(あとで書きます)
タモリ倶楽部~歌ヘタ
11/Ⅵ.(土)2011
今日の「タモリ倶楽部」は世界規模の「ハーマン・インターナショナル」にて収録。ちまたでは、「歌ウマ」選手権的なものが流行っているが、そんなのダサくはないか?。そこで、「JBL」「AKG」「マーク・レビンソン」などの最高の音響機器&機材を使って、世界中から集めた「歌ヘタ」・レコードを鑑賞し、その頂点を決定しよう。題して、「魂の叫びを聞いてくれ!勝ち抜き歌ヘタ合戦」。
僕がすごいなと思ったのは、タモリが番組冒頭で、「この手の歌をいくつか知っている」と曲名を披露したことである。そして、それらの曲は後で登場するのである。タモリならこの手の企画でその曲が登場するくらいの予測はつくだろう。自分の冠番組だ、普通なら知らんぷりしていた方がいいのに、タモリはお構いなしなのである。タモリは、いつも自然体である。そこがすごい。
この「歌ヘタ合戦」のルールは、赤・青に分けて、勝ち抜き戦で、より不快指数の高い曲の方の札をあげて多数決で決める。そんな中、僕がやはりタモリはすごいなと思ったのは、審査の基準が昔からブレていないのである。歌ヘタの多数決で、タモリは一人だけ別の方に札をあげたりするのだが、その理由が僕が中学の頃に聞いていた「オールナイト・ニッポン」の頃のタモリと変わらないのである。たとえば、こんな感じである。「この曲を、イマイチ評価しないのは、何か、狙ってんじゃないかという匂いがするんだ」などという基準なのである。
タモリが知っていたのは、「フローレンス・フォスター・ジェンキンス」という人で、この人物はクラシック界のパトロン的な存在で、超・お金持ちで、自腹でカーネギー・ホールでコンサートを開催したこともあるという。クラッシック界を支えてた人なので、誰も嫌とは言えなかったのが実情らしい。選手権では、『夜の女王のアリア』というピアノ伴奏の曲が紹介されたが、ピアノの人はいっぱいオーディションして、一人だけ最後まで笑わなかった人を採用したというエピソードである。つまり、他の人は全員、笑っちゃったという訳である。
これを破ったのは、3人姉妹で結成された「ザ・シャッグス」の『マイ・コンパニオン』。当時は売れなかったが、後になって、フランク・ザッパやニル・ヴァーナのカート・コバーンが、「自分たちの失ったものがすべてここにある」、と絶賛して評判になったそうだ。ちなみに、ザ・シャッグスはその後もアルバムを出すが、段々と上手くなってしまって面白くなくなってしまうというから、人生は難しい。
そんな彼女らに勝ったのは、「ザ・ジョージ・ガラベディアン・プレイヤーズ&ジーオーフル・トランペット・オブ・ハリー・アームズ」の『ジョニー・ガール』という曲。ハープ・アルバート&ティハナ・ブラザーズと似たスタイルで、演奏はティハナブラス並みなのだが、トランペットが最初の出だしを「プッ」と吹き間違えてしまう録音で、タモリは「なんでこの人を起用したのか?」と真顔で考え、劇団ひとりが「僕はトランペットを吹けないんですけど、明日にでも越せそうです」とコメントして笑いを誘った。そして、最初の「プッ」という出だし間違いを皆で聴き直して大爆笑して圧勝。
結局、それが優勝したのだが、僕は個人的には、ポーツマス・シンフォニアの「ツァラトゥストラはかく語りき」に軍配をあげたい。これは、上手い人の中にあえて素人を入れて「偶然性の音楽」を狙った試みだそうで、そのわざとらしさが審査員達の心証を悪くした。
それでも何故、僕がこれを推したかと言うと、僕は中学時代は吹奏楽部でホルンを吹いていて、この曲を部活でやったことがある。僕はこの曲が苦手で、よく音を外したのだ。ポーツマス・シンフォニアの「ツァラトゥストラはかく語りき」は、当時の僕がそこにいるような、ノスタルジーをかき立てた。
下は、タモリTシャツ。ミニカーで有名な「TAMIYA」のパロディ。結構、気に入ってるんだけど、判る人にしか判らないでしょうね。↓。
暴走
10/Ⅵ.(金)2011
昨日、診察室のコンピューターが故障した。どうにもこうにも動かなくて、業社の人に来て貰って修理してもらった。だから、昨日の後半の人は、診察室じゃなく心理室で診察しました。でも、木曜日で良かった。木曜の心理は、森国さんなので五時以降は部屋が使えるから。これが、徳田さんの曜日で、最近は塚田さんの面接も遅くまでやっているので処置室も使えないから、あやうく診察する場所が無いことになるところだった。…木曜でラッキーだった。
