あなたと一緒にいるって言ったじゃない」と笑った。

僕は、こころのノート、を持っていた。彼女も、こころのノート、を持っていた。
彼女の、こころのノート、をみせてもらったら、ナボコフや芥川龍之介やトロッキーの格言が綺麗な字で書かれていた。
山口百恵は、「今度温泉に行きましょ。その時は、こころのノート温泉用を作りましょ」と名案を出した。
彼女はいつも良いことを思いつく。
僕と彼女は移動しながら、陽のあたる廊下を歩いていて、僕は<ねぇねぇ、メタ的な話になっちゃうけど、
山口百恵が選んだ名言集、って本を出したら売れるかもよ>と提案したら、彼女は何も言わないで、口元だけで笑った。

彼女は多忙だ。いつも一緒にという訳にはいかない。それはわかってる。

これからの僕は何もさびしくない。
こころのノート、があるから。僕は彼女といつも一緒だよ。

BGM. 山口百恵「お菓子職人」


通過儀礼

1/Ⅳ.(日)2018 はれ エープリル・フール

小学校の時、青年誌の企画に当選し、赤塚不二夫と対談した。
その号の、赤塚不二夫のマンガは、格好つけた男がマントをとると、パンツ一丁で、
さらにラストはメガネとパンツになるというナンセンスなコネタだった。
僕はまことに失礼したが、赤塚不二夫に、
<このマンガのどこが面白いのか判らない。それは僕が子供だからだと思う。
面白いことを理屈で説明してというのは無茶だと思うが、無理を承知で説明してくれませんか?>と言うと、
意外にも、あっさり、「いいよ」と笑って、
「あのね、これはね、まず、この男が格好つけてるでしょ。格好つけてるくせにパンツ一丁なんてバカバカしいでしょ。
そう思わない?思うでしょ。よし。だったら、そのパンツは思いっきり派手にしちゃおう。
男が履かない様なパンツ、女物でもいいね。
それでそこをいったんしまっといて、メガネを見せて、読者の気を上にそらしておいて、またパンツを出すんだよ。
そうすると、さっきのパンツのタメがあるから、重なって面白くなるんだ。
2回目のパンツはもっとバカバカしいものがいい。金色とか星条旗とかね。そうやってみると面白いでしょ?」と言われ、
僕は<なるほど>と思い、生まれて初めて生理的にでなく、こうした方がインテリっぽいなというポーズとして、
笑うというリアクションをおぼえた。
一つ大人の段階を昇ったんだと思う。と同時に何かを失った気もした。

その当時の○×は、風紀の取り締まりが今よりうんとゆるくて、夜になると街は混沌としていた。
僕はある夏、夜のビルの屋上の「ハッテンバ」というビアガーデンみたいなところに潜入し、
いわゆる男同士のカップルの社交場の生々しい実態をみて逃げて帰る。

そこでは、サザエさん、マスオさん、という隠語が飛び交い、各々、S(サド)、M(マゾ)の略だった。
地下には、家に帰りたくないとビルに立て篭もる双子の女の子がいて、妙に愛嬌が良かった。
しかし、得てして、人はそうであるように、苦境の時にある人こそニコニコしているもので、
その女の子達のお母さんは子宮体癌で子宮を摘出してるのに、子宮頸癌になり、
チンピラの男が、お母さんが言う通りにならないと、子宮のあたりをめがけて腹部をグーで殴るように、
彼女らに命令するから、それが嫌でここにいるんだという。僕には何もしてやれなかった。

人のよいおじさんと「ハッテンバ」を冒険しにみにいくことにした。
そのおじさんはどこかの中学校の生活指導の教諭だった。
屋上では、酔っ払ったサザエさんみたいな髪の’ダヨーン’みたいな顔をした男が、
山羊のモツを食べ過ぎたと呑んだ酒を吐きながら寝転がっていた。
僕はどうしてもこの「ハッテンバ」がどういう意味で存在しているのかが判らず、’ダヨーン’に勇気を持って質問してみた。

<赤塚不二夫先生は、マンガの面白さを解説してくれました。そんな無理なお願いを叶えてくれました。
だから、お願いします。どうして、この「ハッテンバ」はあるのか教えて下さい>と訴えかけると、
’ダヨーン’は、「それは無理だよ」と吐きながら言って、ふいに相棒とアイコンタクトして、僕の方を真顔で睨み、
「だって、オレたちはこっち側の人間だよーん」といった。

「お前は違うよ-ん」と言われて、僕の隣の生活指導の教諭は、僕を置き去りにして、その場から走って逃げて行った。
僕はすえ恐ろしくなって、その場から一刻も早く逃げなきゃと、足がもつれながら、足がもつれながら、
走っても、走っても、うまく前に進まないけれど、何段も、何段も、階段を転げ降りていく。

