禁じられた遊び

前回は受験の話だったので、勉強つながり、家庭教師の思い出を2回に分けてお送りしましょう。
前編の今回は、「良くない家庭教師」の巻。
中学生の頃の話です。
中2までは、中学受験の貯金で何とか食って行けた。
授業中は余計な事を考えず、黙って教師の話に耳を傾けて、教師が書く黒板の文字を追っていれば、
特段試験前に勉強しなくても、クラス(4~50人)で10番以内には入ってた。
それが中3になると、授業内容がガラリと変わり、この頃から深夜ラジオを聴き出すから、授業中は居眠りをして、
何も勉強しないでテストを受けたら、まったく判らない。
今までは判らなくても、何かしら答に近い事を書くことが出来たが、はじめて白紙で提出というのを体験した。
それでも、<皆、そんなモンだろう>、と、たかをくくってた。
成績が少し落ちることは覚悟していたが、20番台くらい(つまり真ん中くらい)だろうと予想していた。
通知表を返される時は出席番号順に教壇の所まで行って担任から受け取る。
僕は渡されてすぐ見開いたら、「40番」と記してあった。ビリから、10番以内!
僕は、すぐさま、<困るな、間違えちゃ。これ次の番の黒河(仮名)のでしょう>と突き返したら、「お前のだ!」と
担任に通知表で頭を叩かれた。
「黒河(仮名)に失礼だろ!」とも言われた。
黒河(仮名)は僕の真後ろでションボリと立っていた。傷ついた?ごめんね、クロちゃん。
そんな話はどうでも良くて、丁度、その頃、卒業生が、元・担任に在校生の家庭教師のバイトを依頼したそうな。
担任はその話を僕に振って来た。
僕は少しムカついた。
それは成績が悪いから、家庭教師をつけろ、と呼び出されたからではない。
OBのバイトの斡旋を、安易に俺に回して来るという安直な物件探しにで、<俺も舐められたモンだぜ>と思った。
結局、担任と母が相談して、そいつがうちに来ることになった。
当時、プロレス界はアントニオ猪木が異種格闘技路線を引いていた。
僕は猪木から目が離せなくて、毎日、学校帰りに、駅の売店で東京スポーツを買って帰っていた。
その家庭教師は、東スポを見つけると、「その新聞、やらしい記事あるだろ」と下品に笑った。もう、お下劣!
僕はエッチな紙面を見開きで渡し、<ちょっと、僕、水を飲んで来ますので、それまでそれでも読んでて下さい>
と丁寧に言うと、そいつは、「おぅ!」なんて調子をこきやがって。
僕は水など飲まず、急いで母の所に行き、<先生がお呼びですよ。お急ぎみたい!>と母をせかした。
母は大慌てで部屋に入ると、ニヤニヤして、堂々とスポーツ新聞のエッチ欄を見てる男の姿に出くわして。
<ウッシッシ、作戦成功!ザマァミヤガレ!>。
実際、そいつはロクでもない家庭教師で、僕がそいつから習った事で覚えてるのは1つだけで。
当時、山口百恵が「百恵白書」という全曲、作詞阿木燿子&作曲宇崎竜童、シングルカットなし、という自身初の
トータル・アルバムを出して評判になっていた。クリニックの壁にも飾ってあります↓。

その中に「ミス・ディオール」という歌がある。
歌詞の中では、ミス・ディオールは香水の名前だ、と言っているだけだった。
そいつは、「それはな、ミス・ディオールを着て寝る女、って意味で、つまり裸で寝る女のことだよ」と教えた。
まったく、中学生に何を教えてるんだ。どうしてくれるんだ!いまだに覚えてるぞ。
そいつの楽しみは、家庭教師の帰りに、駅前のパチンコ屋に寄ることだった。
実際、家庭教師が終った後、こっそり尾行したら、そいつは嬉しそうにパチンコ玉を両手ですくって席に向かっていた。
僕は家に帰ってから、少し深刻そうな顔をして、<言おうかどうか迷ってるんだ>と母に言った。
当然、母は聞き出そうとする。
<あの先生、毎回、ここの後に楽しみに寄ってるお店があるのを見ちゃったんだ>と僕は答える。
母はまだ冷静で、やさしく「どんなお店なの?」と尋ねる。
<中学生は入っちゃいけない店なんだ>。
母の顔はにわかに曇り、「なんて店なの?」。
<うる覚えなんだけど、確か、看板に、チンコ、って文字が書いてあったよ>。
すると母は激怒して、勝手にハレンチな勘違いをして、担任にも文句を言って、そいつをクビにした。
パ・チンコなのにね(笑)
僕の中学の担任は、僕を3年間ずっと怒りっ放しだったが、この時、始めて謝られた。
後にも先にもこれっきり。
僕としては、もう少し、この家庭教師と遊んでやっても良かったんだがな。
BGM. 近田春夫&ハルヲフォン「きりきりまい 」


予告ブログ追加編~「語が苦」

2015年新春第1弾は、季節柄、大学受験、共通一次の思い出について書きます。
僕が、英語が苦手なのは、学校の先生の言い付けを守らなかったからで。
タイトルは、「語学」とかけて「語が苦」にしました。
それでは、時計の針を30何年前に戻します。
僕の通っていた学校は中高一貫の男子校で、それは6年制の学校みたいな感じで、部活も一緒にやっていて。
僕はブラバンに所属していたから、中1の時から、「高吹連」のコンクールに出てたりしていた。
中1が1年生で、高3が6年生みたいな感覚かな。
今頃の時分になると、年明けは、高3の先輩の進路の話題になった。
毎年、大抵、ふざけた先輩が一人や二人はいて、「俺、東大、受けてくるから。ヨロシク!」と言って。
そういう事を言う人は、決まって、成績は悪い方で。
そういうのを「記念受験」って呼んでた。つまり、冷やかし、ですね。
だけど、「記念受験」をした先輩が、「東大?受けたけど、落ちたよ。やっぱ、難しいね。歯が立たないよ」と笑う姿と、
往年のプロレスラーが、「ルー・テーズ?戦ったことあるけど、完敗だったね。歯が立たないよ」と回想するシーンは、
どこかちょっと似たニュアンスがあって、僕はいいなと思ってた。
だから、僕も高3になったら、「記念受験」をしようと決めていた。やっぱ伝説のレスラーとは戦っておきたいじゃん。
ところが、そんな先輩方のふざけた態度への対処策か、僕らの前の学年くらいから「共通1次」が採用された。
今のセンター試験みたいなもので、僕らの頃は、国公立を受ける人は必須で、私立受験には関係がなかった。
うちの学校は高2で、「理系」と「文系」が見事に分かれ、「理系」は「理系」しかしないようなカリキュラムで。
国公立を受ける人は、少数だったと思う。そういう人は、別に授業を選択してとってたんだと思う。
成績、良い奴、友達にいなかったから、よく知らないけど。
でも、医学部に行く生徒は多かった。そういう伝統のある学校だった。
だから、僕が受験生の頃は、生徒よりも先生の方が、「共通1次」の対策で大変だったみたいだ。
僕らの一個上の学年はそんなに「共通一次」を受けなかったみたいで。
僕らの学年は少し受験者は増えたが、それでも成績上位者の数名だったと思う。
少なくとも、僕が学校で普通に話すような仲間に、「共通1次」を受ける者はいなかったはずだ。
僕の受験勉強は、私立医大にしぼった勉強しかしてなかったが、「記念受験」はするつもりだった。
それは、中1の時から決めてたから。
僕は、「共通一次」に申し込んだ。
しかし、ここで2点、問題が浮き上がってきた。
1点目は、東大は所謂「足きり」というのをやるから、「共通一次」で高得点を取らねば受験出来ないシステムになっていた。
英・数・国が200点づつで、理科を2つと社会を2つ選択して各100点づつ合計1000点満点で、900点くらい必要だった。
理科と社会は4つのうちから2つをその場で選択して良いから、解き易い問題が多いのをその場で決めようと思った。
そして、「共通一次」にはマークシート方式が導入されていた。
当事はシャーペンはダメで鉛筆のみ、「HB」とか指定もあったと思う。
僕は普段、4Bくらいの濃い芯を使っていたから、試験前に文房具も揃えなければいけなかった。
あと、判らない問題用に、鉛筆の6面を削って、サイコロのように①~⑥の数字を書いて。
どうしても、判らない問題は、これを転がして出た数字に丸をつけることにした。
マークシートは記述式じゃなくて、選択式も多かったから、こういう必殺技が編み出された。
なんとか、これらで足きりを突破しようと考えた。無謀だった。ま、それでも、記念受験にこだわった。
後輩に、<俺、東大、受けてくるから。ヨロシク!>って言う文化を残したかった。これが1点目の問題。
2点目の問題は、もっと深刻だった。
なんと僕は学年末テストの英語が赤点で追試だった。
その日程が、「共通一次」の二日目とかぶっていた。
僕は職員室に、<共通一次があるから、英語の追試は受けれないんスけど~>と言いに行くと、「何!?」と大騒ぎになった。
只でさえ、職員室は不慣れな「共通一次」で大わらわなところに来て、卒業もあやうい生徒がそれを受けると言うのである。
学年末試験の一回をしくじっただけで卒業出来ないのは可愛そうとの救済措置が「追試」だ。
そして、我が校では数名の成績上位者が受けるのが「共通1次」だ。
教師達は、まさか「追試」と「共通一次」の日程がかぶる生徒が出るなどと想定していなかったようだ。
担任は、この時、初めて僕が「共通一次」に出願していることを知り、「お前なぁ」とあからさまにあきれ顔をした。
そのやりとりをみつけた、英語の担当のハゲ山が「追試を受けない者には単位はやらない!」と割り込んできた。
ハゲ山は、そのビジュアルから、いにしえの先輩がそう命名して、我々の代まで伝承され続けているあだ名だった。
<今、担任と話してる所なんだけど邪魔しないでくれる?>と僕が言うと、もっとギャーギャー言い出した。
<受験生には、『落ちる』とか『すべる』って禁句だって知ってる?センセーの頭を見てると、『すべり』そうで縁起悪ぃんだよ>
って僕の口が滑った。
ハゲ山は真っ赤になって怒り心頭だった。ゆでだこのようだった。
「まぁ、待て」と担任が割って入って、「お前、冷静になれ。学校のテストが追試の奴が東大に受かるか?」と諭すように言った。
僕は、<あんたは、自分の生徒を信用できないのか!?>と担任の目をにらみつけた。わずかに担任が視線をそらした時。
僕はここが勝負だとたたみかけた。なるべく優しい声で、スローなテンポで、催眠術師のような声色で。
<自分のクラスから、東大生が出たらどうなる?職員室の中で、株が上がるんじゃないか?>
すると瞬間、担任の目が賭博師の目に変わった。
「お前、本気か?」
<中1の時から、決めてることだ>
しばしの沈黙の後、担任がバクチ打ちのような口調で言い放った。
「判った!受かって来い!英語の追試は俺がなんとかしてやる!」
<やり~!そう来なくっちゃ!じゃ、俺、共通一次、受けてくるから。後のこと、ヨロシク!>
と言う訳で、僕は英語の追試を免除され、共通一次を受けれた。
共通一次と云うのは、比較的、基礎的な問題を出して、難問は出ないと聞いていた。
だから、とりこぼさないように、ということだった。
僕の得意科目は数学だった。自己採点だが、数学は満点だった。
最初の方に力技で計算させる小問があって、あれで焦ってペースを崩すとハマるパターンだった。
でも、僕は直前に「大学への数学」という雑誌を読んでいて、「メネラウスの定理」を覚えていて、それにドンピシャだった。
数秒で出来た。
答えだけを書けば良い問題は、部分点とかをもらえない代わりに、合ってさえいればいいから、途中の式などいらないから、
公式を知ってるか知らないかで大違いだ。
なので、これから受験をする人で、「メネラウスの定理」を知らない人は、式だけでも覚えておくといいんじゃない?
これから受験する人は、こんな記事、読んでないか。
その他の結果は、現国はまぁまぁ出来た。理科もまぁ。社会と古文&漢文は、「サイコロ鉛筆」が大活躍。
しかし、問題の英語が全然、出来なかった。そりゃそうだ、本当なら学校で追試を受けてるはずなんだから。
試験当日は、大雪だったが、番狂わせは起きなかった。
まぐれはなかった。翌日、学校に集まって、自己採点をしたら、結局、足きり。
一応、職員室に報告すると、担任は「わかった。すぐ切り替えろ。腐るな!」とまるで野球部の顧問のようなゲキを飛ばした。
ここは、もう少し、具体的な受験の必勝法とかを伝授すべきじゃないのか?精神論で何とかなるもんじゃないぞ。
そう僕が思ってると、またまたハゲ山が近付いて来た。
「追試は、大目に見たが、まだ単位はとれてないからな。私大受験までに、これをやれ」と分厚い課題を渡された。
<重ぇ~よ!ふざけんなよ!こっちは、これからラスト・スパートなんだ。学校の課題なんかやってられるか!>と思った。
教室に帰って、ブツブツ、文句を言ってると、「ちょっと見せて」と英語が出来る子が、ハゲ山の課題に目を通した。
そして、「これ、学年末試験の範囲だけじゃないよ」だって。
<何だ、それ?>
「高校の全部の範囲から出てるよ」
<マジか?>
「ハゲ山先生も、これ作るの大変だったんじゃないかな」
<じゃ、お前、やるか?>
「冗談じゃないよ。それに、これ、かなり偏ってるよ」
<嫌な奴だな!そんな所にエネルギーかけやがって。陰険だな。ムカつく!>
すると、クラスの皆が、「そうだ!そうだ!陰険だ!」と受験のフラストレーションをここぞとばかり爆発させた。
しかし、課題をやるのは、僕だけだ。
そこで僕は担任に文句を言いに行った。<お前、なんとかするって約束しただろ。どうなってんだ>って。
すると、担任は、「ま、形だけ、やっとけ!出せば良いんだ。出せば!」と珍しく的確なアドバイスを寄こした。
でも、素直にやるのは屈服したみたいで嫌だった。僕は担任の言葉通りに、チャチャっとレポート用紙数枚にマンガを描いた。
ハゲ頭の男が物を持ち上げて「Up!」、ハゲ頭の男が物を下げて「Down!」、脇に置いて「Side!」ってな調子で。↓。