前にも、似たようなことを書いたが(2010年5月「気づき」です、良かったらみて下さい)、アメリカ・インディアンやケルト民族は、亡くなった先祖は体を失っても魂だけは無くならず、残された子孫の身の周りの物に魂を宿し、彼らに色々とサインを送ってくれるのだと考えたそうだ。だから、昔の人は、身の回りの物が故障すると、これはご先祖様が体に気をつけろ、とメッセージを送ってくれていると考えた。文化圏は違っても、似たような思想は世界中にあるようだから、何か人間の深層心理に共通する智恵だったのかもしれない。でも、近代文明が発展してからは、物に魂が宿る、なんて非科学的なことは否定され、こういう考え方も失われて行ったのだろう。
でも、僕は科学が万能だとは思っていないので、今回の「コンピューターの故障」と「先祖からのメッセージ」をこじつけて、自分の体調を管理しなきゃ、と考えた。そうすると、面白いことに、業社の人が言うことにゃ、「コンピューターを調べたら、5月の終り頃から機械の調子は悪かった」らしい。今年は、震災もあり、4月&5月はオーバーワークで、僕も5月の終り頃から、疲れを感じていた。へ~、不思議と合致するな、と非科学的な空想にふけってみた。
故障の原因は、受付に置いてある親機と診察室の子機をつなぐHUBという名の機械の「暴走」だと判明した。これをアメリカ・インディアン的(ケルト人的でも可)に解釈すると、僕とスタッフ間の意思疎通にズレが生じている、という警告とも読みとれる。確かに、4月&5月はクリニックは忙しくて、スタッフ皆、大変だったからな。うまくコミュニケーションがとりづらくなっていたかも。近々、スタッフを集めて飲み会でもやるか。題して、「夏は近いぞ!お疲れサマーの会、2011」。
しかし、コンピューター用語というのは面白いもので、機械の故障を「暴走」なんて言うんだね。まぁ、本来の命令と違う働きを勝手にするのだから、「暴走」なのだろうが、これは文法的には「擬人法」だ。文明の最先端が、「機械が暴走しました」っていう言葉使いをするのと、昔の人が、「身近な物に魂が宿ってる」と考えたのは、意外と似たような思考回路だと思う。
よく真逆の考えを、「180度、考えが違う」と表現する。でも、さらに180度進むと、360度回転したことになり、結局、元の場所に戻る。数学でいう単位円の、0度と360度が同じ座標に位置するように。
悟りを得ようと、悩み苦しみ考えに考えて導き出された解答が、「あるがまま」、という境地で、でも、それって、「何も考えてないのとどう違うの?」とツッコミを入れたくなるのとよく似てる。
話は360度変わるが、正岡子規は自分の身の回りの物を捨てる時、必ず、一句詠んでから捨てた、と聞いたことがある。縁があって、自分のもとに来たのだから、という理由らしい。(確か、正岡子規だったと思う。違ってたら、ゴメン)。
僕は今、BICのボールペンを診察で使っているのだが、インクが無くなって書けなくなったら、必ず、目を閉じて、心の中でお礼を言ってからゴミ箱に捨てるようにしている。正岡子規(たぶん)みたいに、一句、詠めればいいんだけど、せめて感謝の気持ちだけでも込めて。診察の役に立ってくれた訳だからさ。…非科学的だけどね。
BGM. クールス「紫のハイウェイ」
ロックの日
9/Ⅵ.(木)2011
6月9日は、ロックの日、だそうで、ロックな思い出でも書いてみようと思います。
その夏、ほんの数日前に友達が死んだ。交通事故だった。一緒に、RCサクセションのコンサートを観に行く約束をしていた。僕らは、暗い気分に支配されていた。おまけに、コンサート当日は、台風が接近して来ているという噂だった。場所は、所沢球場。屋外である。
僕らは池袋に集合し、コンサートに行くかどうか迷って、とりあえず「供養」の意味もあるからと、行くことにした。空は暗く泣き出しそうであった。
西武線で所沢に着いて、台風接近の予報もあったため、さすがにアリーナ席は満杯だったが、スタンドはガラガラで、僕らはスタンドの後ろの方で足を投げ出して、ビールを売店で買って飲んだ。