途中で、「ハッテンバ」の、’SMキリシタン’という男に、変な油を吹きかけられたり、
「発砲するな!」というポスターの前で警官の頭に銃をつきつけてる男とぶつかったために、ピストルを撃たれ、
その弾がギリギリ頭をかすめて飛んで行ったり、なんやかんやあったが、やっとこ安全なビルに戻って、
顔馴染みの中古レコード屋のおじさんに、ことの顛末を喋ると、「もう大丈夫だよ」と根拠のない無責任な笑みをみせられ、
だけどそれにホッとした。
店頭にあったジュリーのレコードを指して、おじさんは「ジュリーのパンツも派手だぞ。イヒヒヒ」と下品に笑った。

数日後、僕が秘かに想いを寄せている年上のひとの旦那さんにその話をしたら、
「オレにも似たような経験があるよ」と共感してくれた。
すると、年上のひとは、急にプンプンして、「あの人は何年も私といるのにそんな話、一回も私にしたことないじゃないの」とスネて、
僕は思わず、笑ってしまった。

僕は笑いのセンスの向上と、派手なパンツを履くことが、大人への通過儀礼だと肌で感じていた。

 

 

下は、最近買った新しいボクサーパンツ達。夢に出てきた赤塚不二夫先生に捧ぐ。

BGM. T・レックス「メタル・グルー」


セカンド・ドリーム

声色、を、声帯模写、という言葉に作り変えたのは、古川 緑波、だと聞いた。
あの、「エノケン・ロッパ」、の、古川ロッパ。

僕の知ってる、ものまね、の歴史は、声帯模写から、そっくりさん(若人あきらetc)、
それを誇張して笑いにする(コロッケ、清水アキラetc)を経て、
最近では、武田鉄也、のものまねなら、「絶対、金八先生が言わないこと~」ってプレゼンしておいて、
髪の毛をたくしあげるポーズをしながら、「結局、世の中、金だ~」って叫んで、
<言わなそう~>という客のリアクションを呼ぶ、みたいな芸風だ。
僕はそんな、ものまねの変遷の見届け人の一人なんだな、なんて思い詰めていた矢先だった。

英国に留学中の、佳子さま、が一時帰国して、「子供たちに笑顔を届けたい」というプロジェクトが実現。
何故か、僕は派遣団の精神科医代表メンバーに選ばれた。
子供の臨床をしていたことと、佳子さま好き、を常日頃アピールしていたことが宮内庁に評価されたみたいだ。
さすが、ネット社会。何でもアピールしておくものだ。夢は向こうから、やって来る。

当日、僕はステージのそでで、佳子さまの様子を見ることが出来た。
佳子さまは、子供たちに向って、飛び切りの笑顔で、ハツラツと、マイクを向けて、こう尋ねた。

「ウン○とチン○、どっちがマン○だと思う?」

それを目の当たりにして、<言わなそう~>とビックリしたのが今年、2回目にみた夢。

絶対、佳子さま、がおっしゃらないことでも、夢では起きるのだから、夢とはなんともけったいなものよ。

BGM. 北原佐和子「夢で逢えたら」


人をダメにする初夢

2018年=平成30年正月

国技である大相撲もモンゴル勢が中心であるし、プロ野球の外人枠も知らぬ間にどんどん増えている。
日本の学校では複数の部活をかけもちすることが基本的に出来ないから、
そのためプロ・スポーツを頂点と考えた時のピラミッドの底辺を支える中学生の競技人口が人手不足、
少子化の影響はこんなところにも影を落す。
中でも深刻なのは、女子のソフトボールやサッカーやバレーボールなどの頭数の必要な団体競技だ。
トゥエンティー・トゥエンティーの東京オリンピックを目前にして、さすがに危機感を持った文科省が動き出した。

女子団体スポーツに限り、特別枠として、男子1名の参加を認める。

たとえば、女子ソフトのキャッチャーをドカベンがやってもいいし、女子バレーのセッターを猫田がしてもいい。
準備は早い方が良い、とスポーツ庁は教育庁に働きかけ、
中高一貫校の女子高にも1学年に男子10人を目安に入学させるようガイドラインを作った。

女の園に、いきなり男子が10人入学である。これはかなりの大英断だ。
たしか、ソネさんの高校がそうだったと聞いた気がするが、違ってたらゴメン。

聖○×女学園も、中学1年に男子を入学させた。
僕はその中の一人だった。
おカミの目的など知ったこっちゃない、僕は部活にも入らず、毎日、学校帰りに、
女子と買い食いしたりして、休みの日にも町を探検しに繰り出した。
女子の制服からして季節は夏で、彼女はクラスの中心人物で黒髪ロングヘアーの闊達な娘だった。
明るい夏の日差しに目がくらみ、一瞬目を閉じ、目を開くと布団の中だった。

<なんだ。夢か…>と思って、再び眠りにつくと、また夢の続きがみれた。クライマックスは文化祭。
中高男子校でブラバンだった僕は~ブラバンは意外に運動部より練習量が多く、日曜も休日も部活で、
おまけにうちの学校の文化祭は、よその学校より晩めに日程されていたから~
他校の(女子校の)文化祭に行ったことがなく、この夢の素材は明らかに他の人の体験から拝借したのだろうな。
夢が秋の文化祭を終えたあたりで、また目が覚めた。