後は、「励ます(ハゲ増す)」とか「儲けが無い(もう毛が無い)」とかの英単語とマンガの挿絵を描いて。
クラスの皆はそれを見て、ゲラゲラ笑っていた。
一番受けたのは、デンマークの地図を書いて、<首都は?>、「コペンハーゲン」。
もはや、英語じゃないし。「ハゲ」って言いたいだけだし。片仮名だし。
でも、これはとっても受けて、卒業までの短い間、ハゲ山のあだ名は、「コペン」になった。
後で知ったのだが、僕の幾つか下の学年では、「ハゲ山」は「コペン」と呼ばれていたそうな。
民間伝承とか街談巷語ってこうやって発生するんだ。
ちょっと話はそれるが、すぐ元に戻すのでご安心を。
僕が大学生になった時、友人から、青山に出来たアイスクリーム屋に、行列するバイトに行かないかと誘われた。
僕は断ったが、後で聞いたらそれが、ハーゲンダッツの日本初店舗の行列のサクラ、のバイトだったらしい。
これも、都市伝説っぽいけどね。
で、もし、僕が高校生の頃に、ハーゲンダッツが日本に進出していたら、ハゲ山のあだ名は「ダッツ」になってたな。
ま、そんなレポートをコペンに提出したら、「これで良いから、課題は課題だ。ちゃんとやれ」と負け惜しみを言ってやがった。
<ま、暇な時ね~>と、単位を貰っちまえば、こっちのもんだ。
で、僕は私大医学部の傾向と対策にとりかかる。
医学部のそれは、ちょっと癖があった。
数学は、数Ⅲはほぼ出ない。その代わり、ひたすら計算させる問題が出る。知力より体力。電卓でいいじゃん、って感じ。
医学を志す者はスタミナが必要だという警告か、わずかなミスも許されない世界への通過儀礼か、機械に頼るなという暗示か。
物理は、原子物理がかなりのボリュームで出る。やっぱ、放射線治療とかがあるからかな。
化学もやっぱり、そんな感じだが、学校によって特徴的な差があった。
ただ、英語の「ヤマ」だけが読めなかった。過去問を解いてるとなんか癖はあるのだが、はっきりは判らない。
まぁ、そもそも、英語に「ヤマ」もあったもんじゃないだろうが。
僕の勝負のポイントは、数学で稼いだ分の点数でどれだけ英語をカバー出来るかだった。
英語が足を引っ張らないか、だった。
結果は、全滅。浪人確定。
国公立の試験(僕は受けない、足きりだから)を待って、予備校の選抜クラスの試験が待っている。
しかし、2週間くらい、ちょっと間が空くのだ。その間にだれてしまい、暗記物はほぼ忘れちゃうし。
駿台の試験は落ちた。なんとか代ゼミのクラスに受かった。
その合格通知に喜んでいたら、親が、「予備校に受かって喜んでてどうする!?」とデリカシーのないことを言った。
世の中は、金属バット事件の頃だ。
僕は脅しで金属バットを買って帰ると、親は血相を変えて、「我が家にも、金属バットが来たか」と身をすくめていた。
なんかそんな自分にも自己嫌悪だし、彼女だけ大学に受かって疎遠になるし。全然、良いことはない。
予備校の4月開講までには少し時間があった。ふと、暇が出来たので、コペンの作った課題をパラパラっと見てみた。
僕はそれを見て驚愕した。そこには、僕の受けた大学の入試試験と似通った問題が並んでいた。
英語が出来る子が、「偏った問題」って言ってたのは、医学部用に「ヤマ」を張ってくれてたのね。
これやってりゃ、受かってたかも~
ごめんね、コペン。良い奴だったのね。
今回の教訓、先生の言うことは聞いた方が良いと思う、でした。
BGM. 高石ともや「受験生ブルース」


