同門会

先日、出身大学の精神科医局の集まり、「同門会」に出席した。
そこで聞いたのだが、今は僕らの頃とは医学部教育のシステムが随分と違っているようだ。
大学の5年生で臨床実習をする前に全80大学共通のテストにパスしないとベッド・サイドに出られないらしい。
国家試験を2回受けるようなものだ、恐ろしい。
覚えなきゃいけない知識を教科書の重さに換算すると、我々の頃を1㌔とすると、今は2㌧だって、恐ろしい。
医師国家試験はすべての科から出題され、それに合格すると医師免許を取得でき、何科にでもなれるのだが、
僕は、精神科医になろうと思って医学部に進んだので、精神科以外の勉強をするのが苦痛だった。
6年生の時、どこの医局に行くか?。皆、悩む。当時は第3希望までを大学に提出したのだが、
僕は第1希望しか書かなかった。2・3は空欄。
意外と、そういう人は珍しくて、皆、一応、第3希望まで書いていた。
それを基に、医局から志望動機などを聞かれる面談をする日があって、精神科には僕を含め3名が挨拶に行った。
その時の、面談の担当が、A助教授だった。A先生の手元には我々3名の資料があった。
A先生は開口一番、僕に向かって、「君、すごく成績悪いよ。挨拶なんかいいから、もう帰って勉強しなさい。
試験に受かったら、喜んで君を精神科に迎え入れるから、君だけ帰りなさい」と本当に、その場で、僕だけ帰された。
A助教授は、クリントンが大統領になった年に教授になって、「俺とクリントンは同い年だ」とわけのわからない自慢をしていた。
僕の所属する班と、A先生は別のグループだったが、僕は勉強のためにA先生の診察の陪席を頼んだら、快諾してくれた。
だから、僕の臨床スタイルはA先生の影響によるところも多い。
A先生は、昔、船医をしていたり、小説も書いたりするユニークな人物で、風来坊みたいだがシャイで面倒見が良かった。
背が高くて、見た目にもナイス・ガイだった。そんなA先生が亡くなって、今年が6回忌になるそうだ。
毎年、同時期に開業した繋がりの4人の「同門」の医者で新年会をするのが恒例にある。
A先生の命日が、1月なので、成り行きで、A先生の行きつけだった寿司屋で会をやることが、定例化している。
僕以外の3人はA先生とこの店に来たことがあり、温度差はあるにせよ、皆、しみじみとする。
僕だけ思い入れがない。
先日、一人でフラリとその寿司屋に寄ってみた。
店主は僕の顔を覚えてくれていて、
「毎度どうも、お客さんもA先生のお弟子さん?A先生とはいっぱい想い出がありましてね。
A先生はご自分の本にもこの店のことを書いてくれていてね。まぁ、あそこに書いてあるのは半分は冗談なんですけどね」
と言って、おじさんはお店の人に「おーい、本を見せてあげて」と声をかけ、A先生が匿名で執筆した小説を手渡してくれた。
僕がパラパラと本をめくっていると、おじさんは冷蔵庫からコントレックスの大きなボトルを出して僕の方に向けて、
「私が血圧が高いって言ったらA先生がこの水を勧めてくれたんですよ。とにかく水を飲むといいよと教えてくれてね」。
「お通夜にも告別式にも行きましたよ。急性心筋梗塞ですって?びっくりしましたよ。
だって2日前にお店に来てたんですから。いつものように呑んで、冗談言ってたから」。
A先生のお通夜の会場のBGMは、エルヴィス・プレスリーだったな。
「その日は日曜日で丁度相撲をやっていて、私が横綱が勝ちますよと言ったら、
A先生は<俺は逆だと思うね>と言って、
じゃ賭けようかと言うことになって、トロを2巻賭けたんですよ。そしたら私が負けちゃってね。
A先生に、今日はお腹いっぱいだろうから次おみえになった時、トロ2巻お出ししますよと約束したんですよ。
そしたらその2日後に亡くなっちゃって」。
「ウチではもっぱら趣味の話をしてましたよ。仕事の話をされてもわからないしね(笑)。
海が好きでしたね。あと1人でチビチビやるのが好きでしたよ。
ウチで呑むのが一番幸せだって言ってくれましたよ。
あの頃の先生は忙しかったでしょう?
学会とか北海道の方へ牛の脳を取りに行ったりしてね。
忙し過ぎたんでしょうね。
A先生、ご自分では水をお飲みにならなかったのかな?。
ほら、医者の不養生と言うでしょう?
私はトロ2巻借りっぱなしですよ。返しようがないんですよ」と店主は嘆いた。
さすがの僕でも、<じゃ、代りに食べてあげましょうか?>とは言えない雰囲気だった。
A先生だけでなく、僕が入局した時の医局長も、オーベンだったK先生も、1個上の先輩のT先生も、
皆、早く死んじゃったな。
寿司屋の店主が言う通り、本当に、医者の不養生だ。
そこで僕は2週かけて、人間ドッグを受けまして、結果は「何も問題なし」。
同門会の皆さん、長生きしましょうね。
BGM. エルヴィス・プレスリー「好きにならずにいられない」