<まだ起きたくないよ。夢の続きをみせておくれよ>と枕元のドールにお願いすると、またまた夢の続きがみれた。

とても、楽しかった。
全部、初夢。

BGM. 来生たかお「夢の途中」


この世は夢。夢の夢こそ…

29/Ⅷ.(火)2017 晴れ、暑い
昭和33年、長嶋茂雄が巨人に入団した年、日本シリーズは巨人VS西鉄ライオンズ。
球界の紳士・巨人軍に対し、西鉄は野武士軍団、濃いキャラの大下・中西・豊田・稲尾…。
巨人の監督が水原で、西鉄が三原という因縁もあった。(三原は巨人を追い出され都落ちして九州へ)
日本シリーズは7戦して先に4勝した方が優勝。それは今も同じ。
巨人がいきなり3連勝。西鉄は後がない。
そこで「三原マジック」と言われた三原監督が出した指示は、「明日のことは考えず今晩は呑んで来い」。
野武士軍団は真に受けて朝まで呑んだ。
第4戦。巨人のキャッチャーが気持ち悪くなるほど、西鉄の選手は酒のニオイをプンプンさせてバカスカ打った。
これぞ、三原マジック。西鉄は勢いに乗って、球史に残る3連敗から4連勝で、逆転の日本一。
ここでの教訓は、追い詰められたら、思い切った気分転換をした方が良い。
コラムは8月末が締切です。
27(日)は、美容院と戸川純のライブ。
28(月)は、新宿に眼鏡を取りに行くつもりが、予定は未定、両日とも出かけず、2日で40時間くらい寝た。
日曜は、目覚ましが鳴る中、「外見をいくら飾ったって人間は中身だぜ」と睡魔が囁き、
「でも、美容師さんが待ってるよ」という天使の声を完封した。
疲れが蓄積していたのだろう、僕は泥のように寝てて、翌日も同様。
しかし、昨日は新宿駅で白煙事故が起きてたらしいから、結果オーライ、寝てて良かった。
40時間も寝てるとは言え、夢の見通しで、一睡もしていないみたいな錯覚だ。
例えば、僕は美術系の予備校に深夜に忍び込んだらしい。
そこには僕以外誰もいなくて、だだっ広い教室で僕は自分の存在が無に等しいと感じる。
それと同時に、無、という存在に気付けて僕は生まれて初めて自分の実存を実感出来た。
隣の部屋は映画館。
深夜だから誰も観客はいないみたいでスクリーンの前に薄いカーテンが引かれている。
僕は最前列まで行き、舞台に飛び乗って、即興で演技をしてみた。
薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」をイメージして。
すると客席にはチラホラと人がいた。
どうやら、スクリーンの前のカーテンも演出だったようだ。
まずい!
僕は舞台から飛び降りて、前の扉から走って逃げた。一目散に逃げて、しばらくして後ろを振り向いたら追っ手は来ない。
僕は、<な~んだ、実験映画だったのか。だったら銀幕に向って立ち小便でもしてやりゃ良かったぜ>と、
安全が確保されると強気になった。
その他にも、東京ドームで野球をやったり、青山のトンカツ屋で注文を間違えられたり、不倫調査の片棒を担いだり、
中野駅で痴女集団にストーカーされたのを、自慢の脚力と時刻表のトリックを使って、まいてみせたりして、
夢の中でも大忙し。
そして長い眠りから目を覚まして、朝、テレビをつけたら、北朝鮮が3発ミサイルを撃ったと言っていたものだから、
夢より現実の方が突飛だった。締切まで、あと2日。
BGM. シーナ&ザ・ロケッツ「ユー・メイ・ドリーム」