予告ブログ①~「生きること、死ぬこと」

15/ⅩⅡ.(月)2014 はれ 
※今思うと、あれがプロローグだったんだね。
珍しく、マサキから電話があって、この1年で同級生が2人死んだんだそうで。
2人は闘病日誌をフェイス・ブックにアップしてて、別の友人が、自分も癌で闘病中、とコメントしてるそうで。
<なんか壮絶だな>と僕が答えると、マサキはこう言った。
「だからさ、もう僕らの年は、普通に病死する年齢になったんだよ」って。
<まぁ、そうだな。で、だから何?>。
「ところで、君、まだ、酒呑んでから、風呂に入ったりしてるの?」。<もうしてないよ>。
マサキは、「病死なら良いんだよ。病気なら。只さ、君は酔って風呂で寝たりするから、変な死に方はやめて欲しいんだよ」。
<死に方に、普通とか変とかあるか?>と僕が言うと、
「あるよ!こっちが後悔するんだよ。『あぁ、注意しとけば良かった』ってさ。病気なら許すよ。事故死はやめてくれよ」と、
マサキは強い口調で言ってたな。
ここで少しだけ、僕とマサキの関係を話しておきたい。2人の思い出話を。
僕とマサキは、同じ大学の医学部に一緒に入学した同期。年はマサキが一個上。
自分で言うのも何だけど、入学したての僕の態度は悪かった。
言い訳じみてるけど、僕は精神科医になりたくて医学部に入ったから、他の奴らとは目的意識が違うと思っていた。
皆は、医学全般を勉強して、国家試験をパスしてから、自分の最も興味のある分野に進むという選択肢を持ってたでしょう?
だから、僕はハナからそんな奴らと気が合う訳がない、と決め付け、友達を作ろうとしなかったんだ。
だから、皆、僕を変人扱いしていたね。
そんな僕にとって、化学の実習はペアで協力してやらなければならないから、それは苦痛だった。
ペアは機械的に出席番号順に組まされてね。
僕とマサキの苗字は二人とも「カ行」で、続きだったから、席順は隣同士だった。
僕らの初めての接触は、化学の実習だったね。
これは誰にも話してない事かもしれないけど、マサキの漢字は「マキ」とも読めてね。
僕は何を早合点したのか、てっきり、ペアを組む子は「マキちゃん」という女の子だと決め付けていたんだ。
<マキちゃんって、どんな子かな。きっと笑顔の良く似合う世話好きな少女に違いない。イヒヒ>って妄想してた。
さっき、友達を作ろうとしなかったと言ったけど、ホラ、鎖国しても出島くらい作るでしょう?
僕は、空虚な大学生活に、学園ラブコメの要素を期待して、「マキちゃん」の到着を待ってたんだよ。
そこに現れたのが、マサキで、実習のパートナーに「こんにちは、僕、マサキだよ」と丁寧に挨拶する男で。
あの時、僕は一瞬にして頭の中にこさえた砂の城が崩れ落ちて、混乱を通り越して殺意さえ感じたんだよ。
だから僕の実習のパートナーに対する第一声は、<君、この実験、1人でやってね。俺、やる気なくしたから>だった。
確かに、ひどいね、俺。
おまけに僕は嘘が嫌いなので、本当にマサキに1人でやらせたんだよ。
実習はとても長くかかって、マサキは僕に、「頼む、これ洗ってくれないか?」と巨大な球状のビーカーを渡してね。
それは、何十万円もする高級なガラス細工の実験道具だったけど、僕は怒りが鎮まらなくって。
<わざと落として割っちゃえよ。洗わないで済むぜ>って平然と答えてね。
後で、聞いた話だと、マサキの僕の第一印象は、「本当に嫌な奴だった」そうで。
その後、僕とマサキは卒業するまで同じクラスだったけど、一切交わりがなかった。
きっと、マサキが避けてたんだろうな。
そんな僕らは一緒に大学を卒業して、同時に国家試験に受かって、僕は精神科へ進み、マサキは放射線科に入局した。
うちの精神科の教授のモットーは、「精神科医は体も診れなくてはいけない」で、救命センターのローテを義務づけた。
しかし、そこの労働環境は劣悪で、24時間救急で夜など寝れず、それなのに翌朝からも仕事があって。
寝る時間などほとんどなく、時間をみつけては、当直室で仮眠するくらいで、家にはほぼ帰れない3ヶ月、で。
マサキも同時期に、救命センターをローテしていたから、僕らはそこで再会した。
もう、さすがに、年月が経ってるから、化学の実習のことは、時効で。
僕らはお互いの医者になってからの近況を報告し合って。
だけど、そこで耳にしたマサキの話に僕は耳を疑くった。
放射線科医は直接患者と接さないイメージだが、CTスキャンの造影撮影などでは、血管確保のために注射をうつ。
血管の出やすさは個人差があって、出やすい人と出にくい人の差は激しい。
マサキは、たまたま、血管の出にくい人に当たって、注射を失敗したことがあったそうで。
マサキのオーベンは、ヒステリックな意地の悪い女医で、駆血帯という腕を縛るゴムに針を刺す練習を何日もさせたらしい。
マサキは、「駆血帯なら、すぐ刺せるんだよ」と当たり前のことを言って、笑いを誘おうとしたけど、それは笑えない。
俺は聞いてて、頭に来たんだ。
<それは、イジメじゃないか!マサキ、そんな科はやめて、精神科へ来い!>と救命センターの後、精神科にローテするよう勧誘した。
マサキも精神科には興味があったらしく、僕に背中を押されて、とても感謝していたね。
やたら有り難がるから僕はそこに付け込んで、<じゃさ、毎朝の患者のデータのチェックと伝票書き、俺の分もやっといて>。
マサキは、笑いながら、二つ返事でOKした。
これで、イーブン。僕の救命センターでの仕事の負担はかなり減り、気持ちも大分、楽になった。
出会いの関係性は、普遍的だと思ったものだよ。
僕らがいる頃の救命センターは大忙しで、テレビ局が泊り込みで密着取材をしてる程だった。
その番組は、救急車が病院玄関に着くなり、待ち構えていた医者が心臓マッサージをしながら、病院の中まで運ぶシーンから始まる。
その心臓マッサージをしているのが、マサキだった。
マサキは、ばっちり全国放送の電波に乗っていた。
その番組は2時間くらいの特番だったけど、一方の僕は1コマも画面に映っていなかった。
テレビ映えしないのかな。ま、いいや。俺が勝負するとこは、そこじゃないし、って負け惜しみを言って。
僕はなんとかマサキの力を借りて、救命センターのローテを終え、マサキを引き連れて、精神科に戻った。
マサキは主流派のグループの先輩たちに可愛がられ、そのまま精神科に移籍した。
その結果、僕らは、精神科でも同期になり、研修医を終えたら、二人とも大学院に進んで、そこでも同期で。
大学院生には週に1日「研究日」と言って、まったくポケベルが鳴らない、呼び出しをくわない日がもらえた。
つまり、毎週1日、一回50分の精神療法の枠が8コマ、確保出来る。それも4年間。
当時、僕は精神分析を勉強中で、大学院に行けば、「精神療法センター」の面接室も使えて。
そこは一般の外来とは、かけ離れた場所にある静かな空間で。
こんな治療環境は、どこでも手に入らないから、僕はそれ欲しさに大学院に進んだんだ。
だから、僕らの大学院生活は対照的だった。
マサキは研究をして、学会発表をたくさんして、アカデミックな舞台で精力的に活躍した。
僕はただただ地味に地道に精神療法をして、外部にスーパービジョンを受けに行って、やりたいように精進した。
僕は精神療法班の皆さんの協力の下、というより皆が手分けしてくれて、論文を仕上げた。
しかし、大学院卒業には語学力をみる、という項目があって、英語の論文の全訳の提出も必須だった。
お恥ずかしい話だが、僕がそれを知ったのは、提出期限まで残り2日の時点だった。
僕が教室の隅で困っていたら、マサキが「どうしたの?」と声をかけてきて、僕は事情を説明して。
すると、マサキは、「それなら~」と自分が訳した最新の英語の文献の全訳をくれた。
マサキは、いくつも、論文を訳していて、提出したのは別のだから、「良かったら使って」と僕にくれた。
<そう?悪いね>と棚からぼたもちで、滑り込みセーフ。僕は、運も実力のうちだ、と思ったっけ。
そして、僕とマサキは無事、審査を通り、二人揃って、大学院の卒業式に参加して。
マサキは両親が、僕の家からは母が式に出席して。
マサキの両親とうちの母は、嬉しそうに挨拶を交わしていて、記念にと僕らは、2ショットの写真を撮られたね。
まだ、その写真、うちにあるけど。
マサキは晴れやかな表情で正面を見て写っていて、僕は視線をそっぽに向けて写っていて。
真を写す、と書いて写真と読むが、正攻法で卒業した人間の達成感と、人に頼ってばかりの男の、コントラストみたいで。
二人とも若いよ。
大学院を卒業すると、関連病院に出向になる。
丁度その頃、アメリカの大学の精神科で教授をしていたという精神分析のM先生が日本に帰国するという噂を聞いた。
そして、M先生はA病院が引き抜いたとの情報もキャッチした。
僕は、実際、学問的な先生の臨床が、実践的な日常の現場で通じるものなのかをこの目で確かめたかった。
そばにいれば多くのことを学べるとも思った。
だから、僕の出向先をA病院に希望した。
ところが、A病院へ出向するのは、もう既に、マサキで決定済みだった。
それは、マサキが大学院時代にA病院にパートタイムで勤務していた実績があり、A病院からのオファーでもあった。
大学病院の医者は、どこの関連病院も欲しがり、引く手あまた、だ。
医局長は、「A病院はマサキで決定で、1つの病院に2人は派遣出来ない。川原をA病院に出すのは、無理だ」と言った。
しかし、そんなことで引き下がる僕ではない。
僕は医局長に、直訴した。
<A病院には僕を行かせるべきだ。その方がA病院の為にもなる。マサキは、丹沢の山の奥の病院にでも飛ばせば良い>。
返す刀で僕はマサキにも、<お前は、A病院を辞退しろ。お前が行くより、俺が行くのがふさわしい>と圧力をかけた。
そして、僕は毎日の様に、医局長とマサキにしつこくそれを言い続けて。2人とも、ノイローゼにならなかったかな?
でも、その結果、医局長は英断した。
異例の医局人事。
「A病院へ、川原とマサキの2名を同時に出向」。
無理が通れば道理が引っ込むのが、世の中だ。
大学院を出た者は、通常、2年間出向したら、一旦、大学へ戻るシステムだった。
だけど、僕はある人から、「大学病院から来る医者は大抵2年で帰るから患者に不親切だ」と言われ、その通りだと思った。
そこで僕は、3年目以降も居残りを希望して。
もう医局は、あまり僕と関わると面倒になると懲りていたのかしら、すんなり僕の意見は通って。
これで、マサキとはおサラバになると思っていたんだ。
そうしたら、マサキもA病院に残留になって。
それは、A病院から医局へのたってのお願いであって、マサキの残留の理由は僕のそれとは大きく違ってた。
A病院は、各大学から精鋭の医者が揃う大所帯だ。それをまとめるのは、大変な仕事だ。
A病院は、マサキの力を高く評価していて、A病院の「医局長」として残って欲しいとの要請だった。
大学の医局は、これには難渋を示したが、(俺とは大違いだ)結局、裏金でも動いたのか(嘘です)、マサキも残留となって。
これは今まで、ちゃんと話したことがなかったと思うから、今更だけど、告白するね。
ある日、A病院で僕が受け持った患者さんから、衝撃の事実を聞いたんだ。
彼は精神科救急で入院してきて、これまでの精神科受診歴はなかった、はずだった。
病気が良くなった彼が僕に語ったのは、実は小学生の時に親に内緒で1人で精神科を訪れていたと言う過去だった。
そんな情報は、全然、聞いていない。
そりゃそうだ、入院時は本人から情報を聴取出来ないから、家族からの陳述を手がかりに診療がスタートする。
家族は、彼が小学生時代に1人で精神科を受診していたことなど、知らないのだ。
だから、記録には残っていない訳だ。
我々は診断面接と言って、最初の数回でその人のこれまでの歴史を聴取するけど、重要な事は最初は喋らないのかもね。
向こうもこちらを伺っていて、「本当にこいつは信用して良い人物か」なんて吟味しているんじゃないかと思うんだ。
その人の小学生の時の精神科受診体験は、1回の診察で、「病気ではない。何かあったら来て」と言われて帰されたそうだ。
「何かあった」と思うから、意を決して、受診したのにだ。
彼は、精神科医療に失望したそうだ。
だから、「何かあった」けど、受診をしなかった。
そして、いよいよどうにもならなくなって、精神科救急のルートに乗ったのだ。
もし、小学校の時の、初回の診察が違う形だったら、もしかしたら入院を回避できていたかもしれないな、と僕は思って。
言われてみると、研修医の頃、上級医の先生の外来に陪席させてもらった時に、似たような患者さんが来た事があった。
その先生は丁寧に診察をして、同様に、「君は病気じゃないから、安心しなさい」と諭して帰した。
そして、先生は「あの子はテレビの番組をみて、自分も病気なんじゃないかと心配して来たけど、これで安心しただろう」と
満足そうに笑っていた。
しかし、僕はその子が絶望的な表情で部屋を出て行くのが印象的でよく覚えていたんだ。
点と点が線になった、というのか。僕は、こういうケースは世の中にたくさんあるのではないかと思って。
一般的に精神科の病気は発症すると病識がない、と言われて、自分で自分が病気だとは思えないというけど…。
確かに、ヘビーな病気の急性期の多くは、病識がないけど。
だけど軽症の病気や、再発直前の患者さんは自ら、「自分はおかしい」と訴えてくるよな。
それは時には、専門家の僕らや、普段、一緒に暮らしている家族でさえ気づかない程のわずかな異変なのだ。
つまり、病気の極初期には本人にしか判らない、ものすごく病識がある時期がある、という仮説が成り立たないか?
だって、小学生が1人で精神科を訪れるなんて、通常じゃない。きっと本人にしか判らない病識があるという仮説。
それを多くの医者が見落としている可能性がある。
しかし、それは「誤診」ではない。まだ発症してないのだから。
でも、発症してしまったら、それは精神科医でなくても判断がつくものだろう。専門家なんて要らないよ。
だから僕は思ったんだよ。
専門家の仕事は、病気になる寸前に受診してきた患者さんをしっかりつかまえて離さないでおくことだって。
たった1回で帰してはいけない。医療につなげていく。
理想を言えば、病気が発症する前に、病気を治すこと、それは、未病とも言えるかもしれないね。
精神科の病気の多くは、「発症」するのではなく、「発見」されるだけなのかもしれない、とも。
だったら、なるべく早く「発見」した方が良い。
僕はそんなことを、A病院で患者さんから教わったんだよ。
そうしたら僕は、いてもたってもいられなくなって。
僕は「こどもの精神科医」になって、多くの子供の助けをしなくてはという使命感にかられて。
そんな時、「こどもの精神科」を専門にするB病院で精神科医の募集をしていることを知って。
これは、俺に行け!、と神様やご先祖様が言ってるのだと思って。
僕は迷わず応募して、シンクロだと思って、これは僕のための「欠員」だと信じて疑わなかったんだ。
ちゃんと説明したことなかったけど、そういう経緯だったんだよ。
そして、僕はB病院の採用面接を受けて、晴れて合格して。
でも、そこで色々な問題が噴出してきたんだよね。
まずは、そもそも僕のワガママで、A病院に医局から2名出向させていた人員の埋め合わせ。
さらに、今度、新しく勤めるB病院では、僕は公務員扱いになるらしく、大学の医局を退局しなければならなくって。
只でさえ、医局は人事のやりくりで大変なのに、助手クラスの僕が突然に辞めるのは、駒を動かす方は大打撃で。
大学の医局からも、A病院からも、責められそうで。
そこで、僕はマサキにそのことを打ち明けて。
マサキはさすがに驚いて一旦は僕を慰留したけど、すぐに止めても無駄だと理解してくれて。
マサキは、「わかった。僕が何とかするから。君は大人しく何もしないでくれ」と言って。
出会いの関係性は大事だと思ったよ。面倒なことは、マサキに任せよう。
僕はひたすら、果報を寝て待つことにして。
さすが、マサキはどんなマジックを使ったのか、どんな交渉術を駆使したのか、知らないけれど、首尾よく事は進んだ。
僕は、円満に医局を退局し、A病院に別れを告げて、B病院に就職した。
僕は児童思春期病棟の入院患者と、思春期デイケアの担当をして。
病棟の患者と通いの患者の垣根をはらって、「ソフトボール・チーム」を作り、毎週、近所のグランドを借りて、半日、練習した。
そして、近隣の同じように児童専門の病院に、「ソフトボールの試合」を申し込み、試合を成立させた。
病棟では、プログラムに乗れない夜行性の患者たちのために病院非公認の漫画クラブ「メソ部」を作り、コミケにも出店した。
年末のクリスマス会では、ほぼ楽器初心者のメンバーで、バンドを組み、演奏をした。僕もピアノで参加した。
普通の病院にいたら体験出来ない有意義な4年あまりだった。
自分で考えたことをどんどん思いつき実行して。
そして、それはそれをサポートしてくれるスタッフたちの協力もあったから可能だったのだが。
勿論、あまりなスタンド・プレーを面白く思わない人たちもいた。
しかし、僕はそれでいいと思っていた。
本当に良いものは、評価が分かれるものだと知っていたからね。
万人に気に入られる高感度№1タレントが面白くもなんともないのと同じ理屈で。
しかし、いいことばかりはありゃしない。僕は、意外な形でB病院を辞めることになってしまって。
それは、精神科の中で分裂騒動があったからで、僕はそれを収拾しようと尽力したのだが、かえって事が大きくなって。
本当は水面下で計画は完了していたはずなのに、僕がそれを表面化させたからで。
結局、病院長や総婦長まで巻き込んで、毎日のように会議が開かれたが、平行線。
あげくの果て、問題の早期収拾のため、「これは事を大きくした川原が悪い!」という結論になって。
<え~>、って思ったが、言われてみれば、そうかもしれないね。
僕は、そんな政治的なやりとりの日々に辟易していたし、病院長以下の評価がそうなら、もうここは潮時だと思った。
そうすると、不思議なもので、「ヘッド・ハンティング」の会社から、お誘いがあった。
何故、この時期にタイミング良く?と僕はいぶかしがった。
僕を面白く思ってない奴らの差し金だと、被害的なもののとらえ方もした。