「ジャジャーン!!」ってチャボのギターの音が鳴り響いて、Liveが始まったら、一気に雲がどこかに消えうせて、空が晴れ渡った。一曲目は、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。これはビートルズの有名な同曲のカバーで、RCがこの曲を演奏したのは後にも先にもこの時にしか記憶にないし、音源も残っていないと思う。(残ってたら、ゴメン。っていうか、残っていたら教えて下さい)。
キヨシローは、「サージェント・ペパーズ~」を歌い終えたあと、「ザマァミロ、晴れたぜ!これが、オレたちの実力だぜ!」って言って、いつもならアンコールのラストに歌うはずの「雨上がりの夜空に」を2曲目に歌った。
僕らはスタンドの後ろで、ビールを飲みながら踊ってた。
「ザマァミロ、これがオレたちの実力だぜ!」ってセリフが、スゴイ信用できた。1985年8月のことである。
BGM. RCサクセション「ヒッピーに捧ぐ」
※RC&キヨシロー関連記事
・2010年5月、「喪の仕事」・「NAUGHTY BOY」
・2010年8月、「終戦記念日、特集~清志郎」
・2010年10月、「TVを修理」
医者選び
8/Ⅵ.(水)2011
ちょっとした事情で、親類のかかる病院を探している。しかし、どこの医者が良いのか、皆目、見当がつかない。知り合いのドクターに病院探しのコツを伝授してもらったのだが、なかなか「正解」はない。学生時代に仲良かったから、って理由だけでは任せられない。友情と医療は別だから。辛抱強く、慎重に、色々とあたってみよう。
僕は自分が医者でありながら、診療科が違うと、どこが良いのか全然わからないのである。だから、一般の人が病院を選ぶのは大変だろうな、と思う。皆さん、大変ですね。
あまり大々的に宣伝してるところより、名医はこっそりしているって幻想もあるし、ホームページなんて所詮広告だから都合の良いことしか書いてないし、ネットの情報もあてにしていいのか悪いのか。口コミも、良い情報は伝播しにくく、悪い評判は一気に広がるから、信頼性にかける。
医者との「相性」も大切だけど、医者と政治家は性格が悪くても実力のある方が良い、という理屈もある。人柄だけ良くても、腕が悪けりゃしょうがない。
でも精神科の場合は、「相性」や「人柄」が「治療の道具」になるから、さらにもう一捻り難しい。最終的には、「縁」とか「運」ってことになるのかな。これは無責任な意見ではなくて、「運も実力の内」って言うでしょう?。だから「合わない」とか「良くならない」時には、他の病院を探した方がいいという意味です。
昔は、医者をコロコロ変えるのは、「ドクター・ショッピング」と言って嫌われたが、時代は変わった。患者が、医者を選ぶ時代だ。積極的に、セカンド・オピニオンとか受けた方が良いと思います。「かかっているお医者さんに失礼では…」なんて思う必要はありません。もし、それで機嫌をそこねる医者がいたら、そんな野郎はろくな医者じゃないから、気にする程の奴ではないです。
ちなみに、うちに来られる患者さんの約半数は「紹介」。残りの大半は、「ホームページをみて」である。
僕のブログは時々(いつもか?)、とんでもない記事を書いてるから、それを読んで「ここにしよう!」と判断された方の判断力を僕は「正しい」と評価したい。その心意気に、応えるべく、日々、精進します。
医者選びは難しい、というお話でした。おしまい。
リアルに弱い
7/Ⅵ.(火)2011
最近、よくTVで芸人達が、歴代の好きだったアイドルを投票してランキングをつけたり、当時の映像を流して懐かしがる番組を目にする。(芸人の)トップが安泰で下克上みたいのがないから、余裕でこんなヌルい企画が罷り通っているのか。TVが飽和状態なのかな?。
そんな事を思いつつ、そんな番組を見ていたら、石野真子の映像が流れてきた。僕が高校時代、好きだったのは石野真子で、当時、石野真子のファンだったという人はすごく多かった。ダウンタウンの浜ちゃんもファンだったそうだ。TVがそう言っていた。
実際、当時のTVや雑誌でみるマコちゃんはものすごくキュートでハニーだった。僕は、東京の高校に通っていたから、新曲が出る度に、レコード即売会&握手会に出向いた。列を作り、順番が来ると、サイン色紙を貰い、握手をするのだ。しかし、そんな時、間近でみる石野真子は、変なタレ目でオカチメンコみたいな顔をしてるのだ。きっと、僕が緊張してたせいだろう。メディアの中のマコちゃんは日に日にカガヤキ・ガ~ルになってゆくのだから。