ロールシャッハテスト

14/Ⅶ.(木)2011 猛暑
中村先生から、今度、「ロールシャッハ・テストの学会」があるとのお手紙を頂く。
日曜日なら行けそうだから、行ってみようかな。
ロールシャッハ・テストと言っても、わからない方のために簡単に説明しましょう。
精神科の臨床で使う心理テスト(性格テスト)には、大きく分けて、「質問紙法」と「投影法」の2つがある。
質問紙法とは、あらかじめ用意された質問に対し被験者が‘はい’‘いいえ’もしくは、
‘はい’‘いいえ’‘どちらでもない’と答えるものだ。
得られた回答は統計的に処理されてできている基準に照らし合わされて客観的に評価される。
これは、採点と評価が簡便であることが長所だが、
「嘘をつこうと思えばつける」ことや「深いレベルの心理はわからない」という限界がある。
そういう「質問紙法」の短所をクリアしたものが、「投影法」テストだと思ってもらっていい。
具体的に言えば、比較的あいまいな刺激材料を与えて、被験者の自由な反応を引き出し、
それを分析する検査である。
そのため、「質問紙法」とは異なり、術者の力量の差が露骨に出て、
すなわちテスターの経験と資質が問われる検査である。
その「投影法」のいわば代表選手が「ロールシャッハ・テスト」である。
わかって頂けたでしょうか?。
ロールシャッハ・テストにも、色んな流派があるらしいが、
今回の学会は、国際的な規模で垣根を超えて大々的にやるみたいだ。
こんな大会を仕切るなんて、大変だろうなぁ。
中村先生は、臨床もバリバリやっていられるから、一体、いつ休んでるんだろう?と余計な心配にもなる。
クリニックでもロールシャッハ・テストを施行するが、
うちの心理の森国さんも徳田さんも2人ともセンスがよく優秀だと思う。何をもって優秀かと言うと、
「こちらの知りたいポイントを的確に答えてくれること」と
「何回か診察を重ねないと判らないような特徴を、一回のテストで指摘してくれる点」である。
話は少し変わるが、以前、「ロールシャッハテストはまちがっている」という本を読んだことがある。
題名通り、ロールシャハテストを科学的に批判してる内容で、僕はテストを信用してる立場なのだが、
それでも読み物として面白かった。↓。

この作者は前書きで、ロールシャハテスト信奉者たちは本書で展開される正当な科学的主張を拒否し、
激しい批判を浴びせた、と書いている。
挑発的な文章だ。
どんな人なんだろう?、ドキドキしちゃう、会ってみたいな。
折角だからロールシャッハ学会に、こういう人たちも呼んで、公開討論してくれないかな?。
「原発」の記事でも書いたが(2011年7月、「えっ?足りてたの?Tシャツ」、良かったらみて下さい)、
ディスカッションしてる模様を映像で観たいなぁ。文字だけでは伝わらない情報を、たとえば、
発言者の登場の仕方や歩き方(居丈高、シャツの襟を立ててる、ポケットに手を突っ込んでる、履いてる靴の値段etc)や
一瞬見せる表情(口のとがらせ方、ひそめ眉、アゴのしゃくりあげ方、邪悪な微笑etc)や
話し方(相手が話し終わらないうちに言葉をかぶせてくる、語気の荒さ、声の周波数、ヴォーカルとしての音色etc)
などの非言語的な部分を判断材料にしたい。
中村先生、やってくれないかな、この企画。
忙しい中、こんな事言ったら怒るかな?
一応、アカデミックな提案のつもりなんだけどな。
そんな暇ないか…。
それに、これ2005年の本だから、もうこの議論、決着ついてるのかな?。
ま、何はともあれ、日曜日は参加してみたいと思います。
BGM. ザ・シャドウズ「アパッチ」