しかし、もう病院にはいられないし、この病院に移る時に医局も辞めてしまったので、僕には後ろ盾がなかった。
だけど、困った事に、僕には、多くの患者さんがいた。
精神科の治療は、他の科と違い、終わりが有りそうでない。
それは、「病気」を診るからではなく「人」を診る診療科だからだと思う。
「症状」は「相談」の入り口に過ぎないのだ。
一般的に、医師が異動する時には、次の医者に引き継いで行く。
僕は幸せ者で、患者さんの多くは、僕について来てくれていた。
僕が病院を移るたびに、一緒に医療機関を移して、ついて来てくれていた。
僕は行く先々の病院で、多くの患者を連れて行くので、驚かれたよ。
「ひとりゲルマン民族大移動」と呼ばれた事もあった。
つまり、そんな患者さん達の診療を続ける場所が必要だったんだ。
僕は仕方なく、「ヘッド・ハンティング」の会社の紹介で、ある病院の院長と事務長の接待を受けた。
僕の経歴は、見栄えが良かった。
大学院は出てるし、直近のB病院では「医長」だったし。
僕を、ヘッド・ハンティングする病院が提示した条件は悪いものではなかった。
ただ、顔色の悪い院長の面構えが気に入らないのと、幇間のような事務長の「今日はザックバランに」という連呼が耳障り。
僕は、その後、数日、耳の奥で、「ザックバラン」「ザックバラン」という幻聴に悩まされたくらいで。
しかし、僕には、もう選択肢がなかった。
そこに行くしかないと決意しかけた夜だった、マサキから電話があった。
マサキは、「大体の話は聞いたよ。この業界は狭いからね。大変だったね」と僕を労って。
マサキは、「A病院に戻っておいでよ」と言った。
僕は、<それは出来ないだろ。俺、変な辞め方してるし>。
「大丈夫、俺が話をまとめるから。君がくればA病院にとっても戦力になるし。あっ、俺、診療部長になったんだよ」だって。
だから、マサキにはある程度人事権とかもあるみたいで。「話は僕がつけるから。君は何もしないでね」と言った。
せっかく、そう言ってくれてるんだから、ここはマサキに任せた。
そして、僕は晴れて、A病院に出戻りすることになって、懸案の患者さんの行き場も出来た。僕はマサキに拾われた。
でも、皆さん、覚えてますか?あいつ、元・放射線科医ですよ。誰のおかげで偉くなったと思ってんだ?
その時の僕の偽らざる心境は、1度死んだ身だ、思う存分やろう、だった。
僕がこれまでの経験で学んだ事は、多職種が協力するチーム医療で医者に求められる物は、強力なリーダー・シップと他のスタッフが犯したミスも全部請け負う責任と覚悟だった。
人間と言うのは、相手が本気かどうかを嗅ぎ分ける力があって。
そして、それが本物だと感じ取ると必ずひるむ。
僕は、もう失う物は何も無かったから、強気で攻めた。
僕は次々と新機軸を打ち出し、それをマサキが会議で通してくれた。
どんな魔法を使えば、あんな滅茶苦茶なアイデアが会議で通るのだろう?
おかげで、僕の病院での評価も高くなったんだけどね。
気がつけば、マサキは副院長に昇格するという。
大出世だね!おめでとう。僕は1人の男のサクセス・ストーリーをこんな真近で見られるとは思わなかった。
ちなみに僕の役職は、「ヒラ」のままで。
マサキは、僕に診療部長にならないか?、と打診した。
自分が副院長になるから、診療部長の兼任は会議が多すぎて、荷が重いと言うのだ。
僕は、きっぱりと断った。
<だったら、『会議を少なくするための会議』を新たに発足させたらと良い>と助言してね。
もっとも、マサキは、僕の将来のことを考えていてくれて、「元・A病院診療部長」は何かの時につぶしがきくと言うのだ。
それでも僕は断った。
<マサキのように実力がない奴は肩書きが必要だが、俺のように優秀な者には邪魔なだけだ>と言って。
マサキは、「そんなことを言うなよ」と悲しそうな目で言ってたね。
ある日、マサキが僕に「実は開業しようと思うんだ」と打ち明けた時にはびっくりした。
僕はてっきり、マサキはこのままの流れで院長になるものかと思っていたから。
するとマサキは笑って、「だから、院長になるんだよ」と開業してクリニックの院長になるんだと珍しくシャレたことを言った。
マサキが開業支援の会社オクスアイの金村さんと打ち合わせをする時、僕も野次馬で同席させてもらった。
マサキと金村さんはかなり具体的な打ち合わせをしていた。
一方の僕は、自分の性格上、開業は向いてないと思っていた。
自分は経営者向きの性格じゃないと思っていたから。
だけど、オクスアイの金村さんの辣腕を見ていたら、この人なら僕でも開業が出来るのではと思えてきた。
その頃、僕の母は末期癌で闘病中だった。
母はかねがね、僕に、「人に雇われていてはダメ。開業しなさい」と口が酸っぱくなる程言っていて。
僕は、老い先短い母に親孝行をしたい、と魔が差して。
そして、マサキの打ち合わせの最中、金村さんに<俺も頼んで良い?>と衝動的に申し込んだ。
僕は開業を決意した。マサキも金村さんもビックリしていた。
マサキは、「君と僕が同時に開業したら、病院は大騒ぎになるから、自分が開業の許可を取ってからにしてね」と釘を刺した。
僕はその言葉に引っかかり、<何だ?マサキと俺が同時期だとまずいのか?>。
確かに、マサキが抜けたら、病院は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
そこに俺が辞めると言ったら、絶対、引き止められるな。
出戻りの身だ。弱味もある。
<よし、マサキより先に辞めよう!>。
僕は、金村さんに、マサキより俺の案件を優先してくれ、とせっついた。
そして、マサキのお願いを無視して、病院側に<僕は開業するので、年内で辞めます>と宣言した。
こんな僕でも、病院はちょっとパニックになり、ありがたいことに慰留された。
マサキは、「アチャー」って顔をしていたね。
ごめんね、こういうの早いもの勝ちだから。知らなかった?
ちなみに、カワクリは平成19年1月の開業で、マサキのクリニックは平成19年4月がオープンです。
僕らは開業後、しばらくは、数ヶ月に1回は集まって酒を酌み交わし、近況を報告しあった。
開業は僕の方が先輩だが、マサキは大病院の管理をしていた人間だから、主に僕がマサキに判らないことを相談する会だった。
僕は今でも、誰々が急死したけど、香典いくらにする?、とか電報とかお花とか贈る?とマサキに電話して相談している。
逆に、マサキから電話があることは滅多にない。
そんなマサキが、今回、珍しく電話を寄越して。
その用件が、「酒を呑んで風呂で寝るな」とか「事故死をするな」だって。
唐突に思われるかもしれないけど、それには一応、伏線があって。
この位の季節だったから。あの事件は。
それは最初に僕らがA病院に勤務してる頃の話。
僕は過酷な過重労働で肉体的に疲弊していて。
あまりに体調が悪いので、マサキのすすめで内科の先生に診てもらって。
内視鏡検査では異常がなかったけど、血液検査で、「多血症」の所見が出た。
臨床検査技師の話では僕の血の色が真っ黄色で、大変驚いたと、マサキから聞かされた。
「多血症」はストレスでもなるらしく、治療法は「血を抜く」しかないらしい。
なんて野蛮な治療法があるものだ。
その直後、僕は大学の精神療法センターの忘年会に参加した。
疲れていたし、僕の呑み方は破滅的な呑み方をするから、泥酔した。
運が悪いことにその時、僕は何か原稿の作成中でノートパソコンを持ち歩いていて。
会がお開きになり、その店は2階にあり、僕は足を踏み外し、両手をふさがれたまま、急な階段を顔面から落下した。
受け身が取れなかった。
その後の記憶はない。
後で聞いた話では、そのまま大流血したまま、走り出し、また転倒。
起き上がってフラフラしたところに、通りかかったタクシーにぶつかって行ったらしい。
幸い、そこの道は細い路地で、タクシーは徐行していたから、タクシーの運転手に過失はなかった。
僕はそのまま自分の出身大学であり、自分がかつて勤務していた救命センターに搬送されて、ICUに緊急入院となった。
ICUって言っても、国際基督教大学(International Christian University)じゃないですよ。
集中治療室(Intensive Care Unit)ね。
皆さんは、「ICU症候群」って知っていますか?
ICUのような特殊な医療環境に入る人は体も弱ってるため、一過性の精神症状を引き起こすことがあるのです。
僕はそれになりました。
「せん妄」という精神運動興奮を伴う意識障害です。
この間の記憶はまったくないのです。
ICUは基本的に重症の身体疾患の患者さんを診てる訳で、そこで「ICU症候群」が起きると精神科医が呼ばれます。
運悪く呼ばれた精神科医は僕の後輩だったため、僕に罵倒されて帰ったそうです。
その時の僕は暴れるから、ベッドに強力な紐で拘束されていたそうで。
仕方なく上級医の医者が呼ばれる訳ですが、僕は先輩に対しても、「俺より出来ないくせに出しゃばるな!」と悪態をついて。
先輩は、本当のことを言われて、ひどく傷ついたそうです。
そこでも、最後に登場したのは、マサキでした。
マサキは、僕を強力な精神安定剤で数日間、眠らせたそうです。
僕の家族は、後になって言うことには、このままもう僕が二度と目を覚まさないんじゃないかと心配したそうです。
意識障害の回復の仕方は独特です。
まるでトンネルから出るように、ある時からパッと記憶が戻ります。
その瞬間、僕の目の前には、マサキがいました。
マサキは、「起きた?おい、酒は呑むもので、呑まれちゃダメだぞ」と言いました。
<ば~か。『酒は、反省するために呑むものだ』って、立川談志が言ってるぞ!>と僕が言い返すと、
「良かった。君、正気に戻ったね」と答えるマサキの笑顔が見えました。
よく言うよね、てめぇで、セデーションかけといて。
僕の病状は大量の出血と顎の骨の骨折でした。
大量の出血は、僕の多血症の治療に役立ち、血液検査のデータは正常値に戻っていました。
僕は全身状態も回復し、意識も正常になり、拘束も解かれ、形成外科の病棟に移りました。
大学病院に入院したことがない人でも、ドラマなどで、見たことがあると思いますが、教授回診というのがあります。
主任教授を筆頭に医局員が全員大名行列のようにゾロゾロとベッドサイドを回るやつです。「白い巨塔」とかで見ませんか?
僕の部屋にも、教授回診はやってきました。
形成外科の教授はいかにも職人気質の融通のきかなそうな無愛想な男でした。
僕は学生時代にこの人の授業を受けたことがあるので、顔と名前は一致しました。
教授は、僕のレントゲンを見て、「う~む、見事な骨折線だ」と言って、一同が口を揃えて、「見事だ」と賛美しました。
骨折線を誉められても、別に嬉しくもないのですが、誉められて嫌な気分はしませんでした。
後になって知ったのですが、マサキが形成の先生に、「川原君は誉めながら、治療をして下さい」と頼み込んでいたらしく。
頭ごなしだと、治療意欲がそがれるタイプだからって。
僕の治療は、手術ではなく、顎間固定と言う、口が開かないようにワイヤーで上下の歯茎をくくりつける方針になりまして。
骨折線が、美しいから、ね。
顎間固定の期間は、3ヶ月だって。その間は口から物も食べれないので入院生活です。
僕は1ヶ月くらいで退屈な入院生活に我慢が出来ず、点滴を自己抜去し、病院を無断で離院して、家に帰りました。
家族があやまりに病院に挨拶に行き、僕は「傷病手当金」の給付を受けて自宅療養です。
家でなるべく液状のもので栄養がとれるような生活をしました。
しかし、暇でした。
「男はつらいよ」の全シリーズを1作目から全部観たり、太宰治の小説を年代順に読み直したりしました。
いよいよ、3ヶ月がたって、顎間固定が外れました。
まだ、顎の骨がずれるといけないので、頭のてっぺんと顎を包帯でグルグル巻きにして、僕は現場に復帰しました。
その姿は痛々しくて、無理に出なくても良いんじゃないか、という賛否両論も聞かれました。
最近で言えば、フィギュア・スケートの羽生選手のような姿ですね。一緒にしたら、怒られるか。
僕の外来患者さんは、3ヶ月間、マサキの外来で代診してもらって。
マサキは、「君の患者さんはすごいね。まるで手がかからなかったよ」と感心していて。
「薬も、川原先生の出したものをそのままで、って3ヶ月間、何も問題がなかったよ」と言ってましたが、僕は内心で、
<お前に言ってもしょうがない、と思ったんだろう>と思っていたんだ。
その証拠と言っちゃなんだが、復帰後、ある少女からもらったカセット・テープには参った。
彼女は、家族以外で口を利くのは僕くらいで、僕も彼女との診察時間を大切にしていて。
そんな彼女にしてみれば、いきなり僕が怪我で3ヶ月入院と聞かされた時にはショックだったことの予想は出来る。
彼女は気丈にも、僕と会えない日々を、本来なら診察時間が約束されてる時間帯にカセットにメッセージを吹き込んでいて。
初回は、DJ風に、「達二先生がいなくても、意外と私は大丈夫です。今日の1曲目は、Xの紅、です」って感じで。
そして、普段なら診察でお話するような他愛もない話を、明るい口調でユーモラスに独り語りしていて。
1ヶ月が4週とすると、3ヶ月×4週=12回分の収録があった。
最初の方は、そんな感じでDJ風のセッションなのだが、2ヶ月目になると、途端に無口になって行って。
そして、最後の1ヶ月は、泣き声と嗚咽で。
「私は達二先生に会いたいが、患者だから、お見舞いにも行けない。立場が違うから。今までそんなことにも気づかなかった。
そんな自分が馬鹿でくやしい。達二先生に、会いたい」と言って泣いていた。
これにはやられた。おそらく僕の担当の患者さんの代表の意見だと思った。
僕は人生で後悔することはしょっちゅうあるが、反省することは滅多にない。
だけど、さすがにこれを聞いた日には猛省した。
彼女がこのテープを吹き込んでいる頃、僕は家で<暇だ~暇だ~>と文句を言っていたのだから。
あかんたれ、だと思った。
そして、僕はそれから心に誓ったことがある。
翌日に診療のある日には酒を呑むのは、よそう。
酒が残って、患者さんの話を集中して聞けなかったらいけない、と思ったからで、それは今でも続けている。
実際には、ビールの1~2本や、日本酒の2~3合や、ワインの3~4杯が、明日の診療に影響を及ぼすことなどまずない。
でも、そういう決意をしたことで、皆さんに勘弁してもらおうと勝手に1人で決めたのです。
勿論、例外はあるけどね。
たとえば、お通夜に呼ばれて、「故人の為に今日は呑んでやって下さい」なんて遺族に酒を勧められた時とか。
そんなシチュエーションで、<いえ、明日は診療がありますから>なんて断れないだろう。だから、そういうのは例外ね。
僕は多分この時から心を入れ替えたのだと思う。
患者さんがいるから、勝手に死んだりしてはいけないと思っている。
皆を見送ってから、死のうと思っている。
あっ、そんなことを言って、今、思春期の新患をバンバンとってるけど、大丈夫か?俺の寿命。
ま、いいか。人生、成り行き、だ。
閑話休題。
そんな僕に、マサキが電話を寄越した。
ここのところ、知り合いが立て続けに死んでるからという理由で。
それで僕が事故死でもすれば、マサキの旧友ゆえの虫の知らせが当たったという事になるのだろうが。
だけど、それじゃ、話としては面白くない。人生はそんなにシンプルではない。人生はもっと奇抜だ。
だったら、例えば、実はこれは、その逆で、マサキが急に死ぬのではないか?
これは意表を突かれたが、考えてみたら、ありがちなパターンではある。
僕を心配して寄越した電話が、実はマサキの最期のメッセージだった、なんて感じで。ありそう!
マサキが死んだらやっぱり友人代表として、弔辞を読むのは、僕だろうな。
僕が何故、予告ブログ「生きること、死ぬこと」に手こずっていたかと言うと、途中でその事に気づいてしまったからで。
記事と平行して、マサキの葬式で読み上げる挨拶文も、考えなくてはならなくなったからで。
こんなに長く付き合いのある友人の死と直面するのが苦痛だったのだ。
だから、僕は弱虫でブログの記事を先送りにし、カワクリのスタッフにブログの更新を委ね、現実から目をそむけていた。
しかし、それではいけない。
困った事から逃げ出すのは、僕の悪い癖で、僕はもう大人だし、若者の手本にならなければいけないのだ。
だから、いつまでも、マサキの死を否認してばかりはいられない。
予告ブログ「生きること、死ぬこと」と同時進行で、マサキへの弔辞も書き上げることにしよう。
僕とマサキの思い出話を書くのだ。
それが、マサキへの弔辞になる。
しかし、ここまで来ても、どうも、まだマサキが死んだ実感が湧かないんだ。
そりゃそうだ、マサキ、生きてるから。ピンピンしてるから。
でも、人間はいつ死ぬかなんて判らない。メメント・モリだ。一期一会だ。
手探りながら書いてみる。
マサキに語り掛けるように、お別れの言葉を書こう。
書き出しは、こんな感じだ。
<マサキ、なぜ君はこんなに早く逝ってしまったのか。僕はこれから誰に頼れば良いんだ。
僕は今、友人代表として、君の弔辞を読むためにここにいる。いまだに信じられないよ~>
~の続きは、この記事の冒頭に循環します。※D.C.
・おまけクイズ
僕は入院生活の時、家族に頼んで、僕の本棚から、あるマンガを持って来てもらいました。
さて、それでは問題です。
僕が入院中に家から持って来させて読んだマンガとは、以下のうちどれでしょうか?
①小林まこと「1・2の三四郎」
②永井豪「あばしり一家」
③手塚治虫「火の鳥」
④高橋留美子「めぞん一刻」
⑤みつはしちかこ「小さな恋の物語」
正解は、ラストの「BGM.」で発表します。
しかし、なんで、このマンガをチョイスしたのかは、今考えても、謎です。
深層心理を究明出来る人は考えて見て下さい。
その推理の結果も、コメントにお寄せ下さい。
では、正解発表。
BGM. ギルバート・オサリバン「アローンアゲイン」
 (とても綺麗なメロディです。この歌詞の意味を知らない人は、訳詞を調べない方が良いですよ。ひきますから)
 (アニメ「めぞん一刻 」で一度だけOP曲に使われました。おまけクイズの正解は、④高橋留美子「めぞん一刻」でした)