そして、3ヶ月もすると、また新曲発表&握手会。またもや面と向かうと、石野真子はとんでもなくおかしな顔をしているのである。出来損ないの福笑いの見本みたいだ。何だ?、このブス、って感じ。でも、きっと僕の脳が感激のあまり混乱を来たしていたのだろう。だって、歌番組や雑誌の「明星」や「平凡」のマコちゃんは、どんどんプリティ・プリティになってゆくから。
で、3ヵ月後、また握手会。目の前の石野真子は、爬虫類みたいな気色の悪いオバサンにみえた。こいつ、ニセモノじゃないか?とさえ思った。でも、会場の他のファンや親衛隊の声援や熱気はムンムンだから、僕の目がおかしいのだろう。川原眼科で観てもらうか。で、当然のようにTV「スター・ドッキリ・マル秘報告」や雑誌「近代映画」のマコちゃんはますますカワユスなのである。
結論であります。僕は、リアルに弱い。実物とは会わない方が良い。適度な物理的な距離をキープしよう。すべからく日陰のファンに甘んじよう。そんな決意をしたのも、今は昔だ。
BGM. 石野真子「悲しきエンゼルス」
※石野真子関連記事:2010年6月、「結婚しようよ」、「時代屋の女房」
※アイドル関連記事:2010年5月、「昔の名前で出ています」、2010年6月「ヰタ・セクスアリス」
オトナじゃないの
6/Ⅵ.(月)2011
今日は、校医。明日は体育祭らしく、放課後はその準備で、応援合戦の音楽や掛け声が飛び交い、にぎやかだった。フィンガー5の「学園天国」とか流れてた。
僕は、バスを待つのが嫌いなので、目白駅方向に歩き、丁度、後ろから追いかけて来たバスに途中から乗った。
乗った場所が、日本女子大だったが、そのバスは日本女子大のスクールバスだったらしく、目白駅までの直行便だ。女子大生ばかりのバスに乗り合わせた気分は、飛び乗った電車が女性専用者だった、みたいな気まずさだ。でも、乗るとき、車掌に何も言われなかったから、利用すること自体は悪くないんだと思う。
昔、「どうなったら自分を‘オトナ’と判断していいか?」という質問の答えに、「高校野球の甲子園の大会をみて、全員が年下に見えた時」というのがあって、なるほどと思ったが、大学に入ってしばらくは甲子園球児が‘オトナ’に見えた。
大学生の頃、「オールナイト・フジ」という深夜番組が始まり、女子大生ブームが起きた。当時の僕の自意識では、女子大生というと友達のお姉ちゃん、という感覚であり、実年齢は、年下の女の子でも、イメージは、友達のお姉ちゃん、という格差社会を生み出していた。
いつのまにやら、僕は‘オトナ’になり、高校球児たちは純粋な子供に見えるし、間違って乗った女子大のスクールバスという逆境の中であたりを見渡しても、娘の同級生くらいかな…、てな感想な訳である。しみじみもするやさ。
BGM. 松本伊代「オトナじゃないの」
お寿司屋のおじさん
5/Ⅵ.(日)2011 はれ
下の子と、行きつけの寿司屋へゆく。寿司屋のおじさんの昔話をきく。おじさんは、中学を卒業してから集団就職で大岡山に来たそうだ。
<当時は、どんな歌が流行っていたんですか?>に、おじさんは、「渡辺マリの『東京ドドンパ娘』とか、森山加代子の『じんじろげ』」に、<へぇ~>と僕が関心を寄せると、おじさんは、「センセー(僕のこと)も、古いの良く知ってるね」と乗ってくる。「当時の歌手は、皆歌が上手くて、声も個性的な人が多かった。中でも、美空ひばりは別格だった」とおじさん、<別格ですか?>と僕、「別格!」とおじさん。
男は、三橋美智也が流行っていて、三波晴夫や村田英雄は浪曲から転身してくるから、もう少しあとらしい。
おじさんは、昭和18年の山形生まれ。戦争の記憶はなく、進駐軍の人がくれたガムやチョコレートが美味しかったと笑う。<やっぱり、ギブ・ミー・チョコレート、とか言うんですか?>に、「言わない。そんなこと言わなくても、向こうからくれた。やさしかった~」と当時の様子をチョコの味と一緒に思い出してる。
おじさんと同期で大岡山に来た人で残ってるのは、おじさんを入れて2人きりだそうだ。今でも、電気屋さんに勤めていて、今でも、仲が良いらしい。