学会

2/Ⅶ.(土)2011
学会出席のため、午後2時までで終りにしました。
ポリシーとして、学会のために外来を休むのは、なるべく避けてきたのですが、
今回ばかりは特例で、心理の徳田さんと一緒に参加させていただきました。
皆様には、ご迷惑をおかけしました。
今日の体験を臨床に生かしていきたいと思います。多分、徳田もそう思っているでしょう。
そうそう、7月23日(土)は、川原だけですが、17時くらいに終りになります。
これも研究会です。一ヶ月に二回も、すみません。
今後は、そうそう滅多にはないと思います。よろしくどうぞ。
ちなみに徳田さんのカウンセリングは、通常通りに行いますのでご安心を。
そうそう、7月24日(日)は、僕の誕生日です。
何も贈り物はいりません。
わざわざ、断るのも変ですが、本当に何もいりませんので。
じゃ、言うなよ、って話ですね。


患者が医者を育てる

9/Ⅴ.(月)2011
校医の後、ステラ治療院へゆく。
ステラには、最近、新人さんが入って、今日は始めの少しのマッサージをその人が担当した。
マッサージを受けながら、僕はいつも寝てしまうのだが、ふと自分の研修医の時のことを思い返していた。
僕は、医者になって大学病院の神経精神科に入局した。
入局2年目までは研修医で、見習いみたいな扱いだ。
何人かの研修医で、外来の予診をしたり、病棟で処方箋を書いたり、入院患者に点滴をする仕事を分担した。
精神科で点滴というと驚く人もあるかもしれないが、意外と多いのである。
注射薬を直接静脈から入れたり、精神的な負担で食事が食べれない人も多いからだ。
僕は、この点滴が嫌いだった。
血管は個人差がすごくあって、太く見えている人は楽々できるが、細い人や見えない人の時は大変なのである。
刺しては失敗し、刺しては失敗しを繰り返すと、何度も刺される患者さんも可哀想だし、出来ない自分もみじめになる。
結局、困ると上の先生に頼んでやって貰うことになる。
だから、僕はパッとみて無理そうだったら、始めから上の先生を呼んだ。
その方が、患者さんの負担も少ないし、効率的だからだ。
間違ってないだろう?。
ある日、僕は、「あの人は血管がないよ」と評判の「研修医泣かせ」の女性患者さんの点滴当番になった。
僕は、ベッドまでガラガラと点滴を引きずってゆき、「ちょっと、血管を拝見」と駆血帯を上腕に巻き、
血管を探すも薄~い線みたいなものしか見当たらない。
いつものように先輩を呼びに戻ろうすると、その患者さんは、
「先生が刺して下さい。やらないと上手くならないですよ。私で練習して下さい」と言ったのだ。
なんか、その迫力に負けて、「はい」とか言って、やったのが間違いだった。
何度刺しても、血管に当たらないのである。
10回以上、失敗しただろうか。
さすがにこれは先輩を呼んだ方がいいと思ったのだが、その患者さんは「まだ大丈夫です」と言って、
駆血帯をはめてない方の手を、グーパー・グーパーしてるのである。
これから刺す手が失敗した時のために、もう一方の手の血管を少しでも浮き出させようと準備してくれているのである。
それにどれだけの効果があるかは知れないが、想いが伝わってくる分、プレッシャーになる。
その部屋は、女子の6人部屋で6つのベッドがあり6人の患者がいる。
僕と点滴が格闘している只ならぬ雰囲気を感じ取り、残り5人の患者が僕らのベッドの周りに集結した。
口々に、「○×ちゃん(その患者さんのこと)、頑張って!」「先生、しっかり!」と妙な一体感が生じてきた。
まずいな…。
それでも僕は、何度も失敗をして、それでもその患者さんは「やらないと、上手くならない!」と言って
グーパー・グーパーし続けるし、5人の患者の応援も「が~んばれ!が~んばれ!」みたいなコーラスになってきた。
まずいな…。
まぐれなんだろう。
ひょっとしたら、医学の神様が「この位にしておこう」と力をお与え下さったのかもしれない。
点滴が入ったのである。
駆血帯を外し、滴下しても、腕は腫れあがらない。
成功だ。一斉にオーディエンスからは歓声と大拍手が起こった。
ある患者さんは「○×ちゃん、頑張ったね!」とその患者さんに声をかけ、
背の小さいおばあちゃん患者さんは僕の背中をたたいて「よくやったね」と涙ぐんでいた。
しばらく歓声は鳴り止まず、「何事が起きたのだ?」とあわてて医者や看護婦が駆けつけて来た。
「来るなら、もっと早く来いよ、ばか」と思った。
その後、僕は3ヶ月間、救命救急センターで研修をした。
24時間、いつでも出動できるよう病院に寝泊りした。
ある時、急患が運ばれて来て、輸血をするかもしれないから、少し太い針で血管を確保しないといけない。
僕がその係をした。
あとになって指導医の先生から、「川原、よくあの患者さんの血管とれたな」と誉められた。
僕は知らないうちに点滴が上手くなっていたのだ。
僕は、「あの時の女性患者さんのお陰だな」と心の中で思った。
子が親を育てる、と言うし、生徒が良い先生を育てる、とも言う。
それと同じ様に、良い医者は患者に育てられると思う。
本当にそう思う。
そういう謙虚な気持ちは、いつまでも忘れてはならないと思う。
ところで、どんな道でもそうだが、1人前と認められるには時間が必要だ。
ステラ治療院の若い先生の健闘を祈る。
BGM. 槇みちる「若いってすばらしい」