甘くて冷たい、アイスクリーム

27/Ⅹ.(木)2016  今日は秋晴れ。
前々々回の「夢の展覧会」に2回登場した、アイスクリーム・ベイビー、は大学の同級生。
性格が悪く、意地悪だから、顔の一つ一つのパーツの作りは良いのに、
ファッションセンスがダサいから、「好きな子」とか「ルックス」という文脈で語られることが稀有な女子だった。
それでも彼女は僕にはやさしくて、僕が授業をサボってるとプリントを1枚余計にとっていてくれたり、
「川原くん、サボりはダメ!はい、プリント。面倒かけさせないでよね」とか、
「これ昨日の分のノート。貸すからさっさと写して。それ以外の目的に使わないでよ」などと、
ツンデレなどいう用語が存在する前の20世紀の終りに、立花みさと級の輝きを放っていて、
僕は「甘くて冷たい」から「アイスクリーム・ベイビー」というあだ名をこっそり付けていた。
略して、アイス、と呼ぶこともあった。
アイスは、勉強がとても良く出来た。
僕は精神科医になるため医学部に入学したから、目的が明白な分、それ以外の授業は無意味に思え、
従って、モチベーションが上がらず、パフォーマンスは下がった。
医学部は6年制、僕は毎年スレスレの成績で進級をした。
国師を通れば良いのだ。それまではビリでも良いから、まず進級、と目標を低目に設定していた。
大学4年の時、いよいよ、僕はピンチで、<もうダメかもしれない…>とあきらめかけた。
そして僕は現実逃避。
<将来は、アイスクリームと結婚して、ヒモのような生活を送ろう>と思った。
アイスにそう打ち明けてもみた。
すると、アイスは真顔で僕のノートに、
「めざせ、タッちゃん、BSL」と書いた。
これは当時、流行っていたマンガ(アニメ)「タッチ」のヒロイン・南ちゃんが主人公の達也に、
「めざせ、タッちゃん、甲子園」と書いて部屋に貼るシーンのパロディだ。
BSL(ビー・エス・エル)とは、ベッド・サイド・ラーニング、の頭文字で、5年生になると出る病棟実習のことだ。
つまり、アイスは、「一緒に5年生に進級しよう」とエールを送ってくれたのだ。
アイスは模範生だったから先生達のウケもよく、
「もしBSLに上がれたら同じ班になれるようにお願いしてみる。川原くんの面倒みなきゃだものね」と微笑んだ。
そして僕は頑張って、元々、やれば出来るタイプだから、目出度く5年生に進級した。
しかし、BSLは別の班。
アイスに、<同じ班になれなかったね>と言うと、
アイスは、「川原くんと同じ班になんかなったらお世話係で大変よ。あーあ、良かった、良かった」と底意地悪く
そっぽを向いた。
当時、「IT’s」という清涼飲料水のCMに、オードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」の髪を切るシーンで登場した。
僕は髪を切ったあと、鏡に写った自分の姿を左右に振って確かめるオードリー・ヘップバーンの美貌が、
アイスに似てると思い、「アイス、オードリー・ヘップバーンにそっくり説」をクラスに吹聴した。
アイスは性格が悪いからクラスの皆は、アイスの外見の美しさに気付いておらず、
アイスの服はイモいから、「相変わらず、川原はおかしなことを言ってるなぁ」と口々に言い、
「この間は、トモエくん(男)のことを、甲斐智枝美、に似てるなんて言ってたし」と丸無視された。
それでも、そのあと、こっそりとクラスの目立たない奴と、暗い奴と、キモイ奴が1人づつ、僕のそばに寄って来て、
「●●(アイスの名前)は、オードリー・ヘップバーンに似ているよ」と言った。
僕は6年間で彼らと口をきいたのは、それが最初で最後で、彼らが何という名前かも知らない。
そのCMのせいか、テレビの洋画劇場でタイムリーにも「ローマの休日」が放送された。
僕は見逃したが、アイスクリーム・ベイビーは録画したという。
アイスは僕に、「みた?みる?」と言った。
僕は内心、<アイスが、オードリー・ヘップバーンを録画。自撮り、じゃん。貴重だ>と思った。
自撮り、なんて言葉、まだない頃だけれど。
そして、<みる!みる!>と答えた。
僕のアパートとアイスの実家はご近所だった。
それは僕がアイスの家の近くのアパートを借りたからで、ま、軽くストーカーですね(笑)
アイスはビデオを学校にではなく、僕のアパートまで散歩がてら届けてくれた。
なのに、その日に限って、BSLの班員がうちで酒盛りをしてやがって、せっかくのチャンスだから奴らをたたき出し、
僕はアイスと二人で僕の部屋でアイスの持って来たビデオをみた。
アイスは映画のオードリー・ヘップバーンをみて、僕は画面をみてるアイスの横顔をみてた。
アイスの録った「ローマの休日」はCM入りで、CMのたびに、アイスに、「川原くん、映画に集中!」と怒られた。
下は、昔の夢日記の表紙に貼った、CMに使われたオードリー・ヘップバーン「ローマの休日」の一場面。↓。


僕は医者になってから数年後、電車の中でバッタリ、アイスクリームに出会ったことがあった。
アイスは小さな男の子を抱っこしていた。
アイスから僕に気付き、声を掛けられた。
「この子、私の子」<エッ?>
「私、結婚したの」<エッ?>
「バツイチなの」<エッ?>
「うそよ(笑)」<エッ?>
「(笑)ホントよ」<エッ?>
と、出会いがしらの連続パンチのご挨拶だ。
アイスは、その子の手を持って、「僕は頑張るのだ~!」と、エイエイオー、みたいなポーズをした。
それをみて、僕は昔、きっとこの子になりたかったんだな、と思った。
そして僕はその子の目をじっとみて、<僕に出来る事なら何でもするよ>と瞳で語りかけたら、
その子は手を伸ばして、僕の鼻をギューッとつまんだ。
アイスは、「川原くんの鼻はつまみたくなるのよ」と真剣に解説した。
ならばと僕は、アイスの方をみて、ちょっと鼻を突き出すようにして、数秒、顔を向けてみたが、
アイスは鼻をつままなかった。
そして、アイスが先に電車を降りる。
僕らは手を振って別れた。
僕は車窓から彼女の背中を見送った。
アイスは一度も後ろを振り向かなかった。
僕は、<相変わらず、アイスクリームだなぁ>と思った。
次の駅で僕も降りた。
僕は、つげ義春の「もっきり屋の少女」のラストみたいに、「頑張れ、アイス」「頑張れ、アイス」、と手を振り上げながら、
病院への道を歩いて行ったんだ。
下が、「もっきり屋の少女」のラストシーン。↓。