オイル・ショック!

4/Ⅱ.(火)2014 雪
40歳になった時、急激に運動神経が鈍った。
30代は、中高生と駆けっこをしても、負けなかった。
40歳になって、予兆を感じたのは、コーナーを曲がる時にコケるのだ。
それでも、初めは、靴が悪いのだ、と思った。
人間、誰でも、自分の老いを認めたくないだろう。
だから僕も、直線距離でのスピードに変化はなかったから、靴のせいで、カーブでつまずくのだと思い込んでいた。
でも、後で判るのだが、脳がイメージしてる自分と、現実の自分に開きが出てきていたのだ。
若い頃に運動神経が良い人ほど、カーブでコケるらしい。それが、「老い」によるものだった。
40代半ばになると、子供に短距離走で負けた。
まさかと思い、10回くらい再戦を申し出て、連続で走るも、連敗。
子供の成長を親として喜べば良いのであるが、それは同時に自分の「老いる」ことを認めた日でもある。
「それが、わたしのオイル(老いる)記念日」。
その後、オイル(老いる)・ショックは、新陳代謝方面に出る。
具体的に言うと、太るようになるのだ。
40代までは、酒を呑んだ後、ラーメンを2杯食べて、帰って寝ての生活でも太らなかった。
それが、同じ様な生活をしていたら、メタボの基準を余裕でクリアした。
少しは気にしようと思ったり、「老い」を受け入れようなどと開き直ったり葛藤している。
しかし、もっとも恐ろしい、「老い」に先日、気がつかされた。
僕なりに言えば、第三次オイル・ショック!
それは何かと言えば、酒が弱くなっていたのです。
僕はいつも外で酒を呑むと、「変わらないですね~」と感心されるのだが、それは単に外では酔えないだけだ。
家で呑み直して、泥酔するのだ。
それがここ最近、外で呑んでも、記憶が飛んでることがあるのだ。
運動神経の時と同じで、僕はこのことを、無意識的に軽視していた。
決定的だったのは、こないだの日曜日だ。
外で呑んで、珍しくハシゴして、それで家にまっすぐ帰れば良いのに、少しカロリーを消費しなきゃと遠回りして帰ったのだ。
そのうち酒が体に回ったらしく、歩きなれた散歩コースで道に迷い、田園調布の高級住宅地のあたりをさまよった。
途中から意識が断片的だ。スライドみたいに場面場面の再生は出来るが、連続性がない。
僕は途中で何度か転んで、善良そうな一般人や、警察官に声をかけられ助けられた。
なんとか自力で家まで帰りついた。
僕の体には何箇所か擦過傷が出来ていた。
左の頬と右の人差し指と右ひざ。その他、打ち身、数箇所。
ばい菌が入ったら大変だと思い、風呂に入ってたら、心配して家族が上の階から降りてきた。
覚えてないが、おおよそ、酔っ払って風呂に入るな、という説教じみた趣旨のことだと思う。
昨日は、1日、布団の中にいた。
気持ち悪いのと、バツが悪いのと、体が痛いのと、自己嫌悪と、「酒に弱くなった」という第三次オイル・ショックとで、だ。
あれが田園調布だったから良かったようなもので、下手したらおやじ狩りとかにあってるぞ。
かっぱらいやノックアウト強盗だって簡単にできる。こっちは意識がないんだから。
とりあえず、今後は呑んだ後の散歩は禁止にしよう。
それだけで、リスクはかなり減る。
今日、診察に来た人は僕の左の頬の擦り傷に気付いたかしら?
誰からも何も言われなかったけど、気を使って何も聞かなかったのかな?
さて、次回からは予告ブログシリーズに突入します。
第一回は、「生きること、死ぬこと」です。
なんとまぁ、今日はまるで計算したかのように、その前フリみたいな記事になりました。
それでは、次回「生きること、死ぬこと」へ続く。
BGM. よしだたくろう「老人の詩」(青春の詩、の替え歌)


顧問!

28/Ⅰ.(火)2014 寒いけど、昨日と同じくらい
そもそも、ブログを始めるにあたって、何を書くか判らない、と思っていた。
それは、「書くべきことが何か判らない」という内容的な意味と、「何を書くかぁ判りゃぁしない」という自覚のたとえと。
だから、ブログのタイトルを「川原達二の十中八九N・G」にしたのです。
他の候補は、「川原達二の言わなければよかったのに日記」。
これは、深沢 七郎からの拝借、オマージュです。
アイデアでは、文字だけでは伝わらない事もあるだろうから、ブログ記事の最後にBGMとして音楽を添えようと考えた。
その結果、悩んだ末、ジューシィ・フルーツに軍配があがったのです。
さて、そんな訳で、「川原達二の十中八九N・G」は、当初の予測通り、たまに不適切なことも書いてるようです。
僕の友人知人や同業者の人も読んでくれてるようで、今年の年賀状にも、何枚か、「読んでますよ」と書いてくれていた。
たまに「あんなこと、書いて大丈夫?」とか、ストレートに「大丈夫?」と聞かれることがある。
この2つの違いは判りますか?
後者は、僕自身の心配をしてくれてる訳です。
そこで、ネット社会は恐いというし、遠くの友人にチェックを依頼した。
検閲というか、「ヤバイ」記事には、連絡をくれるように。
コメント欄は、僕が読むのが遅いこともあるから、直で「大丈夫?」と知らせてもらうことにした。
顧問のようなものです。
これからは、去年の10月19日の「風の噂とブログの予告」で宣言した記事に突入します。
以下の順番です。
①「生きること、死ぬこと」
②「石野真子35th Anniversary Tour2013 しあわせのレシピ」のレビュー
③「バリ島」旅行記
④「BELLRING少女ハート」のライブのレビュー
⑤アニメ「日常」のDVD特典の肩身分け
⑥「爬虫類を飼うこと」
⑦立川志らくの落語会
これらは、①の「生きること、死ぬこと」を書き出してみたら、他に優先しなければならない事に気付いてしまって。
筆が止まっていましたが、何とかなりそうです。
石野真子の誕生日が、1月31日なので、②は当日にアップさせたいですね。
でも、良く考えたら、これらは僕個人の趣味趣向や性癖や変態性がもろに出る可能性が高いです。
N・G、必至!?
そこで顧問の出番です。
去年のクリスマス辺りの記事は、評判が悪かったです。
イメージダウンです。
あれを見て、新患予約を取り消した人もいるとかいないとか。
ですから、今後のブログ記事は、投稿して数日で、消えるかもしれません。
スリル満点、「川原達二の十中八九N・G」、皆さん、お見逃しなく。
顧問には、顧問料は支払わないけれど、代りに「まど☆マギ」の究極フィギュアの写メを先行送信しておきました。
それは、クリニックの受付に飾ってあるものです。↓。

そうそう、たまに質問されるので、答えておきますが、カワクリ内のフィギュア等の内装は撮影OKです。
ただし、プライバシーには配慮して、人が写らないようにして下さい。
それともう1つ、スマホなどの充電もOKです。スタッフに声をかけて下さい。コンセントのありか教えます。
次回は、おそらく、「生きること、死ぬこと」をお送りできると思います。
先に言っておきます、それを読んで、僕を嫌いにならないで下さいね。
BGM. リッチー・ヴァレンス「COME ON, LET’S GO」