勉強会!

2/Ⅹ.(土)2010 はれ
夜から、新薬の勉強会。診察が長引いてしまい、大幅に遅刻。
城南地区の勉強会や精神科医の集まりの時は、必ず「つね先生」が世話人になってくれている。
面倒見の良い親分肌の先輩だ。
2次会は、その「つね先生」の馴染みの銀座のバーへ。
酒のつまみに出た、コンニャクの甘辛煮がうまかったので、板長を呼び、ハワイ旅行で余ってた$紙幣をチップで渡す。
板長はノリノリになり、「チップ、頂きました~!。七百$です~!」と大声で叫び、鉢巻にお札を差して働いていた。
以前にも、僕はここに連れて来てもらったことがあり、その時、店のゲイ・ボーイに
「ウチらを本当に旅行にまで誘って、実際に連れてってくれるのは「つね先生」くらいなんですよ」と、
「つね先生」がトイレに行ってる時にこっそり泣きながら告白されたことがある。
もらい泣きした。その事、「つね先生」には言ってない。調子に乗るといけないから。
「つね先生」は、最近は加圧トレーニングに凝ってて、ここ30日くらいは酒も呑んでいないという。
豪快にして繊細な人が、自分の肉体改造に興味が行くなんて、三島由紀夫の最期みたいじゃないか。
心なしか顔色も悪いな。顔が浅黒い。
「つね先生」本人は、「ハワイ焼けだ!」というが、心配だ。
<お前、自殺すんなよ!>と言って、ヘッドロックして、頭5発くらい殴っといたから、まぁ、当分は大丈夫だろう。
開業医が集まると、経営の話に少しはなる。
「今の診療報酬では(経営は)苦しい」と皆、口々に言っていた。
「つね先生」に、「お前もやり方、考えろよ」と言われた。
なんじゃ、そりゃ?。
製薬会社の人も1人、一緒に来たが、いつまでもネクタイをしめてるから、
「ネクタイをとれ!。もしくは、ネクタイだけになれ!」と命令した。
結局、別の医者の頭に、ネクタイを巻いてやった。
製薬会社の人に、「最初から、この店でやれば良かったのに」と言ったら、
「つね先生」に「バ~カ、ここじゃ経費で落ちねぇんだよ!」と言われた。
なんじゃ、そりゃ?。
で、今日の勉強会の会場に選ばれたのが、神楽坂のアグネス・ホテル。
アグネスというと、アグネス・チャンやアグネス・ラムを思い浮かべる人も多いと思うが、
アグネスと言えばなんてったって「聖アグネス」だろう。
聖アグネスは、4世紀の初頭、「キリストはわたしの花婿です。わたしはその方に従います」と宣言した。
ローマの裁判官の息子は、美しいアグネスを見そめてプロポーズするが、聖アグネスはまったく受け付けなかった。
この親子、甘言で落ちないとみると、力づくの威しに出た。
裁判官は「それなら、つぎの2つのうちどちらかを選べ。ローマ神殿に行って供物を捧げるか、娼婦館に行くか」。
聖アグネスは、それでもひるむことなく
「わたしは偶像の神々に供物を捧げるつもりはありません。しかしまた、わたしを肉体の罪で汚すこともできないでしょう。
わたしには、わたしのからだを守ってくれる主の御使いがついているからです」。
そこで、裁判官は、聖女の服を脱がせ、全裸の姿で娼婦館にひきたてようとした。
すると、聖アグネスの髪の毛が長く伸びて、子羊のように全身を覆ったという。
娼婦館に着くと天使が待っており、聖女に明るく輝く服を与え、館の中をその輝きで満たしたという。