昭和18年というと1943年。<同い年の有名人って誰がいます?>の質問に、おじさんは「う~ん」と考え込む。すると、今まで気配さえ消していたかのような、下の子が、横からボソッと口をはさみ、「ミック・ジャガー」と答えた。
<マジで?…っていうか、お前、今まで気配消してなかったか?>との俺の驚愕に、息子はポーカーフェイスを決め込んで、冷緑茶のグラスを口に運んだが、その口元が得意気にニヤリとしていたのを、俺は見逃さなかった。
BGM. ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花
3/Ⅵ.(金)2011 はれ
下のお花は、昨日、受付の子が買って来て診察室に飾ってくれた、芍薬(しゃくやく)です。
「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」の芍薬です。せっかくだから、立って撮影してみました。↓。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、というのは女性を美人だとおだてる時に使う文句だが、今はあまり耳にしない。
美人とお花といえば、子供の頃、母が観てたので一緒に見てた、「花ははなよめ」というドラマを思い出す。主題歌が、メロディーに乗っけてただただ花の名前を並べるだけで、途中に「いよー」とか「よーい」とかお座敷っぽい合いの手が入る。
それは、主演の吉永小百合が芸者なんだけど、3人の子連れの花屋にお嫁に行くという設定だったからだろう。
僕がよく覚えてるのは、吉永小百合が「母親」であることに悩んで、自分のお母さん(この人も芸者)の淡島千景に相談に帰ると、淡島が吉永小百合に「ただの子供好き」と「母親」の違いをたとえ話で言って聞かせるシーンだ。
それによると、子供がご飯を食べながらボロボロこぼしてたら、「ただの子供好き」はこぼすたびに「まぁ、こんなにこぼして」と一々、拭いて面倒をみるのだが、「母親」は笑ってそれを眺めていて子供が食べ終わったら黙って拭いてあげるのだという。吉永小百合は何かを悟り花屋に走って帰り、それを淡島が優しく見送るのである。名シーンだ。
数日後、茅ヶ崎の北口にある西友というスーパーで僕は母と買い物をして、その帰りに上のレストランで何かを食べた。僕と母は対面に座り、僕が何かをこぼしたら、母が「あら、こぼしてる」と手を出そうとしたので、僕は母に上に書いた「花ははなよめ」の淡島千景のセリフを言ってやった。母は、即、ダマった。
母は負け惜しみで、「嫌な子ね…」というから、僕は負けじと、「親の顔がみたい?」と言い返した。圧勝で終わった。
BGM. ポール・サイモン「母と子の絆」
黒船
2/Ⅵ.(木)2011 雨。管総理不信任案?
今日は、6月2日だが、それで思い出すのは、サディスティック・ミカ・バンドの『黒船』というLPだ。
僕は、発売より少し遅れて、中学生の頃に聴いた。ザ・フォーク・クルセダーズの流れで、加藤和彦に行き、ミカ・バンドに辿り着いたのだ。
このLPのA面で「タイムマシンにおねがい」に続き、黒船「嘉永6年6月2日」「嘉永6年6月3日」「嘉永6年6月4日」というインストゥルメンタルな曲が3つ続くのである。高中正義のギターが印象的で、まるで始めて「黒船」を見た日本人の驚きを表現してるかのようだった。
僕は、学生の頃、あまり社会科を真面目に勉強しなかったので、黒船が日本に来航したのが何時なのか知らないし、確認作業もしていない。勝手に、「嘉永6年6月2~4日だろう」、と決め付けて生きて来た。今のところ、それで損をしたことはない。
ミカ・バンドが英国でロキシーミュージックの前座をつとめた時の模様を収録した、『Live In London』の「黒船」もかっこいい。ライナーノートに今野雄二が、ロキシーミュージックの時間を大幅に喰った、と書いていた。
加藤和彦も今野雄二も死んじゃったな。2人とも自殺だよ。この2人は、中高生時代の僕から見て、かっこいい大人だった。粋というか、お洒落というか、自殺するような人に見えなかったな。でも、自殺ってそういう人がするのかな。
いや、別に、自殺を美化してる訳ではないので、誤解しないようにお願いします。
BGM. サディスティック・ミカ・バンド「黒船(嘉永6年6月2日)(嘉永6年6月3日)(嘉永6年6月4日)」