番外編・父の命日

8/ⅩⅠ.(金)2013 くもり
前回と前々回とその前の記事を読まれた方は、さすがに今回は予告通りに、記事が進むと思われたでしょうね。
でも、「生きること、死ぬこと」を書くには、同時進行で先に済ませないといけない案件が生じてしまって。
今は、そっちに手を取られてしまっていて。
優先順位というのか、まずそっちを済ませてから、或いはその合間合間に書いてゆくので、しばらくお待ち下さい。
でも、そんなことをしているとその間はブログの更新が滞ってしまうので、今日も番外編をお送りします。
今日は11月8日、父の命日なので、お墓参りの代りに、父の思い出を記します。
父は大正10年生まれで、戦争中は家族と離れ離れになって、結核を患い足が不自由になって、満州に渡り医学校に入るも、敗戦で日本に戻り、東京の医学校に入り直し、自分より10以上も年下の同級生と一緒に勉強したとかしないとか。
あまり自分の苦労話をしなかったので、良く知らない。
父は何故だか、縁もゆかりもない茅ヶ崎という海に近い町を選び、そこに住み眼科医院を開業した。
家は茅ヶ崎の南口の駅の近くにあって、もう少し海の方まで行くと別荘地が多くなる土地だった。
僕が子供の頃は、近所から引っ越す人が多くて、そういう人から土地を買って、家はどんどん広くなって行った。
最終的には、ワンブロックくらいあったんじゃないかしら?
庭に池やプールや歌碑や書庫があり、職員の寮や患者さん用の駐車場や母方の親戚の住まいも近くにあった。
僕は小学校低学年の頃、裏に住む祖母のところに話し相手に行ってた。
炬燵に入って、日本茶と和菓子を食べ、夕方に流れる時代劇の再放送や大相撲中継を一緒に見ながら談話していた。
祖母は、母方の祖母で、「タッちゃんのお父さんは、トリ年生まれだから、夜明けを告げる人で、だから立派に一代で財を築いた」と幼い僕に説明した。
僕は、<じゃぁ、だったら、僕は大人になっても働かなくてもいいね>と言ったら、祖母は狼狽した。老婆を狼狽させた。
祖母は、「タッちゃんはトラ年で一番強いんだから、お医者さんになって、お兄ちゃんと一緒にお父さんと3人で病院を大きくしないと」と言ったが、それは嘘っぽかった。
本心でそう言ってるようではなかった。
ただ、立場上、そう言わざるをえないという雰囲気だった。目を合わさなかったもの。
でも、昭和40年代の医者の子供は皆、「後を継ぐのが当然」のように育てられてたようだ。
良い悪いではなくて、そんな時代だったのだと思う。
小学校でも、教師やクラスメイトは無条件に僕は将来、医者になるものだと決め付けていた。
学級で、お腹が痛い子が出ると、まず僕に診てくれ、とやってきたものだ。
そして、僕は「保健室に行け」とか「家に帰って病院に行け」とか指示を出していたものだ。
僕は小4の時、手の骨を骨折して、父の知り合いの整形外科の医者にかかり、その家族と付き合うようになった。
クラスに医者の子は僕だけだったので、よその医者の家の様子を知るのは、自分の家と比較して自分を客観視する上で参考になった。
僕の怪我は野球の試合中に起きた。
僕はショートを守っていて、三遊間の深いゴロを逆シングルでダイビング・キャッチした際に、左手の親指に全体重がかかって複雑骨折した。
それでも、僕は起き上がり様、ボールを右手に持ち替えスナップを効かせて、一塁へワンバウンド送球、打者走者を刺した。
思い出は美化されるもので、僕のファインプレーは僕の記憶の中で日々、華麗に上書きされた。
だから、大きくなってプロ野球の好プレー特集などを見ても、<俺の方がスゴい>と本気で思っていた。
高校を卒業する頃は、ドラフト会議で指名されるんじゃないかとドラフト前日に床屋に行ったりした。部活はブラバンだったのに。
僕の骨折した左手の治療方針は、ギブス固定だった。まだ子供の手なので、手術だと骨が成長しないからと言われた。
だから、僕は左手に分厚い石膏のギブスを数ヶ月していた。
グラブははめられなかったが、右手は使えたので、野球ではピッチャーをした。
捕手からの送球はワンバンで返してもらい右の素手でキャッチした。
ある日、僕のギブスの石膏がどの位、硬いのかと話題になった。
上級生達が来て、試しに脳天に空手チョップを打ってみて、と頼まれた。
皆、おっかなびっくりで、口々に、「軽くな」と言ったが、僕は容赦なくジャンピング脳天チョップを食らわした。
皆、頭を抑えて、転げまわって痛がった。
それ以来、僕は小4にして、学校で最強の男になった。
誰も、僕と喧嘩をしようとはしなかった。
それは、最強の武器であるギブスが外れた後もそうだった。
おそらく皆が恐れたのは、僕の左手のウェポンにではなく、平気で本気チョップを打ち込んで来る凶暴性だったのだろう。
ギブスが外れた後は、リハビリの日々だった。毎日、病院に通った。
父の知り合いのその病院は茅ヶ崎の南湖という海岸の方にあって、僕の家からは少し遠かった。
僕はバスで通っていた。
これで治療が全部、おしまいとなった日に、父の友人のお医者さんは僕を車で自宅まで送ってくれた。家族総出で。
僕の家は両親とも運転免許証をもってなかったから、車がなかった。
だから、家族が一台の自家用車で移動するという空間にお邪魔するのはよそと自分の家を比較する上で新鮮だった。
その家のお父さんが運転手をして、僕が助手席に座り、後部座席に奥さんと子供が2人いた。「人生ゲーム」みたいだと思った。
子供は、僕より年少の人見知りをしない騒々しい男の兄弟だった。
道中、彼らは父親に向かって、「ねぇ、このお兄ちゃんを治したのは、パパ?」と後ろから話しかけていた。
父の知り合いの医者は、ハンドルを握りながら、子供たちに、「違うよ。タッちゃんが一生懸命、自分で治したんだよ」と答えた。
僕は、この家では子供は自分の父親を誇りに思うんだ、と思って、自分にはそういう気持ちが欠けてるな、と思った。
僕は自分の両親に車内でのやりとりの一部始終を報告した。
<お父さんの友人の医者は、自分が治したと自慢してもいいのに、治療は患者の治そうとする気持ちが大事だと教えてたよ。
英才教育だね。なかなか大したものだよ。あの兄弟は、将来医者になって、あの病院を大きくすると思うよ>と僕は言った。
すると、僕の父と母は、顔を見合わせて、困ったような顔をして黙り込んだ。僕は、その瞬間の「間」をよく覚えている。
その後、僕は疲れて、居間でそのままうたた寝をしてしまった。
母が僕に毛布を掛けた拍子に目を醒ましたが、同時に両親の会話が耳に入って来た。
父「さっきの達二の言い分を聞いたか?」。母「ええ」。
父「達二は、将来、駄目かもしれないな」。母「あの子は、難しいから」。
その後、父母、沈黙。僕は、重い空気を読んで、タヌキ寝入りを続行。
そして、それからいつか、チャンスがあったら、問い質してやろうと思っていた。セリフも考えた。
<何をもって駄目と定めるのだ?駄目の定義を明確に述べよ。逆に、駄目じゃない状況とはどういうものを指すのだ?
それのメリットは何だ?仮にそれが良いものだとして、それは誰の価値基準だ?>などと。
しかし、結局、それは聞かなかった。
父は、僕が二十歳の頃、胃癌が見つかって、医者をリタイアした。
僕は、子供の頃は、あまり父と話さなかったが、父が死ぬまでの1年弱はよく話した。
その頃の父は僕の個性を認めていて、僕が着てた普段着のツナギをお揃いで着たり、僕の吸ってる煙草の銘柄を、マネした。
それは、セーラムのメンソールで、茅ヶ崎の風土にはよく似合った。
癌に煙草は良くはないのだが、父はもう手遅れだったので、僕らは一緒に吸っていた。
もうその頃には、父の「達二は、将来、駄目かもしれない」発言の真意や言及はどうでもよくなっていて、煙草の煙と一緒に僕は煙に巻かれてやった。
BGM. トレメローズ「サイレンス・イズ・ゴールデン」


番外編・母の誕生日

5/ⅩⅠ.(火)2013 くもり
前回と前々回の記事を読まれた方は、予告通りに、記事が進むと思われたかもしれませんね。
まずは、「生きること、死ぬこと」なのですが、これを書くには先に済ませないといけない物が生じてしまって。
優先順位というか、同時進行というか、そっちの合間を見つけて書いてくので、しばらくお待ち下さい。
①「生きること、死ぬこと」、②石野真子、③バリ島、④ベルハー…の順番で行くので。
さて、そんな訳で、ブログの更新が滞ってしまうので、今日は11月5日、母の誕生日なので、母の思い出で繋ぎます。
母は2006年3月19日に死去していますが、僕はろくにお墓参りなどしていません。
そのお墓は父が死んだ時に建てたもので、(お墓も建てるって言うのかな?)、そのお墓には両親の骨が入っています。
でも、僕はどうにもそのお墓が好きではなくて、墓参りに行く気にならないのです。
それは、あの寺の坊主が僕は気に入らないんだ。ひどい人相してて、態度もふてぶてしい。おまけに、その嫁も。
あいつらに会うのが嫌で、お墓参りをしなくなったと言っても、過言ではないよ。
そもそも、親が死ぬまで、そこにお寺があることもしらなかったし、母だって、父が死ぬまでは行った事がないはず。
つまり、縁もゆかりもない場所だ。
何かの歌にあったけれど、お墓の前に両親の霊とか魂がいるとは思えないのだ。
こんなことを言ったら、細木数子あたりにどやされそうだが。
僕は墓参りどころか、三回忌だとか七回忌だとかの法要にも行っていない。
そもそも、三回忌だとか七回忌に法要があったかどうかさえも知らない。知らされてないし。
こんなことを皆さんが知ったら、とんだ親不孝者だと思うかもしれない。
なので、その名誉挽回に、母の誕生日に母の思い出を綴ろうという訳だ。
形式にとらわれない、供養の仕方を模索したい。母に語りかけ口調で。
お母さん、小学校の頃、僕は背が小さかったですね。
ある日、お母さんは僕の用事で小学校に行って、カンカンに怒って帰って来ましたね。
「山椒は小粒で、ピリリと辛い!」と叫んでいましたね。
聞けば、他の子の親に「タッちゃんは小さいから」と言われて、馬鹿にされたと言ってましたね。
僕は人間は中味が肝心だから、たとえデブでもチビでもブスでもハゲでも、そんなことは関係ないと思っていたけど。
お母さんが悔しがってるのが、かわいそうでね。
僕はお母さんから、馬鹿にした奴の名前を聞き出して、翌日、学校でそいつらの息子たちを片っ端からブッ飛ばした。
それで、家に帰って、その報告をしたら、お母さんは嬉しそうに、一件、一件に、お詫びの電話をかけてたね。
もっと小さい頃、大勢で熱海に旅行に行きましたね。
僕は、その温泉旅館に着くなり、ソファベッドみたいなものにダイビングして、打ち所が悪く、額から大流血しましたね。
すぐ病院に直行、家路につきました。その旅行は秒単位で終了しましたね。
箱根に旅行に行ったのは、僕が高校生の頃かな。
お正月をゆっくり過ごそうと出かけたんだけれど、そのシーズンは旅館は混んでて、サービスが悪くて、僕は不機嫌になって。
口もきかないから、お母さんは困って、結局、この旅行も一泊もしないで、わずか数十分で帰ってきちゃいましたね。
こう考えると、僕は我儘ですね。「My Mother」=「我がママ」の駄洒落じゃないですよ。もっとしんみりした話をしたいのです。
でも、我儘と言うより、僕は自分勝手でしたね。
大学の入学式です。僕は大学生になってまで、親が入学式に来るのは恥しいと思っていたのです。まだ反抗期ですね。
僕が嫌だったのは、周りの新入生たちで、皆、親子で来てて、嬉しそうに記念写真なんか撮っていて。
僕は、こんな奴らと一緒にされたくない、と思って、入学式を途中で脱け出して、母を置き去りにして、1人で帰っちゃいましたね。
あの時は、ごめんなさい。悪かったと思っています。
あの日、お母さんは、遅れて家に帰って来て、僕が居間で寝転んでテレビを見ていたら、「良かった。いた」と笑ってましたね。
あの場面は、怒るとか、「心配したでしょ!」くらいのことを言っても良かったんじゃないかな。でもなぁ、相手が俺だもんなぁ。
あれが正解だったのかも。
そう言えば、兄の結婚式の時も。
僕は間に合うように家を出たんだけれど、電車の網棚にスーツを置き忘れて、それを取りに行ったりして、遅刻して。
結婚式の途中で、バタバタと親族席に僕が遅れて到着すると、お母さんはホットした顔をして、振り向いて笑っていましたね。
僕にも今、家族がいて、世間体は保っています。
でも、家族って言っても、他人とあまり変わらないですね。
家族だって、他人と一緒。これって、考えようによっては、博愛主義者みたいですね。
僕は、お母さんの作る「ロースト・ビーフ」が好きでしたよ。でも、あれ厳密には、「ロースト・ビーフ」じゃないですよね。
高級な肉の塊を、セロリとか薬草と一緒に焼いて、その野菜のダシと肉汁に醤油か何かで味付けしたソースを作って。
それをたっぷりかけてヒタヒタにして食べるんだ。僕は今でも、この世の中であれが最高に旨い食べ物だと思っています。
有名店の「ロースト・ビーフ」を色々、食べましたが、どれも劣りますね。
あの味は、もうないんです。お母さんは、息子のお嫁さんたちには、「ロースト・ビーフ」の作り方を教えなかったからね。
こないだファミレスで1人で本を読んでいたら、隣のテーブルに家族連れがいて。そりゃ、ファミレスだからね。
僕の真向かいに座った男の子はやっと言葉を喋りだしたくらいらしい。
その子は「飲み物」が欲しくて、母親に「あぁ!あぁ!」と指差すんだけれど、母親は「口で言えるでしょ?」と言うんだよ。
多分、ちょっと前までは、その子はそうやって「あぁ!あぁ!」って言えば、欲しい物が目の前に出てたんだろう。
だけど、言葉を覚えたら、口で言わないと、取ってもらえないんだ。
僕とその子の目と目が合った。僕は、「お前、意地でも喋るな!」と気合いを送った。
しかし、その子は俺のエールを無視して、「じゅーちゅ」と言いやがったんだ。
その子の両親は、拍手して、「良く言えまちた~」なんて言って、飲み物を取ってやり、頭なんか撫でていてさ。
僕は本を閉じて、店を出た。
親子でも、言葉が無ければ伝わらないのか、言わなければ判らないのか、と思うと、僕はブルーな気分になって。
でも、親だから教える義務があるとか、理屈は判るよ。
こんなエピソードは毎日、ザラにあって、僕はそんな時、お母さんのことを思い出して、考えますよ。
お母さんは、僕の心の中にいると思ってますよ。お母さんはもう死んでいないから、美化されていて、お得だよ。
BGM. ザ・ローリング・ストーンズ「Have You Seen Your Mother Baby, Standing In The Shadow?」