来年の2月には、何十周年記念かで大学全体の同窓会があるそうです。
会えるかどうかわからないけど、僕はアイスとその他に会いに行ってみようと思います。
BGM.RCサクセション「うわの空」


夢の展覧会(完璧版)

14(金)~20(木)/Ⅹ. 2016
ベルハー・ショックの、みずほロス、で、こんな時は何を言ったらいいのか、わからない。
FM北海道「みずほのほ」には、<あまりのショックで手がふるえます>と、
ふるえた文字のファックスを送ってみました。…ちょっと、怖いですね。↓。


気分はまるで、フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」、で、そんな時こそ互助精神で、
スタッフに何かご機嫌な記事で繋いでもらって、時間を稼いで、気持ちを立て直せればとも思うのだが、
気分が下がっていると、人に頼るのも億劫で…。
人に頼れないなら、昔の自分に力を借りよう、と、思いついたのが、僕は高校の頃から夢日記をつけていて、
時々、挿絵も添えているから、それらをアトランダムに載っければ、まるで、夢のイラスト展覧会。
絵には解説は無用の長物、風味を味わってもらえばよい。
あっ、待てよ。今、僕の携帯電話はカメラ機能が壊れたままだから、撮影を誰かに頼まなきゃ、だ。
頼めば、誰も嫌とは言わ(え)ないだろうけれど、それもそれで気を使い、とかくにこの世は住みにくい。
そんな、すったもんだ、も、一っ飛び、完成させました!夢の展覧会。
・カラス貝のマニキュア女vsトラディショナル・ブルー~瞳~少年風(1981.9月)


・伊藤つかさは、トマソンがお好き(1982.1月)


・貪婪(どんらん)…非常に欲が深いこと(1982.1月)


・手のひらを太陽に(1982.1月)


・もう君に逢うこともない、心は揺れても(1982.2月)


・小田急線のひとコマ(1982.2月)


・本厚ちゃん(1982.3月)


・キヨシローのまね(1982.3月)


・川守田(1982.4月)


・一人になりたい…ううん、一人がいやだから。(1982.7月)


・伊代はまだ(1982.8月)


・天才の誤算(1982.9月)


・テスト前日(1982.12月)


・物理ダメ(1983.2月)


・ダルなboyは、Love is Real.(1983.3月)


・マリン・スポーツ(1983.5月)


・カルピス(1983.5月)


・誕生日。小指と小指をつないで歩く、理科室でキス(1983.7月)


・夢見る年頃~36/38≒95(1983.8月)


・野球大会(1983.8月)


・クリスマス・イブ(1983.8月)


・恋人峠の昼下がりPart.2(1983.9月)


・すっかりトロピカル(1985.7月)


・明日のイブはRC(1985.12月)


・オキドキの古着で遊園(1986.5月)


・直ちゃん(1987.6月)


・Hanesの白のTシャツに血を滴らせてしまった(1987.6月)


・元・日本軍の男と、ユキヒョウ(1987.7月)


・大船観音がくずれた(1987.7月)


・みつけてくれたらキスしてあげる(1987.7月)


・甘くて冷たいアイスクリーム・ベイビー(1987.7月)


・気がつけば兵隊(1987.7月)


・眠れ。ライオネル・リッチーの墓の上(1987.7月)


・スタン・バイ・ミー(1987.8月)


・ニース予想図(1987.8月)


・アイスもハシャいでる、僕は日焼け(1987.8月)


・ダチョウ(クジャク)ともも焼き(1987.8月)


・僕は照れる(1987.8月)


・新宿地下の靴専門店(1987.8月)


・過ぎ行く夏を惜しんで~絵を描く2人の少女(1987.9月)


・念力(1987.9月)


・さっきまでの競争のつづきだ(1987.9月)


・渡り廊下の窓から連中が手を振る(1987.9月)


・脳外科はじまる(1987.9月)


・お前はストーブの前でのびていた。あくびしかしなかった(1987.9月)


・聴神経腫?すぐに手術(1987.10月)


・宙に浮く機械(1987.10月)


・すいみんやくが欲しい(1987.10月)


・明るく生きるコト(1987.10月)


・サンボのジャケット(1988.7月)


・オバQが正ちゃんのクラスの記念写真に写ってしまった。皮膚科テスト、60点。(1988.7月)


・ウサギに乗って空を飛ぶ(1988.12月)


・うその固まり(1989.1月)


・すべては幻想である(1989.1月)


・柔道(着)一直線!激しい視線の火花が散る(1989.4月)


・世代交代の口約束(1995.3月)