朝、起きたらポケットにクチャクチャの1万円札が3枚、入ってた。
覚えてないけど、きっと払おうとしたんだろうな。
※訂正:本文中のチップの額‘七百$’は‘7$’の書き間違えでした。七百円と混同したのです。お詫びして訂正いたします。
BGM. J.S.バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」


追悼、T先生の思ひ出

29/Ⅵ.(火)2010 くもり
T先生が死んだらしい。
T先生は研修医時代を内科で過ごして精神科に来たから、
キャリア的には先輩だが入局したのは僕と半年位しか違わない。
年度区切りで言うと「同期」になり、新入医局員の歓迎旅行では一緒に出し物を披露した。
その年の新人は僕らを含め5人だった。
僕以外の4人が春・夏・秋・冬の「レナウン娘」になり、
僕がSMの女王様に扮し4人をしばくというお下劣ショーだった。
観てる人は酔っ払いだから、この位で丁度いい。  
レナウンとは1960年代に流行した若い女性向けの衣料品メーカーで、
「ワンサカ娘」というCMソングをBGMに使った。
当時は、音源を入手するのが難しく、レナウンに直接頼んだらテープを送ってくれた。
T先生は、♪ドライブウェイに秋が来りゃ♪の秋娘担当で、
KISSみたいに白粉で顔を真っ白にし、ピンクのポロシャツに白いスコートに白のソックス、首にスカーフを巻いた。
舞台上で、僕のムチから嬉しそうに逃げ回るT先生の笑顔を忘れない。
鬼ごっこしている子供みたいだった。
僕の研修医2年目の派遣病院で1年間一緒に過ごした。
まだ何もわからない僕には、ほぼ同期のT先生の存在が助かった。
タバコを吸う時、天井に向かって煙を垂直に吹き上げるのが癖で、インディアンの狼煙(のろし)のように見えた。  
いわゆる‘ギター小僧’でたくさんのギターを蒐集していた。
高価なものもあったようでよく自慢していたが、僕はあまり関心がなかった。
仕事が終わるとナースを誘ってよく呑みに行った。
F.も一緒だった。よく遊んだ。その時の遊び仲間のセイコも死んだってね。変死だって噂。
4/Ⅵのブログで僕の「入局にあたって」という作文を紹介したが、同じ教室年報にT先生も「入局して」という文章を寄せている。
はじめは戸惑いや驚異を感じて大変だったが、いくつかの症例を経験し、知識を得て、その対応も変わってきた。
精神科医療で大切なのは他職種との連携で、その治療においては家族の関わりが重要だと感じる。
周囲の先輩方や良いスタッフに恵まれて感謝する、
という趣旨のことが書いてあった。
T先生の医学的な死因はまだ聞いてないが、僕は孤独死なんじゃないかと思う。
T先生、その内、遊ぼうね。セイコも誘ってさ。
BGM. かまやつひろし「ワンサカ娘」