「くどう君」と「干しぶどう」の思い出

13/Ⅷ.(火)2013 はれ
きゃりーぱみゅぱみゅのファンクラブから、お知らせがありました。
「きゃりーぱみゅぱみゅと行く日帰りぶどう狩りバスツアー」です。
日程と開催地は以下のようです。
8月15日(木)名古屋駅 出発・解散
8月16日(金)新大阪駅 出発・解散
8月17日(土)新宿駅 出発・解散
内容は、①きゃりーちゃんと一緒にぶどう狩り、②昼食会場にてきゃりーちゃんとお楽しみコーナー、
③きゃりーちゃんと集合写真撮影、④ファンクラブツアー限定のお土産プレゼント、など、だそうです。
僕は、どの日も診療なので、残念ながら不参加です。
でも、是非、きゃりーぱみゅぱみゅとぶどう狩りに行きたい人は、ファンクラブに今から入ったらどうでしょう?
あっ、でも申込みは先着順で定員になったら締め切りと書いてあるから、もう遅いかな。
すみません、良く読んだら、もう受付期間、終ってました。
もっと早く教えてあげれば良かったですね。今度からは、そうしますね。
きゃりーのライブを観に行った時(2013年3/25の記事、良かったら見て下さい)、苺狩りツアーをやりたいと言っていた。
それが、ぶどうに変更になったんですね。季節の影響もあるのでしょうね。
ファンとの交流をいち早く行おう、という前向きな果実変更なのだろう。えらい!
ただ1つ、苦言を呈させて貰えれば、しょこたんのバスツアーは「ツーショット写真」が売り物です。
今回のきゃりーちゃんのバスツアーはグループごとの撮影なので、是非、次回の企画時にはそこを1つ考慮して欲しい。
さて、ぶどうで思い出したのだが、僕は「干しぶどう」が嫌いである。
それには訳があって、その訳を思い出したのだが、わざわざここで書くようなことでもない気がする。
かと言って、普段、立派なことを書いてるかと言えば違うので、書くことにする。
前置きとして、僕はぶどうは好きである。
嘘ばっかりつく僕の指導に困った教師から、葡萄をもらったこともある。
巨峰は皮ごと食べるし、ワインも明日が休みなら3本くらい飲む。
だけど、「干しぶどう」だけは食べれないのだ。
どこかの有名な贈り物の定番のレーズンサンドも食べれない。
普通、嫌いな訳が判ってれば、苦手は克服しそうなものなのだが、僕の理由は小学校の低学年の頃、鮮明に覚えてる。
「くどう君」という同級生が、お父さんの転勤で「ロンドン」に引っ越すことになった。
僕の田舎は茅ヶ崎で、東京には近かったが、同じ学校から海外に転校する子は珍しかった。
「くどう君」と僕は仲が良くて、引越しが決まってから、僕は「くどう君」の家に遊びに行った。
季節は、今くらいの真夏だった。「くどう君」の両親は、準備で忙しかったのか、不在でおばあちゃんが家にいた。
僕と「くどう君」が遊んでいると、おばあちゃんが麦茶とおやつに「干しぶどう」を差し入れてくれた。
「干しぶどう」は、白く丸い皿に並べてあった。
そして、時は、真夏。
「くどう君」のおばあちゃんは、昭和40年代当時のおばあちゃんとして平均的だったと思う。
彼女は白いノースリーブの下着のような服を着ていて、かがんで皿を置く時に胸元から谷間が見えた。
「くどう君」のおばあちゃんはノー・ブラだったから、垂れ下がった乳房とその先に萎んだ乳首が見えた。
僕は、その垣間見えてしまった「くどう君」のおばあちゃんの乳頭と、皿の上の「干しぶどう」が同一の物に見えた。
それで、「食べろ、食べろ」というババァに吐き気がして、それ以来、「干しぶどう」を見ると老婆の乳首に見えた。
菓子パンに「干しぶどう」が乗っていたら食べれない。
ピラフに「干しぶどう」が入っていたら顔をそむけた。
その頃の僕は、過敏になっていて、「干しぶどう」だけをよけて食べるのも無理だった。
接触してるということは、汚染されてることを意味したから。それだけで、全部アウト!
ちょっと高級なレストランに連れて行かれ、気の効いた料理に「干しぶどう」が入っていて、僕はそれに手をつけなかった。
僕はそういう子だったので、親は別に理由も聞かないで放っておいてくれたので、今思えば感謝してる。
さすがに僕も大人になって、今では、何秒以内に「干しぶどう」をよけたらセーフ、という独自のルールを作り、
おかげで食べれる料理の幅も広がった。
話を「くどう君」に戻そう。
僕は、「くどう君」のお別れの会のことは良く覚えている。
「くどう君」はクラスの人気者で女子からも絶大な人気があった。多分、俺の次くらいに。
女子たちは皆、泣いていて、中には、「くどう君、行かないで」と無責任なことを言う奴もいた。
ま、子供だから仕方ないか。
でも、担任は大人なんだから、しっかりして欲しい。
クラスの空気は、「くどう君、行かないで」一色になりかけてたのに、あの先生は何もしなかった。
そして、目で僕に「この場をなんとかしろ」みたいな合図を寄こした。
僕は、<ここはお前の仕事だろ>と視線で返した。
でも、流れからしょうがない。
僕は皆に向かって、<そんなこと言ったって、親の都合だからしょうがないだろ>と言った。
一瞬で、「そりゃそうだ」という雰囲気になった。
そして、僕は、<ロンドンには、ドンドン行け!>と「くどう君」の背中を思いっきり叩いた。
「くどう君」は、2・3歩、よろけてから、振り返った顔は涙まみれで、「タッちゃんは、大人びてるなぁ」と笑った。
それが、「くどう君」の最後の笑顔だった。…って、「くどう君」、死んでないし!
という訳で、きゃりーちゃんのぶどう狩りバスツアーから思い出した、真夏の「くどう君」と「干しぶどう」の思い出でした。
BGM. 高田みづえ「パープル・シャドウ」


知ってて、わざわざ、騙される

6/Ⅵ.(木)2013 ホントに梅雨??快晴
僕には、子供の頃、おかしなクセがあった。
それは、借りてもいないお金を友達に返すのだ。
額は、50円とか100円単位だが。
友達は、当然、貸してないので、受け取らないのだが、僕は嘘が上手かったから、相手を言いくるめて、貸した気にさせた。
友達は、「そう言えば、貸してたかも?」とか言って、小額のお金を受け取るのだ。
僕は心の中で、<しめしめ、馬鹿め>とほくそ笑むのだ。
そんなことを中学生くらいまでしていた。
何で、そんなことをしていたのか、きっと人に借りを作りたくないとか、誰かに借りを返さなくてはという強迫観念みたいなものだったのかしら。
僕の実家は茅ヶ崎で、割と大きな家だった。
当時は、「乞食(こじき)」というのがいて、大きな家に「何か食べるものを恵んで下さい」とやってくると聞いていた。
そして、大人たちは、口を揃えて、「乞食に、食べ物をあげてはいけない」と言った。
1度、あげると、この家はくれると思って、それ以降、何度も来るようになるからだそうだ。
僕がまだ小学校にあがる前だったと思う。
僕の家に、女の乞食が来た。その時、家には僕しかいなかった。
女の乞食は、「食べ物を恵んでくれ」と言った。僕は、<1度、あげると何度も来るようになるからあげれない>と断った。
すると、その女の乞食は悲しそうな顔をして、「これっきりだから、2度と来ないから」と訴えた。
子供の僕には、その人が嘘をつくようには、見えなかった。
僕は、<ちょっと待ってて>と言い、食卓にあった、おにぎりをあるだけ女の乞食にあげた。
女の乞食は、何度も何度も、「ありがとうございます」と礼を言い、帰って行った。
何度も何度も振り返っては、お辞儀をして去って行った。僕は、その姿が見えなくなるまで見送った。
それ以降、約束通り、女の乞食は、うちに来なかった。
僕は、女の乞食を信じて良かったと思った。と同時に、大人の言うことを鵜呑みにしてはいけない、と思うようになった。
こう書くと、ちょっと美談のように読めるかもしれませんね。だとしたら、すみません。違うのです。
僕が女の乞食におにぎりをあげたのは、乞食のためではなく、親にずっと乞食の話を聞かされてて、会ったこともない乞食に申し訳ないと思っていたからで、だから、僕は自分のうしろめたさを埋めるために乞食におにぎりをあげて、楽になろうとしただけ。
あげた乞食がたまたま良い人で、約束を守って、2度と来なかっただけの話で。
僕は医者になってからも、少しおかしなクセが残っていた。
医局に入ると、関連病院にパートに行けるのだが、おおよその金額の最低ラインは保証されていた。
しかし、僕は、あまり評判の良くない先輩の医者から、斡旋された病院と契約した。
その金額は、最低保証ラインの半分以下だった。生活費に困った。
多くの親切な先輩達は、僕のために怒ってくれ、「その病院はやめろ」とか「あいつは信用するな」とその先輩を悪く言った。
その先輩は、病院からバックマージンを貰ってるのだと指摘する人もいた。多分、事実だと思う。
その人は、そういう人だから。別に僕は、その先輩に何の恩もなかったし、親しくして貰っていた訳でもない。
その先輩は、駄目元で研修医に片っ端から声を掛けていたのだ。
それに、たまたま僕が引っ掛かっただけだった。
こんなこともあった。遠方に引っ越す先輩が、自家用車の処分に困って、それを僕に売りつけたのだ。
僕は、自動車を運転しないから、車など必要なかった。
でも、僕は言い値で車を買い取った。家族には、怒られた。
その時も、多くの先輩達は、僕のために怒ってくれ、「あんな車がそんな値段がするはずがない」と意見を言った。
関連病院のパートの斡旋をした先輩と、車を売り付けた先輩は、別人物である。
僕のために怒って、意見をして、忠告してくれた親切な先輩達は同じ人物である。
その頃の僕は、少し、うんざりしていた。熱心に、親身になってくれる先輩達に対して。
<そんなこと言われなくても判ってるよ>、って。<知ってて、わざと、騙されてるんだよ>、って。
今、考えると、僕はおかしかったと思う。わざわざ、縁もゆかりもない人に金を騙しとられてることを知ってて平気だなんて。
きっかけは患者さんだった。
僕と同じで、借りてもいない金を他人に返す患者さんがいて、その人と面接をするうちに、<やっぱり、おかしいな>と思った。
僕は、ある日、2人の先輩に、<てめぇ、よくも騙しやがったな!このサギ野郎!>とぶち切れた。
1人は、病院の屋上に呼び出し、もう1人は、当直室の奥のシャワー室に閉じ込めた。
2人の先輩は、あっさりと謝り、話はチャラにした。
2人は、ずる賢くて、セコイ奴だったが、気の弱い人でもあったから、僕は怒りすぎ、少し、悪いことをしたな、と思ってる。
BGM. カリオカ「 Little Train Of The Coipira 」