・2002.8月6日からの夢日記の表紙


BGM. サザンオールスターズ「別れ話は最後に 」


白い部屋

12/Ⅳ.(火)2016 はれ、暖かい。
子供の頃から、繰り返しみる夢があった。
僕は静かな白い部屋にいて、壁にもたれかかるように体育座りして、高い窓から光が差し込む。
見覚えの無い部屋だが、どこか懐かしい部屋だった。
心当たりのない部屋なのに、鮮烈な記憶があった。
そんな風だから、一時期は前世の記憶かしら?、などと考えたりもした。
どの夢にも共通するのは、無音の白い部屋ということで、なぜそこにいるのかは、夢によってバリエーションがあった。
理由が無い場合もあったし、ある時は、政治犯だったし、ある時は凶悪犯罪を起こした罰だった。
正義であるがゆえに、悪い権力者に無実の罪で投獄されたこともあった。
いずれも、僕の感情は無感情、何の抵抗も工夫もせず、その状況を受け入れていた。
結局、そこが僕の「居場所」であったような気さえした。
精神科医になって、研修医の2年目で関連病院の単科の精神病院に出向した。
僕は大学病院とリハビリセンターくらいしか病棟を知らなかった。
今はもうそんな病院はないが、僕が医者になりたての頃の精神病院は、アメニティより収容に重きを置くような作りだった。
そんな中、過度に刺激的になっている患者さんを、他の患者さんから隔離する部屋を「保護室」と呼んだ。
保護室は大学病院の病棟にもあったが、僕は僕の勤務先の病院の保護室をみて愕然とした。
それは、ずっと子供の頃から、夢に出て来ていた、白い部屋、だったから。
僕は医者になって3年目から大学院に進学するため、大学に戻った。
医者になるとお金が儲かりそうだと思われがちだが、それは何年かしてからで、
今は随分と改善されたようだが、当時の研修医の月給は5万円だった。
僕は比較的、若く結婚していて子供もいたが、大学院生は無給で、むしろ学費を払わないといけなかったし、
卒後教育も大切で、勉強会やスーパービジョンにもお金がかかった。
見かねたオーベン(指導医)が、アルバイト先を紹介してくれて、日曜日やまとまった休みには出稼ぎに行った。
今はもうそんな所はないだろうが、当時は「無医村」のような精神病院が地方にはあった。
僕は夏休みに家族を連れて、九州や東北の病院に2週間泊り込みで勤務に行った。
宿舎を用意してくれると言われたが、そこのお風呂場に黄色い巨大な物体があり、家族は悲鳴をあげた。
何かと思ったら、キノコ、が浴槽からはえていた。
僕は昼間、病院に行って仕事をして、夕方に宿舎に帰った。
九州の病院では、赤とんぼ、がいっぱい飛んでいて、僕は<なんとかこれ食えないかな?>と思ったものだ。
僕の仕事は、「いればいい」、だけだった。
さすがに医者がいないのはまずいからという理由で、雇ってもらえていたのだから。
回診と言って、病棟の患者さんの様子をみて回る時に、保護室の患者さんの様子もみる。
看護婦さんは、「この人はもう何年もここから出られないのです」と僕に説明した。
僕は、ナース・ステーションに戻ってから、カルテをみた。
すると入院時から何年も1回も薬が変更されていなかった。
これは何とかなるかもしれない、と思った。
僕は薬の調整と患者さんへの働きかけを考えた。
看護婦さん達は、やる気になって、どんな指示にも嫌がらず、無理な要求も頑張って動いてくれた。
僕には2週間の時間しかなかったが、複数の患者さんを保護室から出す事に成功した。
看護婦さん達は、自分たちがあてにされたことをすごく喜んで、仕事をしてて良かったと言った。
僕の大学院の生活は4年間だったから、そんな出稼ぎを、その間、ずっと続けた。
同じ病院にも行ったし、違う病院にも行った。
それは、僕が雇われる理由は、医者の腕ではなくて、医者がいないと困るから、で、その時の病院の都合によった。
でも、行く先々で看護婦さん達の反応は同様だった。
よく「チーム医療」などと言って、医者はそのリーダーだと言われる。
リーダーに求められるのは、その人の治療的な姿勢に尊敬が出来て、強力なリーダーシップで皆をその気にさせ、
明確な指示をだし、役割分担の采配をして、その結果における責任のすべてを医者自信が背負うという覚悟だと思う。
僕にもしそれがあるとするならば、それは大学や教育機関では習わなかったし、教えてももらわなかった。
僕はこのジプシーのようなアルバイト生活で、限定した2週間の仕事で、それを実感したのだと思う。
看護婦さんや薬剤師さんや栄養士さんやお掃除のおばちゃん達が一丸になって結束した力は、
我々の臨床のエネルギーにも転換された。
そして僕は大学院を修了し関連病院に派遣され、医者になって7年目で、やっとアルバイトをしなくて良い生活が送れた。
それまでに、多くの患者さんを保護室から出せた。
不思議な物で、そのせいなのか、それ以来、僕は、白い部屋、の夢をみなくなった。
BGM. 八神純子「さよならの言葉」