Ωの法則・#2

27/Ⅵ(日).2010 はれ
オウム事件のあった年、僕は大学院を修了し関連病院に出向した。
当時、その病院には「ファントム理論」という何やら難しげな学説を唱えられた安永浩先生というとても偉い先生がいた。
とある席で、安永先生は「オウムがやっている拉致監禁や洗脳や電気ショックと、
我々の行っている精神科医療のどこが似ていて、どこが違うのかを明確に考えるべきではないか?」
という趣旨の発言をされた。 
その場にいた少しだけ偉い先生や中堅の先生は「全然違いますよ」と一笑にふした。
確かに、「全然、違う」のである。
それでも安永先生が問題提起した意図は何か?
僕は安永先生の反応に注目した。
しかし安永先生はそれっきり何も答えず、それ以降オウムについては何も言わなかった。
賢者とは人里離れた森の奥にただ1人で住み、乱世になると人々の前に姿を現し一言だけ意見をするという。
人々がそれを受け容れれば事態は改善し、受け容れなければ黙って森に帰るという。
安永先生をみていてそんな話を思い出した。
僕がこの病院を辞め別の病院に移る時、送別会には行けないからと安永先生から手紙をいただいた。
筆圧の弱い薄~い、それは風流な文字だった。 
もし、人が水に字を書くことに成功したら、きっとこんな字になっただろう。
BGM. さだまさし「天文学者になればよかった」


徳田先生の思ひ出

13/Ⅵ.(日)2010 ハレ晴れ
行きつけの美容院の美容師さんが腰椎ヘルニアになって、
しばらくお休みすると電話があった。
早く良くなって下さい。
10年くらい昔、髪の毛を青色に染めた時、絵画療法の大御所である徳田良仁先生にものすごく感心されたことがある。
「素晴らしい青だ!まさに青春の青だ。それは若者の哀しみを表現する青だ。ムンクの愛した青だ!」
と髪の毛を色んな角度から見られてベタ褒めされた。
食堂中に響き渡る声だった。
恥ずかしいから、やめて欲しかった。
世間では「ホメ殺し」という言葉が流行っていた。
当時、徳田良仁先生は僕の勤める病院の副院長でもあられたから、新手の風紀指導かとも疑った。
ちなみにウチの心理の徳田さんは、
たまに「娘さんですか?」と聞かれることがあるらしいが、血縁関係にはないらしい。
徳田、豆情報でした。
BGM. 杉本哲太「青くてごめん」


ブログとヴァレリーとH.と私

31/Ⅴ.(月)2010 くもり 5月最期の頁
5月1日からブログを始めて、ひと月経った。
意外と書くことがあるものだ。
フランスの思想家で詩人のポウル・ヴァレリーは「なぜ書くか」という問いに対して、
「弱さによって」と答えた。
ヴァレリーの殆どは依頼原稿だったというが断り切れないという弱さだけでなく、
書こうとする内部の突き上げる衝動に易々と負けてしまうという意味を含んでいるのだろう。
まったく関係ない話だが、高校の時の英語の先生が
「ポウル・ヴァレリーと木々高太郎はよく似ている」と言っていた。
ブログの最後に必ずBGMをつけることにしたのは、コトバで伝えきれない気分を補足するためだった。
楽しそうに日記を書いてても案外気分は暗かったり、
一見重い内容でも気持は明るかったりすることがあるのが人間だ。
その日のジャスト・フィーリングな音楽をBGMで流そうと思ったのだ。
しかし、最近はもっぱらその日の記事のダジャレだったり言葉遊びが主となっている。
それでも面白ければいいと思う。
今日は二子玉川でH.と会った。
彼は今日が誕生日だったらしい。
僕より一廻り年下だ。
現在の精神科医療や今後我々がなすべきことについて話し合った。
H.といい、うちの徳田さんといい、若いのに真剣にものを考えている医療従事者がいる。
こういう人が何人かいれば日本の将来は大丈夫なんじゃないか、と思った。
BGM. シテュレイ・ティスディル「ヒー・セッド・シー・セッド」