チクりババアと南ちゃん

30/Ⅴ.(木)2013 梅雨入り、小雨
もう、1年以上、経ってしまった。その番組を観てから、僕はずっとこの記事を書きたいと思っていた。
去年の「10大ニュース」の末尾にもそう書いたが、タッチの南ちゃん、に関してである。
これは書こうと思うと体力がいるので、ついつい先送りしてしまっていたのだ。
でも、今こそ、書こうと思う。5月中に終らせてしまおう。
去年の4月、フジテレビで「1億3千万人が選ぶアニメ&特撮ヒーロー&ヒロインベスト50」という番組をやった。
文字通り、1番好きなヒーロー・ヒロインを年代別(10代、20代、30代、…)にアンケート調査した結果をランキングで発表した。
この番組には、20代の代表として、中川翔子が出演していたので、ブルーレイHDが気を利かせて自動的に録画しておいてくれたのだ。
冒頭に「タッチの南ちゃん」に関して、なんて書いているから、クイズになりませんが、皆さん、誰がベスト3だと思いますか?
そうです、ヒロインの1位は、タッチの浅倉南でした。
僕はこれがすごく意外でした。
僕の予想では、「しずかちゃん」か「ちびまる子ちゃん」か「セーラームーン」かと甘く見てたから。
しずかちゃんはヒロインのベスト50にも入っていませんでした。まる子は14位、月野うさぎは6位でした。
ヒロインの2位が峰不仁子で、3位が銀河鉄道999のメーテルでした。
「けいおん」の平沢唯と「涼宮ハルヒの憂鬱」の涼宮ハルヒは、「10代」のベスト10に入ってましたが、総合ではランクを落としました。
ちなみに綾波レイは8位、アスカは22位でした。ウルトラセブンのアンヌ隊員は9位とベスト10入りを果たしていました。
ヒーローは、3位がルパン三世で1位がドラゴンボールの孫悟空とワン・ピースのルフィが同点1位でした。
仮面ライダーが4位で、ウルトラセブン(5位)の方がウルトラマン(7位)より上位でした。
僕はガンダムは詳しくないのですが、シャア(12位)がアムロ(15位)より上でした。これは妥当なのですか?
しかし、ビックリしたのは、番組内では直接、採り上げられなかったが、画面の隅に映っていた、「70代」の1位の月光仮面だ。
少し笑った。
しかし、これをわざわざボードに書く意味はあるのだろうか?
統計には何の反映もしないと思うのだが。
大体、このアンケートがどういう方法で行われたのかは、番組では紹介されなかった。なので想像するしかない。
バイトが街頭で道行く人にインタビューをしたのかな?
70代と言えば、人生の大先輩だぞ。そんな方に対して、「あなたの好きなヒーローは?」なんて良く質問できたものだ。
俺は、そんなこと聞く勇気ないな。70代も良く「月光仮面」なんて真面目に答えたな。
近頃の年寄りは、たるんでるのかな。
話を戻そう。僕は、この「タッチの南ちゃん」が1位というのがすごく驚きだった。
「タッチ」は僕もマンガで読んだことがある。「みゆき」と「タッチ」は同時期に人気があった。
僕が大学生になった頃だ。
僕の大学では、医学生が臨床実習することを、ベッド・サイド・ラーニングと呼んで、通称、BSL(ビー・エス・エル)と言った。
BSLは、5年生から始まる。僕の大学4年の頃の学業成績は、低空飛行で、なんとか進級できるかというギリギリだった。
そこで僕は、「タッチ」で上杉達也の部屋に南の「めざせ、タッちゃん、甲子園」という文字があったのをマネしようと思い、
クラスの可愛い女子に頼んで、ルーズリーフに「めざせ、タッちゃん、BSL」と書いてもらい、それを部屋に貼って勉強しました。
川原達二も、タッちゃんだからね、「めざせ、タッちゃん、BSL(ビー・エス・エル)」はエールになりました。
そのお陰で、僕は無事5年生に進級することが出来ました。
アニメ化はその後だったかもしれない。僕は、アニメは初回だけ観て、続きは観なかった。
それは、声優・日高のり子の南役がしっくり来なかったからだ。
あっ、これは誤解しないで欲しい。
浅倉南のイメージに、日高のり子が合わなかった、という意味ではありません。逆です。
日高のり子は、売れないアイドルだった頃、「鶴光のオールナイトニッポン」のアシスタントをしていて、僕は毎週聞いてました。
鶴光とスタッフに毎回、いじめられる日高のり子を僕は好もしく思っていて、「もう一度・ブラックコーヒー」というEPも買いました。
そして僕はいつしか深夜放送を聞く年齢ではなくなり、日高のり子のことも、あまり考えることはなくなってしまいました。
だから、「タッチ」がアニメ化され、浅倉南役が日高のり子だと知った時には、仰天した。
そして、初回だけアニメを観て、南の声が日高のり子であることを確認作業はしたかった。
そして、日高のり子の声だった。
僕は、「日高のり子、良い役、もらえて良かったね」と心の中で呟いて、安心した。
今でも、時々、この手の番組で、「タッチ」が紹介されると、ご本人登場みたいにして、日高のり子が出演してるのを見かける。
その時の、番組内での、日高のり子の歓待され具合は、すごい。
日高のり子が、マイクで、「タッちゃん」なんて言うと、スタジオ中、大盛り上がりになる。
僕は、それを見るたびに、本当に、良かったなぁ、としみじみ思うのだ。
しかし、それとこれは別だ。
僕は、今回のアンケートのランキング1位が「タッチの南ちゃん」というのには、違和感を覚えた。
そこで僕は後日、クリニックのスタッフに、<南ちゃんが1位は意外じゃないか?>と同意を求めたが、
あるスタッフからは、「南ちゃんは王道」と一蹴されてしまった。
さらに、そのスタッフは、「私はアンチ南・派ですけどね、フフフ」と付け加え、ブラックに笑った。
そのブラックなアンチ南・派が誰なのかは、内緒にしておきます。
そのスタッフのイメージダウンになっちゃうといけないからね。
さて、「タッチ」ですが、調べたらマンガは、1981年から1986年まで連載されてたようです。
それは、丁度、僕が大学に入る前後から、BSL(ビー・エス・エル)くらいまでの勘定になります。
だから、「めざせ、タッちゃん、BSL(ビー・エス・エル)」はタイムリーだったんですね。
僕は、精神科医になりたくて、医学部に入学しました。
だから、他の科目に興味は全くなかったので、勉強は苦労しました。
<俺は、精神科医になるために入ったのに、何で体中の骨の名前を英語と日本語とラテン語で覚えなくちゃならないんだ!>
などと日々、激怒していました。
だから僕は態度の悪い学生で、特に1・2年の頃の教養課程では、学生課の職員に要注意人物としてマークされていました。
ある日の授業中、確か前日が部活のコンパか何かで先輩の家に泊めてもらって、そのまま学校に来た日でした。
僕は、急にシャワーを浴びたくなり、そう思うと我慢できなくて、授業を脱け出して、体育館のシャワー室に向かいました。
僕が、シャワー室に入ろうとすると、おそうじのオバちゃんが、「アンタ、授業中じゃないの?」と注意してきました。
僕は、二日酔いで機嫌が悪くて、<うるせぇ、ババア!俺は昨日、風呂に入ってねぇんだ!>と言ってシカトしました。
僕が、シャワーを浴びてると、しばらくして、3人の学生課の職員がドカドカとやってきました。
一番偉そうな奴が、「川原、出て来い!」と一喝しました。
僕がシャワー室の扉を少し開けて外を見ると、物凄い形相の3人の男の後ろで、さっきのオバちゃんが笑って立ってました。
僕は、<ババァ!チクりやがったな!>と怒鳴りました。すると、ババアは、アカンベェのように、ぺロって舌を出しました。
むかつく。
学生課の職員は僕に向かって、「今、すぐ出て来い!」とわめきました。
僕は、<今はリンスの最中なんです>と答えました。
学生課の職員はイライラした声で、「リンスを流したら、すぐに出て来い!」と怒るので、僕はリンスを流して、すぐに出ました。
そうしたら、学生課の職員は、血相を変えて、「体を拭いて来い!」と言いました。
僕は、<リンスを流したら、すぐに出て来い、って言ったのは、そっちだ>と言い返しました。
そうしたら、そう言った相手は、黙り込みました。
すると、別の職員が、「すぐに、体を拭いて出て来い!」と言い、もう1人が「服も着て来い!」と機転を利かして付け加えました。
ババアは、後ろで、そのやり取りを見て、大笑いしてやがりました。
むかつく。
服を着た僕は、立ち話で説教を喰らい、教室に連行されました。
ババアは、バイバイのポーズで手を振ってやがりました。
むかつく。
僕は、休憩時間に体育館に戻り、ババアを見つけ、<ババア、今日からお前の名前は‘チクりババア’だ>と言い放ちました。
チクりババアは、そんなことは聞き流して、「アンタ、あの学生課達の驚いた顔見たかい?傑作だったね」と大笑いしてました。
僕は、そんなババアに呆れて物が言えませんでした。
それ以来、僕らは<チクりババア、今日のチクりの成果はどうだ?>、「アンタ、皆はもう教室に行ったよ、急ぎな!」などと
挨拶を交わすような仲になりました。
そのうち、傍目からは、僕とチクりババアは、いいコンビだと噂されるようになりました。
それも、むかつく。
そんなある日のこと、僕の1個上の先輩が、大学の近くの料亭の馴染になったから、僕を連れてってやる、と言い出しました。
断る理由もないし、驕ってくれるというから、ついて行きました。
先輩は偉そうに店の人に僕を、「俺の兄弟分だ」と紹介しました。
僕は、<いつ俺がお前の弟分になったんだよ!>と心の中で思いましたが、ここは先輩の顔を立てて黙っていました。
すると、店の奥の座敷に団体客がいるのが判りました。
それは、この辺を仕切る土建屋の親方とその一味でした。
先輩は、急に徳利を持って、「おい、挨拶に行くぞ!」と僕の腕を引っ張って、その親方の所に行きました。
親方は、まだ30代後半の年らしいが、さすがにここらを仕切ってるだけあって、堂々とした風格の人でした。
それに比べて、取り巻きは、柄が悪いのや頭の悪そうな奴らで、皆、酔っ払ってて、僕は何をされるか判らなくて恐ろしかった。
でも、そこは適当にお愛想を言ったり、頭が悪い奴には判らないような皮肉や嫌みを言って、その場のスリルを楽しみました。
連中は、そもそも、酔っ払っていて、人の話などちゃんと聞けてないから、僕が馬鹿にしてもゲラゲラと笑って聞いていました。
結構、良い人達でした。
だけど、さすが親方は器が違いました。
僕の巧妙な皮肉や嫌みを見抜いて、「お前は、面白いな」と杯をくれました。
そして、これから、早朝野球があるから、それに参加しろ、と言いました。
この人達は、こんな調子で夜通し呑んでから、多摩川で早朝野球をして、それから家に帰って眠るらしい。
先輩は、「喜んで参加させていただきます」と言っていたが、親方は先輩に「お前はいい」と断りました。
先輩は、がっくりと肩を落としていて、少し気の毒でしたが、大変なのは僕の方です。
こんな連中と朝まで呑んで、それから野球だって。
先輩は先に帰っちゃいました。
大変なこっちゃ。
しかし、恵の雨というのか(意味は違うか)、明け方から雨が降り出して、野球は雨天中止になり、そこで解散となりました。
親方は、僕に申し訳ないと思ったらしく、自分の家で呑み直そうと誘ってくれました。
もう朝でした。
ここまで来て、断るのもなんなので、僕は親方の家を訪問しました。
さすが、この辺を仕切るだけの親方で、早朝に突然の訪問客(僕)が来ても、家の女性陣は笑顔で持て成してくれました。
あらかじめ用意してあったのか、瓶ビールが何本もと大皿の料理が次々と客間に運ばれて来て、僕は恐縮しました。
親方の家の女性陣とは、親方の奥さんと親方のお母さんと親方の小さな娘さんでした。
娘さんは、まだ小さな幼女でしたが、料理を運ぶのを手伝っていました。
その子はとても可愛い顔立ちをしていて、きっと奥さんに似たのでしょう。
親方が、自分の娘を見る目が、その瞳がとても優しかったのが印象的でした。
しかし、ここで大事件が勃発しました。
料理が次々と運ばれて来て、僕は「どうぞごゆっくり」と微笑む親方のお母さんと目が合いました。
僕と、親方のお母さんは、一瞬にして、同時に、凍りつきました。
それは、なぜなら、なんと、親方のお母さんは、チクりババアだったのです。
僕とチクりババアはすぐさまアイコンタクト、見知らぬ振りをしようと合意したのです。
僕は親方に、親方の母上を普段、「ババア呼ばわりしてる」なんて知れたら、半殺しにされると恐怖しました。
一方、チクりババアは、自分がチクり行為をしてると息子にしれたら、息子の顔にドロを塗ると気遣ったらしいです。
何も知らない親方は自分の膝の上に娘を乗せて、「こいつは、目の中に入れても痛くない程、可愛いいんだ」と自慢しました。
チクりババアは、料理の皿を置くと、退室時に僕にだけ見えるように、ぺロっと舌を出して、笑って、階段を降りて行きました。
僕は内心、ドキドキしてました。そして、その狼狽を隠すために、<娘さん、名前、何って言うんですか?>と聞きました。
すると、親方は嬉しそうに、「みなみ!タッチの浅倉南と同じ、南!」と答えました。
僕は、親方が早朝野球をする理由に、妙に納得させられました。
だけど、僕はそれっきり、その後は1度も親方には会っていません。生涯で1度きりの付き合いでした。
勿論、南ちゃんとも。
それからの僕は、専門課程に進んだもので、校舎が今までとは別になり、チクりババアと会う機会はめっきり減りました。
たまに遭遇すると、僕らは、<南ちゃん、元気?>とか「アンタ、良い医者になりなよ」と挨拶を交わし合いました。
あれから20年以上経つから、南ちゃんは今頃はもう、ひょっとしたらお嫁に行ってるかもしれないのです。
時の経つのは、早いなぁ。
そう、僕が言いたいのは、それなのです。
あれからそれだけ時が経っているのに、去年行われたアンケートで、ヒロインの1位が、いまだ南ちゃん!、という驚きです。
先日、Tさんに見せてもらった、最近の「ブルータス」という雑誌にも、男の好きなアニメのヒロイン・ランキングが載っていて、
そこでも、1位は浅倉南でした。(ちなみに、2位・メーテル、3位・峰不仁子、4位・綾波レイでした)
やっぱり、徳田さんの言う通り、「南ちゃんは王道」なんだなぁ。
…あっ、いけない。
アンチ南・派の正体、バラしちゃった。
BGM. 水谷麻里「 21世紀まで愛して」