茅ヶ崎に背を向けて

23/Ⅲ.(水)2016 はれ、少し涼しい
最近、「らしんばん」(アニメの専門店)などで同人誌のコーナーをみると、中が読めないように袋詰めにされていて、
僕は、<これじゃ、表紙で選ぶしかないな>と考えた。ま、買わないけど、同人誌。
似たようなもので、昔は、「ジャケ買い」と言って、アーティストや内容ではなく、ジャケットの絵柄だけで、
LPを選んで買うことがあった。パティ・スミス・グループの「イースター」とか。
皆さんも、1つや2つ、思い当たるものがあるのではないでしょうか。
反対に、サザンオールスターズのデビューアルバム「熱い胸さわぎ」は内容は素晴らしいのにジャケットがひどい、
と当時の評論家が口を揃えて(?)言ってました。
僕はそのLPを持っていて、「茅ヶ崎に背を向けて」という桑田と原坊のデュエット曲が好きでした。
なぜ、そんなことを、心理のコンテストの最中に、言い出してるかと言うと、こないだの土曜日にみた夢についてです。
僕の実家は茅ヶ崎なのですが、まるで、帰っていません。
それが、土曜日の夢では、僕はスパイのように変装して、茅ヶ崎の家を見に行く設定で、暗くて何もみえない中に、
女の人が立っていました。顔とかは全然、判らなかった。
僕の夢に茅ヶ崎の実家が出てくる事は稀で、それより夢から起きた時の気分が、<なんとも不思議な気分>でした。
怖いとか、不気味ではなくて、不思議、だったのです。でも、直にそんな気分も忘れかけていました。
ところが、今日、連休中に親や祖父母が亡くなった、という知り合いの話をいくつか聞いて、
僕は、<お彼岸に亡くなる人は、さまようことなくあの世に行ける、って言うよ>となぐさめた。
しかし、言ってるそばから考えた。そんな知恵、どこでつけたんだ?
そうだ!母が死んだ時に、人からそう言われたんだ。
あれ?母って、いつ死んだんだっけ?
僕は寺の坊主とケンカしたから墓参りは一切しないし、親戚付合いもないから仏壇に線香をあげることもない。
親の誕生日は、子供の記憶が残ってるから覚えているが、命日は父の方は克明に記憶しているが、
母の命日は調べないと判らない。きっと、覚える気がないのだろう。
でも、気になったので、さっき、母の遺歌集(あとがきを僕が書いている)をめくって調べたら、3月19日だって。
先週の土曜日だ。
あの変な夢をみた日だ。
暗がりの中の不思議な女の人の感覚は、僕に夢を忘れさせなかった。
これはなんだかんだ言って、母の命日を深層心理では記銘していて、日常では忘れてる自分に自分でサインを出したのか、
とも思ったが、あの母のこと、僕が命日を忘れてるから勝手に夢に出て来て思い出させようとした可能性もある。
母には、そういうところがある。
母のエピソードは、ぶっ飛んだものが多いが、今回はちょっと趣向を変えた思い出を。
僕には、イジメ、というものを経験したことが、ほぼない。
イジメはしたことがあると思う。
でも、弱い者イジメは嫌いで、弱い者イジメをする奴をイジメてた。でも、イジメはイジメだ。イジメ、ダメ、ゼッタイ!
僕には、いじめられ体験がほぼない、と言ったが、もしそれに近いものがあるなら、小学校の高学年の頃だ。
僕は受験のために、日曜日に、茅ヶ崎から東京の学習塾に通った時期がある。
僕は途中から参加したので、もうグループが出来ているところに入った。
あまりよく覚えてないが、塾の帰りに、数人で電気屋に寄る風習があって、僕も誘われて、そこに参加した。
最初は仲良くしていたが、何度目かで、まかれる、か何かの嫌がらせを受けた。
きっと僕が頭が良かったか、顔が良かったか、女子にモテたせいだと思う。
男の嫉妬は面倒くさいから。
それが何回か続くとさすがに気分が滅入った。
僕の様子がおかしいことに母が気付き、しつこく聞かれて、ぼんやりと輪郭だけ話したんだと思う。
自分が、イジメられてる、という事実を認めたくないという心も強かっただろうから。ぼやかして喋ったと思う。
すると母は、和服に着替えた。
これは母の本気モードだ。
母はどこかに出かけて行って、しばらくして帰ってきたが、母はそのことは何も言わず、普段通りの母に戻っていた。
翌週、僕が塾に行く準備をしていると、母は、「達二、どこに行くの?」と聞いた。
僕が、<塾>と答えると、母は、「あらっ、あそこはもうやめにしたのよ。言わなかったかしら?」とトボけた。
男の子のプライドを大事にしたんだと思う。
僕と母は、その後の人生で、このことについて、1度も話したことがない。
…って言うか、今、思い出したくらいだ。
しかし、このおかげで、僕には嫌なことがあったら逃げればいいんだ、という選択肢が出来て、
随分とストレスに対する対処作のバリエーションの幅が広がった。
逆に、だからこそ、攻撃的に人生を送れているのだとも思った。
BGM. よしだたくろう「かくれましょう」


王選手(監督)の夢

23/Ⅱ.(火)2016 曇り、少し寒い、花粉?
ジャイアンツのユニフォームを着て、王選手(監督)が夢に出て来て、こう言った。
「川原君のバッティング・フォームを見てたんだけど、アッパーからダウン・スィングに戻した方が良いんじゃないかな。
僕の一本足打法を使うと良いよ。
あれなら、大根切りになるからね。はははは…」と爽やかに笑って。↓。