闘魂伝承

30/Ⅴ.(日)2010 くもり
二日酔い。
きのう日本酒を5合呑んだあと、ワインを一本空けた。
知り合いの方から「二日酔いしないですよ」と言われたので油断した。
「合わせ技一本!」というのがあった。やられた。でもワインは美味しかった。
DREAM.14の地上波放送の録画を観る。
解説が、須藤元気、谷川サダハルンバ・プロデューサー、ゲスト解説が川尻達也だった。
解説陣が変わるだけで、同じ大会なのに随分と印象が変わるものだ。佐々木希とかもいるからか。
その後、録画しておいたナッシュビルの
「青木真也vsギルバート・メレンデス」を青木真也自らの解説でお届けする番組を観る。
夕方から、箱庭療法について少し調べてみた。
箱庭療法と聞いて「何それ?」という人も少ないだろう。
小説や演劇やTVで度々登場してるから、浸透してるだろう。
箱庭療法は河合隼雄が日本に持ち帰ったもので、
もともと河合は日本人で初めてのユング派分析家の資格をとるためにチューリヒのユング研究所に留学していたという。
チューリヒの郊外のツォリコンでドーラ・M・カルフ夫人に出会い、
この人から直接教わったのだという。
カルフ夫人は、イギリスのローエンフェルト女史から学んだことに自分の創意を加えて
「ザント・シュピール(砂遊び療法)」を創始したのだ。
河合は、
これは言語化には弱いが直感的にものごとをつかむ能力に長けている日本人にはピッタリの治療法だ、
とまさに直感的に感じ日本に持ち帰ったという。
その視覚的形態が日本に昔から伝わる「箱庭」を連想させるので「箱庭療法」とネーミングされたそうだ。
僕がK病院に勤めていた頃、部長のO先生に「箱庭をどう思いますか?」と聞いたことがある。
O先生は精神科医だが心理学を勉強するために京都に国内留学した経験をもつ人物だ。
箱庭療法学会を作った頃にそこに居合わせて、その学会誌の第一巻第一号に学術論文が載っている。
O先生は、箱庭は結局医者の出す処方だと言った。
薬は患者さんが飲んでそれで良くなる。箱庭もこちらが場を作ってそれで患者さんが作って良くなっていく。
同じことだという。
そして、その代謝過程が箱庭に表現されているのだ、と。
薬は飲んで良くなれば代謝なんかどうでもいいのと同じで、箱庭の意味もそんなものだと。
「薬」だから効くものと効かないものがあるし、効果には時間がかかるし、反作用や副作用もある。
箱庭の副作用とは、箱からはみだす、とかでそういうことをちゃんとこちらが関与しながら観察して、
そうなったらoverdoseだとストップをかける必要がある。
O先生はもっとえらい先生に「箱庭をどう思いますか?」と同様の質問をしたことがあったという。
そのえらい先生は
「あれは、こちらが寄り添って見守ってる中で作ることに意味があり、それは風景構成法も同じことで、
だから箱庭は決して一人じゃ作っても駄目だよ。
こちらが見ていて、それがきちんと患者さんに意識として伝わっていること、
それが大事で、それがあればバウムテストだって治療になりうるよ」と言われたという。
O先生はプレイ・セラピーも同じで、患者さんに関与しそれがきちんと伝わってることが大事で、
ただ単に緊張をほぐすために遊ばせるだけじゃしょうがない、と教えてくれた。
こういう口伝えに教わったものを次の世代の人に伝承していくことが必要だと思った。
これからは、そうして行こうと思った。
BGM. 山崎ハコ「呪い」