言われてみると、僕は野球部の頃は、ダウン・スィングでライナー性の打球を打っていた。
それはボールが準硬式という外はゴムで芯が硬球と同じ重い球だったから、上から叩きつけると飛距離が出るから。
それが、僕が精神科医になって、こどもの病院に移って、ソフトボールのレクレーション係りになった時、フォームを変えた。
ソフトボールは、打ち上げた方が飛距離が出る気がしたのと、
それよりもソフトボールを通じて、こども達に何を伝えようかと考えた時に、
こども達は皆、とても萎縮していて、何かにおびえるように、お行儀よくしていたから、
僕はソフトボールを通じて、もっと遊び心とか、形に囚われない自由さを持っても良いんだという見本を見せたかった。
僕は守備では、ゴロを全部、突っ込んで捕り、ファーストへはダイビング・スローをした。
エラーとか暴投を恐れぬ荒いプレーがこども達に受けた。
そんな僕が選んだ打法は、近藤和彦の天秤打法だ。
バットのグリップを離して持ち、背中の方で天秤の様にリズムを取り、バスター・バントの要領で打つ。
慣れると意外とタイミングは取り易い。
僕の打撃は段々と進化して、体を180度に折り畳んで、体の回転の勢いと遠心力を利用したら、これが良く飛ぶ。
僕らのレクレーションのフランチャイズは屋外の球場だったから、風に乗せるように、自ずとアッパー・スィングになって行った。
僕が打席に立つと、こども達は、口々に、「おい、天秤打法だ。外野、下がれ~」と脅威した。
どうやら、王選手(監督)は、そのことを言っているみたいだ。
言われてみれば、理由があって変えたフォームだが、それがソフトボールだから、という経緯を僕は忘れていた。
だったら、今度、打席に立つ時は、ダウンに戻した方が良いかもしれないな。
ま、今の僕の人生で打席に立つことないんだけどね。
これは、知らせの夢かな?
原点回帰とか、状況に応じてやり方を見直せ、という比喩か。
王選手(監督)はよく僕の夢に出てくるが、決まって、こんな知らせの夢のプレゼンテーターの役が多い。
夢は大抵、検閲を受けてるから、その夢だけを夢事典のようなもので読み解くのは、むずかしく、額面通りには受け取れない。
だけど、結構、昔の偉い人は、夢を鵜呑みにしていることが多い。そして、それがまたうまく行っている。
ソクラテスは、ふだんは音楽を馬鹿にしていたらしいが、夢で「ソクラテスよ、音楽をやれ」と言われたら、
自分は「無知の知」だ、などと言いながら音楽のことを知らないくせに馬鹿にしていた、と反省して、
作詞・作曲したオリジナル・ソングを皆の前で歌って聞かせたという。やはり天才って素直なんだな。
親鸞はもっとすごいです。親鸞が修行してる頃のお坊さんは女を抱いてはいけないし、肉を食べてもいけなかった。
親鸞は、修行中、京都の六角堂で居眠りしてた時(それもすごい!)、夢に観音様が出て来て、
「親鸞や、お前は女と寝てもいいぞ。なぜなら、その瞬間、わらわが女と入れ替わってやるから、観音様とならOKじゃん!」
みたいなご都合主義の(すみません)夢をみて、それを鵜呑みにして浄土真宗を作っちゃったって言うんだから、
やっぱり歴史に名を残す人の発想は理解を超えてますね。
こないだ大学の医者に聞いたのだが、最近は研修用のプログラムやカリキュラムが親切に充実しているらしい。
そうしないと、若い人たちは不満を陳べるらしいから。
ま、そんな馬鹿なこともないとは思うが、1人でも大声でそういうことを言うと、皆がそういう風に思われるってことはあるだろう。
しかし、親切な研修プログラムって、自分で考える力や疑問を持つ発想が失われたり、そもそも芸って盗むものみたいな所があるのに、
そういう精神が欠落しないか心配だ。
つまり、「教えてくれる人」がいないと「何もできない人」になってしまうか、
出来ない言い訳ばかりをする人間の養成機関にならないかな。
僕が心配することでもないのだが。余計なお世話でした。
だけど、世の中には、教えてもらえることと、自分でつかむものがあると思う。
人によって、それは違ったり、あべこべだったりするから、難しいんだけど。
でも、自分の人生をどうするかなんて、これは教えてもらうことじゃないだろう。
ドラえもんのひみつ道具に「ミチビキエンゼル」ってのがあって、のび太は散々な目に遭っていた。
そんな時、夢には、たまに解決のヒントが隠されてることがあるから、注意してみると良いでしょう。
ポイントは、大抵の夢は普段抑圧されているフラストレーションみたいなものが出てくるから、
夢の後味は、不快だったり、変てこだったりするんだけれど、
寝起きが清々しい夢の時は、今抱えてる問題の解決のヒントの可能性があり、ってあたりかな?
取りあえず僕の場合、今度の休みにバッティング・センターに行ってみようかなと思います。↓。

BGM. シーナ&ザ・ロケッツ「ユー・メイ・ドリーム」